四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
この世界では、十歳になると両手の甲に白い輪が浮かび上がる。
それは、魔法を授かった証ではない。
間もなく、凶悪な魔物が巣食う最下層へ送られるという合図。
洗礼の試練が始まる印だ。
「……ついに、この日が来たか」
布団から上半身を起こし、両手を顔の前へ掲げる。
手の甲には、皮膚からわずかに浮き出すように、白い輪が一つずつ現れていた。
窓の外へ目を向ける。
茶色い天井のような空には、十二個の光が円を描くように並んでいる。
今は、そのうち七つが白く満ちていた。
十二個目の光が満ちた瞬間、俺はこの場所から消え、最下層へ送られる。
例外はない。
一層に暮らす神徒も。
二層に暮らす貴族も。
そして、三層に暮らす俺たち一般人も。
この世界に生まれた者は、誰一人として洗礼の試練から逃れることはできない。
「ロフル、起きているの?」
部屋の外から、聞き慣れた声がした。
「起きてるよ、母さん」
返事をすると、木製の扉がゆっくりと開いた。
部屋へ入ってきた母は、いつものように俺を起こそうと近づいてくる。
腰まで伸びた紫色の髪。
瞳も、俺と同じ紫色だ。
母は俺の顔を見た後、両手の甲へ視線を落とした。
白い輪を目にした瞬間、その表情がわずかに曇る。
「……この日が来たのね」
消え入りそうな声だった。
だが、母はすぐに普段と変わらない笑顔を作った。
「朝食はできているわ。今日は早めに食べておきなさい」
「ああ。分かった」
俺が布団から出ようとした、そのときだった。
「お兄ちゃん!」
二つの小さな影が、母の両脇をすり抜けて部屋へ飛び込んできた。
妹のハナと、弟のサンクだ。
ハナは七歳。
サンクは六歳になったばかりだ。
二人は俺の布団の前まで駆けてくると、両手に浮かんだ白い輪を珍しそうにのぞき込んだ。
「きれい……」
ハナが顔を近づける。
「これが、イチタ兄と同じ試験の印?」
「ああ、そうだな」
俺には、イチタという兄がいた。
俺より五歳年上だった兄も、十歳になった年の同じ日に、両手の甲へ白い輪を浮かべた。
そして洗礼の試練へ向かい、そのまま帰ってこなかった。
ハナもサンクも、洗礼の詳しい内容を知らない。
洗礼について子供へ教えてよいのは、九歳になってから。
それより幼い子供には、試練の内容を伝えてはならないという掟があるからだ。
「イチタ兄ちゃんも、これが出てた!」
サンクが白い輪を指さし、無邪気に笑う。
「ロフル兄ちゃんも、すぐ帰ってくる?」
「もちろんだ」
俺は二人の頭へ手を置いた。
「剣の修行も頑張ったからな。すぐに帰ってくるよ」
「本当?」
「ああ」
そう答えたが、ほとんど嘘のようなものだった。
イチタが洗礼へ向かった日のことを、俺は今でも覚えている。
当時五歳だった俺は、兄が腰に剣を携えているのを見た。
詳しい内容を知らなくとも、ただの試験ではないことくらい理解できた。
それから俺は、父に剣の修行を頼んだ。
父は驚きながらも、快く付き合ってくれた。
ハナも最初のうちは興味を示し、少しだけ一緒に修行した。
サンクに至っては、一度も剣を握らなかった。
遊び盛りの普通の子供なのだから、仕方がないだろう。
むしろ、七歳になる前から毎日のように剣を振り続けていた俺の方が、異常だったのかもしれない。
俺には前世の記憶がある。
前世を含めれば、三十年ほどは生きていることになる。
だからといって、死ぬのが怖くないわけではない。
最下層には、十歳の子供では到底太刀打ちできないような魔物が、数多く生息している。
そこへ、たった一人で放り出される。
生きて帰るには、最下層で長期間生き延び、腕に二つ目の魔法輪を刻まなければならない。
二輪の魔法――《リターン》。
それを習得しない限り、故郷へ帰ることはできない。
「二人とも、ロフルの準備を邪魔しちゃ駄目よ」
母に言われ、ハナとサンクは渋々部屋から出ていった。
俺も着替えを済ませ、朝食を食べる。
食卓には普段より多くの料理が並んでいた。
固いパン。
少量の干し肉。
野菜を煮込んだスープ。
決して豪華ではない。
それでも、今の我が家で用意できる精いっぱいの食事なのだろう。
母は何度も俺の皿へ料理をよそった。
ハナとサンクは、いつも通り楽しそうに話している。
俺も笑いながら返事をした。
今日で最後になるかもしれない。
そんなことは、口にできなかった。
・・・
・・
・
「ロフル、剣の手入れが終わったぞ。そろそろ行くぞ」
家の外から父の声が聞こえた。
扉を開けると、父は鞘に収められた剣を差し出してきた。
何年も修行で使ってきた、俺のための剣だ。
「刃も研いでおいた。柄も緩んでいない」
「ありがとう、父さん」
剣を受け取り、腰へ差す。
背負い袋の中も確認した。
水の入った革袋。
干し肉。
布。
火を起こすための道具。
簡単な薬草。
どれも父と母が用意してくれたものだ。
最下層へ何を持ち込めるのかは、転送されてみなければ分からない。
それでも、何も持たずに送り出すことなどできなかったのだろう。
「忘れ物はないか?」
「大丈夫だ」
俺は一度、家の中を振り返った。
母とハナ、サンクが並んで立っている。
母は笑おうとしていた。
だが、その口元は小さく震えている。
「行ってくるよ」
「ええ。行ってらっしゃい、ロフル」
「お兄ちゃん、早く帰ってきてね!」
「お土産も!」
「最下層へ行くのに、お土産なんかあるのか?」
思わず笑ってしまう。
「探しておくよ」
ハナとサンクへ手を振り、父と共に家を離れた。
二人の声は、しばらく背中から聞こえていた。
・・・
・・
・
村の中央にある広場には、すでに多くの子供たちが集まっていた。
全員、俺と同じ十歳だ。
腰に剣を差した者。
槍を持つ者。
大きな荷物を背負っている者。
何の武器も持たず、震えている者もいる。
だが、知っている顔は一人もいなかった。
十歳ともなれば、本来なら友人が何人もいてもおかしくない。
しかし、この世界では、他人の子供同士を積極的に会わせる家庭は少なかった。
家族で過ごす時間を何よりも大切にし、洗礼へ向けた修行に励む。
どうせ仲良くなったところで、その大半は十歳の試練で死んでしまう。
幼いころから友人を作らせないのは、残された者が悲しまないためでもあるのだろう。
残酷だが、理解できない話ではなかった。
「ロフル」
隣を歩いていた父が、小さな声で俺を呼んだ。
「紫の髪と瞳を持たない子供には気をつけろ」
「神徒と貴族のことだろう?」
この村に住む者は、全員が紫色の髪と瞳を持つ一般人だ。
だが、一層の神徒は赤い瞳を持ち、二層の貴族は黄色い瞳を持つという。
「ああ。見かけても、できる限り近づくな。向こうに気づかれる前に逃げろ」
「何かされるのか?」
「……今のお前に、詳しく説明している時間はない」
父はそう言って、広場に集まる子供たちへ視線を向けた。
「ただし、これだけは覚えておけ。最下層で恐ろしいのは、魔物だけではない」
「分かった」
理由は分からない。
だが、父は洗礼の試練を生き抜き、《リターン》を習得して帰還した大人だ。
その言葉は信頼していいだろう。
空を見上げる。
十二個ある光のうち、すでに十一個が満ちていた。
残る光は一つだけ。
「ついに、この日が来ました」
広場の中央から、しわがれた声が響いた。
白い法衣をまとい、長い杖を持った老人が立っている。
司祭のような格好だ。
「子供たちよ。今日、あなた方は洗礼の試練へ旅立ちます」
広場が静まり返る。
老人は目を閉じると、杖を両手で握り、祈るように頭を下げた。
「どうか神の祝福が、あなた方を守りますように」
老人は長い祈りの言葉を続けた。
だが、その内容はほとんど耳に入らなかった。
胸の鼓動が、嫌になるほど大きく聞こえる。
もうすぐ、見たこともない場所へ飛ばされる。
父も母もいない。
助けてくれる大人もいない。
そこにいるのは、同じように放り込まれた子供と、凶悪な魔物だけだ。
不安と恐怖しかなかった。
「さあ、間もなく十二の時間となります」
老人の声で、広場に集まった子供たちが一斉に空を見上げる。
最後の光が、輪郭からゆっくりと白く満ち始めていた。
「帰還の魔法、《リターン》を習得すれば、今あなた方が立っている場所へ戻ってきます」
老人は杖の先で地面を示す。
「帰還した際に、ほかの者と重ならないよう、互いに距離を取りなさい」
その言葉に従い、密集していた俺たちは広場の中へ散っていく。
皆、不安そうな表情をしていた。
泣きそうな顔で両親を見つめる子。
必死に平静を装う子。
震えながら武器を握り締める子。
まるで、注射の順番を待つ小学生の集団のようだった。
もっとも、俺たちを待っているものは、注射どころではない。
父がこちらを見ていた。
俺は父へ向かって、小さく頷く。
父も何も言わず、頷き返した。
空にある最後の光が、完全に白く染まった。
「どうか……無事を祈ります。子供たちよ」
老人の言葉が聞こえた瞬間、俺の身体が白く輝いた。
「なっ……」
足元から、小さな光の粒へ変わっていく。
足を動かしている感覚はある。
だが、そこにあるはずの足は、すでに光の粒となって宙へ消えていた。
痛みはない。
熱さも、冷たさも感じない。
ただ、自分の身体が少しずつ失われていくという、奇妙な感覚だけがあった。
「いやだ!」
甲高い声が広場に響いた。
「行きたくない! お母さん! お母さぁん!」
その声をきっかけに、あちこちから泣き叫ぶ声が上がる。
「助けて!」
「怖いよ!」
「お父さん!」
「誰か、手を握って!」
あまりにも悲痛な叫びだった。
思わず、近くで泣いている子供へ手を伸ばそうとする。
だが、俺の腕はすでに光の粒へ変わっていた。
指先すら、残っていない。
伸ばすことも。
手を握ることも。
誰かを安心させることもできなかった。
視界が、白い光に包まれていく。
耳に残るのは、家族を求めて泣き叫ぶ子供たちの声。
俺はその声を聞きながら、改めて思った。
本当に――。
なんて残酷な世界なのだろう。