四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
最下層へ送られてから、初めての朝を迎えた。
もっとも、気持ちのいい朝とはほど遠い。
「……身体が痛い」
目を開けると、目の前には濡れた岩肌があった。
昨夜、少しでも安全に休める場所を探し回り、大きな岩と巨木の根元にできた小さな隙間へ身体を押し込んだ。
大人なら入れないほど狭い場所だ。
十歳の身体でも、寝返りを打つ余裕はほとんどなかった。
入口にはロープと布を張り、その上へ枯れ葉や土をかぶせている。
自分の身体にも泥を塗りたくった。
人の匂いや魔力を、少しでも魔物に気づかれにくくするためだ。
効果があったのかは分からない。
ただ、こうして生きて朝を迎えられたのだから、少なくとも昨夜は見つからずに済んだらしい。
「腹が減った……」
小さく呟くと、胃が返事をするように鳴った。
昨日はほとんど何も食べず、朝から森の中を歩き続けていた。
魔物に怯え、死んだ子供たちの痕跡を目にし、食欲など湧かなかった。
だが、身体は正直だ。
このまま何も食べずに動けば、いずれ足に力が入らなくなる。
俺は隙間からゆっくりと這い出した。
周囲を見渡し、魔物の気配がないことを確認する。
湿った布で手の泥を拭き取り、背負い袋へ手を入れた。
取り出したのは、手のひらほどの大きさをした薄い食べ物だ。
小麦粉を水で練り、平たく伸ばして焼いただけの素焼きせんべい。
母が洗礼のために作ってくれたものだった。
「いただきます」
一枚を口へ運び、前歯でかじる。
パリッ――。
乾いた音が、静かな森に小さく響いた。
「うまい……!」
思わず声が漏れた。
味付けは、わずかな塩だけ。
普段なら物足りなく感じたかもしれない。
だが、丸一日まともに食べていなかった身体には、これ以上ないご馳走だった。
噛むたびに小麦の香ばしさが広がる。
手を拭き切れなかったせいか、土や小さな砂利も口の中へ入った。
それでも構わず、すべて飲み込んだ。
袋へ目を向ける。
もう一枚。
すぐにでも食べたかった。
腹は一枚程度ではまったく満たされていない。
「……駄目だ。我慢しろ」
伸ばしかけた手を止める。
残っているせんべいは二十枚。
ほかに入っているのは、皮の水筒と小さなナイフ、ロープ、数枚の布だけだ。
一日に三枚食べれば、一週間も持たない。
今後、食べ物を見つけられる保証もない。
空腹に任せて食べてしまえば、後で必ず後悔する。
俺は水筒の水をほんの少しだけ飲み、袋の口を固く閉じた。
「まずは、今分かっていることを整理しよう」
岩へ背中を預け、その場へ座り直す。
昨日目にした巨大なカマキリ型の魔物。
姿だけなら、父から何度も聞かされていた《デッドマンティス》によく似ていた。
デッドマンティス。
鋭い鎌と硬い外殻を持つ、最下層では珍しくない魔物だ。
父からは、遭遇した場合の対処方法も教わっている。
正面から戦わず、背後へ回る。
鎌を振り下ろした直後を狙い、脚の関節か、首の付け根へ剣を突き立てる。
外殻そのものは硬いが、関節部分は比較的柔らかいらしい。
「でも、昨日のあれは……」
普通のデッドマンティスとは思えなかった。
父から聞いていた以上に、外殻が分厚い。
まるで生き物の身体へ、本物の鉄板を貼りつけたような見た目だった。
剣で斬れる姿ではない。
似ているが、別種なのかもしれない。
仮にそうなら、父から聞いた倒し方が通用するとは限らない。
「見つからずに済んで、本当によかったな……」
今さらながら、背中に冷たい汗が流れた。
もし、あのとき剣を抜いていたら。
少しでも音を立てていたら。
俺も昨日見つけた血痕の一つになっていただろう。
「そういえば、スライムボールには会えなかったな」
父から聞いた魔物の中には、子供でも倒せるものもいた。
その代表が《スライムボール》だ。
名前の通り、丸いスライムのような姿をした魔物で、動きも遅く、攻撃性も低い。
最下層に送られた子供が、最初に狩ることのできる数少ない魔物だという。
しかも、肉は柔らかく、かなり美味しいらしい。
「ぜひ食べてみたいものだ」
食事をした直後なのに、そんなことを考えてしまう。
今の俺にとっては、魔物ですら食料だ。
いや。
食料として見なければ、生きてはいけない。
俺は立ち上がり、入口を隠すために使った布とロープを回収した。
使えるものを、その場へ置いていく余裕はない。
袋を背負い、もう一度周囲へ目を向ける。
「今日も歩くか」
目的地はない。
それでも、昨日よりはやるべきことが分かっている。
まずは水場を見つける。
可能なら、近くに身を隠せる拠点を作る。
そして食料を探す。
俺は薄暗い森の中を、再び歩き始めた。
・・・
・・
・
歩きながら、両手の甲へ目を向ける。
スチール缶のリサイクルマークによく似た、奇妙な白い模様。
昨日から形は変わっていない。
触れても、何も起こらなかった。
「魔法は、いつ使えるようになるんだろうな……」
最下層で生き延びているうちに、腕へ魔法輪が刻まれる。
父からはそう聞いている。
最初に覚える魔法は《サーチ》。
一時的に周囲の人間や魔物の位置を、レーダーのように確認できる魔法だ。
探索範囲には個人差があるらしいが、少なくとも目の届かない場所にいる魔物を察知できる。
今の俺には、喉から手が出るほど欲しい能力だった。
昨日のような巨大な魔物にも、先に気づけるかもしれない。
水場や人間を探す助けにもなる。
そして、二番目に習得する魔法が《リターン》。
転送される前に立っていた場所へ帰還する魔法だ。
二つ目の魔法輪を刻み、《リターン》を発動する。
それが、洗礼の試練を終える条件だった。
「まずは、サーチか」
どうすれば習得できるのかは教わっていない。
最下層で生き抜けば、いずれ自然に魔法輪が現れる。
大人たちは、そう言うだけだった。
具体的な日数も、必要な条件も分からない。
「早めに覚えられれば、かなり状況が変わるんだけどな」
焦っても仕方がない。
今できることを続けるしかなかった。
・・・
どれほど歩いただろうか。
森の奥から、かすかな音が聞こえてきた。
「……水?」
立ち止まり、耳を澄ます。
葉が擦れる音とは違う。
一定の調子で、何かが流れ続けている。
水の流れる音だ。
今すぐ走り出したい衝動に駆られる。
水筒の水は、すでに残り少ない。
だが、水場には魔物も集まる。
焦って飛び出せば、待ち伏せされている可能性もあった。
「落ち着け」
呼吸を整え、瞑想で魔力を抑える。
足音をできるだけ立てず、音のする方向へゆっくりと進んだ。
草むらの前で一度伏せる。
周囲に動く影がないか確認してから、葉の隙間をのぞき込んだ。
「あった……」
木々の間を、澄んだ水が流れていた。
幅は五メートルほど。
流れはそれほど激しくない。
川底の石が見えるほど、水は透き通っている。
近くに魔物の姿がないことを確認し、俺は川辺へ駆け寄った。
膝をつき、両手で水をすくう。
「冷たい……!」
口へ運ぶと、乾いていた喉を冷たい水が流れていった。
うまい。
昨日飲んだ革袋のぬるい水とは比べ物にならない。
何度も両手ですくい、夢中で飲んだ。
「かなり綺麗な水だな」
上流に死骸などがなければ、そのまま飲んでも問題はなさそうだ。
本来なら煮沸した方が安全なのだろう。
だが、火を起こせば煙や匂いで魔物を呼び寄せる可能性がある。
今は、この透明さを信じるしかない。
水筒を満たし、顔の泥も少しだけ洗い流す。
「川の近くに拠点を作りたいな」
水を確保しやすく、魔物から身を隠せる場所。
できれば、高い岩場か、入口の狭い洞窟がいい。
川の流れに沿って進めば、人と出会える可能性もある。
「どこか、いい場所は……」
周囲を見渡していた、そのときだった。
対岸の少し離れた場所に、人影が見えた。
「人だ!」
紫色の髪。
それも、一人ではない。
四人の少年が、木々の間に立っている。
全員、俺と同じ十歳くらいだ。
「無事だったのか!」
考えるより先に、声をかけていた。
少年たちもこちらへ顔を向ける。
俺は川の浅い場所を選び、急いで対岸へ渡った。
「四人で行動してたのか? よかった。俺は昨日から誰にも――」
言い終わる前に、一人の少年が俺の胸を強く押した。
「え?」
足元が滑り、背中から地面へ倒れる。
すぐに別の少年が両腕を押さえつけ、もう一人が俺の腰から剣を抜き取った。
「な、何するんだよ!」
抵抗しようと身体を捻る。
だが、二人がかりで押さえ込まれ、思うように動けない。
少年たちの顔を見る。
誰もが怯えた表情をしていた。
俺を憎んでいるようには見えない。
むしろ、今にも泣き出しそうだった。
「お前たち、何で……!」
「よくやった、奴隷ども」
背後から、聞き慣れない声がした。
少年たちの身体が、一斉に震える。
森の奥から、もう一人の少年がゆっくりと姿を現した。
俺たちと同じ十歳ほど。
だが、その姿は明らかに違っていた。
汚れの少ない上等な服。
腰には装飾の施された剣。
髪は鮮やかな黄色。
そして、こちらを見下ろす瞳も黄色く輝いている。
「貴族……」
父の言葉が頭をよぎった。
紫の髪と瞳を持たない子供には近づくな。
見かけたら逃げろ。
だが、もう遅い。
黄色い瞳の少年は満足そうに笑いながら、俺の前へ歩いてきた。
「これで、一人補充できたね」
「補充……?」
「本当は十人いたんだけどさ」
貴族の少年は、俺を押さえている紫髪の少年の頬を、手の甲で軽く叩いた。
ペシ、ペシと乾いた音が鳴る。
叩かれた少年は、目を伏せたまま動かなかった。
「使えない奴ばかりでね。六人も死んじゃった」
「死んだ……?」
「魔物から逃げるときに囮にしたり、食べられる物か確かめさせたりしたら、あっという間だったよ」
まるで、道具を壊したとでも言うような口調だった。
俺の中で、恐怖よりも怒りが上回る。
「おい!」
押さえつけられたまま、紫髪の少年たちへ声を張った。
「なんで、こんな奴に従ってるんだ! 四人もいるなら、協力してこいつを――」
「無駄だよ」
貴族の少年が、俺の言葉を遮った。
「意志なんて関係ない」
楽しそうに口元を歪める。
「僕たち貴族は、お前ら下等種を言いなりにできるからね」
「言いなり……?」
「知らないの? 一般人は何も教えてもらえないんだね」
少年は俺のすぐそばへしゃがみ込んだ。
黄色い瞳が、間近から俺をのぞき込む。
「じゃあ、教えてあげるよ」
背筋に、冷たいものが走った。
逃げなければならない。
視線を外せ。
今すぐ目を閉じろ。
頭ではそう考えているのに、身体が動かなかった。
黄色い瞳に吸い込まれるように、目を逸らせない。
貴族の少年が、静かに告げた。
「――《下位掌握》」
その瞬間だった。
「……っ!」
身体から、すべての力が抜けた。
いや。
力が抜けたわけではない。
指先まで感覚はある。
呼吸もできる。
目も見えている。
意識も、はっきりしていた。
それなのに、身体だけが自分のものではなくなった。
「な……にを……」
声を出そうとした。
だが、口が動かない。
舌も喉も、俺の命令を聞かなかった。
まるで全身が金縛りにあったような感覚。
違う。
金縛りなら、身体は動かない。
今は、身体を動かす権利そのものを、別の誰かに奪われている。
「立て」
貴族の少年が命じた。
押さえつけていた少年たちが手を離す。
俺は立つつもりなどなかった。
ここから逃げなければならない。
剣を取り戻し、この少年から距離を取らなければならない。
そう考えているのに――。
俺の身体は、何の抵抗もなく立ち上がった。
「……!」
足が動く。
腕も動く。
だが、俺が動かしているのではない。
貴族の少年は満足そうに頷いた。
「さて、行くぞ。肉壁ども」
四人の少年が歩き出す。
俺の身体も、その列へ加わった。
止まれ。
動くな。
逃げろ。
頭の中で何度命令しても、足は勝手に前へ進んでいく。
どうする。
どうすれば、この魔法から逃れられる。
必死に考える。
だが、その思考とは無関係に、俺の身体は貴族の後ろを歩き続けた。