その日、柚子の足取りは軽かった。
明日土曜にアザレアとのデートが控えていたからである。
タイミング良く、その少し前に魔法少女としての給金を受け取っていた。
マネージャー時代とは比較にならない額だ。みうみういわく、
「グッズが順調に売れてるんだみゅ。特別ボーナスだみゅ~!」
とのことだった。
街ゆく人のカバンに自分の顔がプリントされた缶バッジだのぬいぐるみだのが付いているのはどうにも気恥ずかしくて嫌だったが、これだけのインセンティブを受け取れるのならば文句も言えない。
「この前の戦いでアザレアのファンにも顔が売れたのが良かったんだみゅ。この調子でどんどん利益……じゃなくて、トキメキを稼いでいこうみゅ!」
つぶらな瞳を欲望でギラギラ輝かせるみうみうに少し引きつつも、柚子は浮き足立っていた。
この額があれば中学生の思いつく程度の贅沢はなんだってできる。
アザレアとのデートでなにをしようかと、柚子は期待に胸を膨らませていた。
が、そのウキウキを嗅ぎつけたか。
あるいは迂闊に財布の中身を数えてにやにやしていたのが良くなかったのかもしれない。
背後から近づかれ、気付いたときには財布を取り上げられていた。
「りゅ、竜斗……」
振り向いた柚子に竜斗はニコッと笑いかけ、お決まりのセリフを吐いた。
「金、ちょっと貸してくれない?」
***
「で、全部カツアゲされたみゅ?」
話を聞き終えたみうみうがそう尋ねると、シトロンはしょんぼり顔のまま黙って頷いた。
「学校にそんな大金持っていったらダメだみゅ」
「だって、家においておくとお母さんに怪しまれるし……通帳も管理されてるし……」
「じゃあ事務所の方で預かっておくようにするみゅ。必要なときにその分渡すみゅ」
「うん……でも今日、どうしよう……」
なんの案も浮かばず、とうとうその日はやってきてしまったのだ。
待ち合わせ場所の公園でひたすらブランコを漕ぐシトロン。
約束までまだまだ時間はあるが、彼を呼び止める者がいた。
アザレアではない。彼を悩ませている張本人。
「シトロン!」
「えっ……竜斗……?」
と、声に出してからハッと口元を押さえる。
今のシトロンは魔法少女だ。
竜斗の名前を知っているのはおかしい。
やってしまった。
シトロンは恐る恐る顔を上げ、竜斗の顔色を窺う。
が、竜斗は訝しんだりはしなかった。
なんなら嬉しそうに頭をかいている。
「俺の名前知っててくれたんだ。へへ……」
恋をしている人間というのは、何でもかんでも自分に都合良く解釈してしまうものだ。
竜斗の顔がだらしなく緩む。
「ネットで目撃情報が上がってて、あちこち探してたんだ」
「そう……それで、ええと、なにか用?」
早くどこかへ行ってくれ、とシトロンは心底願っていた。
これからアザレアとのデートが控えていて、他の人に構っている余裕はない。
しかも竜斗からはつい昨日カツアゲされたばかり。
顔も見たくないというのが正直なところだ。
だが竜斗がそんな事情など知るはずもない。
はにかみながら、綺麗なリボンでラッピングされた小さな箱を取り出した。
「この前助けてくれたお礼」
「いや、お礼ならこの前も――」
「良いから!」
半ば押し付けるようにしてそれを手渡す。
渋々封を開けるシトロン。
箱の中身を見るなり表情が凍りついた。
それは、ペンダントだった。
金の細いチェーンに、ハートモチーフのペンダントトップがついたもの。
女性へのプレゼントとしては至って平凡な品物である。
しかしシトロンにとってデザインは問題じゃない。
「……これ、お金はどうしたの?」
低い声でそう尋ねる。
しかし竜斗はまだお礼を言われる気満々だ。
ヘラヘラ笑って首を振る。
「いやぁ。金のことなんか気にしなくて良いから――」
「お金はどうしたのかって聞いてるの!」
竜斗の体がビクリと震えた。
ここにきて、ようやくシトロンの様子がおかしいことに気付いたようだ。
中学生男子のシトロンにこのネックレスの良し悪しなど分からない。
しかしそれが数百円で買えるおもちゃのアクセサリーじゃないことは彼にも分かった。
普通の中学生がやすやすと買えるわけはない。
しかし竜斗はちょうど先日、柚子の財布からそれが買えるだけの金額を抜き取っている。
シトロンはじっとりと竜斗を睨めつける。
「人のお金で買ったんでしょ」
「いや、その……」
「こんなのいらない。さっさと返品してお金返してよ!」
竜斗はしばらく言い訳めいたことを言ったり謝罪のような言葉を口走ったりしていたが、シトロンはもはや聞いてはいなかった。
彼の胸にあるのは竜斗への軽蔑だけ。
竜斗は幼い頃から体が大きく、強く、柚子にとっては絶対的な存在だった。
それがどうだろう。
“シトロン”の機嫌をとろうとプレゼントまで用意し、それを突っぱねられるとすがりつくようにしてヘコヘコ頭を下げている。
「もういいから早く消えて」
どうして今までこんな男を恐れていたのだろう。
シトロンの口から自然とため息が漏れた。
それ以上、竜斗と話すことなどなかった。
「気持ちは分かるけどファンにあんなこと言っちゃダメだみゅ。例の蜘蛛といい、最近敵の動きが妙だみゅ。少しでもトキメキを稼ぎたいみゅ」
竜斗が去るなり、空気を読んで隠れていたみうみうがサッと顔を出す。
しかしシトロンに後悔はない。
「いいや。もっと言ってやれば良かったよ」
「ふふ、シトロンって顔に似合わず結構強気なのね」
ハッとして顔を上げる。
シトロンがその声を聞き間違えるはずはない。
アザレア――いいや、赤城凛がそこにいた。
魔法少女姿ではない。
そしていつもの学生服でもない。
私服である。
清楚な紺のワンピースは凛の雰囲気にぴったりで、カメラを持っていないことを後悔しつつシトロンは心のシャッターを押しまくった。
「か、可愛い……」
「ほんと? 可愛い子にそう言われると嬉しいな」
ほとんど無意識に口から飛び出たシトロンの呟きに、凜はスマートに答えた。
「シトロンは変身を解いてくれないの? 普段着が見られるかと思ったのに」
「いや、その……オシャレな服持ってなくて……」
もちろん凛が私服で来るだろうことは想定していた。
映画館やウィンドウショッピング。定番のデートをするのに魔法少女の姿では目立ちすぎる。
しかし魔法少女に変身する以外に女装のスキルもセンスも持ち合わせてはおらず、その上竜斗にお金を取られたものだから女性ものの服を買うことすらできなかったのだ。
シトロンが気まずそうにしているのを見て、凛は微笑んだ。
そして変身ブローチを掲げる。
光が体を覆い、見慣れたコスチュームが彼女を包んでいく。
クラシカルなブラウス、赤いスカート、そして大きなリボン――魔法少女アザレアになった彼女は、まるで王子様のように恭しく手を差し出した。
「それじゃあ、今日は魔法少女にしかできないデートにしましょう」
シトロンの手を取ってふわりと飛び上がる。
人でごった返している休日の繁華街をはるか下に見ながらどんどん上昇。
魔法少女姿じゃ街歩きはできないが、空中散歩はできる。
心地よい風と太陽の光を浴びて、シトロンは頬を緩めた。
が、次の瞬間シトロンの顔がにわかに強ばる。
彼は忘れていた。アザレアが空中戦の名手であることを。
「いっ!?」
急降下。急上昇。急旋回。
お遊びは終わりだとばかりに、アザレアはシトロンの手を引いて大空を縦横無尽に飛び回る。
もちろんシトロンだって魔法少女で、飛行能力もある。
しかしアザレアのそれとは天と地ほどの差があった。
シトロンの視界に星が散る。凄まじい風圧。
息をするのにも苦労する有様。
ジェットコースターみたい、と思わず呟くとアザレアは首を傾げた。
「そうなの? 私、遊園地いったことないんだよね」
「じゃ、じゃあその……今度、一緒に行かない?」
「うん。行こう!」
シトロンの勇気を振り絞った一世一代の誘いに、アザレアは即答した。
瞬間、彼の顔が喜びに輝く。
さすがに魔法少女姿で遊園地は難しい。
それでも、どうにかしていつか絶対に……そう密かに決意した。
「き、気持ち悪いみゅ……」
シトロンの背中に隠れていたみうみうがのそのそと出てきた。
アクロバティック飛行につきあわされて、どうやら酔ったらしい。
アザレアが眉間にシワを寄せる。
「どうしてあなたがいるの、みうみう」
「魔法少女の力を私的利用するのは本来禁じられているみゅ……ちゃんと見張ってないと……」
「あら、無粋なこというのね」
言いながら、シトロンを抱きとめるようにして急ブレーキ。
慣性の法則に従ってみうみうが放り出される。
「それに、これは私的利用なんかじゃない。特訓よ。ね?」
「え!? うん! うん!?」
シトロンは目を回しながら頷いた。
憧れのアザレアの顔が、文字通り目と鼻の先にある。
心臓がバクバクうるさいのはアクロバティック飛行のせいだけじゃない。
「シトロンが速く飛べるように鍛えるの。邪魔だからあなたはどこかへ行ってて」
「そんな言い訳……うぷ」
しかしもう限界のようだった。みうみうはよろよろと下降していく。
それを見下ろすようにして、アザレアは悪戯っぽく笑った。
「これで邪魔者はいなくなったね」
優等生然としたアザレアの珍しい表情に思わず見惚れる。
そして次に、その顔はシトロンに向けられた。
「まぁ、あぁ言ったから一応やっとこうか」
「なにを?」
「特訓だってば。飛ぶときの姿勢を直せばもっと早く飛べるよ」
アザレアの手がシトロンへと伸びる。
「できるだけ風の抵抗を減らすようにするの。背筋伸ばして、お腹引っ込めて」
女の子同士なのだ。体を触るなんて普通のこと。変にリアクションしたらおかしく思われる。
シトロンはそう考えた。
顔を真っ赤にして、目を固くつむることでそれに耐える。
お陰でアザレアの悪戯っぽい笑みが深くなったことに気付けなかった。
その手がシトロンの腰をなぞり、お腹をさする。
楽器を触るような繊細な動き。
その絶妙な力加減がなんともくすぐったくて、シトロンの口から息が漏れる。
それは少しずつ上へと伸びた。
少しずつ、少しずつ。上へ、上へ。
やがてシトロンのささやかなふくらみに手がかかり、そして――
ペコッという間抜けな音を立ててへこんだ。
「え?」
「あっ……」
シトロンの顔から血の気が引く。彼は男だ。
ただでさえ細身の胸に膨らみなどあるはずもない。
そのシルエットは変身ブローチの創り出した幻想。つまり。
「シトロンの胸ってパッド?」
「あ、あわっ、いや……その……」
バレた? バレたか? シトロンは目を白黒させた。うまい言い訳も出てこない。
その様子に、アザレアは小さく噴き出した。
「あはは、ごめんごめん。でも気にしなくて良いのに。どうせあと少ししたら大きくなるよ」
何年経っても大きくはならない……シトロンはそんな言葉を飲み込んだ。
その慌てぶりを、貧乳がバレたことによるものだとアザレアは解釈したらしい。
それ以上の追求はなかった。
今回もどうにかこうにか危機を回避できたと、シトロンはひっそり胸を撫で下ろす。
とはいえ、これ以上体を触らせていれば思わぬところから男だとバレかねない。
シトロンはサッとアザレアから距離を取り、地上を指差す。
「い、いっぱい飛んで喉渇いちゃったな! ちょっと下に降りてジュースでも買わない?」
「それなら、ちょうど行きたいところあるんだ」
自販機で缶ジュースでも買えれば十分だったが、アザレアに連れられて降り立ったのはオシャレなコーヒーチェーンの店の裏手だった。
新作のドリンクが発売したばかりらしい。
店の外にまで列が伸びている。
アザレアは変身を解き、行列をものともしない軽快な足取りで店へと向かった。
「その格好じゃ目立つでしょ。私が買ってくるからその辺で待ってて」
「あの、お金……」
「いいよ、さっきのお詫び。シトロンも新作のフラペチーノでいい?」
「ええと、任せるよ」
シトロンは上の空でそう返事をする。
自分から言いだしたものの、とてもゆっくりジュースを飲むなんて気分じゃなかった。
一人になって思い出すのは、体に残ったアザレアの手のぬくもり。
そして以前言っていたみうみうの言葉。
「あれが“百合営業”ってやつなのかな……」
あんなのが何度も続いたら……。心臓がいくつあっても足りない、とシトロンは思った。
物思いにふけってぼーっとしていたのが良くなかったのだろう。
近づいてくる足音にギリギリまで気付かなかった。
「ほら、あの子。空から降りてきたんだよ」
「うわマジじゃん」
シトロンに近づいてくるのは、二人組の男だった。
大学生くらいだろうか。
躊躇なく、軽い調子で声をかけてきた。
「ねぇ君、魔法少女でしょ?」
「あっ、ええと……」
「すげー金髪。触っていい?」
「え? いや……」
シトロンは小柄で貧弱な男子中学生である。
竜斗をはじめとした不良にカツアゲされたり絡まれたりしたことはこれまでにもあった。
しかしこのような絡まれ方は初めてだ。
どう対処して良いか分からず狼狽えていると。
「シトロンから離れてッ!」
振り向くと、アザレアが立っていた。
そう、いつの間にか変身していたのである。
しかも武器まで持って。
魔法で創り出した刺股を振り回し、男たちを威嚇する。
「離れろ! 離れろォ!」
魔法少女が本気を出せば人間など一捻りである。
男たちは悲鳴を上げながら去っていった。
賢明な判断だろう。
今のアザレアならやりかねない。
「どうしたのアザレア、落ち着いて」
「大丈夫だった!? 変なことされなかった!?」
「いや、話しかけられただけだよ。ちょっと驚いたけど、あの人たちもきっと悪気は――」
「ダメッ! 男なんか信用できない!」
シトロンは困惑していた。
確かに彼らは不愉快な人たちだった。
しかしアザレアが言うほど危険な目にあったという自覚はない。
なにより、シトロンだって魔法少女だ。
いざとなれば空へ逃げることも戦うことだってできる。
どうしてアザレアがこんなに取り乱しているのか、彼には分からない。
それがアザレアにも伝わったのだろう。
シトロンの肩に手を置き、グッと顔を寄せる。
「男なんてみんな、汚くて愚かでうるさくて……善人の顔で近づいて女を騙すの」
ドキリとした。自分のことを言われたような気がしたからだ。
シトロンもアザレアを騙していることには違いない。
しかし彼女の目はシトロンではない、どこか遠くを見ているようだ。
「私は絶対、お母さんみたいにならない」
シトロンには分からなかった。
彼女がなにを言っているのか、誰に言っているのか。
だがそれを尋ねる余裕はなかった。
アザレアは武器を刺股から弓矢に持ち替えた。
まさか先ほどの男たちに追い打ちをかけるつもりか。
「なにもそこまで――」
と、声を上げたシトロンの腕をかすめるようにして矢が放たれる。
思わず「ひっ」と声を漏らしたそのすぐ後ろで矢がなにかに当たり落ちた。
蜘蛛だ。
小型犬ほどのサイズの蜘蛛がたくさん。
「い、いつの間に。みうみうからの出動要請はなかったのに」
柚子が後退りするのと対照的に、アザレアは果敢に前へと進む。
手にした武器はまた変わっていた。
消防士の持つホースのようなもの。
しかしそこから出るのは水じゃない。
「大丈夫だよ。どんな悪いやつがきても、シトロンは私が守るから」
そう呟いたアザレアの笑顔が赤く染まる。
シトロンの頬を炙る凄まじい熱量。
襲い来る大量の蜘蛛は彼女の持つ武器から噴出される炎に焼かれてのたうち回っていた。
圧倒的だ。
男として彼女に良いところを見せたいという心情はもちろんあったが、もはやシトロンできることなどなかった。
「すごい……」
彼の漏らした言葉に振り向くアザレア。
しかしその笑顔はシトロンを見るなり凍りついた。
「シトロン、血が!」
「へ?」
見ると、確かに手首から少々血が滲んでいる。
アザレアの矢がかすったか、あるいは小石でも飛んできて切ったのか。
いずれにしても単なるかすり傷だ。
しかしアザレアは血相を変えてシトロンの手を取った。
「本当にごめんね。守るって言ったのに」
「いや、平気平気! 大丈夫――」
と、そこまで言って彼は二の句が継げなくなった。
アザレアの舌が、その傷口をなぞったからである。
「ほ、ほ、本当に大丈夫だから、その、そこまでしなくても」
綺麗な唇を血で汚すのが申し訳なくて、シトロンは腕を引っ込める。
しかしアザレアはそれで引いたりしなかった。
彼を追いかけるように、さらに一歩踏み込む。
アザレアの切れ長の瞳が迫る。
瞬間、シトロンは柔らかい唇の感触を知覚した。
手首にではない。己の唇に。
なにが起きたのか分からなかった。
本や映画の中でしかそれを知らなかった。
熱暴走しかけた頭で必死に考える。
それは確か、おそらく、通常は、好き合う者同士が行う行為――キス、と呼ばれるそれであるはず。
とすれば、アザレアも自分のことを好いてくれているのだろうか。
いやいや、でも今は女の子格好をしているのに。
もしかして、これも百合営業?
しかしシトロンを見るアザレアの顔は。
潤んだ瞳、うっすらと色付いた頬、艶やかな赤い唇。
とても営業なんて言葉では片付けられない。
そしてアザレアは甘い声で囁いた。
「女の子同士は、いや?」