四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
川に沿って上流へ進むにつれ、地面の傾斜が少しずつ強くなっていった。
水の流れも、これまでより明らかに速い。
岩へぶつかった水が白い飛沫を上げ、絶え間なく激しい音を響かせている。
「空気がうまいな……」
俺は大きく息を吸い込んだ。
三か月暮らしていた下流と比べ、空気が冷たく澄んでいる。
湿気はあるものの、森の奥に溜まっていた重苦しい空気とは違う。
川の水と風によって、周囲の空気が常に動いているからかもしれない。
「一輪――《サーチ》」
右手の甲に浮かぶ魔法陣へ、周囲の反応が表示される。
俺はインターバルが終わるたびに《サーチ》を発動しながら、川の上流を目指していた。
魔物が近くにいないか。
進行方向に人間がいないか。
安全を確認してから少し進み、再び《サーチ》を使う。
時間はかかるが、命を守るためには必要なことだった。
初めのうちは森の中を流れていた川も、上流へ進むにつれて岩場の間を縫うようになっている。
気づけば周囲の木々は少なくなり、剥き出しになった巨大な岩が目立つようになっていた。
歩ける場所など、ほとんどない。
岩から岩へ飛び移り、ときには川の浅い場所へ足を入れて進む。
苔の生えた岩は滑りやすく、少しでも気を抜けば川へ落ちそうだった。
「これは……思っていたよりきついな」
俺は濡れた岩へ手をつき、慎重に身体を引き上げる。
道中、岩の隙間からスライムボールが顔を出すことがあった。
丸い身体を震わせながら、こちらの様子をうかがっている。
以前なら貴重な食料として、見つけるたびに狩っていただろう。
だが、向こうから襲ってこない限り、今は無視している。
「わざわざ追いかけるほどでもないか」
気づけば、俺はスライムボールよりもデッドマンティスの肉を好むようになっていた。
最初に食べたときは、あの酸っぱい臭いが嫌で仕方がなかった。
表皮を剥がさなければ、とても食べられないと思っていた。
今では違う。
むしろ、あの嫌だと感じていた表皮を残したまま焼くのが好きになっていた。
「今となっては、独特な香辛料みたいなものだな」
表皮の強烈な酸味が、味の薄い中身によく合う。
慣れとは恐ろしい。
前世の俺が今の食事を見たら、間違いなく顔をしかめるだろう。
そんなことを考えながら進み、《サーチ》のインターバルが終わるのを待つ。
腕の一輪が再び白く輝いた。
「一輪――《サーチ》」
周囲の情報が、手の甲へ表示される。
魔物を示す三角形。
自分自身を示す中央の丸。
見慣れた印を確認していた俺は、ふと画面の端にあるものへ目を止めた。
「なんだ、これ?」
青色の印。
形は、ひし形だった。
人を表す丸でも、魔物を表す三角形でもない。
三か月間、何度も《サーチ》を使用してきたが、一度も見たことのない反応だ。
位置は、ここから三百メートルほど先。
川の流れから少し外れた場所にある。
「初めて見る印だな……」
危険なものかもしれない。
だが、今の俺は新しい魔物や、三輪へ進むための手がかりを探している。
見慣れない反応を無視して進むわけにはいかなかった。
「行ってみるか」
俺は川を離れ、ひし形の印がある方向へ進み始めた。
・・・
・・
・
距離を縮めるたびに《サーチ》を使用した。
青いひし形は、最初に表示された場所から一切動いていない。
「生き物ではないのか?」
人間や魔物なら、多少は移動するはずだ。
眠っている可能性もあるが、それにしては反応の形が違う。
木々の間を進み、最後の茂みを抜ける。
「……なんだ、これは」
目の前に、巨大な切り株が現れた。
周囲に生えている巨木と比較しても、桁が違う。
切り株だというのに、高さは二十メートルほど。
横幅も、それと同じくらいある。
かつては、一体どれほどの高さまで伸びていたのだろう。
見上げても、その姿を想像することすら難しかった。
「とんでもない木だったんだろうな……」
その巨大な切り株の根元には、横穴が開いていた。
自然にできた穴というより、誰かが掘り抜いたように綺麗な形をしている。
入口は高さ三メートルほど。
奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
「木の洞窟……か」
《サーチ》に表示された青いひし形は、間違いなくこの内部を指している。
俺は入口の前で、しばらく迷った。
中に何があるのかは分からない。
逃げ道は、この入口しかない可能性が高い。
もし奥に魔物がいれば、挟み撃ちにされる危険もある。
もう一度《サーチ》を確認する。
内部に、魔物を示す三角形はなかった。
「……ここまで来て、引き返すわけにはいかないな」
俺は剣を抜き、慎重に横穴へ入った。
数歩進んだだけで、外からの光がほとんど届かなくなる。
そこで背負い袋から、いくつかの材料を取り出した。
まず、デッドマンティスの体液へ、潰したスライムボールの肉を混ぜる。
粘り気が出るまでこね、泥団子のような形へ丸めた。
それを、デッドマンティスの脚を削って作った棒の先へ突き刺す。
最後に取り出したのは、カナブンほどの大きさをした発光する虫だった。
この虫は絶命した後も、腹部だけがしばらく光り続ける。
俺は発光部分を指で潰した。
中から、とろりとした液体が流れ出す。
その液体を、先ほど作った団子へ塗りつけた。
すると――。
「よし」
虫の光が伝染するように、団子全体へ広がっていった。
淡い黄緑色の光が、洞窟の周囲を照らし出す。
自家製の松明だ。
この現象に気づいたのは偶然だった。
発光する虫を巻き込んでデッドマンティスを斬った際、飛び散った体液の一部が光り始めたのだ。
何度か試した結果、スライムボールの粘液と混ぜることで、光が長持ちすることも分かった。
「何でも試してみるもんだな」
自家製松明を左手に持ち、右手で剣を構える。
内部は一本道だった。
緩やかに下へ向かっており、壁には巨大な木の根が複雑に走っている。
足元へ注意を払いながら、十分ほど下り続けた。
やがて、松明とは異なる淡い光が見えてきた。
「あれは……」
通路の先に、扉があった。
淡い青色の石で作られた、両開きの扉。
木の内部にあるものとは思えないほど、綺麗に加工されている。
表面には文字も模様もない。
俺は松明を地面へ置き、扉へ両手を当てた。
「開くのか?」
力を込める。
重い音を立てながら、青い扉が内側へ開いていった。
隙間から、冷たい空気が流れ出す。
「寒っ……」
外とは明らかに温度が違う。
俺は剣を構え直し、扉の中へ入った。
「なんだ、ここ……」
小さく呟いた声が、静かに反響する。
内部は、想像していたより遥かに広かった。
綺麗な円形状の空間。
周囲の壁は、入口の扉と同じ淡い青色の岩でできている。
岩肌そのものは凹凸が多い。
だが、空間全体は半球のように整えられていた。
誰かが意図して作った場所であることは間違いない。
円形の部屋の中央には、青い岩で作られた台座が置かれていた。
形は、巨大な聖杯によく似ている。
高さは七十から八十センチほど。
今の俺の腰程度しかなく、意外なほど低い。
その後ろには、黒く光沢のある石板が立っていた。
「何のための場所なんだ……?」
俺は台座へ近づく。
中央には、直径十五センチほどの穴が開いていた。
中をのぞき込む。
「真っ暗だな」
松明の光を近づけても、穴の内部はまったく照らされない。
底がないというより、光そのものが吸い込まれているように見える。
注意深く観察すると、穴の中からわずかな魔力を感じた。
「前世にあった、真実の口みたいなものか?」
人の顔ではなく、ただ穴が開いているだけだが、手を入れる形には違いない。
「嘘をついていたら、手を千切られる……とかじゃないだろうな」
笑えない想像をしてしまう。
俺は恐る恐る、穴の縁へ手を伸ばした。
直接入れる勇気はない。
まずは、周囲をなぞるように指先で触れてみる。
その瞬間だった。
「なっ――!」
右手が、強い力で引っ張られた。
抵抗する暇もない。
手首。
肘。
そして肩まで、一気に穴の中へ吸い込まれる。
「うわあああっ!」
左手で台座をつかみ、必死に身体を後ろへ引く。
だが、まったく抜ける気配がなかった。
右腕には、一切力が入らない。
感覚も消えている。
「腕が……!」
痛みはない。
それが、かえって恐ろしかった。
本当に右腕がつながっているのかすら分からない。
「まさか、引き抜かれたのか……?」
肩から先を失った自分を想像し、血の気が引く。
必死に抜こうともがいていると、台座全体が青く光り始めた。
「今度は何だ!」
その光に反応するように、正面の黒い石板へ文字が浮かび上がる。
見たことのない文字のはずだった。
だが、不思議なことに意味を理解できた。
――――――――――
経験値確認……
種族:一般
レベル四・二相当の経験値を習得しています。
魔法輪を強化します。
――――――――――
「経験値……?」
レベル。
種族。
前世で遊んだゲームのような言葉が、次々と表示されている。
右腕へ、冷たい感触が走った。
「うっ……!」
腕の内部を、冷たい水が流れているようだった。
引き抜こうとしても意味がない。
俺は抵抗することを諦め、石板へ目を向けたまま待った。
しばらくすると、台座の光が弱くなる。
同時に、石板の文字が切り替わった。
――――――――――
レベル三
三輪《エンハンス》を習得。
一輪《サーチ》を強化。
レベル四
四輪《バインド》を習得。
ユニークリング所有者。
特性《制御》を開放。
次のレベルまで、〇・八。
レベル五情報
五輪《ブラスト》。
左手の輪を開放。
――――――――――
「三輪と……四輪?」
表示が消えると同時に、右腕を吸い込んでいた力がなくなった。
俺は勢いよく後ろへ倒れ込む。
「うわっ!」
右腕をすぐに確認する。
ある。
指も動く。
痛みもなく、傷一つついていなかった。
「よかった……本当に千切れたかと思った」
安堵しながら、袖をまくり上げる。
「おお……!」
二輪までしかなかった右腕に、新たな輪が二つ刻まれていた。
全部で四輪。
三輪《エンハンス》。
四輪《バインド》。
手首側から順番に魔法輪が増えていくので、肩から遠い方が三輪。
その隣が四輪だろう。
「一気に情報が増えすぎだ……」
《サーチ》の強化。
《エンハンス》。
《バインド》。
ユニークリングの特性である《制御》。
さらに、次に習得する《ブラスト》と、左手の輪の開放。
「一つずつ試して、整理するしかないな」
俺はまず、一輪へ触れた。
「一輪――《サーチ》」
強化された魔法が発動する。
「これは……!」
手の甲に表示された情報が、以前とはまるで違っていた。
人や魔物の位置だけではない。
周囲の地形まで、細かな線として表示されている。
川。
岩場。
巨大な切り株。
今いる円形の部屋と、ここへ続く一本道。
すべてが簡易的な地図のように描かれていた。
さらに、魔物を表す三角形の横へ文字が浮かぶ。
《スライムボール》
《デッドマンティス》
魔物の名前まで表示されている。
探索範囲も、これまでの八百メートルから一キロメートルほどへ広がっていた。
「これなら、川から離れても迷いにくくなる」
地形を確認できるだけでも、価値は大きい。
次は三輪。
俺は手の甲の輪を起動し、三番目の魔法輪へ触れた。
腕から送られた魔力によって、手の甲の模様が複雑な魔法陣へ変わる。
「三輪――《エンハンス》」
魔法を発動した瞬間、全身を温かい魔力が包み込んだ。
「これは……」
通常の魔法とは違い、発動しても手の甲の魔法陣が消えない。
三輪も光を失わず、白く輝き続けている。
マグが魔法を使用していたときと同じ状態だ。
魔力が皮膚の外側を覆い、薄い鎧のように全身へまとわりついている。
握り拳を作る。
身体が驚くほど軽い。
疲労も、筋肉の重さも感じない。
「試してみるか」
俺は円形の部屋を出て、木の洞窟を通って外へ戻った。
巨大な切り株の前で周囲を確認する。
魔物の反応はない。
膝を曲げ、軽く跳んでみた。
「え――?」
身体が、一瞬で上空へ持ち上がった。
「うわあああっ!」
想像していた高さを遥かに超える。
巨大な切り株を越え、周囲の木々と同じ高さまで跳び上がっていた。
慌てて腕を振るが、空中で姿勢を変える方法が分からない。
そのまま枝葉の中へ突っ込んだ。
バキバキバキッ!
太い枝を何本も折り、身体中を葉や小枝に切りつけられながら落下する。
「痛っ……くない?」
地面へ着地し、自分の身体を確認する。
衣服には切れ目ができている。
だが、皮膚には傷一つなかった。
あれだけ枝へぶつかったのに、痛みすらほとんど感じない。
「身体能力だけじゃない。全身を守っているのか」
攻撃力。
移動能力。
防御力。
すべてを一度に大きく引き上げる魔法。
「これは……重要な魔法だ」
《エンハンス》を使いこなせるかどうかで、今後の生存率は大きく変わる。
マグが人間離れした高さまで跳び、デッドマンティスを蹴り飛ばせた理由も分かった。
あれは神徒だけの身体能力ではない。
この《エンハンス》によるものだったのだ。
俺は再び膝を曲げる。
今度は力を抑え、少しだけ跳ぶ。
それでも身体は数メートルの高さまで浮かび上がった。
「まずは、加減を覚えないとな」
四輪《バインド》と、ユニークリングの《制御》も気になる。
だが、一度にすべてを試せば、魔力を使い果たす可能性がある。
今の俺には、自分の魔力残量を確認する方法がない。
「焦る必要はない」
この場所を見つけたことで、三輪と四輪を手に入れた。
さらに、五輪へ進む条件も見え始めている。
俺は右腕で輝く四つの魔法輪を見つめた。
その日から俺は、まず《エンハンス》の理解を深めることにした。