負けヒロインが多すぎる! IF ―156の負け   作:nelldrip

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 豊橋には、文豪ゆかりの地がない。

 部誌の企画としては、それはかなり致命的な問題である。
 だから部長は言った。近場にないなら、遠くへ行けばいい、と。

 行き先は、京都。
 部費と、やたら都合のいい親戚の車と、二人ぶんの日程で。

 文芸部の、取材旅行の話です。


負けヒロインが多すぎる! IF "小鞠知花は天然ジゴロの夢を見るか" 第一話

「……そもそも、これからどうすればいいのか、分からない」

放課後の文芸部部室。

自分の座っている椅子に座り直すと、わたしはつぶやいた。

つい先日、部長の任を下ったばかりで、慣れない椅子だ。いや、むしろ慣れた椅子というべきか

文芸部に入って、先輩の卒業にあわせ、部長をやっていたのだが、自分には荷が重かった。そういうキャラではないのだ。

 

それを見かねて、俺がお前を支える、と言ってきた彼に。

腹ただしいのは、それ自体腹ただしいはずなのに、なぜ胸がこれほど焦がれるのか、ということだ。

 

それはさておき。

「今度の部誌で、文豪縁の地を尋ねる、って企画どうだろう?」

そう提案したのは、わたしの座っている机の対面に座る彼だ。あいつが文芸部部長である。

さて、そうは言っても文豪ゆかりと言われても、うん、ない。

あいつ、ここをどこだとおもっているんだ?京都か?東京か?バカを言え、豊橋だぞ。

どんな文豪がいるというのだ。下手なフリーライターがやって、書いたくらいだ。

 

あいつめ、私がそう思っていることを察したのか。

「近場にないなら、遠くに行けばいいじゃないか。京都は文豪の数が多いよ」

 

「きょ、京都!? ……な、ななな、何言って……。と、遠いし、電車とか……ど、どうするん、だよ。わ、わた、ほ、方向音痴だし……む、無理……そ、遭難、する……」

 

思わず、そんなふうに戸惑いながらも。

……そういう企画、文芸部っぽいし、京都の食べ歩きには、なんとなく憧れもあった。清水寺周辺は、食べ歩きで有名だ。

だが、問題は、どこからどうやって、お金を出すかだ。

「お、おまえ、部費とかで、た、足りる、のか・・・?」

 

なぜか、自分が参加する前提で答えていた。それがまた腹ただしい。

 

こいつと二人きりの旅行、だと?

いや、別の部員も他部員も、日程的に参加が難しかったのだ。

つまり、行くのなら実質、二人きりの京都旅行である。

 

「部費で全額は難しいけど…まぁ多少足せば大丈夫だよ。少なくともお前の分は問題ない。俺は京都には、行ったことないし」

 

なんだその言い方は、と思いつつ、わたしは言ったのだった。

「……そ、そこまでいうなら、しょ、しょうがない、けど。で、でも、いいのか、わたし、だけ、全部だしてもらって」

「いいよいいよ、足代浮かせたいから行きはおじさんの車乗せてもらうし」

なんだそれ、ずいぶん都合いい親戚がいるもんだな、と思ったものである。

 

同時に、顔が、耳まで真っ赤になっていそうなのが、夕暮れの光でバレてないことを祈った。

 

---

 

「おー、しばらく見ないうちにちったぁデカくなったか?」

 

何だ。このアロハシャツで陽キャなオッサン。

聞けば彼の叔父らしい。あいつの叔父とは思えないくらい、陽キャの陽キャである。

 

「さぁ、のったのった。つかお前、彼女連れで京都旅行とかやるじゃねーか」

 

「んなっ??!」

 

「いや、ただの部活の取材だし」

 

秒で否定されるのも、それもまたそれで腹ただしい気がする。

 

そうして、他愛のない話をしながら、京都に向かう。

京都についてからは、連れてきた車の主は、別の用事があるとのことで、早々と去っていった。帰りは電車らしい。なんか濃い人だったなと思うが、いなくなるとそれはそれで、だ。

 

これではコイツと二人切りじゃないか。

 

そう思っていると、じゃぁいこうか、と言ってくる。

なんだおまえ、デートのエスコートでもするつもりか。

 

そう思っていると、意外と丁寧に勉強してきているようで、最初につれてこられたのが、京都丸善だった。

文豪縁の地、としてなかなかに分かってる。

当時のそのままがあるわけではないが、京都丸善という概念自体がすでに文豪である。

 

当然、色々な本が売られていた。小説が好きというより、文章というものが好きだったわたしには、結構な至福だ。

 

そんなわたしの姿を見てか、アイツが満足げに笑う。

 

「なっ、わ、笑って、ないで、取材、しろ」

 

思わずツッコミを入れてしまう。

 

「いや、そうやって楽しんでくれるようで何よりだよ。俺よりさ、お前のほうが、こう、文芸部っぽいじゃん。ここが好きなんだなぁ、と思って」

 

なんだそれ、なんでそんなに鋭いんだ

 

「お、おまえ、ちゃんと、調べてるんだな、ちょ、ちょっと、感心、した」

 

この空間で、好きな作家の話ができるか、と思ったものだ。

 

「まぁまかせてくれ、今日は徹底的にルート決めてあるからな」

 

なんだそれ。デートコースをしっかりきめてくる男かなにかのつもりか?

 

そうして、丸善をあとにすると、京都駅に向かった。

土曜日の京都駅は、人の波というよりはもはや巨大な圧力の塊だ。

改札を出た瞬間、わたしは案の定、あいつの服の裾をぎゅっと掴んでは「ひ、ひぇ……」と情けない声を漏らしている。

 

「お、大杉……。な、なにこれ、デモ? デモなの……? か、帰る、私、帰る……」

 

「落ち着けって。ここから少し離れれば静かになるから」

 

---

 

俺は親戚…京都の大学に通っていたあの叔父から叩き込まれた「観光客の波を避ける最適解」を脳内で展開する。

 

バス停に並ぶ長蛇の列を横目に、あえて駅から南東へ。塩小路通を抜け、鴨川を渡って京阪の七条駅まで歩く。

 

「……あ、暑い。……あ、足、痛い……。ど、どこまで、連れ回す……気だ……。お、お前、私を、売り飛ばす……つもりだろ……」

 

「そんな手間のかかることしないよ。ほら、ここから電車に乗るから」

 

京阪電車の特急に揺られ、終点の出町柳へ。

地上に出ると、そこには京都御所や鴨川デルタの穏やかな景色が広がっていた。

しかし、俺の目的地はさらにその先だ。

 

今出川通を東へ、北白川の住宅街へと足を進める。

 

「……はぁ、はぁ……。も、もう、無理……。一歩も、動けない……。こ、殺せ……。いっそ、ここで、介錯……しろ……」

 

「大げさだな。ほら、あそこ。着いたよ」

 

街路樹の緑が濃くなる通り沿い。ひっそりと佇む、どこか浮世離れした外観の店。

 

「グリルカフェ 猫町」。

 

その店名を目にした瞬間、彼女の死んだ魚のような目が、わずかに光を宿した。

 

「……ね、猫町……。……萩原、朔太郎……?」

 

「よく知ってるな。……まぁ、任せてくれよ。これでもお前が好きそうな店、ちゃんと調べてきたんだからな」

 

重厚な木の扉を開けると、外の喧騒が嘘のように、静寂が二人を包んだ。

店内は使い込まれた古道具や、壁一面を埋め尽くすほどの本、本、本。

控えめな照明が、飴色の家具を優しく照らしている。

 

「……あ……」

 

彼女は言葉を失ったように、店内の書棚を見渡している。

先ほどまでの文句が嘘のように、彼女の指先が、自分のカバンの中にある原稿用紙を確かめるように動いた。

 

「……す、すごい。……こ、ここ……。……に、ニオイが……紙の、ニオイが……する……」

 

「だろ。まずはここで腹ごしらえにしよう。ここのランチ、結構本格的なんだよ」

 

案内された奥のテーブル席。

彼女は、椅子に深く腰を下ろすと、ようやく緊張が解けたのだろう。小さく息を吐いた。

メニューを広げながら、チラリと彼女を見る。

 

「どう? ……連れてきた甲斐、あったかな」

 

「……ふ、ふん。……ま、まぁ……。……あ、歩かせすぎたのは、万死に、値するけど……。……こ、この店……だけは……。……ぶ、部長の分際で、な、生意気……な、チョイス……しやがって……」

 

そう言いながらも、彼女の視線はすでにメニューの隅に書かれた「猫町ランチ」の文字に釘付けである。

たどたどしくも、どこか嬉しそうに店内を観察する彼女の横顔を見て、密かにガッツポーズを作る。

 

しかし、この後の「取材」という名の京都散策が、彼女の貧弱な体力にとって本当の地獄になることを、俺はまだ口にしないでおくことにした。

 

「猫町ランチ」を平らげ、少しだけ血色の良くなった彼女を連れて、再び白川通を北へと歩き出した。

 

もっとも、歩き出した瞬間に「……も、もう、動けない……。い、胃が、揺れる……。も、戻す……」と、俺のシャツを掴んで早くもストップをかけてきたけれど。

 

「あと10分、いや、5分ちょっとだから。そこを登れば、もっとすごい景色が見えるからさ」

 

「……う、嘘つき……。う、嘘……。さっきも、すぐそこ、って……。お、お前の『すぐそこ』は……光年単位、だろ……」

 

恨みがましい視線を向けられながらも、なんとか宥めすかして坂を登る。

 

一乗寺の細い坂道は、両側を古い塀に挟まれていて、なるほど、こういう道は嫌いじゃないらしい。さっきまで死にかけていたくせに、彼女は時折立ち止まっては、塀の上の苔だの、傾いだ電柱だのを、じっと眺めている。

 

「……い、いい……道、だな……。……こ、こういうの……。……ま、街が、ゆっくり……変わって、いく……感じ……」

 

「猫町みたいに?」

 

「……っ! ……そ、そう……。……そ、そういう、こと……だ。……ぶ、部長の、くせに……わ、わかってる……」

 

珍しく素直に褒められた。今日は当たりの日らしい。

 

そのまま登りきって、北白川通に出た、その瞬間である。

 

「——ん、んなっ!」

 

隣で、彼女が硬直した。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん?」

 

「……へ、へんたい……!」

 

「え?」

 

彼女の視線の先を追う。

 

道の向かい。白い壁に、やたら装飾的なアーチ。門柱に「ご休憩」と「ご宿泊」の料金が並んで掲示されている。

 

なるほど。

 

「いや、違うから」

 

「……ち、ちがう、って……。……な、なにが……」

 

「なにがってお前」

 

「……ぶ、部長。……お、お前……。……さ、最初から……こ、これが……目的、で……。……わ、私を……こ、こんな、坂の……上まで……」

 

「いや、目的地はむこうだから。坂は登ったけど、そこはただ通り道だって」

 

「……し、しかも、堂々と……。……ひ、昼間から……。……こ、この、明るさで……」

 

「なんで俺が責められてるんだ」

 

「……お、お前が、選んだ……ルート、だろ……」

 

正論である。

 

いや、正論なのか? 叔父さんに叩き込まれたメモには、ここまでは書いてなかった。書いてあってたまるか。

 

「……ぶ、部長。……わ、私……。……ま、まだ……そ、そういうの……。……こ、心の……準備……」

 

「いや、違うから。ほんとに。ほら、行くぞ」

 

「……ひ、ひぃ……。……ひ、引っ張るな……。……む、無理やり……連れ込む、気……」

 

「別だって。誤解だから本当」

 

道行く人が、こちらを一瞥して通り過ぎていった。

 

たぶん、ラブホテルの前で押し問答をしているカップル二人にしか見えていない。真昼間からお盛んなことである。

 

俺は、この街に来て初めて、一刻も早くこの場を離れたいと思った。

 

---

 

そんな、端から見れば馬鹿なカップルにしか見えないコントを後に。

 

北白川の閑静な住宅街を抜け、視界が開けた先に、その巨大な建造物が姿を現した。

 

京都芸術大学(旧・京都造形芸術大学)。

通称「瓜生山キャンパス」。

 

そびえ立つ巨大な大階段を見上げた瞬間、彼女は膝から崩れ落ちそうになった。

 

「……な、なに、これ……。……じょ、冗談、だろ……? ぶ、部長……。お、お前、私を、殺すつもり、か……。……あ、あんなの……。天界、だろ……。げ、下界の者が……行っていい、場所じゃ……ない……」

 

「階段はきついけどさ。ここ、一般の人も入れる場所があるんだよ。ほら、頑張って。あの上まで行けば、大学のギャラリーとか、面白い建物がいっぱいあるから」

 

ゼーゼーと肩で息をしながら、一歩一歩、呪詛を吐くように階段を登る彼女。

ようやく中腹の広場に辿り着くと、そこには美大独特の、自由で少し尖った空気が流れていた。

制作途中と思われる巨大なオブジェ、奇抜なファッションの学生たち、そして至る所に掲げられた展覧会のポスター。

 

彼女は、圧倒されたように周囲を見渡した。

 

「……な、なに、ここ……。……み、みんな……目が、ギラギラ……してる……。……ひ、表現者……の、巣窟……?」

 

「そうだよ。文部科学省の管轄じゃなくて、芸術の最前線。お前の書いてるBL……じゃなくて、創作活動にも刺激になるかなと思って」

 

俺がそう言うと、彼女は「……べ、別に、創作の、ためじゃ……」と口ごもりながらも、掲示板に貼られた繊細なタッチのイラストレーション作品から目を離せずにいた。

 

「……ぶ、部長。……あ、あの、絵……」

 

「ん?」

 

「……こ、骨格が……いい、な。……受け側の……鎖骨の、ライン……。こ、これ……わかってる、奴が……描いてる……」

 

彼女の視点は、相変わらずどこか偏っているけれど、その瞳には確実に「熱」が戻っていた。

 

彼女は震える手でカバンからネタ帳を取り出すと、何かを猛烈な勢いで書き留め始める。

 

「……あ、あの……あ、あっちの、校舎……。な、中……入れる……?」

 

「あ、ああ。ギャラリーとかショップなら大丈夫なはずだ」

 

「……い、行く。……案内、しろ。……お、置いて……行く、ぞ」

 

さっきまでの衰弱ぶりはどこへやら。

創作の種を見つけた彼女は、俺を追い越さんばかりの勢いで、芸術の迷宮へと足を踏み入れていった。

足取りは相変わらずたどたどしいけれど、その背中は、俺が少しだけ頼もしいと感じるくらいには、力強かった。

 

一通り気が済むまで回ると、バスに乗って銀閣寺道へ。

 

キャンパスのギャラリーを回り、展示された彫刻の筋肉の造形や、前衛的なコラージュを食い入るように見つめる彼女。その手元のメモ帳は、すでに数ページがびっしりと埋まっている。

 

「……こういうの好きそうだとは思ってたけど。……お前、めちゃくちゃ好きじゃん」

 

呆れ半分、感心半分で俺が声をかけると、彼女はハッと我に返ったようにメモ帳を胸元に隠した。

 

「……な、なな、なんだよ。……べ、別に……。……ぶ、部長の、分際で……わ、分かったようなこと、言うな。……こ、これは、文芸部の、部長……代理、としての……し、資料収集……だ……」

 

「いや、部長は俺なんだけど。……まぁ、気に入ったならよかったよ」

 

本当はもっと見て回りたそうに、後ろ髪を引かれる彼女を促して、大学を後にする。

白川通のバス停で、銀閣寺方面へと向かう市バスに乗り込んだ。

 

午後のバス車内は、先ほどまでの静かな大学内とは打って変わって、観光客でごった返している。

案の定、人混みに押され、俺のすぐ隣で「ひ、ひい……」と小さく縮こまっている。

 

「……ぶ、部長。……人、多い。……ち、近い……。……に、人間が、多すぎる……。……こ、呼吸、できない……。さ、酸素が……薄い……」

 

「我慢しろって。三つ先くらいですぐ着くから」

 

吊り革を掴む俺の腕のあたりを、彼女が震える手でぎゅっと掴んでくる。

バスが揺れるたびに、彼女の体温が伝わってきて、少し緊張してしまう。

窓の外を流れる北白川の景色を眺め、意識を逸らしているうちに、アナウンスが「銀閣寺道」に到着したことを告げた。

 

「ほら、着いたよ。降りるぞ」

 

「……た、助かった……。……も、もう、ダメかと……。……そ、外の空気……美味しい……」

 

バスを降り、歩道に出たところでようやく彼女が人心地ついたように深呼吸をする。

 

目の前には、銀閣寺へと続く参道と、その脇を流れる琵琶湖疏水。

先ほどまでの尖った芸術の空気とは違う、どこか湿り気を帯びた古都の静寂が、ようやく俺たちの周りに戻ってきた。

 

「……で。……ぶ、部長。……つ、次は、どこへ……行くんだよ。……ぎ、銀閣寺? ……あ、あんな、人多いところ……行かない、からな……。……人混み、死ぬ……」

 

警戒心を丸出しにする彼女に、俺は「おすすめルート」のメモを思い出しながら、少しだけ得意げに笑ってみせた。

 

「分かってるって。……銀閣寺には入らないよ。……ちょっと、横道に入るんだ」

 

そうして、白河疎水道沿いの小道へ。

 

銀閣寺へと向かう観光客の濁流から逃れるよう、俺たちは一本横の細い道へと折れた。

そこを流れるのは、琵琶湖疏水の分線。

観光ポスターで見るような華やかさはないけれど、古い石垣と、水面にせり出すように枝を伸ばす桜や楓の並木が、静かな陰影を落としている。

 

「……あ」

 

彼女が、小さく声を上げた。

人混みに怯えて俺のシャツを掴んでいた力が、ふっと抜ける。

彼女は、吸い寄せられるように水辺の柵へと歩み寄った。

 

「……こ、ここ……。……し、知ってる。……て、哲学の、道……」

 

「厳密には、銀閣寺より少し北の白河疏水沿いの小道なんだけどさ。こっちの方が人が少なくて、静かだろ?」

 

俺が隣に並ぶと、彼女は流れる水をじっと見つめたまま、ポツリと呟いた。

 

「……に、西田幾多郎……。……きょ、京都学派の、道……。……ぶ、部長の、くせに……。……わ、わかってる……。……こういう、じ、じめっとした……陰気な、場所……」

 

「陰気って。……まぁ、お前が好きそうだとは思ったけど」

 

水面を滑るアメンボや、時折跳ねる小さな魚。

都会の喧騒を忘れさせる水の音だけが、心地よく響く。

 

彼女は大きく息を吸い込むと、心なしかさっきまでの挙動不審さが消え、文芸部の部長——いや、一人の「文藝女子」としての顔に戻っていた。

 

「……ぶ、部長。……あ、あの、ベンチ……。……す、座る……」

 

「え、もう? まだそんなに歩いてないだろ」

 

「……だ、黙れ。……お、思いついた、んだよ……。……さっきの、芸大の、鎖骨と……この、水の、音……。……い、今、書かないと……逃げる……」

 

そう言うやいなや、彼女は道端の古びたベンチに陣取り、カバンからノートをひったくるように取り出した。

 

膝の上でノートを広げ、猛然とペンを走らせる。

 

「……く、首筋を……つたう、汗は……疎水の、せせらぎのように……。……い、いや、もっと、ねっとりと……。……こ、孤独な、哲学者の……ような、まなざしで……」

 

口の中でブツブツと呪文のようなプロットを呟きながら、時折、苦悶に満ちた表情で空を仰ぐ。

 

その姿は、はたから見れば相当に怪しいけれど、この静かな小道には不思議と馴染んでいた。

 

俺は隣で邪魔をしないように、少し離れた場所に腰を下ろす。

親戚から教わった「京都の裏側」は、どうやら俺が思う以上に、この不器用な少女の琴線を激しくかき鳴らしたらしい。

 

「……ぶ、部長」

 

不意に、名前を呼ばれた。

顔を上げると、ノートに目を落としたまま、耳まで真っ赤にした彼女がいた。

 

「……な、なに?」

 

「……こ、これ……。……か、書き終えたら……。……さ、最初に……読ませて、やる……。……こ、光栄に……思えよ……。……バ、バカ……」

 

ペン先は止まらない。

京都の静寂の中で、彼女という作家の熱量だけが、パチパチと音を立てて爆ぜているようだった。

 

---

 

哲学の道の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。

白川疏水から一本路地に入り、住宅街の静けさの中を歩く。

 

彼女はさっきの執筆活動でエネルギーを使い果たしたのか、幽霊のような足取りで俺の三歩後ろをついてきていた。

 

「……ぶ、部長。……お、お腹、空いた……。あ、足……棒。……も、もう、動かない……。こ、ここに、埋めて……。……し、標柱に、して……」

 

「いや、埋めないから。ほら、あそこ。ちょっと休憩しよう」

 

指差した先。住宅街の緑に埋もれるようにして、その洋館は建っていた。

蔦の絡まる白い壁に、重厚なレンガ造りの煙突。ヴォーリズ建築を感じさせる、大正ロマンと異国情緒が混ざり合ったような佇まい。

 

「喫茶ゴスペル」

 

その建物を見上げた瞬間、彼女が「ふぇ……」と喉を鳴らして足を止めた

 

「……な、なに、ここ。……き、教会……? ……い、異人館……? ……ぶ、部長。……私、ドレス……持ってない。……こ、こんな……格好じゃ、撃たれる……」

 

「撃たれないって。カフェだよ。ここは二階がお店なんだ」

 

ギィ、と重い木の扉を開け、階段を上る。

店内に一歩足を踏み入れると、高い天井から降り注ぐクラシック音楽と、使い込まれたアンティーク家具の香りが俺たちを迎えてくれる。

大きなステレオスピーカーからは、重厚なパイプオルガンの音が静かに響いて。

 

「……あ……」

 

彼女が、今度こそ完全に固まった。

窓際の席に案内されると、彼女は恐る恐る椅子に座り、まるで壊れ物を扱うような手つきでメニューを捲る。

 

「……ぶ、部長。……お、お前……。……な、なんなんだよ……」

 

「なにが?」

 

「……お、お店の、チョイスが……。……さっきから、完璧……すぎる……。……お、お前、こういうの……て、手慣れすぎてるぞ……。……な、何人の、女を……ここに、連れ込んだんだよ。……こ、この……ラブコメ主人公の、成れの果て……! ……し、死ねっ……!」

 

いや、とんでもない言い掛かりである。

運ばれてきたスコーンのセットと、温かい紅茶が彼女の前に置かれている間、少しだけ肩をすくめた。

 

「そんなわけないだろ。……親戚から、京都に行くならここだけは外すなって、ルートを叩き込まれただけだよ。お前が好きそうな、古い紙と音楽の匂いがする場所をさ」

 

彼女は「……ふ、ふん。……そ、その親戚……ろ、ろくな奴じゃ……ないな……」と毒づきながらも、運ばれてきた焼きたてのスコーンを一つ、手に取った。

 

サクッ、と小気味よい音がして、バターの香りがふわりと広がる。

 

「……っ! ……お、美味しい。……に、憎らしいほど……。……ぶ、部長の、くせに……。……あ、熱い……。……も、もう一つ……食べる……」

 

もぐもぐと頬張る彼女の顔には、ようやく年相応の少女らしい柔らかさが戻っていた。

窓の外には、午後の柔らかな光に照らされた京都の街並み。

パイプオルガンの調べが、スコーンを頬張る彼女の咀嚼音と、カップが触れ合う音を優しく包み込んでいた。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん?」

 

「……あ、あそこ……。……あ、あの、古い、オルガン……。……あ、あれの下で……。……こ、告白……される、受け……。……あ、あり……だな……」

 

口の端にジャムをつけたまま、彼女の目は再び「作家」のそれに戻っていた。

いや、その作家でいいのか?

 

苦笑しながら、自分の紅茶に手を伸ばす。

 

「……ま、まぁ、原稿のネタになるなら、連れてきた甲斐があったよ」

 

「……べ、別に。……お、お前のためじゃ、ないから。……す、スコーンが、美味しかった……だけ、だからな。……バ、バカ……」

 

彼女はそっぽを向きながら、二つ目のスコーンに手を伸ばした。

その耳たぶが、西日に透けて、さっきよりも少しだけ赤くなっているように見える。

 

ゴスペルを出ると、空気は少しだけひんやりとしていた。

再び哲学の道に戻り、今度は南へと足を進める。スコーンで体力を回復したのか、彼女の口はさっきよりも滑らかに——というか、オタク特有の早口を交えた「うんちく」が止まらなくなっていた。

 

「……し、知ってるか。……こ、この道、もともとは……『文索の道』とか……呼ばれてたんだぞ。……て、哲学の道って、名前がついたのは……し、戦後……。……に、西田幾多郎だけじゃなくて……た、田辺元も……歩いてた……」

「へぇ、詳しいな、お前」

 

「……と、当然だ。……こ、ここには……『思索の小径』としての……霊性が、宿ってる……。……あ、あの、石段の……苔……。……あ、あれは……み、三島由紀夫の、文章……みたいに……湿り気を、帯びて……」

 

たどたどしくも、文学的な比喩を並べ立てる彼女。

 

時折、道端の地蔵を見つけては「……ご、業が……深い……」と呟いたり、川面に落ちた椿の葉を眺めては「……む、無常観……」とメモを取ったり。

そんな彼女の後ろを歩きながら、「文芸部っぽくなってきたな」と、少しだけ場をセットした部長として、満足感に浸っていた。

 

熊野若王子神社で道が途切れても、彼女の足は止まらない。

永観堂から南禅寺へと続く、立派な土塀が続く道をのんびりと歩く。

 

「……ぶ、部長。……あ、あれ……」

 

南禅寺の境内に現れた、レンガ造りの水路閣を見上げて、彼女が息を呑んだ。

 

「……す、水路閣。……さ、サスペンスの……聖地。……い、いや……。……こ、この、赤レンガの……退廃的な、色……。……め、明治の、男たちが……ここで……密会、して……」

 

「……また変な妄想始めてないか?」

 

「……う、うるさい。……し、資料、収集だ……。……こ、この……アーチの、曲線美……。……そ、ソリッドな、エロスが……ある……」

 

意味のわからないことを言いながら、彼女は必死にスマホのシャッターを切っている。

 

そこからバスに乗り込み、一気に祇園へ戻る。

バスを降りると、そこはもう「ザ・京都」と言わんばかりの、雅やかで少し気取った空気が満ちていた。

花見小路の石畳に足を踏み入れた瞬間、ほんのりと白粉と、古い木の香りがして、喧騒の中、ひときわ重厚な存在感を放つ、鮮やかな「ベンガラ色」の壁が見えてきた。

 

「……あ、あ……あわわ……。ぶ、部長……お、お前……。こ、ここ……」

 

「ん? どうしたんだよ、お前。急に震えだして」

 

彼女は、その建物の入り口に掲げられた看板を、拝むような、あるいは恐れおののくような目で見つめていた。

 

「……い、一力(いちりき)……。……『一力大尽』の……一力……。……か、『仮名手本忠臣蔵』……七段目……祇園一力の場……。お、大石内蔵助が……敵を欺くために……あ、遊び呆けた……あの、伝説の……」

 

彼女は、カバンをぎゅっと抱きしめて、早口でまくしたて始めた。文藝に詳しい彼女にとって、この場所は単なる高級茶屋ではない。物語が幾層にも積み重なった、聖地中の聖地なのだ。

 

「……ぶ、部長。……こ、この門の……奥で……。……か、覚悟を秘めた……男たちが……あ、あんなことや……そんなことを……。……ふ、不義密通……。……い、いや……主君への……忠義……。……そ、その、ギャップが……た、たまらん……」

 

「……お前、妄想の方向がまた怪しくなってるぞ」

 

呆れながらも、彼女がそれほどまでに興奮する場所をルートに入れて正解だったと、心の中で小さく頷く。

夕闇に浮かび上がる一力茶屋の赤い壁は、確かにどこか浮世離れしていて、彼女の言う「物語の重み」を無言で主張しているようだった。

 

「……ぶ、部長。……お、お前……。……き、今日、一日……。……に、ニクい……こと……しやがって……。……こ、こんなの……。……か、書くしか……ない……」

 

彼女は、潤んだ瞳で俺を睨みつけるように見上げた。

 

その目は、一日中歩き回って疲れているはずなのに、新しい物語を生み出すエネルギーで満ち溢れている。

 

「……じゃあ、帰りの電車で、プロットの続き聞かせてくれよ。」

 

「……ふ、ふん。……き、聞かせて……やるよ。……ぶ、部長の……理解力を……は、遥かに……超える……。……し、至高の……BL(ボーイズラブ)……じゃなくて……ぶ、文藝……作品をな……」

 

やっぱりBLじゃないか。

 

---

 

足取りはまだ覚束ないけれど、俺の袖を掴む彼女の手には、確かな力がこもっていた。

 

京都の街に灯りがともり始める中、俺たちは駅へと向かうバス停へと歩き出した。

 

カバンの中には、今日一日で溜まった「京都の欠片」と、それを糧にした新しい物語の種が、パンパンに詰まっているはずだ。

 

「……あ、あの……。ぶ、部長。……も、もう……。……足が、ドット絵に……なってる……。……消える……私、このまま……祇園の、露と……消える……」

 

燃え尽きたようにへなへなと座り込みかける彼女。その細い肩を、俺は軽く叩いて引き留めた。

 

「まぁ待てよ。まだ、今日の取材は終わりじゃないんだ」

 

「……ひ、ひぃ! ……お、鬼……。……ぶ、部長、前世……奴隷商人……だろ……。……こ、これ以上……どこへ……」

 

「最後だよ。……あそこ。四条大橋のすぐそばだ」

 

人混みを掻き分け、四条通を西へ。

南座のすぐ隣、夜の帳に浮かび上がる老舗の看板が見えてくる。

 

「総本家 松葉」。

 

「……そ、蕎麦? ……ぶ、部長……。……お前……。……こ、ここ……有名、な、お店……」

 

「ここさ、ただの蕎麦屋じゃないんだぞ。吉井勇とか、谷崎潤一郎とか……文豪たちが愛した店なんだ。お前なら、そっちのほうが食欲湧くだろ?」

 

その名前が出た瞬間、彼女の耳がピクンと動いた。

 

「……よ、吉井勇……。……『祇園をどり』の……。……た、谷崎……? ……『細雪』の……? ……あ、あの……耽美の、権化……。……きょ、京都の、美の……化身……」

 

店内に足を踏み入れると、出汁の香りが優しく俺たちを包んだ。

案内されたのは、鴨川を見下ろせる窓際の席。

 

彼女は、おっかなびっくり椅子に座り、お品書きを食い入るように見つめている。

 

「……ぶ、部長。……こ、これ……。……『にしんそば』……。……有名……なやつ……」

 

「そう、松葉といえばこれだよ。俺達が生まれるずっと前から、文豪たちが同じ景色を見ながら、これを食べてたんだ」

 

運ばれてきた器の中。

透き通った出汁の底に、飴色に輝くにしんが横たわっている。

 

彼女は、震える手で箸を割り、まずは出汁を一口啜った。

 

「……っ! ……ふ、ふぇ……。……あ、熱い……。……で、でも……。……し、沁みる……。……こ、これが……京都の、味……」

 

にしんを解し、蕎麦と一緒に口に運ぶと彼女の表情が、ふっと緩む。

それは、今日一日、緊張と興奮と疲労に振り回され続けた少女が、ようやく安らぎを見つけた瞬間のようだった。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん?」

 

「……よ、吉井勇も……。……こ、この……甘辛い、にしんを……。……どんな……気持ちで……。……あ、愛人と……食べたのか……な……」

 

「……いや、愛人とか言うなよ。……でも、いいだろ。ここ」

 

窓の外には、ライトアップされた鴨川の河川敷。

行き交う人々の喧騒も、この古い建物の厚い壁に阻まれて、遠い世界の出来事のように思える。

 

「……ぶ、部長。……お前……。……ほ、ホントに……。……な、生意気……なんだよ……」

 

「……なんだよ、急に」

 

「……こ、こんな……いい場所……。……し、知ってて……。……私みたいな……負け……。……い、いや、なんでも……ない……。……バ、バカ……!」

 

彼女はそう吐き捨てて、顔を器の湯気の中に隠すようにして、蕎麦を啜り続けた。

その横顔を眺めながら、俺は近鉄の特急券をポケットの中で確かめる。

 

「あ、そうだ。帰りの電車、ひのとりのプレミアムシート、取っといたから。帰りは寝ててもいいぞ」

 

「……ひ、ひのとり……? ……バックシェル……シート……? ……ぶ、部長……。……お前、私を……甘やかして……。……ど、どうするつもり……なんだよ……。……お、責任……取れよ……」

 

「いや、なんの責任だよ。……まぁ、いい原稿書いてくれればいいよ。部長としてさ」

 

「……ふ、ふん。……あ、当たり前だろ……。……こ、これだけの……燃料……。……投下……されたんだ……。……せ、世界を……滅ぼす……くらいの……ぶ、文藝……見せて……やるよ……」

 

と、にしんの骨を噛み締めながら、力強く宣言した。

 

松葉のにしん蕎麦で身も心も温まり、店を出て四条大橋を渡る。

川風は冷たいけれど、隣を歩く彼女の歩調は、朝より、どこか俺に近い気がする。

 

ふと、彼女が何かに気づいたように立ち止まり、俺を上から下まで、まるで「とんでもない罪人」を見るような目で見つめてきた。

 

「……お、お前……。……ほ、他の部員に……知られたら……。……こ、殺されるな……」

 

「……え?」

 

不吉な予言に、俺は思わず足を止める。

 

他の部員。いうまでもない。文芸部の部員(自称)にして、底なしの胃袋を持つアイツだ。

 

「……あ、あいつ、の、こと、だ……。……『きょ、京都? ……お蕎麦? ……ふ、二人で? ……わ、私には……八ツ橋一つ……なかった……のに……?』って。絶対……ひ、ひぃ! ……こ、殺される……な、なぶり殺し……に、される……ぞ……」

 

彼女が、自分の首を絞めるようなジェスチャーをしながらガタガタと震えている。

 

確かに、あいつに「内緒で京都に来ていた」ことがバレたら、金銭的、あるいは食料的な「慰謝料」の請求は免れないだろう。それどころか、一生の貸しにされかねない。

 

「……そ、そうだな。……これ、絶対にあいつには言うなよ。部室でも、京都の話は厳禁だ」

 

俺が真剣な顔で念を押すと、彼女はふいっと視線を逸らし、首元までマフラーを埋めた。

 

「……あ、当たり前だ……。……だ、誰が……言うか……。……バ、バカ……」

 

彼女の力強い言葉に、俺は胸をなでおろした。

よかった。彼女もあの「食いしん坊被害者の会」の同志として、リスク管理を理解してくれているらしい。

あいつの食欲と執着心は、時として芸術への情熱よりも恐ろしいのだ。

 

「よかった。お前が話のわかる奴で助かるよ。……じゃ、名古屋へ帰ろうか。阪急の駅まで、ちょっとだから歩こう」

 

「……ふ、ふん。……い、急げ…よ…。……よ、夜に、紛れて……。……と、豊橋まで……逃げ切る……ぞ……」

 

---

 

そう言って、彼女は俺の少し前を、小走り気味に歩き出した。

 

だが、俺は気づいていなかった。

彼女の言う「当たり前」という言葉の裏側に。

 

彼女にとって、この一日は「他の部員に怒られるから隠したい秘密」ではなく。

 

自分のネタ帳の奥底に、自分だけの「聖域」として鍵をかけておきたい、誰にも——それこそ、他の部員たちという「物語の主人公」のような存在にすら。一文字も触れさせたくない、「自分だけの独占資料」なのだということに。

 

「……ぶ、部長……。……お、遅い。……置いて……行くぞ……」

 

振り返った彼女の顔が、街灯の光に照らされて、昼間よりもずっと鮮やかに赤く染まっていた理由を。

鈍感な俺は、ただ「京都の寒さのせいだろう」と、的外れな納得をしながら彼女の後を追うのだった。

 

---

 

梅田へ向かう阪急の車内は、すこし混んでいた。

 

俺たちはほとんど言葉を交わさないまま。

歩き疲れたというのもあるが、今日一日の「情報の濁流」を、お互いに処理しきれていなかったのかもしれない。

 

梅田で乗り換えて、近鉄難波駅。

深紅のボディが駅の照明を反射して輝く特急「ひのとり」を目の前にして、彼女はまたしても挙動不審に陥った。

 

「……な、なに、これ。……赤い。……速そう……こ、これ、あ、赤い彗星……とか、そういう……。……ば、爆発……したり、しない……?」

 

「しないから。ほら、入るぞ」

 

プレミアム車両に足を踏み入れた瞬間、彼女は本気で「ひっ」と短い悲鳴を上げた。

本革の大型シート、そして何より、後ろの人を気にせず倒せるバックシェル。

 

「……な、ななな……。……な、なに、これ……。……お、王族……? ……こ、ここに、座って……。……わ、私が……け、穢したり、しない……? ……ば、罰金……取られない……?」

 

「取られないって。いいからほら、座って」

 

恐る恐るシートに身を沈めた彼女は、電動リクライニングが動くたびに「ひいっ!」「お、おぉ……」と情けない声を上げていたが、最大まで倒して読書灯をつけたあたりで、ようやく「……ふ、ふん。……ま、まぁ……こ、これなら……ゆ、許して……やる……」と、何様かわからないご満悦な表情を見せた。

 

列車が滑るように難波を出発し、大和八木へと向かう静かな闇の中。

窓の外を流れる夜景を眺めていた彼女が、ふっと深くリクライニングの中に沈み込み、長いまつ毛を閉じた。

 

「……すぅ………」

 

規則正しい、小さな寝息。

その無防備な寝顔を見て、俺もようやく肩の力が抜けた。

朝から彼女の挙動不審に付き合い、京都の街を連れ回し、他部員への言い訳を考え……。

プレミアムシートの包容力に身を任せていると、意識が急速に遠のいていく。

あぁ、今日は本当に、文芸部の部長らしいことができたな——。

そんな漠然とした満足感の中で、俺は深い眠りに落ちた。

 

---

 

「…………」

 

彼の呼吸が完全に寝入ったそれになったのを確認して、わたしはそっと目を開いた。

 

寝てなどいなかった。

薄暗いプレミアム車両の車内。隣の席で、口を少し開けて情けない寝顔を晒しているアイツを、わたしはじっと見つめている。

 

震える手で、カバンから今日一日でボロボロになったネタ帳を取り出す。

そこには、京都の風景や小道、古い建物の描写がぎっしりと書き込まれているが、その最後のページの端っこに、わたしは震えるペン先を置いた。

 

『……部長が、寝た。……バカみたい。……私の……前で……無防備、すぎる……』

 

書きながら、わたしは自分の顔が、京都の夕暮れ時よりもずっと熱くなっているのを感じていた。

 

「……ぶ、部長……。……お、お前……。……ホントに……。……わ、わかって……ない……」

 

消え入りそうな声で呟き、再び目を閉じる。

あいつの寝息をBGMに、今日書き溜めた「自分だけの物語」を頭の中で反芻しながら、ゆっくりと本当の眠りへと、深く、深く。

 

落ちたかった。

列車は、わたしの「秘密」を乗せたまま、深夜の名古屋へと向かって、静かに闇を切り裂いていく。

 

脳裏をよぎるのは、ずっと追いかけてきた背中。

文芸部の前部長。

彼の優しさも、彼が向ける眩しい笑顔も、全部が自分のものにならないと分かっていても、わたしの「想い人」は、今だって、あの日と変わらず前部長のはずだ。

 

失恋した。負けた。それはもう、嫌というほど分かっている。

だからこそ、その「負け」の痛みを、大切に、大切に抱えて生きていくはずだった。

 

なのに。

 

「……な、なんで……。……お、お前が……。……わ、わたしを……。……し、知ってるんだよ……」

 

前部長ですら踏み込まなかった、自分の偏った「文藝」の嗜好。

それを、この冴えない、自分と同じ「負け」の側にいるはずの男が、今日は土足で——いや、丁寧すぎるほどの手順で、完璧にエスコートしてみせた。

わたしの好きな匂い、好きな景色、好きな言葉。

それらを一つずつ丁寧に拾い上げられて、ボロボロだった心を、無理やり京都の秋色で塗り替えられたような感覚。

 

それが、わたしにはたまらなく「恨めしくて」「嬉しい」。

 

隣で間抜けな寝顔でいるコイツが、わたしの心の中に、新しい、そしてひどく居心地の良い場所を勝手に作ろうとしている。

 

手の中に残る、京都で触れた空気の冷たさと、松葉の出汁の温かい匂い。

そして、人混みの中でずっと離さなかった、服の袖の感触。

 

「……せ、責任……取れよ……。……バカ……」

 

二度目の、そして今度は本物の「責任取れ」を闇の中に溶かし、今度こそ、わたしは逃げるように眠りの淵へと飛び込んだ。

前部長の思い出を、隣で寝ている男の存在に塗り潰されないよう、必死に胸の奥で抱きしめながら。

 

電車は、そんな不器用な乙女の「意地」を乗せたまま、終着駅へとひた走る。

 

いつからだろうか、胸を焦がす相手が変わっていることを自覚し、心変わりの早さに嫌気を感じながらも、惹かれずにはいられない

 

「……お、お前、の……せ、せいだぞ……。……ぜ、全部……お前が……。……わ、私の……日常を……こ、壊したんだ……」

 

わたしは、恨めしそうに彼の横顔をもう一度睨みつけた。

けれど、その視線はすぐに潤み、逃げるように伏せられる。

 

「……だ、大嫌い……だ……。……せ、世界で……いちばん……。……こ、心変わり……する……私と……。……な、何もしらないで……寝てる……お前が……」

 

唇を噛み締め、わたしは再びバックシェルの闇の中に逃げ込んだ。

前部長への申し訳なさと、彼への抑えきれない感情。

その二つの間で引き裂かれながら、わたしは自分の心の「負け」を認めることもできず、ただ熱を持ったまま、微かな寝息を立てる彼の隣で、泣きそうな顔をして震えていた。

 

---




 京都のルートは、ぜんぶ実在します。

 京都丸善、グリルカフェ猫町、白川疏水沿いの小道、喫茶ゴスペル、
 南禅寺の水路閣、一力茶屋、総本家松葉。

 歩けます。歩けますが、一日で全部やると、たぶん死にます。
 小鞠の体力だと、割ときついです。
 とくに、出町柳から猫町と、造形藝大。

 最初の店を「猫町」にしたのは、萩原朔太郎です。
 見慣れた町が、方向感覚ひとつで見知らぬ異界に変わる話。
 その名前の店で、一日を始めさせたかった。

 なお、八奈見なら間違いなく、天下一品総本店に変えさせられるでしょう。
 一本出て左にあるので。

 ──次回、豊橋に戻ります。

 あ、全部実在する、といいましたが。
 猫町から一乗寺通りを登ってきた白川通。
 そこにあったホテル ベルシャトウ、は今はなく、ジャガー京都になってます。

 ところで、ひのとりはマジでスゲーです。
 椅子だけならグランクラスとかJALのドメファーストに届こうかというレベル。
 もし、中京圏から関西行くことがあれば、一度乗ってみること、おすすめします。
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