過去編は小6の冬くらい〜雄英入学までの中学生時代のお話です。
博多弁分かりません。合ってないかもです。
今話ではヒロアカキャラは出てきません。次話で出てきます。
冤罪
福岡の乾いた風が、児童養護施設『青葉園』の古びた建物を撫でていく。
放課後の学習室。低学年の男の子、
「……あ」
小さな声が漏れたその時だった。
隣に座っていた利世が、ひょいとドリルを取り上げる。
「な、なにすると利世ちゃん!返せよ!」
慌てて手を伸ばす閃一を、十二歳の利世はひらりとかわした。そのまま赤ペンを走らせ、書かれた文字を迷いなくなぞっていく。
「あーーーっ!」
「字、下手やったけん。先生の真似して書き直してやっただけ」
「利世ちゃんは先生とちゃうやろ!どうするとこれ……ペンで書いたら消せんやん!」
「字が下手なだけやなくて、そもそも漢字が間違っとる。ほら、ここも」
淡々と指摘しながら、さらに赤ペンを走らせる。
「やめてよ!なんでそんなことするの……」
「見よってイライラするけん、書き直してやった。感謝してよね」
利世は相手を苛立たせることに何の抵抗もない。相手がどう感じるかなど今まで一度も考えたことがないのだ。自分より弱い相手をからかい、思い通りに反応する様子を眺める。それが彼女にとっては、ちょっとした遊びのようなものだった。
信じがたいことに、それが彼女なりのコミュニケーションだった。というより、人と関わるのにそれ以外の方法を知らなかった。当然そんな関わり方で好かれるはずもない。
その結果、彼女はいつも孤立していた。
「でも、でも……!」
「あ、泣くと?」
利世は馬鹿にするように鼻で笑う。
「泣くぐらいなら、もうちょっと上手に書けばいいのに」
すると廊下の奥から低い声が聞こえてきた。
「……ちょっと利世ちゃん?」
振り返ると、施設職員の田中が足早にこちらへ向かって歩いてくる。
「また閃一くんにちょっかい出したと?」
「ちょっかいって……勉強教えてやりよっただけやけど」
利世はふん、と不機嫌そうに口を尖らせた。
「閃一くん、本当?」
「……ううん。僕に意地悪してきた」
「チッ」
「やっぱり。利世ちゃん、あのね……」
「また話し合いの時間?もう飽きたっちゃけど、それ」
「飽きたって……」
「だって毎回おんなじこと言うやん。『なんでそんなことすると』『相手の気持ちを考えて』って。それ以外に言うことなかと?」
田中は眼鏡の奥からじっと利世を見つめた。
「……とにかく閃一くんに謝りなさい」
その視線を無視して、利世は小さく欠伸をした。
そしてゆっくりと口角を上げ、挑発するように舌を出す。
「利世ちゃん!!」
「いい大人が子供相手にムキになるん、見苦しかけんやめた方がよかよ」
そう言い捨てると利世はふっと興味を失ったように背を向け、そのまま学習室を後にした。
◆◆
夕食前のひととき、利世は階段の踊り場に腰を下ろしていた。
「退屈……」
施設での生活は、毎日が同じことの繰り返しだった。
起床、朝食、登校、帰宅、宿題、夕食、入浴、就寝。
すべて時間通り。
すべて決められた通り。
すべて誰かが引いた線の上をなぞるだけの一日。
──嫌いだ。
ルールも時間割も。
綺麗事ばかり並べる職員の言葉も。
毎朝、何ひとつ変わらない景色も。
全部嫌いだった。
ここから出たかった。
どこへ行きたいのか。何をしたいのか。
そんなことは分からないけれど。
自分で決めた時間に起きて、自分で決めたことをして、誰にも何も言われずに生きていける場所へ。
ただ、ここじゃないどこかへ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、廊下の奥から話し声が聞こえてきた。利世は立ち上がり、足音を殺して談話室へと近づく。扉の手前で足を止め、そっと耳を澄ませた。
声の主は田中と、その先輩職員の山下だった。
二人は利世の存在に気づいていない。
「……また利世ちゃん?」
「はい。今日も屁理屈ばっかり言って。あの子、また閃一くんに意地悪しよったんです」
田中は深くため息をつく。
「わざわざ低学年ば狙うんよね。やり返されても勝てるって分かっとるけん。そげなところは賢かね。誰かに構ってほしいんかもしれんけど、そのやり方がちょっと……ね」
山下は言葉を濁した。
「でももう小学六年生ですよ?そろそろ周りとうまくやることを覚えてもよか頃なのに、あまりにも幼すぎます。やけん、ここでも学校でも友達ができんとですよ」
田中の声には、次第に苛立ちが滲み始めていた。
「で、でも、田中さんはずっと利世ちゃんと根気よく関わってきたやないですか」
「全然。壁はまだまだ厚すぎるとです。こっちがどんだけ歩み寄っても、全部はね返される」
「まあ……確かに難しかね……あの子」
「大人に対する態度もどうかと思います。私、接し方を間違えたんですかね?正直めちゃくちゃやりにくかです!」
抑えていたものが堰を切ったように溢れ出す。
「自分がどんだけ周りに迷惑かけとるか……あの子には一生分からんっちゃろうね!」
「まあまあ田中さん。気持ちは分かるけど落ち着いて」
山下が慌てて宥める。談話室には重苦しい空気が満ちていた。扉の陰で、利世は静かに耳を傾けていた。
利世は自分が問題児だということも、周囲を困らせていることもとっくに分かっている。
分かった上でやっているのだ。
大人も子供も自分の言動に困り果て、言葉に詰まる。そのときの顔を見るのが好きなのだ。だがそれは、自分を見てほしいという気持ちの裏返しであることを、利世はまだ気づいていない。
「……そげん迷惑なら、さっさと追い出せばよかやん。その方があんた達もだいぶ楽になるやろ」
利世はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、談話室へと姿を現した。
職員二人の表情が凍りつく。
「利世ちゃん……いつからそこに……」
「最初からやけど?」
それが何か、とでも言いたげに肩をすくめる。
「人の悪口とか、あんま言わん方がよかよ。道徳の授業で習わんかったと?」
「ご、ごめんね、利世ちゃん。さっきのは……」
「ねえ。私、知っとるよ」
田中の言葉を遮り、利世は笑った。
「ここ、だいぶ経営きついっちゃろ?私がおらんくなったらその分負担も減るし、全部うまく回ると思うけど」
田中の顔が歪んだ。怒りでも、悲しみでもない。どこか疲れ果てたような表情だった。
その顔を見た途端、利世に恍惚とした表情が広がる。
「ほらね、やっぱり追い出したいんだ」
「……何言いよると?そんなことせんよ。ただ、もうちょっとお利口さんに……」
「お利口さんって何?なんでも『はい』って言うこと聞いてくれる、大人にとって管理しやすい子供のこと?」
利世は壁に背を預け、二人を挑発するように笑う。だがその瞳の奥には何の感情もないようにも見えた。
「私はここから出ていきたいし、あんた達は私を追い出したい……よか提案やと思うけど?」
二人は何も言えなかった。
言葉はいくらでも持っているはずなのに、そのどれもが彼女には届かないと分かっているからだ。
彼女の言い分は理屈だけなら通っているのに、その中身はどこまでも独りよがりで幼かった。相手を言い負かすことはできても、相手の心に歩み寄ることはできない。自分の言動を省みることもない。
その不器用さが、利世をいつも孤立させていた。
◆◆
自分の部屋に戻ると、利世はごろんとベッドに寝転んだ。ふと横に目をやると、机の上のレターケースが目に入った。中には、施設の職員から「大事に保管しなさい」と言われている大きな封筒が雑に差し込まれている。
封筒に入っているのは、両親の写真が数枚と、とある事件の概要を簡単に記した書類だ。
ただし書類には一度も目を通したことがない。
理由はただひとつ。
興味がないからだ。
利世が生後七ヶ月の頃、両親はヴィランに殺された。
同じ部屋で眠っていたはずの家族の中で、なぜか自分だけが無傷で生き残ったという。その話だけは職員から何度も聞かされていた。犯人の名前は公表されておらず、今も分からない。
「可哀想に」
そう言って同情してくる大人もいたが、何が可哀想なのか、利世にはさっぱり分からなかった。
写真の中でしか知らない男女。自分を抱いていたはずの腕の感触も、声も、何ひとつ覚えていない。血がつながっているという事実がそこにあるだけで、特に大きな感情が湧くわけでもない。
両親のことなどどうでもよかった。
やがて利世は窓へと視線を移した。
外では雪がしんしんと降っている。
やむ気配はなくただ淡々と降り続けていた。変わり映えのしない白い景色を眺めているうちに、時間の感覚まで曖昧になっていくようだった。
「……はよあったかくならんかな」
そう呟き、軽く目を閉じた。
――――――――――
──翌日。
学校からの帰り道は、いつも一人だった。
別に寂しくはない。むしろその方がいい。誰にも話しかけられず、誰のペースにも合わせなくて済むからだ。
施設と学校を往復するだけの退屈な日々。その中で、この時間だけがかろうじて自分のものだと感じられた。
商店街を抜け、住宅街へと入る。
すると背後からドンッと強い衝撃が走った。
「っ……!」
どうやら誰かにぶつかられたらしい。思わず前によろめく。顔を上げると、フードを目深に被った人物が猛スピードで走り去っていくのが見えた。
「待てっ!」
その後を地味なコスチュームに身を包んだヒーローが追いかけていく。風を切るような速さで、二人の姿はあっという間に視界から消えていった。
利世は無言でランドセルのベルトを握り直した。
(ヒーローって大変やな……)
どこか他人事のようにそう思い、再び歩き出す。
いつも通り施設の正門をくぐった、その時だった。
目に飛び込んできたのは白い車体と赤く回る警光灯。正面玄関では職員たちが慌ただしく出入りし、施設全体が騒然としていた。
「閃一くん!しっかりして!」
玄関からストレッチャーが運び出されてくる。乗せられているのは見覚えのある顔。頭から血を流し、ぐったりと横たわっている。
閃一だ。
「えっ……何……一体何が……」
思わず声が漏れてしまった。その声に反応したのか、周囲にいた者たちが一斉に利世を振り返る。
「利世ちゃん?あんた今どこから……」
「今帰ってきたとこやけど。何かあったの?」
そう答えた途端、年上の子供たちが険しい目で利世を睨みつけた。
「とぼけんな!お前が裏庭で閃一くんと一緒におるとこ、みんな見よったい」
「閃一くんも運ばれる前に言うたんや。『利世ちゃんが……』って」
「……は?私が何をしたの?」
一瞬、彼らの言葉の意味が理解できなかった。
自分は本当に今帰ってきたばかりなのだ。学校を出て、いつも通りの道を歩いて、施設の門をくぐった。それ以外に何もない。
なのに裏庭で閃一と一緒にいた?私が?
それをみんなが見ていた?
「何……それ……」
誰かと見間違えたのではないか。いくら考えても思い当たることは何ひとつない。
心臓がどくんと嫌な音を立てる。
話を聞く限り、どうやらこういうことらしかった。
施設の裏庭で閃一が頭から血を流して倒れているのを職員が発見した。さらに現場付近で利世の姿を見たという目撃者が数人いるとのこと。
しかも救急車に運ばれる直前。朦朧とした意識の中で閃一が小さく呟いたのだという。
『利世ちゃんが……僕を……』
「……っ、私やなか!私はつい今……学校から帰ってきたばかりで……!」
反射的に否定の言葉が飛び出したが、それを遮るように周囲から声が上がり、最後まで言い切ることができなかった。
「嘘つけよ!お前いつも閃一くんのこと馬鹿にしよったやん!」
「でも……怪我させたりなんかしない……!」
「警察の人も言いよったよ!防犯カメラに二つ結びの女の子が映っとるって!利世ちゃんしかおらんやん!」
「ちが……私は本当に……」
普段の反抗的な態度。
可愛げのない言動。
誰に対しても突き放すような振る舞い。
これまで積み重ねてきたものすべてが、今になって利世を追い詰めていく。誰も彼女の言葉を信じようとはしなかった。
「ちがう……」
喉の奥がひゅっと引き攣る。
それでも必死に声を絞り出した。
「本当にやってない……!信じてよ!」
だがその叫び声は、無機質なサイレンの音にかき消されていった。
誰も耳を貸さない。
誰も信じてくれない。
自分の言葉が誰にも届かないという現実だけが、利世の目の前にはっきりと突きつけられていた。
──その日のうちに、利世は児童相談所へと移された。
通されたのは、淡いパステルカラーの小さな部屋。柔らかな色合いとは裏腹に、どこか無機質で落ち着かない空間だった。
利世はその部屋で職員からの聞き取りを受けることになった。