四層世界の最下層、魔物の森で生き残る 作:鳩夜(HATOYA)
光が消えた。
足の裏に柔らかな土の感触が戻り、セレナスはゆっくりと顔を上げた。
そこに広がっていたのは、これまで一度も見たことのない景色だった。
鬱蒼と生い茂る巨大な木々。
見慣れない植物。
遠くから聞こえてくる、獣とも魔物とも分からない鳴き声。
そして何より、身体全体を包み込むような濃密な力。
「……ここが最下層か」
上層で噴出した血を水ですすぐ。
「赤いインクでも騙せるものだな……」
セレナスは小さく息を吐いた。
十八年間生きてきて、初めて足を踏み入れた場所だった。
セレナスはユニークリングを持っていない。
そのため十歳の時、最下層へ転送されることはなかった。
第三層の一般人はもちろん、第二層の貴族でさえ、神徒も自分たちと同じように十歳になると全員が洗礼の試練を受け、最下層へ送られていると思っている。
だが実際には違う。
神徒の中で最下層へ送られるのは、十歳の時点でユニークリングを持っていた者だけだ。
それ以外の神徒は、第一層で祈りを続けながら魔法輪を増やしていく。
セレナスもそうだった。
「それにしても……すごいな」
右手を軽く握る。
第一層にいた時とは比べものにならないほど、周囲から魔力を感じる。
ゼインから聞いてはいた。
第一層の大気にはほとんど魔力がなく、この世界で最も多くの魔力が存在するのは最下層だと。
だが、実際に自分の身体で感じてみると、その差は想像以上だった。
「これだけ違えば、確かに第一層への供給源になるのも分かるな……」
まず周囲の状況を確認する。
「《エンハンス》」
身体を魔力が包む。
続いて、別の魔法輪へ触れた。
「《サーチ》」
意識の中へ周辺の情報が広がった。
地形。
生物の反応。
魔物と思われる反応。
そして、現在地を示す座標。
セレナスの腕には五つの魔法輪が存在している。
第一層では、それが最高位だ。
長年祈りを捧げ、どれほど優れた神徒であっても、魔法輪が六つへ増えることはない。
そのため神徒の間では、魔法輪は五輪で完成すると考えられている。
だが。
それは間違いだった。
この世界には《神輪の祭壇》と呼ばれるものが存在し、他種族と共に試練を突破することで、五輪より先へ進むことができる。
もっとも……
その事実を、現在の第一層に住む神徒たちは知らない。
セレナス自身も、当然そんなことは知る由もなかった。
「さて……」
《サーチ》を維持したまま、周辺の座標を確認する。
最下層へ来ること。
それ自体が目的ではない。
むしろ、ここからが本番だった。
セレナスには、どうしてもやらなければならないことがある。
第三層へ向かう。
そして、以前から目星を付けていた大規模な村へ、第三層以下の切り離しが決定したことを伝える。
それを阻止するためには、第一層で行われようとしている計画そのものを止めなければならない。
ソヴリンスター家。
そして、その決定に従う神徒たち。
説得だけで終わるとは、セレナスも考えていなかった。
「戦いになるだろうな……」
第一層の神徒と。
第三層の人々が。
互いに命を懸けて戦うことになる可能性は高い。
それでも、何も知らされないまま第三層と最下層が切り離されるよりはいい。
少なくとも。
自分たちの世界を守るために戦う権利くらいは、第三層の人間にもあるはずだ。
「その前に、ここから出ないとな」
今いるのは最下層。
第三層へ話を伝えるためには、まず上へ向かわなければならない。
その方法についても、ゼインから聞いている。
「座標〇・〇……」
最下層に存在する巨大施設。
そこには第三層へ通じる昇降機が存在する可能性が高いという。
レインフォージ家が長年集めてきた資料にも、最下層と第三層を繋ぐ設備について僅かな記録が残されていた。
まずは〇・〇の施設へ辿り着く。
そこから第三層へ上がる。
第三層まで出ることさえできれば、その先は何とかなる。
セレナスは懐へ手を入れた。
取り出したのは、小さな鍵だった。
ゼインから預かってきた《マスターキー》。
第二層と第三層を繋ぐ《二・三昇降機》。
そして第一層と第二層を繋ぐ《一・二昇降機》。
その両方を作動させることができる鍵だ。
「これがあれば、第三層から第一層までは戻れる」
問題は。
そこへ辿り着くまで。
セレナスは腕に浮かぶ魔法輪を見る。
《リターン》は真っ黒に染まったままだ。
ゼインによって《リターンブレイク》を施されたため、これから一年間は使用することができない。
つまり。
失敗しても逃げ帰ることはできない。
「それでいい」
最初から覚悟してきた。
セレナスは《サーチ》に表示される座標を確認し、〇・〇の方向へ身体を向けた。
第一層で天与の祭壇が停止する七日間。
かつて神徒たちが階級を奪い合った、その期間が再び訪れるまで。
「あと半年ほど……」
長いように思える。
だが。
第三層へ向かい。
事情を説明し。
協力者を集め。
第一層まで連れて戻る。
それだけのことを半年で成し遂げなければならない。
時間は、ほとんど残されていなかった。
「急ごう」
《エンハンス》の出力を上げる。
身体が一気に加速した。
最下層の森を、赤い髪の神徒が駆け抜けていく。
一年以上探し続け。
ようやく辿り着いた世界。
だが、セレナスは周囲をゆっくり眺めることすらしなかった。
目指す先は一つ。
座標〇・〇。
そこには今。
セレナスがまだ存在すら知らない、一人の男がいる。
そして二人の道は。
もう間もなく、交わろうとしていた。