四層世界の最下層、魔物の森で生き残る 作:鳩夜(HATOYA)
洗礼の試練、当日。
開始まで、あと一時間。
そして今日で――俺が最下層へ送られてから、ちょうど一年になる。
「……頼むぞ」
神輪の祭壇、その中央にある青い台座へ右腕を差し込む。
もう何度も行った動作だ。
初めてのときのような恐怖はない。
青い光が台座を走り、正面に立つ黒い石板へ文字が浮かび上がった。
――――――――――
経験値確認……
レベル四・八相当の経験値を習得しています。
……以上。
――――――――――
「……駄目だったか」
腕を引き抜き、小さく息を吐く。
「レベル五には届かなかったな……」
この八か月。
毎日のように魔物を倒してきた。
数だけなら、何十どころではない。
それでも、以前確認した四・二から、四・八。
ほとんど伸びていなかった。
「ゲームでも、弱い敵ばかり倒してたら全然レベル上がらなかったもんな……」
前世で遊んでいたゲームを思い出す。
最初は経験値を得られた敵でも、自分のレベルが上がれば大した足しにならなくなる。
この世界も似た仕組みなのだろうか。
だとすれば、五輪へ進むには、今までより強い魔物を倒す必要がある。
「……でも、今日はレベル上げどころじゃない」
俺は祭壇を出た。
今日の目的は、ただ一つ。
新たに最下層へ送られてくる子供たちを、一人でも多く助けることだ。
・・・
・・
・
俺は祭壇のある巨大な切り株から、およそ五キロ離れた場所にいた。
この八か月で、一つ確信したことがある。
魔物は――神輪の祭壇へ近づけない。
最初は偶然だと思っていた。
だが、何度試しても同じだった。
デッドマンティスを追わせても、ある地点まで来ると突然足を止める。
レッドアントも。
グランドセンチピードも。
空を飛ぶグリーンホーネットですら、祭壇付近へは入ってこなかった。
理由は分からない。
それでも事実として、あそこはこの区画の中で圧倒的に安全な場所だ。
「子供を見つけたら、すぐ祭壇へ連れていく」
切り株の上には寝床を作った。
水もある。
保存してある食料もある。
最低限、生き延びられる環境は整えてある。
あとは――見つけるだけだ。
「もうすぐだな」
俺は一本の巨木の枝に立ち、空を見上げた。
十二個の光。
最後の一つが、ゆっくりと満ち始めている。
あと少しで、十二の刻だ。
右腕へ目を落とす。
この一年で、《サーチ》もかなり変化した。
何度も使い続けた影響なのか。
それとも俺自身の魔力が増えたのか。
今では、最大で半径十キロほどまで確認できる。
「いつでも来い」
手の甲へ指を当てる。
そして――。
十二個目の光が、完全に満ちた。
――ゴォーン……。
「……?」
――ゴォーン……ゴォーン……。
低い鐘の音が鳴り響いた。
どこかに鐘があるわけではない。
空全体から聞こえてくるような、不思議な音だった。
「こんなの……去年、聞いたか?」
記憶にない。
転送される側には聞こえない音なのだろうか。
そして。
『――Activate system to sort.』
「……は?」
鐘とはまったく異なる、無機質な声が聞こえた。
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「今……英語……?」
アクティベート……システム……トゥ……ソート。
前世の記憶をたどる。
「システムを起動して……選別する?」
いや。
そんなはずがない。
この世界に英語など存在しない。
少なくとも、俺はこの十年間、一度も聞いたことがなかった。
空耳かもしれない。
前世の記憶が、似た音を勝手に英語へ置き換えただけかもしれない。
「選別って……何を――」
そこまで考えて、我に返った。
「いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない!」
手の甲を起動する。
「一輪――《サーチ》!」
周囲十キロの地形が、一気に魔法陣へ広がった。
「……いた!」
丸い反応。
人間だ。
二つ。
俺を挟むように、東西へ離れて表示されている。
「二人だけ……?」
いや。
サーチの範囲外へ転送された者もいるはずだ。
今は、この二人を助ける。
「近い方からだ!」
東側。
ここからおよそ三キロ。
丸い印がゆっくり動いている。
「動くなって……!」
おそらく、転送直後に怖くなって逃げ出したのだろう。
だが、最下層で何も分からないまま動き回るのは危険すぎる。
「頼むから、どこかに隠れててくれよ……!」
《サーチ》を使った右手は、光を失っている。
インターバル。
これが終わらなければ、同じ手で《エンハンス》を使えない。
「早く……!」
数十秒。
右腕の輪が再び白く輝く。
「三輪――《エンハンス》!」
魔力が全身を覆った。
俺は巨木の枝から飛び降り、そのまま森の中を全速力で駆け抜けた。
・・・
・・
・
三キロ。
普通なら、十歳の子供が簡単に移動できる距離ではない。
だが《エンハンス》を使えば違う。
地面を蹴るたび、数メートル先へ身体が飛ぶ。
倒木を跳び越える。
岩場は飛び移る。
草木を避けながら、最短距離で反応へ向かう。
数分後。
「いた!」
森の中にある、少し開けた場所。
その中央で、一人の紫髪の少年がしゃがみ込んでいた。
剣を抱え、頭を両腕で隠すようにして震えている。
「ひぃ……!」
俺の足音に気づいたのか、少年が顔を上げる。
「や、やめて! 助けて! お願い……!」
「俺は魔物じゃない!」
足を止める。
「助けに来たんだ!」
「……え?」
少年が涙で濡れた顔をこちらへ向けた。
俺はその姿を見ながら、妙に納得してしまった。
大半の子供が死ぬ理由。
少し分かった気がする。
こんな開けた場所で。
声を上げながら。
ただうずくまっている。
デッドマンティスが一体でも現れれば、それだけで終わりだ。
「村の大人たち……剣の振り方より、まず逃げ方を教えた方がいいだろ……」
もちろん、恐怖で教わったことが吹き飛んでいる可能性もある。
それでも、最下層では戦うより隠れる方が遥かに重要だ。
「立てるか?」
「う、うん……」
「安全な場所がある。そこまで行くぞ」
少年は、何度も頷いた。
「ほら、鞄貸せ」
「え?」
「俺が持つ。その方が走りやすい」
「あ……ありがとう、お兄ちゃん!」
「行くぞ!」
俺たちは祭壇へ向かって走り始めた。
・・・
・・
・
「も、もう……無理……」
「え?」
まだ二十分も経っていなかった。
後ろを振り返ると、少年が膝へ両手をついていた。
額から大量の汗が流れている。
「はぁ……はぁ……もう……走れない……」
「……そうか」
当然だった。
俺は一年間、毎日この森を歩いてきた。
身体も鍛えられている。
だが、目の前の少年は今日初めて最下層へ来た普通の十歳だ。
俺と同じ速度で走れるはずがない。
祭壇までは、まだ半分以上ある。
「時間が……」
俺はその場へ座り、いったん《エンハンス》を解除した。
そして右手のインターバルが終わるのを待つ。
「一輪――《サーチ》!」
魔法陣へ周囲の反応が表示される。
「……っ」
西側にあった、もう一つの丸。
消えていた。
「嘘だろ……」
移動して、十キロ圏外へ出ただけかもしれない。
そう思いたい。
だが。
転送されてから、まだそれほど時間は経っていない。
十歳の子供が、そこまで移動できるだろうか。
「もう……すでに……」
考えるな。
まだ決まったわけじゃない。
それより、今助けられる子を安全な場所へ連れていく。
「時間がない」
俺は少年へ背中を向け、しゃがみ込んだ。
「乗れ!」
「え?」
「俺の背中に乗れ!」
「でも……」
「早く!」
「う、うん!」
少年が背中へしがみつく。
両腕で脚を支える。
「しっかりつかまってろ!」
《エンハンス》を発動。
今度は少年を背負ったまま、祭壇へ向かって全力で走った。
・・・
・・
・
「ここだ」
巨大な切り株が見えてきた。
「すごい……」
「驚くのは後だ」
少年を背中から降ろし、切り株へ取りつけた梯子を指さす。
「ここは安全だ。この辺りには魔物が近づいてこない」
「本当?」
「ああ。上に登れば、水も食料もある。寝る場所も作ってある」
少年は長い梯子を見上げた。
高さは二十メートル近い。
「た、高い……」
「大丈夫だ。ゆっくり登れば落ちない」
「お兄ちゃんも一緒に……」
少年が不安そうに俺の服をつかむ。
だが。
「そんな時間はない!」
思わず、大きな声が出た。
少年の肩がびくりと跳ねる。
「さっきの君みたいに、どこかでうずくまって助けを求めてる奴がいるかもしれないんだ!」
「あ……」
「ここまで連れてきたんだ。そのくらいは自分でやるんだ!」
焦っていた。
だから少し、怒鳴るような言い方になってしまった。
「……悪い。でも、本当に時間がない」
少年はしばらく俺を見ていた。
やがて、強く頷く。
「分かった!」
梯子を握る。
「僕、一人で登る!」
「ああ」
「お兄ちゃんも頑張ってね!」
……いい子だ。
「任せろ!」
俺は笑って手を上げた。
「行ってくる!」
そして、再び西へ向かって走り出した。
・・・
・・
・
「いた……!」
《サーチ》に、一つの丸が表示された。
さっき消えた反応とは別だ。
さらに近くには――。
「デッドマンティスが二体……まずいな」
距離を確認する。
すでにかなり近い。
「三輪――《エンハンス》!」
全身を魔力で覆い、地面を蹴る。
走りながら思う。
「サーチの後のインターバル……本当に邪魔だな!」
状況を確認するためには《サーチ》が必要。
だが、それを使えば一定時間《エンハンス》を使えない。
逆も同じ。
五輪で左手が開放されれば、解決する可能性が高い。
だからこそ、今日までにレベル五へ上がっておきたかった。
「いやぁっ!」
少女の声。
「来ないで!」
「そこか!」
茂みを飛び越える。
開けた場所に、一人の少女がいた。
短めの赤い髪。
襟足や横髪が不揃いに伸びた、ウルフショート。
そして――赤い瞳。
「神徒……!?」
その少女へ、二体のデッドマンティスが迫っていた。
だが、今は階級など関係ない。
「もう大丈夫だ!」
俺は一体目へ飛び込んだ。
「はあっ!」
《エンハンス》を纏った脚で、頭部を蹴り抜く。
ゴシャッ!
柔らかい外殻が粉砕される。
一撃。
そのまま身体をひねり、二体目へ蹴りを放った。
ガンッ――!
「くっ!」
鈍い金属音。
脚へ硬い感触が返ってくる。
「やっぱり、硬い方か!」
光沢のある外殻。
何度も苦戦した、異常に硬いデッドマンティスだ。
だが、以前の俺とは違う。
「右手――出力を上げる!」
全身にまとっている魔力は、そのまま。
右腕だけへ魔力を集中させる。
通常を一とするなら――二。
拳を握る。
「はあああっ!」
渾身の一撃を、デッドマンティスの頭部へ叩き込んだ。
ボンッ!
「え?」
外殻が砕ける。
同時に。
バチバチッ!
青白い電気が走った。
ガシャン!
魔物の頭部から、奇妙な部品が地面へ散らばる。
「なんだ……これ」
ネジのような金属。
丸いレンズ。
細い配線。
歯車のような部品。
血液も肉もほとんどない。
「こいつ……機械でできてるのか?」
魔物というより。
前世で見たロボットに近い。
「ヂ……ヂヂヂ……」
壊れた頭部から、不規則な音が響いた。
赤い光が点滅している。
「……まずい!」
前世の記憶が警告する。
「離れろ!」
俺は赤髪の少女を抱えるようにして、その場から跳んだ。
直後。
ドンッ――!
大きな爆発。
熱風が背中を叩く。
土と金属片が空高く舞い上がった。
「……嘘だろ」
爆発した場所には、小さなクレーターができている。
あれをまともに受けていたら、《エンハンス》があっても無傷では済まなかったかもしれない。
「大丈夫か?」
少女を地面へ下ろす。
「もう安心だ。安全な場所があるんだ」
「お兄ちゃん……」
少女はしばらく呆然としていたが、やがて表情を緩めた。
「ありがとう……!」
「ああ」
間に合った。
俺は安堵しながら、周囲を確認する。
「念のため、もう一度調べるか」
《エンハンス》を解除する。
インターバルが終わるのを待ち、手の甲へ触れた。
「一輪――《サーチ》」
魔法陣が展開される。
その瞬間。
「……は?」
目の前。
ほとんど俺たちと重なる位置に、三つの三角形が表示されていた。
「デッドマンティス……三体?」
反射的に周囲を見回す。
「いないだろ……!」
何もいない。
木々。
岩。
爆発で舞った土煙。
それだけだ。
しかし。
「……え?」
空間が、わずかに歪んだ。
何もなかった場所から。
巨大なカマキリの輪郭が、ゆっくりと浮かび上がる。
一体。
二体。
三体。
「なっ……!」
ほとんど音もなく、その場へデッドマンティスが現れた。
透明になって潜んでいたのか。
それとも。
今、この場所へ転送されてきたのか。
分からない。
あまりにも不自然な出現だった。
そして最悪なことに。
三体とも、外殻が鈍く光っている。
「全部……硬い奴……!」
まずい。
《サーチ》を使った直後。
右手の一輪は光を失っている。
《エンハンス》は使えない。
「あと……三十秒……!」
普段なら短い。
だが、今は致命的に長い。
「チチチッ!」
三体が、一斉に動いた。
狙いは――。
「危ない!」
赤髪の少女。
俺は考えるより先に、その前へ飛び出した。
今の俺は生身だ。
硬いデッドマンティスの鎌を受ければ、どうなるか分からない。
それでも。
助けると決めた。
ここで見捨てるわけにはいかない。
「来い……!」
少女を背中へ隠す。
三本の巨大な鎌が振り上げられた。
その瞬間。
ギャリンッ!!
「――っ!?」
甲高い金属音。
続けて。
ガンッ!
ギャギャギャリンッ!!
何度も何度も、金属が破壊される音が森へ響いた。
だが。
痛みが来ない。
「……?」
恐る恐る振り返る。
「は……?」
三体のデッドマンティスは、もう存在していなかった。
正確には。
原形を失っていた。
鎌。
脚。
金属製の外殻。
配線。
機械部品。
すべてがバラバラに砕かれ、辺り一面へ散らばっている。
その残骸の上に。
一人の少女が立っていた。
真っ赤な髪。
左右でまとめられたツインテール。
赤い瞳。
小柄な身体。
そして、右腕に刻まれた五つの魔法輪。
「……マグ!」
見間違えるはずがない。
一年前。
俺を《下位掌握》から助けた神徒の少女。
マグはゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、俺の顔を見つめる。
そして。
ほんの少しだけ、不思議そうに首を傾げた。
「なんでここに?」