一人の女が幽霊のような足取りで入っていくのを見かける。
女の目は泣きはらしたかのように腫れ、
その目には生気がなく、何やら茫然とした面持ちで、
フラフラ歩いてビルに入っていった。
以前、そのビルでは飛び降り自殺が何件か起きていると
聞いた事を思い出し、男は急いで追い掛ける。
一つしかないエレベーターを待つのも焦れて、
階段を駆け上がる男。
屋上に着いた時、女は既に柵を乗り越えようとしていたが、
男は必死に追い縋るのであった。
とあるビルの屋上、
屋上の柵を乗り越えた、あと一歩でも踏み出せば真っ逆さまになる。
そんな場所で男女が言い争っている。
「死なせて!あんな奴に汚された体で生きていたくないの!」
半狂乱になりながら女が叫んびながらもがいている。
「汚された?確かに物理的には汚されたかもしれない。あいつは貴女の体を使ってオナニーしたんだから!でも、そんなのシャワーで洗い流せば元通りだ!今の君は既に汚れてなんていない!」
そんな女を必死に羽交締めにしながら、それでも、
極力刺激しないよう出来るだけ落ち着いた声で男が説得している。
「オナニー!ふざけないで!私は犯されたのよ!強姦されたの!あんな奴にセックスされて、もう私は汚されてしまったの!」
男の言葉が女を刺激してしまったようだ。
「バカを言うな!あんなものはセックスなんかじゃない!その証拠に、君は最後まで抵抗し続けたじゃないか!」
それでも、男は女が汚れてなんかいないと必死に伝える。
「抵抗したって!結果は同じだったじゃない!」
女の声に悔しさが溢れている。
「違う!セックスってのは両者の合意があってはじめて成立するものだ!最後の時まで抵抗し、拒絶し続けた君とあいつとの間に合意なんてない!」
女の悔しい想いに胸が押しつぶされそうになりながら、
それでも男は女は何も奪われていないと伝え続ける。
「なら!あの強姦はなんだったのよ!あれがセックスじゃなきゃ!あれは何だって言うのよ!」
叫びながらも女自身、その答えを欲している。
男はそう感じた。
「あれは拷問だ!この世で最も忌むべき、非人道的な拷問だ!」
男は常々考えていた持論を女に伝える。
「…拷問?あれはセックスではないの?」
口で言いながらも、拷問という言葉に、何やらしっかりくるものを
感じているようだ。
「そうだ!あんなものがセックスなはずないじゃないか!セックスはもっと崇高で、楽しい営みだ。君はただ人以下の悪党に一方的に酷い拷問を受けた。そう言う事だ。だから!君は汚されてなんかいない!心と体に傷を負わされたんだ!でも傷は必ず癒える!だから!今は生きてくれ!」
ただただ生きて欲しい。
男は本気でそう願っていた。
「でも、あれが拷問で、あいつのオナニーだって言うなら、あいつは罪に問われないの?」
その問いに、先ほどまで一緒に涙して自分を止めてくれていた男の
表情がスッと消え、押し殺したような声でこう言った。
「馬鹿を言っちゃいけない。この世で最も忌むべき非人道的な行為を行える奴だ。人間として最早救いようが無い。『殺処分』に決まっているじゃあ無いか」
その男の表情に女は何かを察する。
「…分かった。でもその話、私も乗せてもらうわ」
数年後、男は自身の後援会の事務所で、支援者達と話していた。
「そもそも嘆かわしい事に、日本には拷問を裁く法律が無いんだよ。国連でだって『拷問は国際法上、極めて重大な人権侵害』として条約まであるのに、日本では拷問は暴力行為の延長線上の行為程度の認識しかない!…」
「また始まりましたね」
「まあ、彼が政治家になったのは拷問罪の法制化が目的ですからね。」
「良いですか?拷問というものは、身体への毀損行為はもちろんのこと、相手の尊厳を壊し、心をへし折り、生きる気力を奪う殺人よりも悪質な行為なんだよ!それを裁く法がないって事は、それに該当する刑罰も無いって事なんだよ!これがどれだけ異常な事か分かるかい?」
男はなおも支援者達に熱弁をふるっていた。
そう、あの時の男は今、国会議員として国政の場にいる。
そして、あの時、自殺しようとしていた女との約束を果たす為、
無期懲役か極刑のいずれかしか無い、『拷問罪』の法制化の為に日夜駆け回っていた。
しかし、拷問罪の法制化は残念ながらあと一歩で流れてしまう。
法制化に待ったを掛けたのは女性団体を支持母体に持つ与党の女性議員であった。
曰く、
「強姦罪を拷問罪として適用させてしまうと行為の残虐性に焦点が当たる為、男性と女性の強姦が同等に扱われてしまう。妊娠リスクのある女性への強姦を男性と同等に語るなど言語道断!」
という事らしい。
以前、男性が被害者の場合も不同意性交罪を適用しようという
動きがあった時と全く同じ事が起きてしまったのだ。
しかもその上、この動きに便乗して死刑反対派の弁護士連中を
支持者に持つ議員達まで反対を表明してしまい
廃案となってしまったのだ。
その夜、とある会員制バーで男が一人飲んでいる。
「せんせ」
椅子を2つほど空けた場所に女が座る。
男は、女の方を見ずに声だけで返事する。
「あー、すまなかった。今回はダメになってしまったよ」
男の淡々とした言い方の中にも悔しさが滲んでいた。
2人はあの日、屋上で言い争っていた男女だった。
男は女との約束を守る為に世の中を変えようと政治家になった。
女もあの頃とは雰囲気が変わって垢抜けた様子だ。
男の泣き言に女と付き合う。
「まさか女性団体がこぞって反対してくるとか、流石にびっくりしましたねー」
女が呆れたような口調でお手上げのジェスチャーをする。
「ああ、強姦の厳罰化の為の法案なのに、男性と同等の扱いになるから嫌だとか、意味が分からんよ。あいつらは日本を撹乱する為に某国が差し向けたスパイだと言う陰謀論を信じたくなったね」
途方に暮れたように弱音を吐きながら苦笑する。
「まあ昔から女の敵は女って言いますからねー」
女は頼んだマティーニのグラスの蓋をなぞりながら、
悲しそうとも、怒りを抑えているとも取れる声で
独り言のように呟く。
男はその怒りを察しながらも敢えて気付かぬ素振りで、
「ははは…、何とか彼女達を切り崩す手を考えなきゃなー」
と冗談めかした様子で頭を抱えるふりをする。
女は男のその気遣いを感じ、目だけで男に会釈をしてから、
「兎に角!私の役目はまだまだ続きそうですね」
そう言って女は、手元のマティーニを一気にあおって立ち上がる。
「すまん。法で裁ける様になるまで、1人でも多く奴らを食い止めてくれ!」
相変わらず目も合わせないが、言葉の中に深い謝罪の感情がこもっていた。
「良いんですよ!これが私の役割なんだから。」
女はあっけらかんと言い放った後、
「でも、急いで下さいよ」
と声を潜めて付け足す。
「急ぐって…警察にでも目をつけられたのか?」
焦り顔の男がその日初めて女の方を見る。
しかし、女は首を横に振りながら、
「私、何だか最近、奴等を処分するのが楽しくなってきているので」
イタズラっぽく口に指を当てながらウインクをする。
「おいおい、くれぐれも奴らと同類にはなるなよ…」
苦笑しながらも、額にかいた汗を拭う男。
「ふふふ…。善処します」
そう言って女は店を出て行った。
女はあの日から闇の中にいた。
それが正しい道だとは女自身信じてはいなかった。
しかし、誰かかやらなければならないとしたら、
それは自分の役割だと確信していた。
仲間を募り、情報を集める。
元被害者の自分だからこそ速やかに結果が付いてきた。
犯人の現所在地や犯行の詳細などなど、
性犯罪者のデータは瞬く間に集まった。
奴らの住処を一度知ってしまえば、あとは簡単だった。
怒りがあの時の悔しさが、自分を突き動かしてくれた。
1人目の時は流石に緊張もしたし、怖さもあったが、
呆気なく絶命するそれを見て、それも次からは消えた。
元々、奴等を「人」とは見ていなかった事もあり、
あとは作業として淡々とこなせた。
強姦の再犯率は他の犯罪よりも高い。
有罪になったものだけで見てもだ。
実際に奴らの被害にあった人を数えれば、その数倍、
いや数十倍になるだろう。それほどまでに強姦被害は
表に出にくいのだ。
だから性犯罪者を1人殺せば、数人もしくは数十人の被害者を
救うことが出来る。
女は既にこの行為にやり甲斐を感じてすらいた。
今では、性犯罪者を殺さない日常が来る事なんて想像すら出来なくなっている。
先程、男に「急げ」と言ったのも、あながち冗談では無かった。
「せんせ、拷問罪、まだ諦めてなかったな。うん。私も頑張らなくっちゃ!」
そう呟くと、既に何冊目か分からなくなった、
多くの名前が棒線で消されたメモ帳をめくりながら、
「次の害虫駆除は…と…」
今立っている場所から程近い場所にターゲットの1人がいるのを見つけて、
そこにクルッと丸をつけるのであった。
男はバーでの女の様子に少し危機感を抱いていた。
思ったより時間が掛かってしまったのだ。
彼女が俯かないで歩けるように与えた役割が、
思いの外、彼女を支配し始めている事に焦りを感じる。
「最早、俺だけ正攻法でやっていられなくなったな」
と自身の覚悟を引き出す為に、敢えて声に出して言う。
そして、パソコンで今回反対した議員の支持母体であった
女性団体の代表達のリストを表示する。
そして、
「女性の性は特別だって言うなら、男と同じハニートラップにも抗って頂きましょうか」
と独り言を言った後、
懇意にしている、複数の男性地下アイドルを擁する芸能プロダクションに
電話をするのであった。
数年後、反対派が阿鼻叫喚の醜聞地獄に陥っている中、
拷問罪の法制化案は粛々と可決されるのであった。