四層世界の最下層、魔物の森で生き残る 作:鳩夜(HATOYA)
神輪の祭壇から少し離れた森の中。
「ハナ、あれが生きている《スライムボール》だ」
俺は、地面をずりずりと這う透明な球体を指さした。
「あれが……」
ハナは少し身を乗り出しながら観察する。
「生きたスライムボールって透明なんだね」
「ああ。生きている間はああやって透き通ってる。死ぬと一気に濁るんだ」
普段俺たちが食料として持ち帰っているものは、当然すべて倒した後の個体だ。
だからハナが生きて動く姿を見るのは、これが初めてになる。
今の俺にとって、スライムボールはもう雑魚と言っていい。
だが《エンハンス》を覚えていないハナにとっては、十分すぎるほど危険な魔物だ。
「見た目は柔らかそうだけど、油断するなよ。かなり弾力も硬さもある」
「そんなに?」
「体当たりをまともに受けたら、普通の人間ならまず無事じゃ済まない。大岩も砕くからな」
「分かった!」
そして立ち上がる。
「まずは見ていてくれ」
「うん!」
俺は《キーキューブ》から一本の剣を取り出した。
先月帰還した子供たちが置いていった物の中に、新品に近い剣が一本あった。
正直なところ、今の俺にはもう剣はほとんど必要ない。
素手でも十分な威力が出るうえ、《ブラスト》や《バースト》もあるため、普段は持ち歩いてすらいなかった。
だが、ハナにはまだ必要だ。
だからこそ、剣を使った狩り方を教えておく必要がある。
「よく見ろよ」
俺はスライムボールの正面へ出た。
「こいつにも、ちゃんと前と後ろがある」
「丸いのに?」
「ああ。中を見てみろ」
透明な身体の中心付近。
ぼんやりと発光する丸い物体が浮いている。
「あの光が、身体の外側に近い方が前だ」
ハナはじっと目を凝らした。
スライムボールの内部で、光の位置がゆっくり動く。
「あ!」
「分かったか?」
「今、お兄ちゃんの方に振り向いたよね!」
「正解。いい観察力だ」
「えへへ」
「次は攻撃だ。相手の動きをよく見てろ」
スライムボールが俺へ意識を向けた。
丸い身体がぐっと後方へ伸び、表面が大きく歪む。
まるで全身を巨大なバネにするように力を溜め――次の瞬間、一気にこちらへ弾け飛んできた。
俺は横へ避ける。
スライムボールはそのまま後方の大岩へ激突し、ゴンッと重い音を響かせた。
「……速い」
ハナが思わず呟く。
「だろ?」
「もっと遅いと思ってた」
「見た目だけで判断すると危ないんだ」
スライムボールが再びこちらへ身体を向ける。
「それと、闇雲に剣で斬るのも駄目だ。身体そのものはかなり丈夫だから、剣ばかり傷んでいく」
「じゃあ、どこを狙うの?」
「中の光」
俺は剣先を向ける。
「あれがコアだ。倒すなら、あそこを壊す」
スライムボールが再び身体を伸ばし始める。
「一番狙いやすいのは、体当たりの直前だ。身体が細長く伸びるから、コアまでの距離が一気に浅くなる」
飛び出してくる直前。
俺は半歩踏み込み、剣を真っすぐ突き出した。
剣先が透明な身体を貫き、その奥にある光へ届く。
パキンッ。
内部でコアが砕け、細かな光となって四散した。
それと同時に、透き通っていた身体がみるみる曇っていく。
「あ!」
ハナが駆け寄る。
「知ってる色になった!」
「ああ。いつも食べてるのはこの状態だな」
ハナは倒れたスライムボールの周囲を回り、身体を指で押したり、砕けたコアの位置を覗き込んだりしながら入念に確認していた。
「どうだ? もう一回くらい見れば――」
「大丈夫だよ」
「え?」
「次のスライムボール、ハナにやらせて」
「……もう?」
「うん!」
自信満々だ。
「分かった。ただ、危ないと思ったらすぐ俺の方へ来いよ」
「分かってるよ、お兄ちゃん」
・・・
・・
・
しばらく森を歩くと、すぐに次のスライムボールが見つかった。
「じゃあ、行ってくるね」
ハナは新品の剣を受け取ると、軽くぶんぶんと振りながら前へ出る。
「振り回すなよ。刃物なんだから」
「分かってるって」
本当だろうか。
少し心配になりながら見守る。
スライムボールもハナへ気づいた。
内部のコアがゆっくりと移動し、その正面をハナへ向ける。
そして身体をぐっと後ろへ伸ばした。
攻撃態勢。
「……」
だが。
ハナは動かない。
剣を構えたまま、その場で待っている。
「ハナ?」
まだ動かない。
「危険だぞ、もう少し――」
声をかけようとした瞬間。
スライムボールの身体が弾けた。
一直線にハナへ向かって飛び出す。
「ハナ!」
俺が動こうとした、その直前。
ハナの姿が消えたように見えた。
「……え?」
いや。
消えたわけではない。
前へ出たのだ。
スライムボールが飛び出す瞬間に合わせて、真正面から踏み込んだ。
その加速は、今の俺の目でもぎりぎり追えるほど速い。
構えていた剣が真っすぐ伸び、最短距離でスライムボールの身体へ突き刺さる。
飛び出した勢いと、ハナ自身の踏み込み。
その二つが重なり、剣先は何の抵抗もないように深部まで到達した。
パキッ。
コアが砕ける。
勢いを失ったスライムボールが、ハナの目前で地面へ崩れ落ちた。
「……」
俺はしばらく言葉が出なかった。
「お兄ちゃん?」
「すごいな……!」
ようやく出たのは、それだけだった。
「えへへ!」
ハナは嬉しそうに笑う。
「だってハナ、お父さんに言われたもん!」
「何を?」
「お兄ちゃんたちより、剣術は遥かに上手だって!」
「そ……そうなんだな……!」
少しだけ。
本当に少しだけ悔しい。
俺だって父さんからかなり鍛えられた。
だが今の一撃を見れば、言われても納得するしかなかった。
無駄がない。
スライムボールが最も無防備になる瞬間を一度見ただけで理解し、迷わずそこへ踏み込んだ。
「いや……剣術だけじゃないな」
俺が気になったのは、あの瞬発力だ。
今のハナは《エンハンス》を使っていない。
それなのに。
踏み込んだ瞬間の速度だけなら、《エンハンス》を纏ったマグにも大きく劣らないように見えた。
「生身で、あんな速度が出るのか……?」
俺も父さんのもとで修行していた。
身体も鍛えている。
それでも、魔法なしで今の動きを再現できる気がしない。
魔力とは別に。
何か。
ハナの身体を動かしている、別の力があるような。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「ぼーっとして、どうしたの?」
「ああ、いや……」
考え込んでいたらしい。
「ハナ、三輪にはいつなれるかな?」
「そうだな」
スライムボールの死体を見る。
「一度、祭壇へ行ってみようか」
「もう?」
「経験値がどれくらい入ったか確認してみよう」
「分かった!」
・・・
・・
・
神輪の祭壇へ戻る。
ハナは青い台座の前まで来ると、中央に開いた穴を恐る恐る覗き込んだ。
「……この穴に腕を入れるの?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「なんか怖いなぁ……」
その反応を見て、思わず笑ってしまう。
「なんで笑うの!」
「いや」
フーチェも。
最初は同じ反応だった。
「みんな最初はこうなるんだなと思って」
「お兄ちゃんは平気だったの?」
「今はな。レベルを確認するときは毎回入れてるぞ」
「うーん……」
ハナはしばらく穴を見つめた後、意を決したように右腕を入れた。
その瞬間。
「ええっ!?」
身体が前へ引っ張られる。
「なにこれ! すごく吸われてる!」
「あはは!」
「笑ってないで助けてよ!」
「大丈夫だって。抜こうとせず、そのまま力抜いてろ」
慌てるハナを見ていると、初めてここへ来た頃の自分を思い出す。
「ほら、目の前の石板を見て」
「石板?」
「あそこ」
黒い石板へ、淡い文字が浮かび上がった。
――――――――――
レベル三。
三輪《エンハンス》を習得。
一輪《サーチ》を強化。
次のレベルまで〇・九。
レベル四情報。
四輪《バインド》を習得。
――――――――――
「……え?」
思わず表示を見直した。
「もう三輪?」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「なんて書いてるの?」
「……読めないの?」
ハナは少し気まずそうに目を逸らす。
「まだ字の勉強中なの……」
「そうなのか?」
「うん」
「父さんとの訓練の合間にやらなかったのか?」
「えへへ……」
ハナが、空いている方の手で頭を掻く。
「だって、めんどくさくってぇ……」
「意外だな……」
普段の様子を見る限り、もっと真面目に勉強するタイプだと思っていた。
「なんか腕が冷たい!」
「もう少し待つんだ」
「気持ち悪いよぉ……」
「頑張れ」
「応援が適当!」
そんなやり取りをしながらも。
俺は石板の表示が気になっていた。
「スライムボール一匹で三輪まで行ったのか……?」
二輪を覚えてから、まだほとんど魔物を倒していない。
それなのに。
もうレベル三。
「経験値って、魔物を狩るだけじゃないのかもしれないな……」
剣の修行。
身体能力。
瞑想。
そういったものも、何らかの形で加算されているのだろうか。
「冷たいぃ……」
「もう少しだ、頑張れ!」
「さっきよりちゃんと応援してる……!」
やがて、祭壇の光が収まった。
ハナの腕に三つ目の魔法輪が刻まれる。
「終わったぞ」
「本当!?」
勢いよく腕を引き抜き、三輪を眺める。
「これが《エンハンス》?」
「ああ」
俺はざっと使い方と効果を説明した。
身体能力。
防御力。
暑さや寒さへの耐性。
多少の回復補助。
そして、魔力を消費し続けること。
「できれば常に発動しておけるようになった方がいい。これがあれば、今まで行けなかった場所にも一緒に行ける」
「やってみる!」
ハナが三輪へ触れ、魔法を発動する。
「三輪――《エンハンス》」
身体の表面を、薄い魔力が包み込んだ。
「……すごい」
ハナが自分の腕を見る。
「全身に力がみなぎる感じがする」
「最初はびっくりするよな」
「うん。それに……」
「ん?」
ハナは自分の身体をじっと見つめた。
「《エンハンス》の魔力って、青っぽい感じなんだね」
「……見えるのか?」
「見えるよ」
俺も目を凝らす。
確かに。
右の赤い目で見ると、ハナの身体は薄い青色の膜に包まれている。
だが。
俺がこの色を認識できるようになったのは、《開眼の試練》を終えて右目が赤くなってからだ。
「普通の目で見えてるのか……?」
「普通?」
「いや、何でもない」
「でも」
ハナが不思議そうに自分の身体を見る。
「青いのが出たら、赤いのが隠れて全然見えなくなった」
「……赤?」
「うん」
「何の話だ?」
「赤いのだよ」
ハナは《エンハンス》を解除した。
青い魔力の膜が消える。
「これ」
「……」
俺には何も見えない。
「何もないぞ?」
「あるよ?」
ハナは当たり前のように答えた。
「身体の周りに、赤い蒸気みたいなの」
「赤い蒸気……?」
「うん」
話を聞いてみる。
ハナがそれに気づいたのは、父さんとの瞑想修行中だったらしい。
「最初は目がおかしくなったと思ったんだけど」
瞑想を続けているうち。
目を凝らすと、自分の身体を包むように赤い蒸気が立ち上っていることに気づいた。
それを意識できるようになってから、身体能力が大きく伸び始めたという。
「剣も、その頃からすごく上手になったよ!」
「父さんには聞かなかったのか?」
「聞いたよ。でも、お父さんには見えないって言われた」
「……」
「他の人にも聞いたけど、誰も分からなかった」
なるほど。
それが何なのかは。
ハナ自身にも分かっていない。
「ちなみに」
ハナが俺を見る。
「お兄ちゃんからも出てたよ」
「俺から?」
「うん。《エンハンス》してないときに気づいた」
ハナは少しだけ胸を張った。
「ハナより薄かったけどね!」
「……なんか悔しいな」
「えへへ」
俺も《エンハンス》を解除する。
右目も含めて。
自分の腕や身体をじっと見る。
「……」
見えない。
赤い蒸気なんて、一切ない。
「本当にあるのか?」
「あるよ」
「今も?」
「出てる」
「マジか……」
魔力とは違う。
少なくとも。
俺の赤い右目で見える《エンハンス》の青い魔力とは、完全に別物らしい。
「何なんだろうな……」
少し考え込む。
だが。
すぐにやめた。
考えたところで答えなど出ない。
「まあ、その件はいったん置いとこう」
「いいの?」
「今すぐ困ってるわけでもないしな」
むしろ。
ハナの身体能力を高めているなら、今のところ悪いものには思えない。
「それより」
俺はハナを見る。
「約一年後」
「……うん」
「絶対にサンクを助けるぞ」
「そうだね」
ハナは真剣な表情で頷いた。
「ハナも精一杯協力する」
「ああ」
今日の動きを見ただけでも分かった。
ハナは。
俺が思っていた以上に強い。
「ハナがいてくれれば、救出できる可能性はかなり上がると思う」
「本当?」
「ああ。頼りにしてるよ」
「任せて!」
「一年ある。できる限り準備しよう」
「うん!」
こうして。
俺とハナの二人で。
来年のサンク救出に向けた、本格的な修行生活が始まった。