坂崎時雨は、過労で入院していた。そんな中で旅行に向かう妻。 娘に説得されて、時雨は離婚へと動き出したのだった。

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愛娘の親権

 坂崎(さかざき)時雨(しぐれ)は、過労で入院していた。

 気付いた時には病院のベッドにおり、医者から説明されるだけ。ただ頷くことを繰り返し、病室で安静にすることに。

 スマホだけを片手に、暇をつぶす。そんな折に、妻の千歳(ちとせ)からメッセージが届いた。

 

 『予定していた旅行に行ってくるから、ゆっくりしておいて。ひとりで休むのも、大事でしょう?』

 

 時雨は画面をじっと見る。楽しんでおいでとだけ返し、そして送られたメッセージを削除した。スマホを伏せて、窓の外の曇り空をぼーっと眺めるだけ。ノックの音が届いて扉が開くまで、ずっと。

 

「お父さん、大丈夫? ひどいよね、お母さん。お父さんを放っておいて」

 

 口をとがらせて眉をひそめながら、娘のあずさは問いかける。時雨は、軽く唇を引き締める。そんな父を見て、あずさは続ける。

 

「ねえ、お父さん。もし我慢しようとしているのなら、私の心配はいらないからね」

「それは……千歳に文句を言えということか?」

「ううん。一緒に過ごすの、嫌だなって思わなかった? ねえ、良いんだよ」

「それは……」

 

 目を伏せた父の両手を、あずさはそっと包み込む。穏やかな笑顔で、ゆっくりと胸に抱えていった。時雨は無表情のまま。

 数秒ほど沈黙が走る。あずさは見守りながら唇を噛む。

 

「でも、お父さん……私のこと、そこまで好きじゃないよね……。さっきも、あんまり嬉しそうじゃ……」

 

 ぎゅっと父の手を握りしめるあずさ。時雨は目を合わせて、さまよわせて、もう一度あずさを見た。

 

「こんなこと、言うべきではないかもしれないが……。夫の入院中に旅行に行く人間が、万が一の時にあずさを支えられるか?」

 

 父の問いかけに、あずさは無言で頷く。少しだけ震えながら、上目遣いで父を見た。

 

「私には、連れて行ってもらう資格なんて……」

「千歳にされた嫌だったことを、メモにでも書き連ねておいてくれないか」

 

 あずさは喜色を浮かべる。そしてハッとしたように目を見開いて、咳払いをした。眉をひそめる父に、あずさは続ける。

 

「それって……! 離婚しても、引き取ってくれる? とっても難しいと思うけど、それでも……?」

 

 揺れる目であずさは父を見守る。返答は、頷きだった。

 

「ありがとう、お父さん……。私を、愛してくれて……。家を出ても良い年なのに、ね。大好き、だよ……」

 

 手で顔を覆って、あずさは嗚咽をこぼす。時雨はただ、窓の外を見ていた。泣き止んで初めて、あずさに向き合う。

 あずさは笑顔を見せて、時雨はまた外を見る。薄暗い曇り空だった。

 

 入院は3日ほどで終わった。それから、時雨とあずさは動き出す。まずは弁護士に意思を話す。そこから戦略を練る。病院で父の話した通りに、あずさはメモを取る。

 退院から4日後に、千歳は帰ってきた。

 

「はい、これお土産。軽いものを買ってきたから、二人で食べてちょうだい」

 

 そう言いながら、買い物袋を机に置いて席に座る。ヘアゴムで軽く髪だけ結んで、机に体を投げ出した。

 

「なら、私が準備しよう」

「私も手伝うね、お父さん」

「病み上がりなんだから、そんなに無理をしなくても……」

 

 立ち上がって、千歳は袋を取り出そうとする。それを、時雨は手で制した。

 

「良いんだ。体を動かすのも、大事だそうでね」

 

 それも時雨の策略だった。千歳は軽く首を傾げながらも、夫の言葉に従う。

 

 時雨は毎日役割を果たしつづける。仕事で遅く帰りながらも、積極的に家事を行った。

 

「風呂掃除は、私がやっておくよ。力仕事だし、男の出番だろう」

「そこまで細かくやらなくても……。別に、使うのに困ったりしないでしょう?」

「快適であるに越したことはないだろう。気にしないでくれ」

 

 最初は遠慮していた千歳だったが、ずっと家事をする。やがて千歳は、土日を完全に休むようになった。

 

 並行して、時雨は多くの準備を進めていく。

 

「千歳さん、一週間前に連絡もせずにやってきてねえ。食事の準備もできなくて、困ったものだったよ。急いでいたみたいだけど、ねえ?」

 

 親戚と話をして、録音をしたり。

 

「トロフィーを床に置いておくくらいなら、捨てておきなさいよ! どうせ、ゴミ同然でしょう!」

 

 千歳のあずさに対する叱責を録音したり。

 

 複数の準備を進めて、時雨は離婚届を突き出した。千歳は即座に顔を歪めて、時雨を怒鳴りつけた。

 時雨は粛々と手続きを進め、千歳はただ感情的に振る舞う。二人の意見はずっと平行線のまま。調停はこじれ、訴訟にまで進んだ。

 棚に入ったトロフィーの底の周りは、丸くホコリまみれになっていた。

 

 お互いに顔も合わせずに訪れた法廷で、二人は己の意見をぶつけ合う。あずさが見守る中、ずっと。

 

「妻は私の入院中に旅行に向かい、娘の育児を軽んじていました」

「いいえ。私はほとんどの家事をこなしていました。夫はたまに手伝いをするくらいで……」

「妻は専業主婦ではありますが、土日は私に任せきりでした。特に水場やエアコンなどの掃除は、週末に私だけが実行していたようなものです」

 

 時雨は淡々と話を進め、千歳は夫を睨み続ける。夫婦関係の破綻は、誰の目にも明らか。

 

「また、妻は親戚周りに多くの迷惑をかけています。連絡もなしに向かい、食事をねだるなど。音声はこちらです」

 

 複数の録音が流され、時雨の話が事実であることを証明していく。千歳は下を見ながら、ただ震えていた。

 

「娘は、私が引き取ります。夫には、その資格はない」

 

 裁判官は、粛々と話を続ける。

 

「では、本人の意見を確認します。発言を」

「私は、お父さんと同居したいです。理由は、これです」

 

 あずさは服の袖に手をかけ、軽く引いて止める。一度震えて、深く息を吸い込む。そして、袖を完全にまくった。

 二の腕のあたりに、野球ボール大程度の丸いあざがあった。それを見て、時雨はハッとしたような顔で千歳を睨む。

 

 千歳は震えて何度か口を開け閉めした後、両手を台に叩きつけながら叫んだ。

 

「このアバズレ……!」

「静粛に!」

「ふざけるんじゃないわよ! 誰が、そんなこと……!」

 

 声を震わせながら一歩進む千歳。それを見て、あずさは自分を抱きしめた。時雨は、強く強く睨みつける。

 千歳はうつむいてブツブツと何事かを呟いた後、勢いよく時雨を見る。

 

「そうよ! あなたが殴ったんでしょう! あなたの子じゃないから! どこかで知ったんでしょう!」

 

 時雨は大きく目を見開いて、足をもつれさせた。台に両手をついて、深くうなだれる。そして目を閉じて、首を二度振った。あずさを見て、目を細める。もう一度、うつむいた。

 深くため息をついて、また妻を睨みつける。今度は、唇を固く結びながら。

 

「静粛に! これ以上続けるのなら、退廷を命じます!」

「托卵だって言うんでしょう! あずさに吹き込まれでもしたのね! この、クズ女! 殺してやるわ!」

 

 目を揺らしながら、千歳は叫び続ける。時雨はずっと、両手を震えるほどに握りしめていた。妻と目すら合わせないまま。

 あざを繰り返し見る。一度胸を握りしめて、時雨は頷いた。

 

「被告に退廷を命じます!」

 

 千歳は連れ出されていく。その間もずっと、呪詛のような言葉を叫び続けていた。時雨は眉を伏せながら、またあずさの二の腕をじっと見ていた。目を逸らさずに、ただまっすぐに。

 

 混乱を巻き起こし、初日は終わる。同じ家に帰るにも関わらず、三人は別の道を進んでいった。時雨は、少しだけ遠回りをして家に帰った。

 

 時雨が家に着いてすぐ、千歳の叫び声が届く。

 

「この、腐れ女! 何をふざけたことを!」

 

 その声を聞き、時雨は早足で声のもとに向かう。扉を開いた瞬間、あずさの頬を張る千歳を目撃した。

 

 すぐに時雨は二人の間に割って入り、娘を妻から遠ざける。あずさはスマホを取り出して、警察に通報していた。時雨は、止めはしなかった。ただ、娘の隣に寄り添い続けた。

 

 パトカーの音が聞こえて、警察が家に入ってくる。玄関にやってきた千歳は、遅れてやってきたあずさを睨む。

 

「あなた、そこまで……! ふざけるんじゃないわよ……!」

 

 警察署で、三人は長く話をした。結果的には、千歳の罪は認められなかった。

 帰り道の千歳は、ずっとうつむいたまま。帰ってすぐに、ヘアゴムをほどいて落とす。それからというもの、毎日髪が乱れ続けていた。最後には、あずさと目を合わせることすらしなかった。

 

 千歳は時雨の要求を全て飲み、和解となった。親権は時雨が得た。

 DNA鑑定は、結果的に行われなかった。そうするまでもなく、千歳は折れていた。

 

 すべてが終わって、帰ってすぐ。時雨はあずさを深く抱きしめた。力が強まり、そのたびに緩めることを繰り返しながら。

 あずさは輝くような笑顔で、父を抱き返した。

 

「お父さん、結果は……どうだった?」

「もう、何も心配しなくて良い。あずさを傷つける人は、どこにもいない」

 

 即座に、あずさは抱きしめる力を強める。頬をこすりつけながら、満たされたような笑みを浮かべていた。

 1分ほどして、あずさは名残惜しそうに父から離れていく。どこか卑屈な顔で、覗き込むように父を見る。

 

「その、お父さん……。私……」

「あずさは、私の娘だ。それが、すべてだ」

「でも、私はあなたの……」

 

 あずさは父に手を伸ばして、引っ込める。時雨は娘の手を包み込んだ。

 

「言っただろう。血の繋がりがどうあれ、あずさは私の娘だ」

「お父さん……!」

 

 父の手を握り返しながら、あずさの顔が花開く。穏やかな目で、時雨は娘を見つめていた。

 

「そうだ。今日は、私がご飯を作るからね。ちゃんと好みに合わせておくから、楽しみにしておいて」

 

 いたずらっぽく笑い、あずさは父の手を引く。鼻歌交じりに、キッチンまで。

 父を席に座らせ、ずっと機嫌よく歌いながら調理を進める。しばらくして出来上がった料理は、カレイの煮つけと油揚げと豆腐の味噌汁、そしてほうれん草のおひたし。

 ひとくち食べて、父は満足げに頷く。その姿を、あずさはニコニコと見守り続けていた。

 

「美味しかったよ、あずさ。練習してくれたんだな」

「うん。ねえ、お父さん……」

「どうかしたのか?」

「一緒に寝ても、良い? 私、怖くて……」

 

 そっと二の腕のあたりを握りながら、あずさは震える。時雨は迷わずに頷いた。

 あずさが沸かした風呂に、時雨が先に入る。後に入ったあずさが出終えて、ふたりは時雨の寝室へと向かう。あずさはずっと、父の腕を抱きしめていた。わずかに、震えながら。

 

 ベッドの中に入り、電気を消す。あずさはすぐに父へと抱きつく。

 

「本当は、ずっとこうしたかったんだ……」

「離婚まで、我慢していたのか?」

「うん……」

「離婚調停を、不利にしないためか?」

「分かって、くれるんだね……」

 

 また震えながら、あずさは父を強く抱きしめる。時雨は少しだけ手を伸ばして引っ込め、最終的にはあずさを抱き返す。

 あずさは、父の胸に頭をこすりつける。

 

「あったかいね、お父さん……。大好き、だよ……」

 

 それだけを言い残して、あずさは目を閉じて息をこぼす。父も目を閉じ、寝息を立てる。

 ゆっくりと目を開いたあずさは、父にキスをする。三秒ほどして離れ、再び目を閉じる。口元を緩めながら。

 

「ふふ、大好き……」

 

 穏やかに、規則的な息だけが響く。ゆっくりと夜は過ぎていった。

 

 翌朝、時雨は目を覚ます。寝室にまで、食事の匂いが届いていた。リビングに向かうと、エプロン姿のあずさが出迎える。

 

「お父さん。今日のご飯はオムライスだよ。お弁当も作ったから、持っていってね」

「ありがとう。大変ではないか?」

「ううん。お父さんのためなら、どれだけだって頑張れるよ」

「無理はしなくて良い。もちろん、気持ちは嬉しいが」

「大丈夫だよ。まだまだ若いもん。体力だって、余裕あるから」

 

 元気よく両手を握る娘に、父は頷いてオムライスを口に運ぶ。にこやかに、ゆっくりと。

 

「なら、良いが。ありがとう。よくできているよ」

「今日は早いんでしょ? 見送るから、先に行っててよ」

「ああ。あまり味わえなくて、済まないな」

「良いよ、気にしなくて。美味しいのは、顔を見れば分かるから」

「それは助かる。じゃあ、行ってくるよ」

「言ってらっしゃい。大好きだよ、お父さん」

 

 手を振るあずさに見送られながら、時雨は仕事に向かう。見えなくなるまで、娘は手を振っていた。

 

 戻ったあずさはスマホを開く。地面に落ちたトロフィーを横目に、二の腕を撫でながらメッセージを削除した。

 

 『お母さんは、旅行に行ってきなよ。1年前から準備してたんでしょ? お父さんは、私が説得しておくから』


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