平穏だったはずの日常から一転して、悪夢のような事件に巻き込まれる話。
●主人公
雄英高校普通科C組
個性:
モブ子▶︎
モブ男▶︎
C組担任▶︎
平穏の終わり
雄英高校に入って初めての夏休み。
不動、心操、樫宮、光崎の四人は、茹だるような暑さの中で補講を受けていた。
窓の外ではツクツクボウシの乾いた鳴き声が途切れなく続いている。午後の陽射しが窓から斜めに差し込み、机の上に長い影を落としていた。
終業のチャイムが鳴る。
「はい、今日はここまで。ちゃんとノート取った?消すよ〜」
止水はそう言いながら淡々と黒板の文字を消す。そして慣れた手つきで教卓の上のプリントをまとめ、教材を抱えて教室を出ていった。
教室の扉が閉まると同時に、教室の空気は一気にほどけた。
「やっと終わったー。止水先生容赦なさすぎ。あんな詰め込まないとダメ?」
「説明は丁寧なんだけど丁寧すぎて逆に分からん。俺らみたいなバカにも分かるように説明してほしいわ」
「ちょっと、俺"ら"って何?勝手に私を含めないでよ」
「別にお前とは言ってないだろ。それともバカの自覚あんのかよ?」
「は?」
「え?」
樫宮と光崎は机に突っ伏したままいつもの軽口を叩き合っていた。
「そんなことよりお前ら、今日もコンビニ寄ってくだろ?アイス買おうぜアイス」
振り返った光崎が不動と心操に話しかける。
すぐ後ろにいた不動はプリントの束をスクールバッグにしまいながら答えた。
「うん、行く。今出てる期間限定のミルクソーダ味のやつ、美味しいらしいよ」
「マジ?じゃあ俺それ買お」
補講帰りに四人でコンビニへ寄り、それぞれ好きなアイスを買って食べながら帰る。それが夏休み中のいつものお決まりの流れだった。不動はその時間だけを楽しみに補講に臨んでいた。
「心操は?」
「うん、行くよ」
心操は立ち上がり、リュックを肩にかける。
すると不動が軽く顔を覗き込んだ。
「そういや心操、特訓の方はどうなの?」
実は心操は体育祭終了後、A組の相澤先生に目をかけられ、ひと月ほど前からマンツーマンで指導を受けている。ヒーローになるための第一歩だと嬉しそうに語ったときの心操のあのキラキラした目を忘れられない。不動にとってもそれは誇らしく、まるで自分のことのように嬉しかった。
「今は基礎体力向上のためのトレーニングが中心かな」
「顔色悪いけど大丈夫?疲れてんじゃないの」
「ようやくスタートラインに立てたんだ。ヒーロー科は今、林間合宿中らしいし……これくらいで立ち止まっていられない。俺はお前みたいに才能があるわけじゃないから、何倍も努力しないと」
「は?何、才能って……」
心操のその一言に、不動の眉がわずかに動く。
「来てたんだよ、スカウト」
「あぁ心操にでしょ?こないだ止水先生から聞いたから知ってる。よかったじゃん、プロの目に留まって」
不動は心操の肩をポンと叩く。
「……お前にもな」
「え?」
「しかも俺は二件なのにお前には三件来てた」
「は……何それ知らない。というか何であんた知ってんの?」
「職員室に行った時、たまたま止水先生のパソコンの画面が目に入ったから」
「でもそんなの、私には関係ない話だから。私はあんたにスカウトが来たって聞いて嬉しくて……」
「関係ない……か。いいよなお前は、選べる余裕があって」
心操は最近、自分と不動との差にひどく敏感になっていた。彼は元々数字に振り回されるようなタイプではない。数云々よりもスカウトが来たという事実を真摯に受け止め、素直に喜ぶタイプの人間だ。
『ヒーローになったら是非うちの事務所に』
今すぐという話ではなくとも、その話は心操にとって非常に価値があるはずだった。なのにヒーロー科に追いつきたいという気持ちが、熱意が、余計に心操を焦らせており、どうしても言葉の端々に卑屈さが滲んでしまっていた。
それもあってか、不動の声も普段の落ち着きを欠き、険しさを隠しきれないでいた。
「選べるって……私は別に興味ないんだから仕方ないじゃん。そんな分かりやすく卑屈になんないでよ。才能って言うけど、プロヒーローが評価したのは私の"個性"であって"私自身"じゃないから」
一度口を開いてしまえばもう止まらない。心操らしくない今の姿を見ていられず、不動はどうにかしていつもの彼に戻ってほしかった。
「それにあんたの比較対象が私ってのも変。勝手に比べられたって困る。あんたが気にしなきゃいけないのは私じゃなくてヒーロー科でしょ」
「不動、もうその辺にしときなって……」
樫宮が小さく割って入る。
才能があるのは心操の方だと不動は本気で思っている。ヒーロー向きではないと言われ続けた個性にも関わらず、志は一切ブレなくて、ストイックで、研究熱心で、努力を惜しまない。
何でもほどほどにやり過ごしたい不動には決して真似のできない生き方であり、心操のその姿勢は紛れもなく尊敬に値する。
だからこそ今の彼の自己卑下めいた態度が異様に腹立たしかった。
「あんたはちゃんとスカウトも来てるし、相澤先生から直々に指導も受けてる。何が不満なの?もっと胸張りなよ。ストイックなのはいいけど、あんまり自分を追い込むと視野が狭くなるよ」
(──分かってるよ、そんなこと)
心操は体育祭以降、不動に対して覚えたあの
当初は自分を勝たせるために不動が陰で協力してくれるという話だったはずだ。それなのに、結果は自分がベスト16、不動はベスト8だ。
ヒーローを目指してない不動にすら自分は負けている。
だからもっと頑張らないと。
早く追いつかないと。
しかし心操が抱えてるのは焦りだけではなかった。あの時感じた嫉妬は、単に彼女に負けたことへの悔しさだけではなかったのかもしれない。
周囲がまだ彼女のことをよく知らない頃から、自分だけが不動の個性のポテンシャルに気づいていた。しかし彼女が体育祭で結果を残し、周囲から賞賛され始めた途端に胸の奥がざわついた。
自分が最初に彼女の可能性を見つけたという、ささやかな優越感。それを他人に奪われてしまうことへの苛立ち。
そんな身勝手で醜い感情を抱いていた自分を、心操は素直に認めることができなかった。
不動がヒーローに興味がないことも、純粋に自分を応援してくれていることも、ちゃんと分かっている。分かっているのに、身近にいるからこそどうしても比べてしまう。彼女に応援されればされるほど、惨めな気持ちがどんどん膨らんでいく。
でも応援されて嬉しい気持ちも、嫉妬の感情も、どちらも嘘じゃないから苦しい。どれだけ平静を装ってみても自分の感情からは逃げられない。なのに誰かに打ち明けることもできなかった。
だからこそ心操は、不動にあそこまで言われてつい余計な一言が口をついて出てしまった。
「不動には分かんないよ」
言った瞬間はっとして口をつぐんだが、よくない一言だと気づいた時にはもう遅かった。真夏だというのに、教室の空気が一瞬で凍りつく。
不穏な空気を察知した樫宮と光崎は思わず顔を見合わせる。
不動の表情がみるみるうちに険しくなっていくのが分かった。
「……そうだね。あんたの言う通り、私には
その声音ははっきりと怒気を孕んでいた。
不動は乱暴にスクールバッグを掴むと、そのまま足早に教室を出て行った。
「利世!」
樫宮が立ち上がる。だが引き止める言葉が出てこない。
乱暴に閉ざされた扉と心操の横顔を交互に見やることしかできなかった。
光崎は頭をかきながら言葉を探す。
「心操……不動もまあまあ踏み込みすぎたかもしんないけど、お前もお前だぞ」
「……分かってる」
心操は力なく椅子に沈み込み、静かに項垂れた。
情けなさと後悔が同時に込み上げる。
「気持ちは分かるけどよ」
「あんなこと言いたかったわけじゃない。不動に当たっても仕方ないのにな」
「そうだな。不動も馬鹿じゃない。あいつならその辺ちゃんと分かってるよ」
「……ああ。明日ちゃんと謝るよ」
光崎はそれ以上何も言わなかった。
どちらの気持ちも分かるからこそ、軽々しく慰めることも責めることもできなかったからだ。
不動は一人で校門を抜けた。
いつもなら四人でコンビニに寄って喋りながら帰る時間。だが今日は沈んだ空気を引きずったまま独りきり。
歩みを進めるほどに頭が冴え、次第に冷静になっていく。
(……最っ低。本当に最低だ私。何であんなこと……)
「ヒーロー様」なんて、絶対に口にしてはいけなかった。
心操が自身の個性によって周りから敬遠されながらもずっと志してきた「ヒーロー」という言葉を、つい皮肉めかして使ってしまった。
誰よりも彼がヒーローになるのを願っていたはずなのに。ただ純粋に応援したかっただけなのに。
彼の志を軽んじる物言いをした自分が嫌になる。
(謝ったって許してもらえないかもしれないけど、明日も午前中補講だし……ちゃんと謝ろう)
すれ違ったまま。
それでも二人は同じ"明日"を願っていた。
不動はひたすら歩みを進める。
体育祭をきっかけに多くの通行人から声をかけられるようになってしまった彼女は、それ以来人通りの少ない通学路を使うようにしていた。
あれから三ヶ月。声をかけられることも次第に減っていき、そろそろ元の通学路に戻してもいいかもしれないと考え始めていた。
人気のない住宅街。
夕方の影が長く伸びる細道に差しかかったその時だった。
「あの、すみません。不動利世さん……ですよね?」
背後から声を掛けられる。
振り向くと、季節外れの分厚い黒のパーカーを着た男が立っていた。フードは深く被られ、顔はよく見えない。
「体育祭見ました。かっこよかったです。……僕、ファンになっちゃって」
聞き飽きるほど浴びせられてきた台詞。
やっぱり、通学路を戻すのはまだ早いか──。
いつもなら愛想笑いで受け流すのだが、さっきの出来事が尾を引いていたのもあり、今日は少し苛立ちの方が勝ってしまっていた。
それに真夏にしてはあまりにも不自然な装い。警戒しない方が無理だった。
つい声に温度を乗せるのを忘れる。
「すみません、急いでるので」
会釈もせずに立ち去ろうとしたが、男がするりと進路を塞ぎ、食い下がる。
「なら、せめて握手だけでも……」
そのしつこさに不動は諦めの溜息をつく。
「……まぁ握手くらいなら」
それで解放されるなら何でもいい。無駄な押し問答でこれ以上足止めされる方が面倒だ。
早くこの場を離れたい一心で、不動は無防備に右手を差し出した。
すると突然、がしっと手首を掴まれた。
男の指が蛇のように巻き付き、不動の手首を一周する。
「……!?」
憧憬の念など微塵も感じられない。
骨の節々が軋み、思わず悲鳴が漏れそうになるほどの握力。あまりの強さに、本能が警鐘を鳴らす。
「痛っ……!待っ……離し……て…………っ!」
思わず見上げると、男の背後の空間がぐにゃりと歪んだ。すると黄色い眼光を放つ黒い影のようなものが出現し、またたく間に彼女の視界を呑み込んでいく。
その刹那、深く被られたフードの奥がわずかに覗いた。それまで隠されていた男の顔がほんの一瞬だけ晒される。そこにあったのは、顔面の皮膚を継ぎ接ぎするように留められた無数のステープラ。
男の口角がゆっくりと吊り上がるのが見えた。
「あ……」
不動はあっという間に暗闇に引きずり込まれ、歪んだ空間は跡形もなく消え去った。文字通り一瞬の出来事だった。個性を使って抵抗する間も、悲鳴を上げる間もなかった。
目撃者は誰ひとりいない。
静寂が戻った路上には置き去りにされたかのように、持ち主を失ったスクールバッグがひとつ、ぽつんと転がっていた。