四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
目を開けると、見知らぬ森の中に立っていた。
「……ここが、最下層」
つい先ほどまで、俺は村の中央広場にいた。
周囲には同じ十歳の子供たちがいて、父や大人たちが少し離れた場所から見守っていたはずだ。
しかし、今は誰の姿もない。
あるのは、どこまでも続く薄暗い森だけだった。
村の外れに生えていた木とは比べ物にならないほど、巨大な木々が立ち並んでいる。
幹は大人が何人も手をつないだところで囲めそうにないほど太く、枝葉は遥か頭上で複雑に絡み合っていた。
そのせいで空から差し込む光の大半が遮られ、まだ昼間のはずなのに森の中は薄暗い。
土の匂いが濃い。
足元の地面は柔らかく湿っており、少し力を込めるだけで靴が泥へ沈み込んだ。
木の葉にも水滴が残っている。
どうやら、少し前まで雨が降っていたらしい。
「あれ……?」
ふと、両手の甲に違和感を覚えた。
顔の前まで手を持ち上げる。
そこには、転送前と同じように白い模様が浮かんでいた。
だが、その形が違う。
「輪じゃない……?」
村にいたときは、何の乱れもない綺麗な円だった。
今は三本の矢印が互いを追いかけるようにつながった、奇妙な模様へ変わっている。
前世で見た、スチール缶のリサイクルマークによく似ていた。
「来る前は、普通の輪だったはずだよな」
指先で触れてみる。
痛みはない。
熱もなく、皮膚の感触も普段と変わらなかった。
模様だけが、皮膚からわずかに浮かび上がっている。
父からも、魔法輪がこのような形になるとは聞いていない。
何か異常が起きたのだろうか。
「……とにかく、今は置いておこう」
正体の分からない模様を眺めていても、安全になるわけではない。
俺は周囲を見渡した。
木の陰。
枝の上。
草むらの奥。
今のところ、何かが動いている気配はない。
近くに魔物が潜んでいないと判断し、その場へ腰を下ろした。
剣にはすぐ手が届くようにして、木の幹へ背中を預ける。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
瞑想。
最下層へ来たら、まず最初に行え。
父から何度も言われていたことだった。
呼吸を整える。
鼻からゆっくり息を吸い、口から吐く。
耳を澄ませば、葉から落ちる水滴の音や、遠くで枝が揺れる音が聞こえた。
周囲の音に意識を向けながら、自分の身体にも集中する。
肌へまとわりつく湿った空気。
胸の鼓動。
身体中を巡る血の流れ。
毎日続けてきた瞑想と同じように、一つずつ感覚を拾っていく。
「……ん?」
すぐに、これまでとは違うものに気づいた。
目には見えない何かが、全身へまとわりついている。
空気とは違う。
衣服の感触とも違う。
身体の内側から染み出し、皮膚の外側を薄く覆っているような、不思議な感覚だった。
さらに心臓の辺りには、ぼんやりとした熱がある。
熱い湯を飲んだときのような熱が、胸から手足へゆっくりと流れていた。
「これが……魔力の感覚か」
父との修行が、頭の中によみがえる。
・・・
・・
・
「瞑想……お父さん、それって何の役に立つの?」
突然、瞑想の訓練を始めると言い出した父へ、俺は当然の疑問を投げかけた。
当時の俺は、まだ七歳だった。
父は剣の修行を中断させ、地面へ座るように言った。
「ぼーっとしていたら、魔物に食べられるよね……」
「逆だ、ロフル」
父は俺の正面へ腰を下ろすと、両手を膝の上へ置いた。
「魔物は、人間の持つ魔力に吸い寄せられる」
「魔力に?」
「ああ。人間は魔力へ目覚めると、無意識のうちに身体の外へ漏らすようになる。魔物の中には、それを遠くから感じ取るものもいるんだ」
父はそう言いながら、瞑想の姿勢を取った。
背筋を伸ばし、目を閉じる。
それだけなら、ただ座っているようにしか見えない。
「漏れ出す魔力を抑えることができれば、魔物に見つかる可能性もぐっと下がる」
「でも、俺はまだ魔法を使えないよ?」
「分かっている。今のお前は、まだ魔力に目覚めていない」
父は目を閉じたまま続けた。
「それでも、この瞑想は毎日行う。肌の感覚、血液の流れ、心臓の鼓動。自分の身体で起きていることを、一つずつ感じ取るんだ」
「感じ取って、どうするの?」
「その感覚を記憶しろ」
「記憶……?」
「ああ」
父はそこで目を開け、真っすぐ俺を見た。
「魔力に目覚めたとき、同じように瞑想を行ってみろ。必ず、今までになかったものへ気づくはずだ」
・・・
・・
・
父の言った通りだった。
毎日行っていた瞑想と、明らかに感覚が違う。
これまで感じていた肌や血液の流れの中に、今まで存在しなかったものが混ざっている。
魔力にすぐ気づけたのは、日々の瞑想を続けてきたおかげだろう。
「次は、これを抑える」
胸の熱へ意識を向ける。
そこから流れ出した魔力が全身を巡り、皮膚の外へ漏れ出している。
神経を集中させ、呼吸を整える。
魔力を無理やり押し込めるのではない。
荒れている水面を静めるように、精神を安定させる。
身体の中で流動する魔力を、ゆっくりと中心へ集めていく。
最初は、うまくいかなかった。
意識を向けるほど、魔力がかえって激しく動く。
それでも焦らず、呼吸を繰り返した。
何度か続けるうちに、皮膚の外側へまとわりついていた感覚が薄れていく。
完全に抑えられているかは分からない。
だが、外へ漏れ出す量は大幅に減った気がした。
「これで……少しは見つかりにくくなったはずだ」
目を開け、ゆっくりと立ち上がる。
同じ場所に留まり続けるのは危険だ。
転送された子供が近くにいる可能性もある。
まずは移動して、誰かと合流しよう。
俺は腰の剣を確認し、薄暗い森の中を歩き始めた。
・・・
・・
・
森の中は、想像していた以上に歩きにくかった。
一歩踏み出すたびに、柔らかい土が靴へまとわりつく。
木の根は地面を這うように伸び、少しでも注意を怠れば足を取られそうになる。
背の高い草や巨大な葉をかき分けるたび、溜まっていた水滴が降りかかってきた。
泥が跳ね、ズボンの裾はすぐに汚れる。
衣服も葉の水滴で濡れていき、身体へ張りついて気持ちが悪い。
湿度も高く、少し歩いただけで額に汗が浮かんだ。
「誰もいないな……」
時折、足を止めて耳を澄ます。
人の声は聞こえない。
子供たちは広場から一斉に転送されたはずだ。
近くに何人か送られていてもおかしくないと思っていたが、その気配すらなかった。
この場所は想像していた以上に広いのかもしれない。
あてもなく進み続ける。
それでも、一向に人と会う気配はなかった。
「このまま進んでいいのか……?」
方向を確認する手段もない。
空は木々に覆われ、どちらに光があるのかも分からなかった。
同じ場所を回っている可能性すらある。
立ち止まって考えようとした、そのとき。
「キチチ……」
聞いたことのない鳴き声がした。
「――っ」
身体が考えるより先に動いた。
俺はその場で地面へ伏せる。
ぬかるんだ土へ胸と腹が沈み、冷たい泥が衣服へ染み込んだ。
全身が泥まみれになる。
だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「キチ……キチチ……」
声は、前方の草むらの向こうから聞こえてくる。
俺は息を殺したまま、ゆっくりと顔を上げた。
背の高い草の隙間から、声のした方向をのぞき込む。
「……なんだ、あれ」
そこには、巨大な魔物がいた。
全長は三メートルほど。
形だけを見れば、前世で知っているカマキリによく似ている。
しかし、俺の知っている昆虫とは大きさも姿もまるで違った。
太い六本の脚で地面を踏み締め、ゆっくりと森の中を歩いている。
前脚には、大人の身体すら一撃で切断できそうな巨大な鎌が備わっていた。
何より異様なのは、その表皮だ。
くすんだ灰色の外殻は、昆虫の殻というより、何枚もの鉄板を重ねたように見える。
光がわずかに当たるたび、硬質な表面が鈍く反射していた。
腰の剣へ、そっと手を触れる。
父が丹念に鍛え、今日のために研いでくれた剣だ。
だが、目の前の魔物を見ていると、その刃が通るとは到底思えなかった。
むしろ、斬りつけた瞬間に剣の方が折れるかもしれない。
「戦ったら……確実に死ぬ」
十歳の身体では、力も速さも足りない。
剣の修行を続けてきたとはいえ、相手にしたのは父だけだ。
魔物との実戦経験など、一度もない。
勝てるかもしれないなどと考える方が間違っている。
俺は泥の中へ身体を伏せたまま、呼吸をできる限り小さくした。
胸の奥にある魔力が漏れ出さないよう、瞑想で整えた感覚を維持する。
「キチチ……」
巨大なカマキリは何かを探すように、三角形の頭を左右へ動かした。
そのたびに、俺の心臓が大きく跳ねる。
見つかったのではないか。
魔力を感じ取られたのではないか。
そんな考えが何度も頭をよぎった。
それでも動かなかった。
汗が頬を伝い、泥の中へ落ちる。
時間の感覚がなくなるほど待ち続けた末、巨大なカマキリは森の奥へ歩いていった。
草木を押し倒す音が、少しずつ遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、俺はようやく息を吐いた。
「はぁ……っ」
身体中から、一気に力が抜けそうになる。
だが、ここで安心してはいけない。
あの魔物が戻ってくる可能性もある。
俺はゆっくりと立ち上がり、巨大なカマキリが進んだ方向とは逆へ歩き出した。
・・・
それからしばらく進んだところで、地面に何かが落ちていることに気づいた。
「これは……」
紫色の髪だった。
数本ではない。
誰かの頭から無理やり引き抜かれたような髪の束が、泥の上へ張りついている。
その少し先には、赤黒い血痕があった。
さらに奥には、引き裂かれた布の切れ端が散らばっている。
見覚えのある、粗末な衣服だった。
広場に集まっていた子供たちの多くが、同じようなものを着ていた。
「もう……すでに……」
言葉が続かなかった。
転送されてから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、何人もの子供が魔物に襲われている。
血痕は一か所だけではなかった。
木の根元。
草むらの中。
泥の上。
ところどころに、誰かが引きずられたような跡が続いている。
「う……っ」
胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてきた。
口元を押さえ、その場で何度かえずく。
だが、吐くわけにはいかない。
食べ物も水も、どれだけ確保できるか分からない。
無駄に身体からエネルギーを出すわけにはいかなかった。
俺は何度も息を整え、どうにか吐き気を飲み込む。
この血が誰のものなのかは分からない。
広場で泣いていた子供かもしれない。
助けを求めていた子供かもしれない。
それでも、今の俺には何もできなかった。
立ち止まり、手を合わせる時間すら危険だった。
「……ごめん」
小さく呟き、その場を離れる。
どこへ行けばいいのか分からない。
人が集まる場所も、安全な場所も知らない。
ただ一つ分かるのは、同じ場所に留まり続ければ危険だということだけだった。
「まずは、水だ」
持ってきた革袋にも水は入っている。
だが、いつまでも持つ量ではない。
生き延びるには、継続して水を得られる場所を見つけなければならない。
水場には魔物が集まる可能性も高い。
それでも、水なしでは長く生きられない。
俺は周囲の音へ注意を払いながら、再び歩き始めた。
薄暗く、湿った魔物の森。
どちらへ進めば正解なのかは分からない。
それでも、立ち止まることだけはできなかった。