四層世界の最下層、魔物の森で生き残る 作:鳩夜(HATOYA)
第二層――中層。
貴族たちが暮らす街は、第三層にある一般人の村とは大きく異なっていた。
道はきれいに石で舗装され、建物もそのほとんどが石造り。
雨が降ればぬかるむ土の道もなく、家々の壁が朽ちて穴だらけになることもない。
第三層の人間から見れば、それだけでも十分に豊かな場所だった。
そんな貴族の街の一角に、大きな学園がある。
貴族の子供たちは十歳になるまでここへ通い、読み書きや歴史、魔法の基礎と共に、あることを徹底的に叩き込まれる。
「最下層へ落ちたら、まず何をする?」
教壇に立つ男が問いかける。
名はエルヴァン。
三十代半ばほどの細身の教師で、黄色い髪と瞳を持つ貴族だった。
「紫の髪を探します!」
一人の生徒が元気よく答える。
「その後は?」
「《下位掌握》を使います!」
「何のために?」
「盾にするためです!」
教室の中で、何人もの子供が当たり前のように頷く。
エルヴァンは一瞬だけ言葉を止めた。
だが、すぐに教科書へ視線を落とす。
「……そうだ」
黒板へ文字を書く。
――最下層で一般人を見つけた場合、下位掌握によって安全を確保すること。
「最下層には多くの魔物がいる。貴族である君たちも、十歳になったばかりではまともに戦えない」
だから。
「紫の髪、紫の瞳を持つ一般人を見つけたら、すぐに《下位掌握》を使用すること。魔物が現れた場合には先に戦わせ、自分が逃げる時間を作れ」
誰も疑問を口にしない。
それが昔から教えられてきた、生き残るための方法だった。
「ただし」
エルヴァンは教室を見渡す。
「赤い髪や赤い瞳を持つ者を見つけた場合は、絶対に同じことをしてはいけない」
「神徒様ですね」
「そうだ」
今度は教室の空気が少し張り詰める。
「万が一、最下層で神徒様に出会った場合、決して逆らわないこと。《下位掌握》を受けぬよう、できる限り尽くすんだ」
「はい!」
「神徒様に命令された場合は?」
「従います!」
「一般人を渡せと言われた場合は?」
「渡します!」
「自分の食料を差し出せと言われた場合は?」
「差し出します!」
「……そうだ」
エルヴァンは小さく息を吐いた。
上には逆らわず。
下は利用する。
それがこの世界の常識だった。
「次に魔法についてだ」
話題を変える。
「最下層へ落ちた後、二輪《リターン》を覚えれば帰還できる。だが、貴族である君たちは可能であれば三輪まで習得してから戻った方がいい」
一人の生徒が手を上げる。
「どうしてですか?」
「三輪《エンハンス》を持っているかどうかで、帰還後の人生に大きな差が出るからだ」
貴族は一般人と違い、自然に三輪まで覚えることができる。
《エンハンス》を持つ者は、戦闘だけでなく警備、調査、輸送といった多くの仕事で優遇される。
「二輪を覚えてすぐ帰っても構わない。だが、余裕があるのなら三輪まで粘るべきだ。順調なら二、三か月もあれば到達できるだろう」
もちろん。
その二、三か月を生き残れれば、という話だが。
「さて、今日の授業はここまで」
鐘が鳴る。
「明日は実戦想定の授業を行う。忘れず剣を持ってくるように」
「はい!」
生徒たちの声を背に受けながら、エルヴァンは教室を出た。
・・・
・・
・
「はぁ……」
職員室へ戻るなり、エルヴァンは深いため息をついた。
近くの席にいた女性教師が顔を上げる。
「どうしたんですか、エルヴァン先生」
「いや……」
椅子へ座り、教科書を机へ置く。
「何年やっても、この授業だけは嫌になるなと思ってね」
「洗礼対策ですか?」
「ああ」
エルヴァンは眉間を押さえる。
「十歳の子供に、人を盾にしろと教えるんだぞ。どう考えても異常だろう」
「とはいえ」
女性教師は特に驚いた様子もなく答えた。
「先生も、そうして生き残ってここへ帰ってきたんでしょう?」
「いや」
エルヴァンはすぐに首を振る。
「僕は一人で必死に逃げ回っていたよ。《下位掌握》は使える状態だったけど、とても他人を盾にする気にはなれなくてね」
「へえ……」
女性教師は少し感心したように見る。
「それはすごいですね」
「褒められるようなことでもないよ。何度も死にかけた」
「でも」
女性教師は少しだけ声を落とす。
「そういう考えを人前で言うのは、あまりおすすめしませんよ」
「分かってる」
「帰還した貴族の大半は、一般人を利用して生き残ったと言われています。それを否定するということは、その人たちの生き方そのものを否定することになりますから」
「……そうだな」
エルヴァンも、それ以上は何も言わなかった。
正しいかどうか。
そんなこととは関係なく。
それが何百年も続いてきた常識なのだ。
「私は」
女性教師が静かに言う。
「今でも覚えていますよ」
「何を?」
「私を守ってくれた一般人の子たちの顔と名前です」
「……」
「三人いました」
淡々と話す。
「私が《下位掌握》を使って、魔物の前に立たせました」
エルヴァンは黙って聞いていた。
「全員、帰ってきませんでした」
「……そうか」
「だから私は、彼らに感謝して生きています」
後悔していない。
そう言っているようにも聞こえた。
だが。
その表情を見る限り、何も感じていないわけでもなさそうだった。
「……この話はやめましょう」
「そうだね」
少し重くなった空気を変えるように、女性教師が机の上に置かれた書類へ目を向けた。
「それより」
「ん?」
「ここ数年、第三層の帰還者が異様に増えているらしいですね」
「ああ」
エルヴァンも視線を資料へ向ける。
「この前の実地調査報告書、見ましたよ」
「そうだったのか」
「今年の調査部隊に先生も選ばれたんですよね?」
「ああ。数年ぶりに下へ降りることになった」
第二層の貴族は、数年に一度、第三層へ調査に降りる。
もちろん、すべての村を回るわけではない。
一定以上の人口を持つ村だけを対象に、人口の確認、税の徴収、物資の交換などを行う。
第一層の神徒から降りてくる依頼を処理し、その内容を第三層の一般人へ伝えることも貴族の役目だった。
上から命令され。
下を管理する。
言ってしまえば、中間管理職に近い立場でもある。
「何があったんでしょうね」
女性教師が首を傾げる。
「最下層でデッドマンティスが出現しなくなったとか?」
「さあね」
「それとも、帰還しやすくなる何かが見つかったとか?」
「分からない」
エルヴァンは報告書を開く。
「ただ、不思議なことがある」
「何です?」
「人口が増えているのは、第三層全体じゃない」
机の上へ簡単な地図を広げる。
いくつもの村が記された地図。
その一角を指で囲む。
「この周辺だけだ」
「……確かに」
「別の地域では、帰還者の数は以前とほとんど変わっていない」
「じゃあ、この辺りの最下層だけ何か違うんでしょうか?」
「その可能性はあるね」
さらに資料を一枚めくる。
「しかも、この周辺には以前まで調査対象になっていなかった小さな村がいくつもある」
「人口が少なかったからですね」
「そう。それが最近になって人口が増え、新たに調査対象へ加わった」
エルヴァンが一つの村の名を指す。
「中でも、ここが特にすごい」
「……サンヘイズ村?」
「ああ」
数年前までは、わざわざ調査部隊を派遣するほどの規模ではなかった。
それが。
「ここ数年、洗礼からの帰還者が立て続けに出ている」
「そんなに?」
「一度に四人帰った年まであるそうだ」
「四人!?」
女性教師が思わず声を上げた。
「一人でも相当珍しいですよね?」
「だから調査対象になったんだよ」
エルヴァン自身も。
最下層から一人で帰還した経験がある。
だからこそ分かる。
四人同時。
しかも同じ村。
普通では考えにくい。
「誰かが助けている……とか?」
「最下層で?」
「いえ、自分で言っておいて何ですけど……あり得ませんね」
「普通はね」
二輪を覚えたなら帰る。
それが当然だからだ。
わざわざ帰還せず。
毎年降りてくる子供を待ち。
助け続ける人間など。
「いるわけないか……」
エルヴァンは小さく呟いた。
「一体、何が起きてるんでしょうね」
「それを調べるのが、今回の仕事だよ」
報告書を閉じる。
「近いうちにサンヘイズ村へ行く」
「気をつけてくださいね」
「第三層だよ? 最下層じゃないんだから」
「でも、何があるか分からないじゃないですか」
「まあ、それはそうだけど」
エルヴァンは苦笑する。
女性教師は少し考えてから言った。
「なんだか気になりますね」
「何が?」
「これだけ帰還者が増えてるなら、最下層そのものを調査できれば一番早そうなのに」
「……やめてくれよ」
エルヴァンの顔が引きつった。
「え?」
「僕はもう二度と行きたくない」
十歳の頃。
巨大な森を一人で逃げ回った記憶。
暗闇。
魔物の鳴き声。
目の前で人間が食われる光景。
今でも夢に見ることがある。
「あの地獄は、一度で十分だ」
「そうですか?」
「君はよくもう一回行きたいなんて言えるな」
「興味はありますよ」
「僕は勘弁してほしいね」
そう言ってエルヴァンは椅子にもたれかかった。
その机の上には。
数年で人口を大きく増やした村の名が記されている。
――サンヘイズ村。
その理由を。
まだ第二層の誰も知らなかった。