四層世界の最下層、魔物の森で生き残る 作:鳩夜(HATOYA)
修行を始めてから五日が経った。
俺はいつものように道場の中央に立ち、目を閉じて全身へ意識を集中させていた。
最初の瞑想では、身体の外から吹きつける風を感じ取った。
今はその逆だ。
身体の中にある力を外へ押し出し、皮膚の表面へ留める。
最初は放出したと思った瞬間に散ってしまったが、何度も繰り返すうちに、少しずつ自分の周囲へまとわせられる時間が伸びていった。
「そのままじゃ。今の感覚を崩すな」
目の前から岩剛斎の声が聞こえる。
俺は返事をせず、呼吸だけを整えた。
身体の内側から何かが湧き上がり、それが全身を覆っている。
魔力を扱う時とは全く違う。
《エンハンス》なら、自分の中にある魔力を意識して流れを調整する感覚がある。
だが闘気は、もっと身体そのものに近かった。
筋肉。
呼吸。
心臓の鼓動。
自分が今ここに立っているという感覚そのものを、外へ押し出しているように思える。
「よし」
岩剛斎の声が少し近づいた。
「ロフル、目を開けてみよ」
「ああ」
集中を切らさないよう、ゆっくりと瞼を上げる。
最初に見えたのは、いつもの道場だった。
木造の柱。
板張りの床。
そして目の前に立つ岩剛斎。
そこまでは何も変わらない。
だが、自分の腕へ視線を落とした瞬間、俺は息を呑んだ。
「……見える」
腕の周囲に、薄い赤色の何かが揺らめいている。
炎とは違う。
煙のようにも見えるが、上へ立ち昇るだけではなく、身体の表面を絶えず流れ続けている。
肩にも。
胸にも。
足にも。
全身を覆うように、赤い蒸気がまとわりついていた。
「これが……闘気か」
思わず自分の手を握る。
ハナが言っていたものと同じだ。
あいつには、ずっとこれが見えていたのか。
「完璧じゃ」
岩剛斎が満足そうに頷いた。
「闘気を放出するだけではなく、きちんと身体の周囲へ留めておる。《闘気装》をものにしたと考えてよいじゃろう」
「本当に五日でできたな……」
「わしの方が驚いておるわ」
そう言われて、俺は岩剛斎を見る。
そして。
「……すごいな」
自分の闘気が見えるようになったことで、今まで見えなかったものまで分かるようになっていた。
岩剛斎の身体を包んでいる赤い力。
俺とは比べものにならない。
俺の闘気装は、身体の表面を薄い蒸気が包んでいる程度だ。
対して岩剛斎は、全身から濃い赤色の力が溢れ、身体からかなり離れた場所まで揺らめいている。
範囲も。
濃さも。
桁が違う。
「岩剛斎の闘気装、俺より遥かにすごいじゃないか」
「じゃろ?」
岩剛斎は少し胸を張った。
「こう見えて、何十年も鍛えておるからの」
「ちょっと自慢げだな」
「自慢できるものは自慢してよかろう」
相変わらず話しやすい人だ。
ただ、その表情はすぐに真面目なものへ戻った。
「しかし、数年がかりになる修行を、たった数日でここまで進めるとはのう。おぬしは本当に末恐ろしいぞ」
「でも筋トレとか瞑想自体は昔からやってたからな。それも含めたら、俺だって何年も修行してたようなものじゃないか?」
「謙遜せんでもよい」
「いや、本当にそう思うんだけど」
「もちろん、それまでの積み重ねが大きいのは間違いない。じゃが同じだけ鍛えれば誰でも五日で闘気装を覚えられるわけではないんじゃ」
「そういうものか」
「そういうものじゃ」
岩剛斎は俺の身体を包む闘気を確かめるように眺めたあと、満足そうに頷いた。
「ともかく、これで準備は整った」
「準備?」
「うむ」
岩剛斎は右拳を握る。
その拳へ赤い闘気が集中していくのが、今の俺にははっきりと見えた。
「《闘爆衝》を習得するための準備じゃ」
「……!」
ついに来た。
巨大な金属の魔物を、一撃で粉々にしたあの技。
「いよいよだな……!」
「ここから先は、今までほど簡単にはいかんぞ」
「望むところだ」
「よし。ならば早速始めるぞ!」
「ああ!」
こうして俺は、闘気修行の最後の段階となる《闘爆衝》の習得へ進むことになった。
・・・
・・
・
・
・
同じ頃。
第一層では、すでに深夜を迎えていた。
上層の街並みから離れた場所に、一つの巨大な魔法陣がある。
普段なら近づく者も少ないその場所で、セレナスは一人しゃがみ込み、地面へ描かれた複雑な紋様を調べていた。
「十歳と認識する原理を解明しなければ、何も始まらない……」
小さく呟きながら、魔法陣の縁へ指を這わせる。
神徒の子供。
それもユニークリングを持って生まれた者を、最下層へ落とすための転送魔法陣。
本来、この装置が使えるのは十歳の時だけだ。
セレナスは十八歳。
普通に立っていたところで、転送されることはない。
だが、どこかに年齢を判別する仕組みがあるのなら、それを誤認させる方法もあるかもしれない。
「ここでもない……」
魔法陣の一部へ触れ、違いを探す。
しかし何度調べても、それらしい反応はない。
その時だった。
「おい」
「……!」
後方から突然声を掛けられ、セレナスの肩が僅かに跳ねた。
「そこで何をしている」
振り返る。
そこに立っていた男を見た瞬間、セレナスは内心で舌打ちした。
ワイズ・A・モーンブレイズ。
最も見つかりたくない相手の一人だった。
「申し訳ありません」
セレナスはすぐに立ち上がり、深々と頭を下げる。
「この辺りで落とし物をしてしまいまして、探しておりました」
神徒にも、明確な階級が存在する。
それを示すのが名前の中央に入る文字だった。
S。
A。
B。
C。
セレナスは《B》。
対するワイズは《A》。
第一層で生きる者にとって、この一文字の差は決して小さくない。
より上位の家に生まれた神徒へ逆らうことは難しく、場合によっては命令に従うことすら当然とされている。
第三層の一般人や第二層の貴族を見下ろしている神徒たち自身もまた、完全に平等な存在ではなかった。
「そうか」
ワイズはセレナスを疑うように見つめる。
「何を落とした?」
「これです」
セレナスは素早くポケットへ手を入れ、一本の黒いペンを取り出した。
「ようやく見つけることができました。本当に良かったです」
「……お前、それを落としたのか?」
ワイズの表情が変わる。
黒いペン。
それはフロストハート家が《極光神輪の神殿》で石板の記述を残すため、代々受け継いできたものだった。
筆記具として使えるだけなら、代用品などいくらでもある。
それでも、長い歴史の中で先祖から受け継がれてきたという意味では、フロストハート家にとって非常に大切な品だった。
当然、同じ神徒であるワイズもそのことを知っている。
「そんな大事な物を持ち歩いて落とすなど、考えられんな」
「お恥ずかしい限りです……申し訳ありません」
「今度からはもっと大切に扱え」
「はい」
セレナスは再び頭を下げる。
「では、私はこれで失礼します」
これ以上ここにいるのは危険だ。
そう判断し、自然な動作でその場から離れようとした。
「待て」
足が止まる。
「……はい?」
ワイズの声から、先ほどまでとは違う鋭さを感じた。
「お前」
転送魔法陣を見る。
「これに触れたな?」
「……」
一瞬だけ。
返答が遅れそうになる。
「いえ。触れたつもりはありません」
その瞬間。
ワイズが大股で距離を詰めてきた。
胸元を掴まれる。
「ふざけるな」
「……っ」
「我々を誰だと思っている」
ワイズの目が鋭く細められる。
「この転送魔法陣を代々管理しているモーンブレイズ家だぞ。普段と僅かに状態が違えば、それくらい気づく」
「申し訳ありません!」
セレナスはすぐに謝罪した。
「ペンを拾った際、手が触れてしまったのかもしれません。私自身、触れたという認識がありませんでした」
「本当だな?」
「間違いありません」
迷わず答える。
ここで少しでも言葉に詰まれば、さらに疑われる。
ワイズはしばらくセレナスの顔を睨んでいたが、やがて胸元から手を離した。
「……まあいい」
「ありがとうございます」
「だが、ここへはもう近づくな」
「はい」
「次に妙なことをしているところを見つけたら、今回のようには済まさんぞ」
「承知しました」
セレナスは静かに答え、もう一度深く頭を下げた。
そのまま振り返ることなく、転送魔法陣から離れていった。
・・・
・・
・
自室へ戻ったセレナスは扉を閉め、ようやく大きく息を吐いた。
「危なかった……」
あと少しでも調べ続けていたら、何をしているのか完全に露見していたかもしれない。
机の前へ座り、頭の中で情報を整理する。
「モーンブレイズ家は転送魔法陣の管理を任されている……」
それ自体は昔から知っていた。
だからこそ、ワイズは微かな変化にも気づいたのだろう。
「しかし……」
セレナスは首を横に振る。
「管理しているだけだ」
おそらく。
モーンブレイズ家も、あの転送魔法陣がどのような原理で動いているのかまでは知らない。
決められた方法で管理する。
異常があれば報告する。
そうした役割を代々引き継いでいるにすぎないはずだ。
そう考えれば、ワイズへ近づいたところで欲しい答えが手に入る可能性は低い。
「原理まで知っているとすれば……Sか」
呟いたものの、すぐに難しい表情になる。
B階級である自分が、Sの神徒へ直接話しかけるなど現実的ではない。
用件以前の問題だ。
まともに取り合ってもらえる可能性すら低い。
「僕がSの者と話すには、まずモーンブレイズに取り入り、Aを経由して接触するしかない……」
だが。
先ほどワイズから警戒されたばかりだ。
そこから信用を得るとなれば、簡単な話ではない。
それでも。
セレナスに諦めるつもりはなかった。
第三層では人口調整が始まり、今この瞬間にも何かが起きている。
上から記録しているだけでは何も変わらない。
下層に王がいないことが問題だというのなら、自分がそこへ行けばいい。
その考えは、今も変わっていなかった。
「必ず見つける」
セレナスは机の上に置いた黒いペンを握る。
「僕が最下層へ行く方法を」
そのためなら、第一層の階級すら利用するつもりだった。