歴史の歯車が変わったのは、それはいつからだったのだろうか。
その秘密を解き明かすべく、我々はもう一つの幕末の歩みを見ていかなければならない。
時は1853年、太平の眠りを覚ます蒸気船がやってきた。
ペリーが四隻の軍艦を率いて浦賀に来航したのである。
その時はなんとか帰ってもらったが、同じ年の内にプチャーチンが来航してから僅か七ヶ月後、1854年1月16日、今度は七蒸気船を含む七隻で浦賀に来航してきた。
そこから条約の交渉に入った。
交渉役として活躍したのは中浜万次郎、いわゆるジョン万次郎である。
彼は十年近くアメリカにいたこともあって英語が堪能で、交渉はトントン拍子に進んだ。
当初はアメリカのスパイではないかとの疑惑から外されかけていたが、時の老中首座であった阿部正弘が「この者にしか務まりませぬ」と斉昭公を説得し彼を交渉役に付けた。
そうして、
そこからはもう早い話だった。
外国の脅威に耐えるため速やかに改革を進めようと一致団結する運びと、なるはずだった。
しかし、保守派が立ちはだかった。
老中首座は強硬な策を取らず、漢学者や蘭学者を表上優遇してるように見せながら、実際には他の国のことも学ぶ方針としたのであった。
それから数年前の間、外国語の学習や外国の学問の研修、外国人教師の導入に務め、外国の知識を収集することに力を注いだ。
さらには幕政に島津斉彬や松平慶永、一橋慶喜らを幕政に参画させ、外国の脅威に耐えるために幕府を改革しようとしたのである。
1858年、譜代武家の反対を押し切って将軍の継嗣を慶喜と決めた。
だが、翌年に老中首座であった阿部は没した。そこで譜代武家が慶喜を次の将軍にはさせまいと動き出したが、既に慶喜が将軍職に就いた後であった。
将軍はそこから更なる大改革に踏み切った。
大老の代わりに政事総裁職を置き、松平慶永をそこ任命した。
それだけではない。外国奉行や海軍伝習所の強化も行われた。
だが、その前年にはこれまでに無い苦労が日本を襲っていた。
日米修好通商条約、まさにそれであった。
日米修好通商条約調印の勅許を貰うべく京都に赴いた松平慶永と阿部正弘らだったが、最初は勅許を貰えなかった。
そこから公家や天皇の周辺にも度重なる説得を続け、四回目でやっと勅許を得ることに成功した。
阿部の病没は、この時の過労が原因だとも言われている。
そんな苦難の末に結ばれた日米修好通商条約だったが、金銀の輸出の制限や兵庫の開港の無期限の延長など、様々な恩恵を勝ち取った。
兵庫の開港が延期になったのは、他ならぬ勅許の遅延が原因で、これは後に日本に災厄を招いた。
かくして、安政の五カ国条約は締結されたのだった。
条約の調印、そして三度にわたった勅許拒絶の末の四度目での勅許、これは攘夷派を激怒させた。
中でも怒ったのは水戸であった。
水戸藩の脱藩浪士が当時外国奉行で、違勅調印を強硬に主張した男、井伊直弼が雪の残る江戸の町の中心で駕籠で彦根藩士に護衛される中、桜田門の目の前で殺されたのである。
彼は度々条約反対派の粛清を政事総裁職に進言し、そのたびに慶永に咎められていたが、その噂が外に漏れ、遂に暗殺されるに至ったのだ。
外国奉行の暗殺は幕府を動揺させた。だが、強硬な保守の一人が消えるのは願ってもないことであった。
改革が進み、長州藩など雄藩が力を付ける中、公武合体論も徐々に進みつつあった。
だが、公武合体に対する尊皇攘夷の動きも激しく、その二つの勢力が争う場所だった京都では、戦闘ではない形で一進一退の攻防が繰り広げられていた。
薩摩と会津が長州を追い出した八月十八日の政変、
その翌年の禁門の変、それに続く長州征討で尊皇攘夷は劣勢となり、長州はここに朝敵となった。
だが、長州藩は急進派を牢獄に放り込み家臣を切腹させることで幕府に恭順を示し、長州征討はギリギリのところで終わった。
将軍であった徳川慶喜は、この混乱の中で日本をまとめるには天皇に頼るしかないと考え、幕府を廃止して新体制に入る準備を進めるべく、朝廷との調整が始まった。
その一環として、新政府の機能の京都への移転、そのために何もない森林や山野を切り開いて建物を建築し、そして行政都市としての京の整備が開始されることになったのである。
さらに、薩摩藩は公武合体の成功を確信し薩長同盟を結ばず、急進派を飼い殺しにした。
このころには長州藩はほぼ孤立していたのである。
1866年、公武合体に先んじて五つの家を建てることになった。
孝明天皇の娘と慶喜の子供を結婚させ煌武家院家、
西園寺家の息子と紀州徳川家を娘を結婚させ斎御司家
鷹司家の娘と一橋徳川家の息子の結婚で宰司家
島津家の息子と尾張徳川の娘の結婚で斑鳩家
さらに元の摂関九條家の息子と水戸徳川の娘の婚姻で九條家
これらは通称は五摂家だったが、摂関家と間違えやすい都合上五卿家と呼ばれた。
同年中に枢密院が設置され、大君制の導入や大政奉還後の日本の政治に関する議論をここに集約することとなる。
1867年10月14日、全国の大名を京都の二条城に集められ、慶喜の将軍辞任は翌朝に勅許された。
かくして、大政奉還は成ったのである。
1868年1月3日、孝明天皇より新政府発足に関して勅令が発された。
大君を主席に、総裁、議定、参与を置くという新体制である。
さらに、立法機関として枢密院をそのまま継承するという形だ。
新政府発足から数年、改革は進みつつあった。
武家と公家の二つを特権階級として設けるため、新しい区別が必要になった。
親藩、譜代、外様なんていう区別をそのまま導入すれば公家から猛反発を喰らうに違いない。
よって、爵位を代わりに創設することとなった。
公侯伯子男の五つの段階がある。こうすれば公家と武家どちらも宥められると踏んだのである。
さらに、藩を廃して県を置く廃藩置県に踏み切った。
これは当然諸藩の反発を招いたが、官吏や軍に登用する際にある程度優遇するという条件でなんとか成立した。
のちのちには帝国陸海軍も成立し、さらにもう一つ、天皇や皇室、武家、大君を守るための斯衛軍も発足した。
そうして徐々に改革は進んでいき、1880年には憲法が成立、日本の政治制度は遂に完成した。
天皇が徳川や五卿、摂関家、合計十一の家の当主から一人選んで大君を任命すると言う形が定着した。
さらに、帝国議会と大審院も成立した。
内閣の規定も明記され、帝国議会の指名と大君の推薦、この二つの候補について天皇が枢密院に諮問し、その奉答を参考に内閣総理大臣を任命すると言う物である。
大君には、帝国議会の可決した法律を拒否する権限はない。帝国議会の可決した法律はそのまま天皇の元に送られ、天皇が裁可することになっている。
大君は統帥権や外交権を有し、天皇を直接輔弼する立場であった。
同時に、大君は国務を内閣に委託する立場でもあったのだ。
大君や武家に関する事務を司る政府外官庁として大君内府、皇室に関する事務を司る政府外官庁として宮内省が設置されるといういびつな関係がありながらも、日本は着々と近代国家の地盤を整えていった。
だが、特権階級と化し、日本を長らく統治してきた武家に関する負担は大きかった。
彼らは特権も与えられているが、代償も大きい。
参政権の剥奪、商工業参加一切不可能といつた具合に、凄まじい制約があった。
そのおかげでいくつかの有力な家は既に爵位を離れ平民となった。
武家への俸禄は膨大な額にのぼり、財政の負担となっていた。
さらに、国家プロジェクトとして進められた琵琶湖運河建設についても負担は大きかった。
だが、その琵琶湖運河建設の結果といえば、大阪港の拡張と浚渫で、肝心の運河建設は進んでいなかった。
その浚渫も、大型船が大阪城付近、小型船が高槻付近までしか進めないとも成れば、笑い話にもならなかった。
その後も日清日露戦争を勝ち進み一等国を名乗るようになっていき、同時に第二次世界大戦という滅びの道へも進んでいったのである。
1901年に孝明天皇が崩御し、1912年には明治天皇が崩御し、日本は新時代へ進んだ。
1929年の世界恐慌からは、雇用創出を目的として琵琶湖運河の建設計画を大幅に拡張し、パナマ運河の閘門も学んで琵琶湖運河を完成させようと躍起になるも、1943年には中止となった。
この次点では淀川ルートしか完成せず、伊勢湾ルートは鈴鹿山脈を越えることができず、若狭湾ルートも巨大な山脈に阻まれた中での中止であった。
マブラヴの前史を勝手に考えてみたけどどう考えても無理なところが多かった。
なんだよ政威大将軍って。大君でいいだろ大君で。大君制なんてことばもあったんだから。
五卿は無理やり作りました。許して
大君を十一の家から選ぶとか無謀ってのはわかります。わかりますけどこうしました。
天皇を皇帝と号するのはちょっと良く分からないので消しました。
元枢府とかちょっと良く分からない。枢密院でいいじゃん
なんだよ城内省って。宮内省を差し置いて武家が主役ってちょっと考えられなかったので大君内府と宮内省の並立にしました。
琵琶湖運河を明治時代に作るのはちょっと無理でしょう