四層世界の最下層――魔物の森で帰還魔法を得た少年は、家族のために帰らない 作:鳩夜(HATOYA)
「むにゃ……そのステーキは、俺が食べるから……」
香ばしく焼けた巨大な肉。
表面には脂が浮かび、ナイフを入れるだけで肉汁があふれ出す。
俺はそれを誰かに取られまいと、両手で皿を抱え込んでいた。
「これは俺のだ……絶対に渡さない……」
夢の中でそう呟いた、次の瞬間。
「――はっ!」
勢いよく目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、青い空でも、家の木製天井でもない。
川沿いに生える木々と、白く流れる雲だった。
「……え?」
冷たい風が頬を撫でる。
すぐ近くから、川のせせらぎが聞こえていた。
俺は地面に仰向けになったまま、しばらく状況を理解できなかった。
「俺……寝てたのか?」
しかも、身を隠すものが何もない川原の真ん中で。
身体を起こし、慌てて周囲を見渡す。
幸い、近くに魔物の姿はなかった。
それでも背中に冷たい汗が流れる。
「危なすぎるだろ……」
川原は見晴らしがいい。
こちらから魔物を見つけやすい代わりに、向こうからも簡単に発見される。
こんな場所で意識を失えば、襲ってくれと言っているようなものだ。
「よく生きてたな、俺……」
ふらつきながら立ち上がり、川辺へ移動する。
両手で水をすくい、顔へ勢いよくかけた。
「冷たっ!」
一気に眠気が吹き飛ぶ。
何度か顔を洗った後、川面へ映る自分の姿を見た。
髪は乱れ、頬には土がついている。
目の下には、わずかに疲労の色が見えた。
「また魔力を使い切ったのか……」
原因は分かっていた。
三輪の魔法――《エンハンス》。
青い祭壇で習得してから一週間。
俺はほかの魔法にはほとんど触れず、《エンハンス》だけに絞って理解を深めてきた。
その結果、ある程度の性質は把握できたつもりだ。
まず、この魔法には決まったインターバルがない。
発動。
解除。
どちらも、ほとんど間を置かずに行える。
必要な瞬間だけ使い、すぐに解除することも可能だった。
発動中は、身体能力が大幅に向上する。
瞬発力。
移動速度。
攻撃力。
防御力。
そのすべてが、通常の人間とは一線を画すほど強化される。
巨木の枝まで跳び上がることもできる。
岩へ拳を叩きつければ、表面を砕くこともできた。
デッドマンティスの鎌を受けても、一撃程度なら致命傷を避けられるかもしれない。
非常に強力な魔法だ。
ただし、当然ながら欠点もある。
「発動している間、ずっと魔力を消費し続ける……」
身体が軽くなるため、使用中は疲労を感じにくい。
だからといって、魔力が減っていないわけではない。
調子に乗って使い続ければ、本人が気づかないまま残量が空になる。
その結果が、先ほどの気絶だ。
「魔力が切れる前に解除しないとな」
問題は、自分の魔力がどれほど残っているのか分からないことだった。
疲労のように、少しずつ苦しくなるわけではない。
限界まで動けていたと思った直後、突然意識を失う。
昨日も《エンハンス》を使い、川沿いの岩場を何度も往復していた。
解除しようと思った記憶はある。
だが、間に合わず、そのまま倒れたのだろう。
「次からは、もっと早めに切ろう」
今度こそ、川原で魔物の朝食になるかもしれない。
俺は水を飲み、身体の状態を確認してから拠点へ戻った。
・・・
・・
・
朝食の準備を始める。
地面へ乾いた木の板を置き、その上に細かな枯れ草を集める。
板の中央へ細い棒を立て、両手で挟んだ。
「三輪――《エンハンス》」
全身を魔力が包み込む。
両腕へ力を込め、棒を回転させた。
シュルルルルッ――!
通常では不可能な速度で、棒が回る。
わずか数秒で木の板から煙が上がり、枯れ草へ小さな火が移った。
「便利だな」
《エンハンス》を使えば、火起こしに苦労することもない。
俺はすぐに魔法を解除した。
昨日の失敗を繰り返すわけにはいかない。
小さな焚き火へ枝を足し、保存していたデッドマンティスの肉を焼く。
表皮が熱で縮み、独特の酸っぱい臭いを放ち始めた。
最初は吐きそうになった臭いだ。
今では、それだけで腹が鳴る。
「いただきます」
表皮を残したまま、焼けた肉へかじりつく。
パリッとした皮の中から、弾力のある肉が現れる。
「うまい」
酸味の強い表皮が、味の薄い肉へ刺激を加えている。
すっかり、この味にも慣れてしまった。
スライムボールの淡泊な肉より、こちらの方が好みになっている。
肉を頬張りながら、自分の腕へ目を向けた。
「筋肉もついてきたな」
最下層へ来たばかりの頃と比べ、腕や脚が明らかに太くなっていた。
毎日森を歩き。
岩場を登り。
魔物と戦い。
重い肉や素材を運んでいる。
ここでの生活そのものが、身体を鍛える訓練になっているのだろう。
十歳の身体にしては、かなり筋肉がついている。
「さて……」
最後の肉を飲み込み、立ち上がる。
「次は《バインド》だな」
一週間、《エンハンス》だけを試し続けた。
ある程度の性質は理解できた。
今日からは、四輪の魔法を本格的に練習する。
・・・
・・
・
森から少し離れた岩場へ移動した。
周囲に魔物がいないことは、《サーチ》で確認している。
正面には、目印として細い木を一本選んだ。
俺は右手の甲の模様へ触れる。
浮かび上がった模様へ魔力を送り、四番目の輪を起動する。
「四輪――《バインド》!」
掌を前へ突き出す。
円盤状の魔力が射出され、空中を一直線に飛んでいった。
しかし――。
「あっ」
目印にした木の横を通り過ぎ、そのまま奥の岩へぶつかった。
円盤から無数の鎖が飛び出し、何もない岩へ巻きつく。
「全然当たらないな……」
円盤は思った以上に小さい。
弓矢ほどではないものの、離れた相手へ正確に命中させるには慣れが必要だった。
しばらくすると鎖が消える。
だが、すぐに次を撃つことはできなかった。
四輪の光が失われている。
「インターバルは……二十秒くらいか」
何度か試した結果、《バインド》には発動後、約二十秒のインターバルが発生することが分かった。
二十秒。
普段なら短い時間だ。
だが、戦闘中となれば話は違う。
敵へ向かって撃ち、外したとする。
次の二十秒間は、《バインド》を使えない。
デッドマンティスなら、二十秒もあれば何度も鎌を振るえる。
「外したら致命的だな」
絶対に命中させなければならない。
そのためには、何度も練習するしかなかった。
「四輪――《バインド》!」
射出。
外れる。
二十秒待つ。
もう一度撃つ。
それを繰り返した。
少しずつ狙いは正確になっていく。
それでも、移動する相手へ確実に当てられるとは思えなかった。
次に放った円盤も、木の左側へわずかに逸れる。
「もう少し右へ行け!」
思わず叫び、右手を横へ振った。
その瞬間。
「え?」
空中を飛んでいた円盤が、わずかに右へ曲がった。
目印にした木へ命中する。
無数の鎖が伸び、幹へ巻きついた。
「今のは……」
偶然だろうか。
いや。
手を振った瞬間、円盤と右腕が細い糸でつながったような感覚があった。
「もう一度だ」
インターバルが終わるのを待ち、再び《バインド》を発動する。
今度は、わざと木の右側へ向けて撃った。
円盤が目標を通り過ぎる直前、左手側へ右腕を振る。
「曲がれ!」
円盤が左へ進路を変えた。
「やっぱりだ!」
射出した後でも、操作できる。
そこからの上達は早かった。
円盤と右手がつながっていると意識する。
手を上へ動かせば、円盤も上昇する。
下へ振れば、地面近くへ下がる。
大きく横へ振れば、円を描くように軌道を変えた。
「これが《制御》なのか……?」
祭壇に表示されていた、ユニークリングの特性。
俺の手の甲にある奇妙な模様は、射出した魔法を操る力を持っている。
通常の《バインド》が直線にしか飛ばないのなら、この能力はかなり強力だ。
相手が避けたとしても、後から軌道を変えて追いかけられる。
「どこまで動かせるんだろうな」
俺は新たな実験を始めた。
《バインド》を射出する。
円盤と右手をつなげるように意識する。
「そのまま……」
円盤が遠ざかっていく。
「戻ってこい!」
右手を思い切り後ろへ引いた。
シュルルルルッ――!
空中を飛んでいた円盤が、一瞬だけ停止する。
その場で鋭く方向転換し、まるでヨーヨーのようにこちらへ戻ってきた。
「おおっ!」
予想以上にうまくいった。
円盤は一直線に、俺へ向かってくる。
「そうだ。このまま受けたら、どうなる?」
《バインド》を敵に使われた場合、自分で抜け出せるのか。
マグのように、ほかにも四輪を持つ者と戦う可能性はある。
事前に拘束力を知っておいて損はない。
俺はその場で腕を広げ、戻ってくる円盤を受け止めた。
「うおっ!」
円盤が胸へ触れた瞬間、無数の鎖が飛び出した。
腕。
脚。
胴体。
全身へ絡みつき、一気に締め上げる。
バランスを失い、そのまま地面へ倒れた。
「ぐっ……すげえ締めつけだな……」
鎖は見た目以上に硬い。
両腕は胴体へ固定され、指先すらまともに動かせなかった。
脚も完全に閉じられ、立ち上がることはできない。
「駄目だな、これ」
万が一、自分が撃たれたときに力で抜け出せるか試したかった。
だが、通常の身体能力では不可能だった。
「解けるまで待つか……」
魔法による拘束なら、長くても数分程度だろう。
俺は地面に倒れたまま、空を見上げた。
・・・
・・
・
一時間後。
「え……いつ解けるの、これ!?」
俺は、まだ鎖に巻きつかれていた。
腕も脚も、拘束されたまま。
締めつけも、まったく弱くなっていない。
「まさか、こんなに持続するなんて……」
数分どころではない。
一時間経っても解除されない。
命中さえすれば、非常に強力な魔法だ。
逆に言えば、今の俺は一時間以上、無防備な状態で岩場に転がっている。
「魔物に見つかったら終わりだぞ……」
今さらながら、自分がとんでもない失敗をしたことに気づく。
「そうだ。《エンハンス》なら!」
身体能力を強化すれば、鎖を引きちぎれるかもしれない。
しかし、手の甲の模様へ触れようとしても、腕が完全に固定されている。
指先を伸ばす。
だが、手の甲まで届かない。
「ぐぐぐ……駄目だ。動かねえ!」
魔法を使うには、手の甲と魔法輪へ触れる必要がある。
腕を動かせない以上、《エンハンス》を発動することもできなかった。
「魔法輪を使う相手には、《バインド》が最強かもしれないな……」
身体だけでなく、魔法を発動する手順まで封じられる。
マグがデッドマンティスを一方的に倒せた理由が、改めて分かった。
「それにしても、本当にどうするんだ、これ……」
どうにか手の甲へ触れようと、地面を転がる。
右へ。
左へ。
岩へ手をこすりつけようとする。
だが、鎖はまったく緩まなかった。
そのとき。
「チチチ……」
「……え?」
聞き慣れた鳴き声がした。
のたうち回ることへ夢中になり、まったく気づいていなかった。
顔を上げる。
少し離れた場所に、デッドマンティスが立っていた。
「嘘だろ……」
濃い緑色の外殻。
硬い機械型ではなく、柔らかい個体だ。
普段なら問題なく倒せる。
だが、今は指一本動かせない。
「待て待て待て……」
デッドマンティスが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「こんな間抜けな死に方があるか……?」
「チチ……」
魔物は急ぐ様子を見せない。
鎌を大きく振り上げることもなく、余裕を持って歩いてくる。
その姿は、まるで上品な料理を前にした客のようだった。
逃げない獲物。
抵抗できない食事。
ゆっくり味わおうとしているように見える。
いや。
死が目前へ迫ったせいで、そう見えただけかもしれない。
「くそ……!」
手は動かない。
魔法も使えない。
剣へ触れることもできない。
デッドマンティスが、鎌の届く距離まで近づいた。
巨大な前脚が持ち上がる。
その瞬間、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
俺は射出した《バインド》を、右手で操作した。
だが、本当に右手の動きが必要なのか。
祭壇に表示された特性は、《操作》ではない。
《制御》だ。
「動け……」
全神経を、自分へ巻きつく鎖へ集中する。
右手を振ったときの感覚を思い出す。
射出した円盤と、自分の意識がつながる感覚。
「俺なら……」
デッドマンティスの鎌が振り上げられる。
「俺の魔法なら、制御できるだろう!」
その瞬間。
手は一切動かしていない。
それでも、脳の奥を何かが走り抜けた。
自分へ巻きつく鎖と、意識が再びつながる。
「外れろ!」
ガシャッ――!
全身を締めつけていた鎖が、一斉に外れた。
「チヂッ!?」
鎖は空中を走り、そのまま目の前のデッドマンティスへ巻きつく。
鎌。
脚。
胴体。
巨大な魔物が、その場へ完全に拘束された。
「できた……!」
俺はすぐに立ち上がり、地面に置いていた剣をつかむ。
デッドマンティスの首へ狙いを定め、一気に振り抜いた。
ザンッ――!
頭部が切り離され、地面へ転がる。
青紫色の体液が飛び散り、魔物の巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……」
剣を構えたまま、しばらく動けなかった。
「手を使わなくても……操作できた」
いや。
操作したというより、命令した感覚に近い。
俺の魔法だから、俺の意思へ従った。
右手の動きは、魔法を制御するための補助にすぎなかったのだろう。
慣れれば、身体を動かさずに軌道を変えることもできる。
拘束する相手を途中で変更することも可能かもしれない。
「この《制御》……思ってた以上にすごいぞ」
少し状況を整理しようと、その場に立ち尽くす。
だが、身体を動かした瞬間、全身へ強い痛みが走った。
「いてててっ……!」
一時間以上、鎖で同じ姿勢へ固定されていた。
肩も腰も、脚も完全に固まっている。
「身体がおかしくなってる……」
特に腕は、曲げ伸ばしするだけで痛い。
俺はデッドマンティスの素材を回収することも諦め、ゆっくりと歩き始めた。
「今日はもう戻ろう……」
新しい発見はあった。
だが、それ以上に自分の間抜けさを思い知った一日だった。
俺は固まった身体を引きずりながら、青い祭壇のある巨大な切り株へ戻っていった。