●主人公
雄英高校普通科C組
個性:
気がつくと、ぼんやりした視界の中でコンクリートの床が流れているのが見えた。足は地に着いておらず、誰かに小脇に抱えられ、運ばれているのだと理解するのにそう時間はかからなかった。
ひたすら暗い廊下が続いている。古びたビルの中だろうか。
(ここどこ……私、どうなったんだっけ……)
眠らされていたのだろうか。意識がはっきりしない。頭も鈍く痛む。
どこへ連れて行かれるのだろう。
ぼんやりと思考が動き始める。
(確か私……心操と喧嘩して……)
記憶を一つずつ手繰り寄せる。
(ファンを名乗る人に握手を求められて……)
手首を砕く勢いの握力──
顔面を無数のステープラで留めた男──
その背後に現れた黒い影──
断片が繋がった瞬間、自分の身に起きたことが鮮明によみがえる。
ということは、今自分を運んでいるのはあの男か。
「あら、起きちゃったの? もう少し寝ててくれてもよかったのに」
──違う。あの男ではない。
おそるおそる顔を上げると、視界に入ったのは茶髪にサングラスをかけた大柄な人物。口調は女性だが、顎に髭をたくわえ体躯も大きいところを見ると男性だろう。
明らかによくない状況であることは理解できた。
再び本能が警鐘を鳴らす。
不動は男の腕から逃れようと、ありったけの力で暴れる。
「ちょっとあんた……っ!大人しくしなさいよ!」
咄嗟に振り上げた足が、偶然にも男の股間に命中した。
「うぐっ……っっ!!?」
男は膝から崩れ落ち、悶絶する。
「この……ガキィ……!!」
(とにかく逃げなきゃ……!)
投げ出された体が床に転がる。すぐに跳ね起き、不動は無我夢中で駆け出した。
思考はまったく追いついていない。生存本能だけが体を突き動かしているようだった。心臓が暴れ回っているのが分かった。ここで逃げ切らなければ終わりだと、本能がそう告げていた。
視界の先に、鉄製の扉が見えた。
とにかく助かりたい一心で、勢いよくそれを押し開けた。
扉の向こうは薄暗いバーのような空間だった。
薄汚れたカウンターとテーブル。壁一面に並ぶ無数のボトルが鈍く光る。
身を隠せるならどこでもいいと飛び込んだはずだったが、最悪なことに、そこではいくつもの視線が一斉に不動を射抜いていた。
顔面に"手"を象った装飾を貼り付けた青年。
笑みを浮かべる女子高生。
そして自分を攫った黒い霧のような存在と、顔面にステープラを施した男。
その場の全員が、自分を"獲物"として認識しているのが分かった。
「あ……」
思わず一歩、二歩、と後ずさる。だが背後から先程の男の声がする。逃げ場はなかった。
「あんたら何ボーっとしてるの!さっさとその女捕まえてちょうだい!」
不動は咄嗟に両手を四人へ向けてかざした。
これだけ人が密集していてこの距離感ならば、加重力で全員の動きを止めて逃げる隙を作れる。そう確信したからだ。
「おいおい、こんなガキ一人に何手こずってんだ……逃げられてんじゃねぇよ」
ステープラの男がそう言ったかと思えば、突然胸ぐらを掴まれ、乱暴に床に組み伏せられた。肺の空気が一気に押し出されるように、声にならない息が漏れる。
「っぁ……!?」
男はそのまま馬乗りになり、腕を背後へ拘束するようにひねり上げる。もう片方の手で髪を無造作に掴み、そのまま頬を床に押しつけた。冷たいコンクリートの感触が皮膚を刺激する。
「危ねぇな」
低い声がすぐ耳元で響く。
全く動けない。
力を込めようとした両手は、体重ごと押さえ込まれている。
テレビの向こう側だけの存在だと思っていた“ヴィラン”が──悪意が今、自分の上に鎮座していた。
痛い。
怖い。
殺される。
震えが止まらない。視界の端が滲む。
「お前の個性は確か、“両手を対象にかざす”のがトリガーだったか?……だから念のため拘束しとけっつったろ、マグネ」
「うっさいわね!」
ぞわり、と全身が粟立つ。
個性発動の条件が把握されている。
(なんで……なんで知ってるの……)
視線の先で、カウンターに座っていた"手"の男がゆっくりと立ち上がった。
「体育祭、見てたよ。不動利世」
何の感情も乗っていない声で名前を呼ばれる。
それだけで背筋が凍りついた。
「強力だよなぁその個性。相手の動きを止めるだけじゃなく、エネルギーそのものを圧殺できる。……いいよなぁ、"個性殺し"」
体育祭──なるほど。あれは全国中継されている。
どうりで私の名前を知っていて、個性の発動条件まで把握していたわけだ。
「……何者なの?あんたたち……。ここはどこ?私を……どうするつもり……?私……殺されるの?」
恐怖をかき消すように、声を震わせながら問いを重ねる。何か喋っていないと目の前にある悪意と恐怖に呑まれてしまいそうだった。答えなどどうでもよく、ただ言葉を繋いでいる間だけはどうにか自分を保っていられる気がした。
「おいおい、誰が目的もなく女子高生を殺すかよ。俺たちは快楽殺人犯じゃない」
男は楽しそうに目を細め、わざとらしく肩をすくめる。
「俺たちは……そうだな、世間じゃヴィラン連合なんて呼ばれてる」
「ヴィラン連合って──」
ヒーロー科A組を襲撃したという凶悪犯たち。連日ニュースで取り上げられていたので、その名はよく知っている。
まさか自分が、そんな連中に目をつけられたなんて。
「お前の個性を欲しがる人がいてな。戦闘能力さえあれば脳無の素体にでもできたんだが……お前弱いしな」
まるで品定めするかのように、視線が上から下までなぞられる。
「個性はご立派だが、扱い方をまるで分かっていない。ま、とりあえずお前は俺たちに個性を渡してくれりゃいい」
「渡す……ってどういうこと?」
個性なんて人に渡せるものではない。しかしその言い方をするということは、相手の個性を奪う何かしらの方法がある、ということになる。
「体育祭で眼鏡の奴と戦った時、お前言ってたよなぁ?『この個性を誰かに使いたいと思ったことがない』『持っていても仕方がない』って。だから俺たちが有効活用してやるって言ってんだよ」
確かにそれは言った覚えがある。
しかし同時に「平和な世界で普通の生活がしたい」「痛い思いをするのは嫌」とも言った。その辺を考慮されていないあたりさすがヴィランと言うべきか、都合のいいところだけを切り取って自分本位に解釈するのが上手い。
「……は、こんなものが欲しいの?私の個性は……あなた達にとってそんなに利用価値があるの?」
「あるな」
男──死柄木弔は即答した。
「お前の個性はヴィラン向きだ。ヒーローを一網打尽にできる可能性を秘めている。安心しろ、お前なんかより"先生"が上手く扱ってくれる」
「先生……?」
彼の言う「先生」とは一体誰なのか。
しかし、ひとつ分かったことがある。
自分はこれまで
だが、ヒーロー側から見れば"ヒーロー向きの個性"であり、ヴィラン側から見れば"ヴィラン向きの個性"なのだ。
価値なんてものは、相手次第でいくらでも再定義させられる。
「生きにくいよなぁ?」
死柄木の声色が変わった。さっきまでの嘲笑は消え、急に穏やかになる。
「可哀想になぁ、お前は何も悪くないのに。強すぎる力ってのはさ、持ってるだけで周りから過度な期待とか理想を勝手に背負わされるんだよな」
死柄木が歩き出し、組み伏せられている不動の目の前に来てしゃがみこむ。
「そして勝手に失望する。社会もそうだし、ヒーローなんて特にな。でも俺はお前の苦しさを理解してやれる。そのせいで生きにくいことも、平穏が欲しいと願ってることもな」
指先で不動の顎を持ち上げ、低く囁く。
「個性なんて手放しちまえばいい。そうすれば誰かに注目されることも一切なくなる。誰もがお前に一切の興味を失い、平穏な日々に戻れる。こんな幸福なことはないだろう?」
──だめだ、揺らぐな。
「普通になりたいんだろ?叶えてやるよ、不動利世」
分かった風な口を利くな。私の欲しかった言葉をお前が言うな。ズカズカと私の胸の内に踏み込んでくるな。耳障りのいい言葉で私を支配しようとするな。
相手はヴィランだ──。
不動は必死に頭の中で呪文のように繰り返した。
そうでもしなければ、この甘い誘惑に簡単に屈してしまいそうだったからだ。
それほどまでに彼女は平穏を渇望している。
喉から手が出るほど欲しかったそれが、この個性を手放せば簡単に手に入る。その可能性が今、目の前に差し出されていた。
「ま、どのみちお前は逃げられない。今夜もう一人ここへ連れて来る予定だ。先生に会わせるのはそいつが来てからでも遅くない」
「もう一人……?」
「荼毘、そいつから下りてここに拘束しろ。別室に拘束する予定だったが変更だ。もう油断するなよ」
「油断したのはマグネだっての」
不動は壁際の椅子に座らされ、両手を後ろ手に拘束される。
「……個性を渡したら、私はどうなるの」
荼毘が乱暴に顔を掴んでこちらを向かせた。
「知らねぇよ。手足ぶった切って雄英前とかに捨てられんじゃねえの。……よく見りゃお前、そこそこ上玉だし、適当にヤり回すってのもアリかもな」
死柄木は再びカウンターに肘をつき、こちらをじっと見る。首を掻き毟る音が、規則的に響く。
「お前をどう始末するかは俺たちが決めてやる。せっかくだし、ヒーローにとって屈辱的なダメージを与えてやりたいんだ俺は。そうすれば世間はヒーローを見放し、俺たちに目を向ける」
ヴィランの連中が吐く言葉、その一つ一つに吐き気が込み上げる。理解も共感もできない。どんな人生を歩めばこんな発想に至るのか。
「低俗。……そんな事したって、
不動は死柄木と荼毘に向かって吐き捨てるように言った。
こんな事を言ったって、ヴィラン相手には何の攻撃にもならないのは分かってる。嘲笑われておしまいだろう。
それでも彼女ができる限りの、精一杯の抵抗のつもりだった。
しかしそれを聞いた途端、荼毘の顔色がすっと変わったかと思えば突然不動の視界がひっくり返った。
荼毘の容赦のない蹴りが不動の横顔を捉え、そのまま地面に叩きつけたのだ。拘束されたままの彼女の身体は、凄まじい音を立てて椅子ごとコンクリートの床に激突する。
「……が……、は……ッ!!」
何が起こったのか理解できなかった。
鼻からは熱い血が溢れ、視覚の隅で火花が散る。頬の感覚は麻痺し、頭を打ち付けた衝撃で意識が遠のきかける。
「個性ばっか注目されて、誰がお前自身を見てくれた?お前に何の価値があった?無価値で空っぽなのは俺じゃねぇ、てめぇの方だろうが」
さっきまで冷静だった荼毘の瞳には、仄暗い怒りが燃え盛っていた。
一体何だというのか。何が彼の怒りを買ってしまったのか。逆上されるほどの強い言葉を言ったつもりはなかった。
ただ、この男の触れてはならない何かに触れた、ということだけははっきりと分かった。
「あーっ荼毘くん!なんて事するんですか!女の子に乱暴しちゃダメです!」
「……てめぇが言えた口かよ、イカレ女」
しかし荼毘の怒りは収まらなかった。
手のひらから青い炎が噴き上がり、不動の顔面目掛けて放たれ──
「そこまでだ荼毘、時間だ」
死柄木が制する。
炎の熱が頬を焼く寸前で炎がすっと掻き消えた。荼毘は舌打ちをしながら腕をだらりと下ろし、不満げにその場を離れた。
すると女子高生がにやにやと笑いながら歩み寄ってきた。
「痛かったねぇ、怖かったねぇ」
彼女は冷たい両手で不動の頬を包み込むと、鼻からとめどなく流れる血を生温かい舌でべろりと舐め上げた。
不動はもう何をされているのか分からなかった。
暴力で精神は打ちのめされ、恐怖で思考が凍りつき、考えることを放棄した。
「不動ちゃん。血色悪くて死人みたいでカァイイ。血が出たことでもーっとカァイくなりました。私たちこれからお仕事なのです。すぐに帰って来るので、それまでもう一回ここで眠っててください」
彼女がそう言い終わるのと同時に首筋にちくりと痛みが走る。その瞬間さぁっと視界の幕が下り、意識は奥深くへと沈んでいった。