四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
最下層へ送られてから、二度目の朝を迎えた。
目を覚ますと、近くを流れる川のせせらぎが聞こえてくる。
「……朝か」
身体を動かすと、背中と肩に鈍い痛みが走った。
昨夜は、川から少し離れた場所にある大岩の隙間で眠った。
岩と岩の間にできた、子供一人がようやく横になれる程度の空間だ。
狭く、寝返りすらまともに打てない。
それでも、最初の夜に使った巨木と岩の隙間よりは遥かに良かった。
入口は一つしかなく、奥には魔物が入り込めない。
川が近いため、水にも困らない。
周囲へ泥を塗った布を張り、枯れ葉をかぶせれば、外から見つかる可能性も低くなる。
俺は狭い隙間から這い出すと、身体を大きく伸ばした。
「痛たた……」
昨日は、あまりにも多くのことが起こった。
貴族に捕まり、《下位掌握》で身体を奪われた。
何人もの子供が、デッドマンティスの囮として殺された。
俺自身も死にかけ、初めて魔物を倒した。
そして、赤い髪の神徒――マグと出会った。
「そういえば、あの貴族……」
昨日、マグが去った後。
俺が周囲を確認すると、胸に大穴を開けて倒れていた貴族の姿は消えていた。
地面には、血の跡と、何かを引きずったような痕跡だけが残っていた。
おそらく、血の匂いを嗅ぎつけた別のデッドマンティスに持っていかれたのだろう。
同情する気にはなれなかった。
あいつは、自分が生き延びるために何人もの子供を死なせた。
最後には俺まで自害させようとした。
当然の報いだ。
貴族が使っていた剣も、その場に残されていた。
見た目だけなら、父が作った剣よりも豪華だった。
柄には装飾が施され、鞘にも細かな模様が刻まれていた。
だが、昨日の戦闘で刃はひどく欠けていた。
デッドマンティスの外殻へ何度か打ちつけただけで、使い物にならないほど傷んでいたのだ。
「見た目だけは立派だったんだけどな」
強度が足りない。
あれでは、魔物と戦い続けることはできない。
幸い、俺の剣は、貴族から逃げる際に殺された少年の近くへ落ちていた。
血の跡をたどるのはつらかったが、父が作ってくれた剣を回収できた。
貴族の剣は鞘だけを取り外し、刃は森の奥へ捨てた。
見た目の豪華さより、父が鍛えた剣の方が遥かに信頼できる。
「さて……」
俺は右腕の袖をまくった。
手の甲には、三本の矢印が循環するような奇妙な白い模様。
そして手首の少し上には、昨日新たに刻まれた一つの魔法輪がある。
「試してみるか」
父から教わった詠唱方法を思い出す。
まず、手の甲にある白い模様へ触れる。
指先が触れた瞬間、模様が皮膚から半分ほど浮かび上がった。
続いて、一つ目の魔法輪へ触れる。
腕の輪から白い光が流れ、手の甲の模様へ送り込まれていく。
三本の矢印が細かく分かれ、複雑な魔法陣を形成した。
俺は、もう一度その中心へ触れる。
「一輪――《サーチ》」
手の甲の魔法陣が光った。
視界が変わったわけではない。
だが、手の甲に浮かんだ魔法陣の内側へ、いくつもの印が表示された。
「これが……サーチ」
魔法陣は、前世で見たレーダー画面によく似ていた。
中心にある白い丸が、俺自身。
その周囲に、三角形の印がいくつか表示されている。
丸は人間。
三角形は魔物を表しているらしい。
印の大きさは、その相手の身体の大きさに対応している。
今のところ、自分以外の丸はない。
「範囲は……八百メートルくらいか」
サーチの有効範囲には個人差がある。
狭い者は半径三百メートル程度。
広ければ、一キロメートル近くまで確認できると父から聞いていた。
俺のサーチは、半径八百メートルほどを捉えているようだった。
しばらく表示を確認していると、魔法陣の光が消えた。
腕に刻まれた一輪も、白い色を失い、灰色の模様へ変わる。
「これがインターバルか」
魔法輪は、一度使用すると一定時間使えなくなる。
使用できない間は輪が光を失い、再び発動可能になると白く輝くらしい。
見た目で使用可能か判断できるため、分かりやすい。
今は魔法陣も消え、手の甲の模様も元の形へ戻っていた。
「便利すぎるな……」
周囲の安全を、一瞬で確認できる。
近くにデッドマンティスがいれば、姿を見る前に分かる。
川へ水を汲みに行くときも。
眠る場所を決めるときも。
森を移動するときも。
これがあるだけで、最下層へ来た初日とは危険度が天地ほど違った。
昨日まで、草むらの向こうに何がいるか分からなかった。
今は少なくとも、サーチを使った瞬間の周囲の状況は把握できる。
魔法輪を得ることが、生存へ直結する理由がよく分かった。
「それにしても……」
俺は、昨日の貴族を思い出した。
「《下位掌握》か」
自分より下位の階級を、意思とは関係なく動かす魔法。
俺たち一般人には使えず、貴族か神徒だけが使えるものなのだろう。
一度かけられれば、身体を動かすことも、逃げることもできない。
命令されれば、自分から魔物へ向かっていく。
自害しろという命令にすら、抗うことができなかった。
あまりにも厄介な魔法だ。
そして、マグが使っていた四輪の魔法。
「《バインド》……」
円盤状の魔力を放ち、命中した相手を無数の鎖で拘束する魔法。
それだけではない。
マグの腕には、五つの魔法輪が刻まれていた。
二輪の《リターン》より先にも、魔法が存在する。
そんな話は、村では一度も聞いたことがなかった。
父も母も。
洗礼から生還した村の大人たちも。
誰一人として、三輪以上の魔法について話していなかった。
本当に知らないのか。
それとも、知っていて教えられない理由があるのか。
「俺だって、マグに会わなかったら……」
二輪の《リターン》を習得した瞬間、何も疑わず村へ帰っていただろう。
その先に魔法があるという発想すら持たなかったはずだ。
俺は川辺に置かれた、布に包まれたものへ目を向けた。
昨日倒したデッドマンティスの肉。
マグがすべて持っていったと思っていたが、俺が仕留めた一体分の一部は残してくれていた。
「……食べるか」
いつまでも、母のせんべいだけに頼るわけにはいかない。
俺は小さく切り分けた肉を木の枝へ刺し、慎重に火を起こした。
煙が目立たないよう、炎はできる限り小さくする。
肉を火の上へかざした。
しばらくすると、表面が黒く焼け始める。
しかし、肉の焼ける香ばしい匂いはしなかった。
「うわ……」
鼻を刺すような、酸っぱい臭いが周囲へ広がった。
焼けば少しは美味しそうになるかと思ったが、まったく食欲をそそられない。
むしろ、生のときより臭いが強くなった気さえする。
「昆虫食みたいなものか……?」
前世でも、昆虫を食べる文化があった。
見た目や匂いはともかく、栄養は豊富だったはずだ。
この肉も、魔物の巨体を動かしていたものだ。
食べられる部分なら、栄養はあるだろう。
俺は焼けた肉を枝から外した。
「すぅ……」
大きく息を吸う。
そして、臭いを感じないよう息を止めたまま、口へ運んだ。
パリッ。
「ん……!」
最初に、表面の硬い皮が割れた。
その内側には、硬めのグミのような弾力のある肉が詰まっている。
歯を立てると、ぎゅむぎゅむとした感触が返ってきた。
表皮は強烈に酸っぱい。
鼻へ抜ける臭いも酷い。
だが、中身は思っていたほど悪くなかった。
「もしかして……皮を剥いて食うのか?」
ナイフを使い、焼けた表皮だけを慎重に剥がす。
透明に近い白色の中身を切り取り、もう一度口へ入れた。
「……これならいける」
味付けをしていないため、ほとんど味はない。
ゼラチンの塊を延々と噛んでいるような感覚だ。
美味しいとは言えない。
それでも、酸っぱい表皮さえ取り除けば、十分に食べられる。
俺は火の周囲へ注意を払いながら、デッドマンティスの肉をひとしきり頬張った。
久しぶりに腹へ食べ物が溜まっていく。
母のせんべいを減らさずに済むのもありがたかった。
「マグは、これを食べて生きてきたのか……?」
あの少女は、すでに《リターン》を習得している。
それでも帰らず、ずっと最下層に残っていた。
五輪へ到達するほど魔物を倒しているのなら、数日や十数日ではないだろう。
「一体、どれくらいここにいるんだ……」
そして、なぜ帰らないのか。
マグは「マグたちは帰る気がない」と言っていた。
あの少女以外にも、最下層へ残っている神徒がいる。
彼女たちは、ここで何をしているのだろう。
分からないことばかりだった。
だが、俺自身が何をすべきかは、少しずつ固まってきた。
俺は右腕の一輪を見つめる。
「俺も、二輪では帰らない」
言葉に出すことで、自分の意思を確かめる。
ここで生き残る。
魔物を倒し、魔法輪を増やす。
そして――。
自然と、右手に力が入った。
「いずれここへ落ちてくるハナとサンクを、《リターン》を覚えるまで守る」
ハナは今、七歳。
三年後には十歳になり、洗礼の試練へ送られる。
サンクは六歳。
その翌年には、同じように最下層へ落ちてくる。
二人がどの場所へ送られるのかは分からない。
同じ場所へ現れる保証もない。
それでも、何もせず村で待つよりはいい。
ここで生き残り、最下層を知り、誰よりも強くなる。
二人が落ちてきたら、俺が見つけ出す。
俺が守る。
「少なくとも、それまでは絶対に生き残る」
《リターン》を覚えても帰らない。
魔法輪を増やし、最下層で戦える力を手に入れる。
これが、俺の異世界での最初の――はっきりとした決意だった。
・・・
・・
・
・
それから、三か月の月日が流れた。
「一輪――《サーチ》」
右手の甲に浮かぶ魔法陣へ、周囲の状況が表示される。
三角形の印が三つ。
すべて、ほぼ同じ大きさだ。
位置は、俺が潜んでいる木から二百メートルほど先。
「デッドマンティスが三体か」
俺は手の甲の表示を確認し、足元に置いた袋へ手を入れた。
袋は、デッドマンティスの表皮を縫い合わせて作ったものだ。
中から、丸い魔物の死骸を取り出す。
《スライムボール》。
最下層で、十歳の子供でも比較的安全に狩れる魔物だ。
透明な膜に包まれた丸い身体をしており、肉は柔らかく、味も悪くない。
本当なら貴重な食料だ。
だが、今回は餌として使う。
俺はスライムボールの死骸を地面へ置き、すぐ近くの巨木へ登った。
デッドマンティスの表皮で作った袋には、独特の酸っぱい臭いが染みついている。
食料を入れておけば、中身の匂いが外へ漏れるのを抑えてくれる。
多少、食材に嫌な臭いが移るのが欠点だ。
それでも、ほかの魔物に食料を奪われる危険が大幅に減った。
俺は太い枝の上で身体を伏せ、瞑想で魔力を抑える。
やがて、草木が擦れる音が聞こえてきた。
「チチチ……」
一体目。
続いて、もう二体。
三体のデッドマンティスが、地面に置かれたスライムボールへ近づいていく。
外殻はいずれも濃い緑色。
機械のように硬い個体ではない。
柔らかい種類だ。
一体が鎌でスライムボールを押さえ、腹部へ口を突き立てた。
残りの二体も、奪い合うように群がる。
「今だ」
俺は枝を蹴り、木の上から飛び出した。
剣先を下へ向け、落下する勢いと全体重を乗せる。
ザンッ――!
刃が一体目の首の付け根へ突き刺さった。
着地と同時に柄をひねり、頭部を両断する。
「チギッ!」
隣の一体が鎌を振り上げた。
瞬時に姿勢を低くする。
頭上を、巨大な刃が通り過ぎた。
そのまま地面を蹴り、魔物の懐へ潜り込む。
ザシュッ――!
剣先を喉元へ突き刺した。
外殻の隙間を切り上げ、そのまま頭部を跳ね飛ばす。
「……ハッ!」
残る一体は、仲間が倒されたことにも気づかず、スライムボールへ夢中になっていた。
両手で剣を構える。
首の付け根へ狙いを定め、一気に振り下ろした。
ザンッ――!
頭部が地面へ落ちる。
「ヂ……ヂヂ……」
三体のデッドマンティスは、脚を痙攣させながら息絶えていった。
「ふぅ……」
剣についた青紫色の体液を振り払う。
三か月前、一体を倒すだけでも命がけだった。
今では、条件を整えれば三体を相手にしても負傷せずに勝てる。
待ち伏せ。
誘導。
相手の外殻と関節の把握。
魔物を正面から倒す力だけではない。
生き残るための戦い方を、この三か月で身につけてきた。
それでも俺は、右腕を見ると小さく息を吐いた。
腕に刻まれている魔法輪は、二つ。
一輪《サーチ》。
二輪《リターン》。
「三輪は、まだか……」
最下層に残ると決意してから、わずか三日後。
俺は二輪の《リターン》を習得した。
あまりにも早かった。
この調子なら、マグと同じ五輪にもすぐ到達できる。
あのときは、そう思っていた。
しかし、二輪を得てから三か月。
何体の魔物を倒しても、三つ目の魔法輪は現れなかった。
俺はこの川を見つけて以来、ずっと周囲を拠点として生活している。
安全を確保していない場所で眠るのは危険だ。
せっかく作った隠れ場所や、食料の保存場所を捨てて移動することにも大きな不安がある。
この周辺で見かける魔物は、ほとんどがスライムボールと柔らかいデッドマンティスだけだった。
あの鉄板のような外殻を持つ個体は、最初の日以来、一度しか遭遇していない。
「もう、あいつと戦うのはこりごりだな……」
一度だけ、硬い個体へ待ち伏せを仕掛けた。
スライムボールの肉に夢中になっている隙を狙い、木の上から首を切り落とそうとした。
だが――。
キンッ!
剣が当たった瞬間、金属同士をぶつけたような音が響いた。
刃は外殻に弾かれ、傷一つつけられなかった。
剣が欠けなかったのは、本当に幸運だった。
あのとき、奴がスライムボールの肉に夢中でなければ。
反撃される前に逃げることはできなかっただろう。
「同じ魔物ばかり倒しても、駄目なのかもしれない」
マグは、魔物をたくさん倒しただけだと言っていた。
しかし、単純な数だけが条件なら、すでに三輪へ到達していてもおかしくない。
もっと強い魔物を倒す必要があるのか。
別の種類の魔物と戦わなければならないのか。
あるいは、魔法輪を増やすための別の条件が存在するのか。
「ほかの魔物を探そう」
俺はデッドマンティスの死骸を見下ろし、そう決めた。
だが、川から大きく離れるのは危険だ。
《サーチ》は人間や魔物の位置を表示するだけで、周囲の地形までは教えてくれない。
目印の少ない森へ入り込めば、帰り道が分からなくなる可能性が高い。
「川に沿って進むしかないな」
川から離れすぎなければ、迷っても流れを見つけることで拠点へ戻れる。
水の確保にも困らない。
俺は三体のデッドマンティスから食べられる部位を切り分け、表皮の袋へ詰めていく。
ここから先へ進めば、今まで知らなかった魔物と出会うかもしれない。
そして、三つ目の魔法輪へ近づけるかもしれない。
「待ってろよ、ハナ。サンク」
俺は川の流れる先へ目を向けた。
「兄ちゃんは、もっと強くなるからな」