シスターには理解ができなかった。
恋というのは本来生殖のためにあるもの。
より良い遺伝子を後世に残すためのシグナル。
そのために生殖器を切るなんて本末転倒ではないか。
シスターは違う。
柚子がスカートを履いていることも、金色の髪が腰まで伸びていることも、シスターにとってはさしたる問題ではない。
自分たちの種の繁栄のため、柚子を己のものにしなくてはならない。
もはや、今までの生ぬるいやり方を続けるわけにはいかない。
柚子はシスターの正体に気付いてしまっているのだから。
強引に教会に引き込んだのも良くなかったのかもしれない。
シトロン――もとい、魔法少女に変身した柚子は鋭い視線をシスターに向けていた。
魔法で創り出したカッターナイフにアルカリ性の液剤を纏わせ、教会に引きずり込んだ糸を切断。
姿勢を低くし、臨戦態勢を崩さない。
張り詰めた空気。
なにが戦いの引き金となるか分からない。
しかしそれはシスターの望むところではない。
まずはなんとかして彼の臨戦態勢を解かねばならない。
そして本来の目的を知ってもらわねばならないと彼女は考えた。
シスターに人間のことなど分からない。
それでも、教会の書斎にあった映像で人間の男性をその気にさせる技術を学んでいた。
とうとう披露すべき瞬間がきたようだ。
今がそのときである。
シスターは体をくねらせた。
豊満な体を強調させるようにしながら、悩ましげな声で言う。
「これ、本当にマッサージなんですか……?」
完璧だ――シスターはそう確信した。
動物にはそれぞれ発情期のサインがある。
猫が大きな声で鳴いたり、鳥が求愛のダンスをしたり、猿の顔と尻が赤くなったり。
人間の場合はコレだ。
この言葉をメスが口にした後、人間たちは行為に及ぶ。
少なくとも書斎に並べられたDVDの多くがそうだった。
だから、どうして柚子がぽかんとしているのかシスターには分からない。
「これ本当にマッサージなんですか……?」
念の為もう一度言ってみた。
もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。
その可能性を考えてのことだ。
さらなる沈黙。
柚子は少し考える素振りを見せた。
恐る恐るといった風に口を開く。
「あの、シスター。もしかしたらなんですけど。その、AVの観過ぎかも……」
「AVってなんですか?」
「それは、その。ああ、なんて言ったらいいのかな――」
と、視線を巡らせること数秒。
柚子は本来の疑問を思い出したようだった。
「そんなことより! シスターは一体なにが目的なんですか。僕をどうしたいんですか!?」
「もちろん、柚子くんと子を作りたいんです」
負の感情から生まれる彼らは人間の嫌悪感を煽るための姿をとることが多い。
主に虫だ。
そして能力もモデルになった虫のそれと近いものになる。
すなわち知能はそれほど高くなく、多種族同士での連携は難しい。
しかしいつだって種族を救うのは突然変異種だ。
首の長いキリン。鼻の長いゾウ。
最初は突然変異種だったそれらは環境に適応して生き残り、同じ性質の子孫を残し、やがて種全体の特徴となっていった。
いわゆる“進化”である。
従来の虫の体に加え、人間の特徴を持って生まれたシスターは突然変異種と呼んで良いだろう。
彼女はもしかすると進化の根本にいる存在なのかもしれない。
彼女に与えられた使命はその優れた知能で人間の社会に溶け込み、魔王の孵化を見守ること。
そして優秀な子を遺し、魔王に使える優秀な配下を一匹でも多く作ること。
どちらに関しても目標達成は間近。
少なくともシスターはそう考えていた。
自然界において多くの場合メスがオスを選ぶ。
だからここまでお膳立てしてフラれるだなんて、シスターは思ってもいなかった。
「ごめんなさい」
頭を下げる柚子を見下ろし、シスターは目を見開き――しかしすぐに微笑んだ。彼女は考えを改める必要があると悟った。
生殖可能な年齢とはいえ、柚子はまだ若い。
状況を正しく認識できていないのだ。
「柚子くん。生物の最終的な目標は殖えることです。重要なのは個の事情ではなく種の存続」
すでに魔王は孵化寸前。
柚子も無事ではいられない。
彼が魔法少女として戦うというのであればなおさらだ。
「これは柚子くんが次の世代に遺伝子を繋げる最後のチャンスなんですよ」
シスターと柚子では種族が違う。
考え方にもきっと相違があるだろう。
しかし生物としての本能は共通。
それらを尊重した論理的な説得は彼にも届くはずだ。
「だから、ね? 柚子くん」
「僕、心に決めた人がいるんです」
「……わたくしの話、柚子くんには難しかったでしょうか」
シスターのシルエットがぐにゃりと歪んだ。
人間ではありえない数の脚に耐えきれず修道服が音を立てて破れる。
頬が裂けて見開かれたたくさんの目がギョロリと柚子を睨む。
「いま話した通り、個人的な事情を言っている場合では――」
「こんなこと自分で言うのは恥ずかしいんですけど」
異形のバケモノを前にしても、柚子は少しも動じなかった。
むしろ共感を抱いてすらいた。
昆虫めいた無機質な理論の中に、人間の矛盾が隠れていることに気付いたからだ。
柚子は少し照れくさそうに微笑んだ。
「シスターが本当に種族のためだけに子供を作りたいのなら、僕じゃなくても良いんじゃないですか?」
「なるほど」
シスターのたくさんの瞳が視線を宙に漂わせる。
やがてそれらが一斉に柚子を見た。
「確かにそうですね」
相手が柚子でなくとも構わない。
いや、むしろ種のことを考えればもっと身体能力の高い人間や、より知能の高い人間と子を成すべきかもしれない。
でもシスターは柚子が良いのだ。
柚子でなくてはダメなのだ。
そこに論理的な理由などないし、必要もない。
故に、論理的な説得など不可能。
「それなら仕方がありません。小賢しい建前は無しにしましょう」
シスターは静かに言った。
「柚子くんのことが好きです。孕ませてください」
彼女が糸を吐き出したのはそれとほぼ同時だった。
強硬手段に出たのだ。
大人の女性からの色々飛び越えたド直球の告白。
普通の中学生男子が経験することはないであろうそれに、柚子は嫌悪感を抱かなかった。
飾り気のない本能的な言葉に感動すら覚えていた。
「……僕も、そうすれば良かったのかな」
来ることが分かっていたかのようにひらりと糸を避け、まっすぐに視線をシスターに向ける。
シスターの気持ちが柚子には分かった。
彼もまた、凛に近付きたいがために魔法少女にまでなってしまったのだ。
シスターのことを非難できる立場ではない。
柚子は武器を構えた。
糸を切ったときにも使った、魔法で創り出したカッターナイフ。
刃渡り数センチのそれに魔力を込めていく。
いくら魔力を込めたって、そんなに小さな刃では致命傷はおろかシスターの動きを止めることすら難しい。
「ふふ……柚子くんは優しいですね」
シスターの胸に暖かい気持ちが広がっていく。
なぜ柚子のことがこんなにも好きなのか、シスター本人にも確かな理由は分からない。
不良に絡まれていたところを助けられたとか、パンをくわえて走っていたら曲り角でぶつかったとか、そんなドラマティックな出会いがあったわけじゃない。
登下校する子供たちを眺めていたら、たまたま柚子が目に入った。
きっかけなんてそれくらいだ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんて言葉があるが、逆もまた然り。
その日からシスターは、柚子の全部を好きになってしまった。
そして恋は盲目とはよく言ったもの。
この時のシスターは柚子しか見えていなかった。
もう一つの大事なもののことをすっかり忘れていたのである。
柚子の目的は最初からそれだった。
「あっ」
常に微笑みを浮かべていたシスターの顔から笑みが消えた。
増えた目が一斉に見開かれる。
もう遅かった。
柚子の創り出したカッターナイフはすでに彼の手を離れていた。
それは矢のように空を切り裂き、標的に向けて一直線に飛んでいく。
シスターにではない。
祭壇に安置された禍々しく光る黒い卵。
「いけません、それは」
シスターの制止もむなしく、それは卵に命中。
突き刺さったカッターナイフを中心に蜘蛛の巣状のヒビが走る。
これはチャンスだ、と柚子は理解していた。
濃い瘴気に包まれ、歴戦の魔法少女ですらこの中に入れない。
アザレアでさえも。
ここで卵を破壊できたなら。
シスターを攻撃せずに事を収められるかもしれない。
地に落ちたアザレアからの信頼を多少なりとも取り戻せるのではないか。
そう期待したのだ。
シスターの慌てぶりに、柚子は確かな手応えを感じた。
しかし柚子はこのとき2つ勘違いをしていた。
1つは、魔法少女としての功績をいくら積んでもアザレアの心には届かないこと。
そしてもう1つ。シスターは卵を傷つけられたことに慌てたわけじゃない。
むしろ逆。
彼女は柚子の身を案じて声を上げたのだ。
卵に変化があった。
蜘蛛の巣状に巡ったヒビが全体に広がっていく。
「ダメ……ダメです。わたくし、まだ、柚子くんと――」
シスターの狼狽えた声が掻き消されるほどの咆哮。
鮮やかなステンドグラスが割れ、輝くガラスの雨が降り注ぐ。
正しく言えば、それは産声だった。
孵化のときが来たのだ。
柚子の攻撃が刺激となったのだろうか。
シスターの想定よりもずっと早く。
こうなってしまえば、もう終わりだ。
それを分かっていながら、シスターは声を出さずにはいられなかった。
「やめてください!」
彼女の制止も虚しく。
教会は瓦礫の山となって柚子を飲み込んだ。