なぜ柚子を助けたのか。シスター自身にもよく分からない。
あの状況では交尾などできない。
柚子を助けてもメリットはないどころか、むしろ害になる可能性が高いことは理解できていた。
「でも、どうしても止められなかったのです」
両手を組み、跪くシスターを朝日が照らす。
瓦礫の山となった教会で、彼女が懺悔している相手は神ではない。
彼女の前にいるのは、あちこち体が欠け、死の危機に瀕しながらも生き長らえた女王蜂だ。
それは群れの心臓。
働き蜂が全滅しても、女王蜂さえ残っていれば巣はまた再興できる。
しかしシスターは、他の蟲よりもずっと利己的だった。
そしてそれを自覚してもいた。
良くないことだとも分かっている。
だから懺悔しているのだ。
「人の神は悔い改めれば赦すそうです。あなたもきっと、わたくしを赦してくれますよね?」
真っ赤な唇に舌を這わせる。
湿っぽい咀嚼音と小さな断末魔の悲鳴が、廃墟となった教会に響いた。
*
「ん?」
教室について早々、柚子はプルリと体を震わせた。
どこからか嫌な視線を感じたからである。
女王を倒し、柚子にもようやく平穏な日常が戻っていた。
ケガで数日学校を休んだだけなのに、朝日の差し込む穏やかな教室がなんとも懐かしく感じられた。
妖精さんたちは女王蜂の死骸が確認できていないことを懸念しているようだが、柚子にはもっと気になることがあってそれどころじゃない。
もちろん、凛のことだ。
柚子は視線を窓際の机に向ける。
机の主の姿はない。
まだ登校していないのか、あるいは……もう学校に来ないつもりなのか。
ため息をつきながら柚子は席を立った。
纏わりつく視線に我慢の限界が来たからだ。
視線を無視して、柚子は教室を出た。
逃げるようにして廊下を歩いていく。
しかし視線は靴の裏のガムのようにしつこくついて回る。
それは柚子を追いかけ、ついには追い越し、彼の前に立ちふさがった。
「待てよ柚子! なんで逃げんだよ」
「逃げるに決まってるじゃん」
竜斗の問いに、柚子は辟易したように答える。
竜斗が抱えているのはこの学校の制服。
それも女子生徒用のスカートだ。
彼はそれを柚子に差し出す。
着ろ、ということだろう。
「もう己を偽らなくて良いんだ」
柚子は恐れ慄いた。
竜斗の目があまりに綺麗で、まっすぐだったからだ。
今までも竜斗のことが怖いと感じる瞬間は幾度となくあったが、これは種類が違う。
柚子は思わず後退りする。
当然背後に気を配る余裕などはない。
なにかにぶつかり、咄嗟に振り返る。
「わっ、ごめんなさ……」
言いかけて、そのまま石にでもなったかのように固まった。
そこにいたのはメデューサではない。
鋭い目をしているし、ポケットの中には変身ブローチが入っているが、それ以外は普通の中学生女子だ。
「あっ……凛ちゃ……」
「30センチ以内に近付かないで」
感情を押し殺した、抑揚のない声。
当然の結果である。
正体がバレた以上、こうなることは柚子も予想していた。
しかし想像するのと、実際に言われるのとでは全く違う。
頭を殴られたような衝撃。
血の気が引き、目の前が真っ暗になる。
柚子は何も言えず、ただふらふらと歩き出した。
とにかくこの場を離れたかった。
まるで断頭台への道を歩む人間のような面持ち。
竜斗すら、彼に声をかけることができない。
なにか励ますようなことを言おうと考えたのか。
一瞬口を開きかけたが、結局声は出ず。
女子制服を抱えてすごすごと去っていった。
が、柚子は廊下の途中で足を止めた。
ブカブカの制服の袖を掴み、引き留める者がいたからだ。
凛だ。
切れ長のクールな瞳はかつてなく揺れている。
いつものミステリアスな表情は、中学生らしい戸惑いに塗りつぶされている。
消え入りそうな声で、彼女は言った。
「3メートル以上離れないで……」
恋は人を狂わせる。
分泌される種々の脳内物質が未知の感情を強制的に呼び起こし、コントロールすることは容易でない。
いつもと違う表情をさせ、論理的とはとても言えない行動をとらせ、趣味趣向すら変えてしまう。
いつかそれはトラウマを克服させ、蛇蝎のごとく嫌っていたものを好きにさせるかもしれない。
少なくとも、柚子の地に落ちた気分は恋の力で極楽にまで引き上げられた。
せっかくのチャンスを逃したくない。
柚子は勢いよく頭を下げ、右手を差し出す。
「ま、まずは……お友達からでっ!」
温かくて柔らかな感触が、柚子の手を包んだ。