悪役令嬢に転生した大阪のおばちゃん、断罪より先に飴ちゃんを配る ~婚約破棄はもろときますわ。ほんで王子、あんた晩ごはん食べたんか?~ 作:月城 友麻
翌朝の食卓に、兄が乱入してきた。
「テレージア! 昨夜の夜会の話は本当か! おまえ、王太子殿下に飴を――」
言葉が、途中で止まる。うちがちょうど、湯気の立つ
「おはようさん、お兄ちゃん。あんたも食べる?」
「……誰だ、お前は?」
「妹や」
「妹は朝は死んでいる。起きても口を利かないし、粥に蜂蜜など断じて入れない。あと、私を『お兄ちゃん』と呼んだことは生まれて一度もない」
「昨日までの話やろ。今日からは、よう寝てよう食べてよう喋る妹や。慣れてや、ヴィルフリートお兄ちゃん」
兄は額を押さえて席に着き、それでも粥はきっちり二杯よそった。この家の男は、動揺しても腹は減るらしい。
「……破棄されたのだぞ。満座で。家の面目は、どうする?」
「面目より先に、詫びや。うちのやらかしの分は、うちが順番に返す。お父様には、うちから手紙を書くわ。家の看板の傷は……そやな、看板は磨いたら光る。任しとき」
「その理屈のどこにも令嬢の要素がないが、まあいい。……いや、よくはないが」
言いながら兄は、三杯目の粥をよそっている。よう食べる子は育つ。二十二やけど。
給仕に立った侍女頭に、うちは軽う頭を下げる。
「ドルテさん、おおきに。この粥、炊き加減がええわ」
盆を持った手が、止まる。
「……わたくしの、名を」
「生まれてこの方、十七年もうちの世話を焼いてくれとる人の名前や。知らんほうがおかしいやろ」
ドルテさんは、姿勢ひとつ崩さんまま、静かに泣いてはる。十七年目で初めて名を呼ばれたんやと、あとで若い子らに聞いて、うちは今世の自分の頭をはたきとうなった。名前を知らんかったんと違う。知ろうとせんかったんや。母を亡くしてからの八年、この家の冬の中で、うちは自分の寒さしか見てへんかった。
――よっしゃ。そういうのを全部、今日から帳面につける。
朝のうちに、侍女の若い子ら全員に飴を一粒ずつ配って回る。名前を聞いて、顔を見て、一粒ずつ。びっくりして受け取らん子には「行儀ようできました、の分や」と言うて握らせる。台所がざわざわと明るうなる。……ええか、屋敷の空気いうんはな、当主の機嫌やのうて、台所の温度で決まるんやで。
午前の残りは、帳面や。
机に紙を広げて、表紙に太う書く。「嫌がらせ帳面」。罪状六件、やった者、落とし前、済みの欄。書きながら、今世の記憶を一件ずつ引っ張り出す。悪口を言うた日の、あの子の下がった眉。借り上げた本の、貸出札の名前。思い出すたび、みぞおちの奥がちくちく痛む。……ええ徴候や。痛むうちは、人間まだ間に合う。
「お嬢様、このようなこと、紙に残しては……」
「残すんや。悪いことほど、ちゃんと書いて、ちゃんと消すの。消した線が多い帳面ほど、ええ帳面なんやで」
昼前には、腰に提げる
「お嬢様。それは……淑女の持ち物では、ございません」
「淑女かて転ぶし、腹も下すやろ」
「下しません」
「下すんよ、人間は。見栄はっても腹は正直や」
ついでに、ドルテさんに一つ聞いてみる。この街で腕のええ仕立屋は、どこやろな、と。
「……なぜ、わたくしに?」
「台所と洗濯場はな、街のことなら貴族の書斎より物知りなんや」
ドルテさんはちょっと考えて、それから堰を切ったみたいに、三軒の名前と店主の人柄と、どこの生地が今月安いかまで教えてくれはった。……ほらな。屋敷でいちばん頼りになる帳面は、台所に住んどるんや。
そして午後、その男は来た。
黒い文官服、銀縁の眼鏡、感情の読めん涼しい顔。昨夜、広間の隅で手帳をつけとった――みっちゃんの推し、その人や。レジ前のみっちゃんは言うとった。『あの眼鏡がな、うちの推しやねん。監察官ルート、はよ実装してほしいわあ』。……みっちゃん、あんたの推し、監察官と違うたで。調査官やて。推しの職名くらい、ちゃんと覚えたりいな。
「王室調査室、調査官のルドガー・キルシュと申します。王命により、本日より貴女を観察いたします」
「観察。うちを?」
「一夜にして人が変わられたとの由。毒物、あるいは、すり替わりの疑いがございます」
疑いの中身まで馬鹿正直に言うてしまう調査官である。みっちゃん、あんたの推し、ええ性格しとるわ。
「正直な役所やなあ。ほな、ようこそ。見られて困る商売はせえへんし、好きなだけ見てってや。茶ぁ飲む? 飴もあるで」
「観察対象から菓子を頂く規定は、ありません」
「規定になかったら、食べられへんの? 難儀な仕事やなあ。……ほな、そこ置いとくわ。卓の上に落ちとるもんは、規定の外やろ」
「その理屈は、規定のどこにも――」
「載ってへんなら、あんたが書き足しとき。役所の紙は、そのためにあるんや」
眼鏡の奥の目が、うちと飴とを一往復する。役人の頭の中で、規定の頁がぱらぱらめくれとる音が聞こえるようや。
「ちなみに観察は、いつまで続くん?」
「疑義が解消するまで、です」
「ほな、長いこと世話になるなあ。昼はうちで食べていき。……あ、それは規定にあるん? 対象と同じ釜の飯」
「…………調べて、参ります」
卓の端に、蜂蜜色の粒をひとつ。眼鏡の奥の目がそれを三秒ほど検分して、手帳に何かを書き付けた。書きながら、耳の先だけ、ほんの少し赤い。
――ふうん。推されるだけのこと、あるやんか。
◇
王室調査記録 第一報。対象、グランハルト公爵令嬢テレージア。着任初日。対象は使用人を名で呼び、詫びのための帳面を作成し、菓子を配布した。毒物の兆候は、ない。すり替わりの根拠も、現時点では、ない。ただし対象の言動は、本官の持つどの規定集にも載っていない。引き続き観察を要する。なお、卓上に遺留された飴一粒について、対象の意図は不明である。飴は、押収した。以上。