四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない   作:鳩夜(HATOYA)

1 / 5
洗礼の試練

 この世界では、十歳になると両手の甲に白い輪が浮かび上がる。

 それは、魔法を授かった証ではない。

 間もなく、凶悪な魔物が巣食う最下層へ送られるという合図。

 洗礼の試練が始まる印だ。

 

「……ついに、この日が来たか」

 

 布団から上半身を起こし、両手を顔の前へ掲げる。

 手の甲には、皮膚からわずかに浮き出すように、白い輪が一つずつ現れていた。

 窓の外へ目を向ける。

 茶色い天井のような空には、十二個の光が円を描くように並んでいる。

 

 今は、そのうち七つが白く満ちていた。

 

 十二個目の光が満ちた瞬間、俺はこの場所から消え、最下層へ送られる。

 例外はない。

 

 一層に暮らす神徒も。

 二層に暮らす貴族も。

 そして、三層に暮らす俺たち一般人も。

 

 この世界に生まれた者は、誰一人として洗礼の試練から逃れることはできない。

 

「ロフル、起きているの?」

 

 部屋の外から、聞き慣れた声がした。

 

「起きてるよ、母さん」

 

 返事をすると、木製の扉がゆっくりと開いた。

 部屋へ入ってきた母は、いつものように俺を起こそうと近づいてくる。

 腰まで伸びた紫色の髪。

 瞳も、俺と同じ紫色だ。

 母は俺の顔を見た後、両手の甲へ視線を落とした。

 白い輪を目にした瞬間、その表情がわずかに曇る。

 

「……この日が来たのね」

 

 消え入りそうな声だった。

 だが、母はすぐに普段と変わらない笑顔を作った。

 

「朝食はできているわ。今日は早めに食べておきなさい」

 

「ああ。分かった」

 

 俺が布団から出ようとした、そのときだった。

 

「お兄ちゃん!」

 

 二つの小さな影が、母の両脇をすり抜けて部屋へ飛び込んできた。

 妹のハナと、弟のサンクだ。

 

 ハナは七歳。

 サンクは六歳になったばかりだ。

 

 二人は俺の布団の前まで駆けてくると、両手に浮かんだ白い輪を珍しそうにのぞき込んだ。

 

「きれい……」

 

 ハナが顔を近づける。

 

「これが、イチタ兄と同じ試験の印?」

 

「ああ、そうだな」

 

 俺には、イチタという兄がいた。

 俺より五歳年上だった兄も、十歳になった年の同じ日に、両手の甲へ白い輪を浮かべた。

 そして洗礼の試練へ向かい、そのまま帰ってこなかった。

 

 ハナもサンクも、洗礼の詳しい内容を知らない。

 洗礼について子供へ教えてよいのは、九歳になってから。

 

 それより幼い子供には、試練の内容を伝えてはならないという掟があるからだ。

 

「イチタ兄ちゃんも、これが出てた!」

 

 サンクが白い輪を指さし、無邪気に笑う。

 

「ロフル兄ちゃんも、すぐ帰ってくる?」

 

「もちろんだ」

 

 俺は二人の頭へ手を置いた。

 

「剣の修行も頑張ったからな。すぐに帰ってくるよ」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

 そう答えたが、ほとんど嘘のようなものだった。

 イチタが洗礼へ向かった日のことを、俺は今でも覚えている。

 当時五歳だった俺は、兄が腰に剣を携えているのを見た。

 

 詳しい内容を知らなくとも、ただの試験ではないことくらい理解できた。

 それから俺は、父に剣の修行を頼んだ。

 父は驚きながらも、快く付き合ってくれた。

 ハナも最初のうちは興味を示し、少しだけ一緒に修行した。

 サンクに至っては、一度も剣を握らなかった。

 遊び盛りの普通の子供なのだから、仕方がないだろう。

 むしろ、七歳になる前から毎日のように剣を振り続けていた俺の方が、異常だったのかもしれない。

 

 俺には前世の記憶がある。

 

 前世を含めれば、三十年ほどは生きていることになる。

 だからといって、死ぬのが怖くないわけではない。

 最下層には、十歳の子供では到底太刀打ちできないような魔物が、数多く生息している。

 

 そこへ、たった一人で放り出される。

 生きて帰るには、最下層で長期間生き延び、腕に二つ目の魔法輪を刻まなければならない。

 

 二輪の魔法――《リターン》。

 

 それを習得しない限り、故郷へ帰ることはできない。

 

「二人とも、ロフルの準備を邪魔しちゃ駄目よ」

 

 母に言われ、ハナとサンクは渋々部屋から出ていった。

 俺も着替えを済ませ、朝食を食べる。

 食卓には普段より多くの料理が並んでいた。

 

 固いパン。

 少量の干し肉。

 野菜を煮込んだスープ。

 

 決して豪華ではない。

 それでも、今の我が家で用意できる精いっぱいの食事なのだろう。

 

 母は何度も俺の皿へ料理をよそった。

 ハナとサンクは、いつも通り楽しそうに話している。

 俺も笑いながら返事をした。

 

 今日で最後になるかもしれない。

 そんなことは、口にできなかった。

 

・・・

・・

 

「ロフル、剣の手入れが終わったぞ。そろそろ行くぞ」

 

 家の外から父の声が聞こえた。

 扉を開けると、父は鞘に収められた剣を差し出してきた。

 何年も修行で使ってきた、俺のための剣だ。

 

「刃も研いでおいた。柄も緩んでいない」

 

「ありがとう、父さん」

 

 剣を受け取り、腰へ差す。

 背負い袋の中も確認した。

 水の入った革袋。

 

 干し肉。

 布。

 火を起こすための道具。

 簡単な薬草。

 

 どれも父と母が用意してくれたものだ。

 

 最下層へ何を持ち込めるのかは、転送されてみなければ分からない。

 それでも、何も持たずに送り出すことなどできなかったのだろう。

 

「忘れ物はないか?」

 

「大丈夫だ」

 

 俺は一度、家の中を振り返った。

 母とハナ、サンクが並んで立っている。

 母は笑おうとしていた。

 

 だが、その口元は小さく震えている。

 

「行ってくるよ」

 

「ええ。行ってらっしゃい、ロフル」

 

「お兄ちゃん、早く帰ってきてね!」

 

「お土産も!」

 

「最下層へ行くのに、お土産なんかあるのか?」

 

 思わず笑ってしまう。

 

「探しておくよ」

 

 ハナとサンクへ手を振り、父と共に家を離れた。

 二人の声は、しばらく背中から聞こえていた。

 

・・・

・・

 

 村の中央にある広場には、すでに多くの子供たちが集まっていた。

 

 全員、俺と同じ十歳だ。

 

 腰に剣を差した者。

 槍を持つ者。

 大きな荷物を背負っている者。

 

 何の武器も持たず、震えている者もいる。

 だが、知っている顔は一人もいなかった。

 

 十歳ともなれば、本来なら友人が何人もいてもおかしくない。

 しかし、この世界では、他人の子供同士を積極的に会わせる家庭は少なかった。

 

 家族で過ごす時間を何よりも大切にし、洗礼へ向けた修行に励む。

 どうせ仲良くなったところで、その大半は十歳の試練で死んでしまう。

 

 幼いころから友人を作らせないのは、残された者が悲しまないためでもあるのだろう。

 残酷だが、理解できない話ではなかった。

 

「ロフル」

 

 隣を歩いていた父が、小さな声で俺を呼んだ。

 

「紫の髪と瞳を持たない子供には気をつけろ」

 

「神徒と貴族のことだろう?」

 

 この村に住む者は、全員が紫色の髪と瞳を持つ一般人だ。

 だが、一層の神徒は赤い瞳を持ち、二層の貴族は黄色い瞳を持つという。

 

「ああ。見かけても、できる限り近づくな。向こうに気づかれる前に逃げろ」

 

「何かされるのか?」

 

「……今のお前に、詳しく説明している時間はない」

 

 父はそう言って、広場に集まる子供たちへ視線を向けた。

 

「ただし、これだけは覚えておけ。最下層で恐ろしいのは、魔物だけではない」

 

「分かった」

 

 理由は分からない。

 

 だが、父は洗礼の試練を生き抜き、《リターン》を習得して帰還した大人だ。

 その言葉は信頼していいだろう。

 

 空を見上げる。

 

 十二個ある光のうち、すでに十一個が満ちていた。

 残る光は一つだけ。

 

「ついに、この日が来ました」

 

 広場の中央から、しわがれた声が響いた。

 白い法衣をまとい、長い杖を持った老人が立っている。

 司祭のような格好だ。

 

「子供たちよ。今日、あなた方は洗礼の試練へ旅立ちます」

 

 広場が静まり返る。

 老人は目を閉じると、杖を両手で握り、祈るように頭を下げた。

 

「どうか神の祝福が、あなた方を守りますように」

 

 老人は長い祈りの言葉を続けた。

 

 だが、その内容はほとんど耳に入らなかった。

 胸の鼓動が、嫌になるほど大きく聞こえる。

 もうすぐ、見たこともない場所へ飛ばされる。

 

 父も母もいない。

 助けてくれる大人もいない。

 そこにいるのは、同じように放り込まれた子供と、凶悪な魔物だけだ。

 

 不安と恐怖しかなかった。

 

「さあ、間もなく十二の時間となります」

 

 老人の声で、広場に集まった子供たちが一斉に空を見上げる。

 最後の光が、輪郭からゆっくりと白く満ち始めていた。

 

「帰還の魔法、《リターン》を習得すれば、今あなた方が立っている場所へ戻ってきます」

 

 老人は杖の先で地面を示す。

 

「帰還した際に、ほかの者と重ならないよう、互いに距離を取りなさい」

 

 その言葉に従い、密集していた俺たちは広場の中へ散っていく。

 

 皆、不安そうな表情をしていた。

 

 泣きそうな顔で両親を見つめる子。

 必死に平静を装う子。

 震えながら武器を握り締める子。

 

 まるで、注射の順番を待つ小学生の集団のようだった。

 

 もっとも、俺たちを待っているものは、注射どころではない。

 父がこちらを見ていた。

 俺は父へ向かって、小さく頷く。

 父も何も言わず、頷き返した。

 

 空にある最後の光が、完全に白く染まった。

 

「どうか……無事を祈ります。子供たちよ」

 

 老人の言葉が聞こえた瞬間、俺の身体が白く輝いた。

 

「なっ……」

 

 足元から、小さな光の粒へ変わっていく。

 足を動かしている感覚はある。

 

 だが、そこにあるはずの足は、すでに光の粒となって宙へ消えていた。

 

 痛みはない。

 熱さも、冷たさも感じない。

 

 ただ、自分の身体が少しずつ失われていくという、奇妙な感覚だけがあった。

 

「いやだ!」

 

 甲高い声が広場に響いた。

 

「行きたくない! お母さん! お母さぁん!」

 

 その声をきっかけに、あちこちから泣き叫ぶ声が上がる。

 

「助けて!」

 

「怖いよ!」

 

「お父さん!」

 

「誰か、手を握って!」

 

 あまりにも悲痛な叫びだった。

 思わず、近くで泣いている子供へ手を伸ばそうとする。

 だが、俺の腕はすでに光の粒へ変わっていた。

 

 指先すら、残っていない。

 

 伸ばすことも。

 手を握ることも。

 誰かを安心させることもできなかった。

 

 視界が、白い光に包まれていく。

 耳に残るのは、家族を求めて泣き叫ぶ子供たちの声。

 俺はその声を聞きながら、改めて思った。

 

 本当に――。

 

 なんて残酷な世界なのだろう。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。