負けヒロインが多すぎる! IF ―156の負け   作:nelldrip

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 二年生になった。
 学年行事の行き先が、京都に決まる。

 グルメガイドと、まとめサイトを片手に、文豪ゆかりの店を巡る気満々な文芸部の面々。

 そのまとめサイトに並んでいた店は、
 二人が数ヶ月前に歩いた道と、ほとんど一致していた。

 「ねえ、部長、この『松葉』ってお店、南座の隣なんだって。場所、わかる?」


負けヒロインが多すぎる! IF ”小鞠知花は天然ジゴロの夢を見るか” 第三話

2年生になった俺たちを待っていたのは、学年行事の定番——「学年合宿(修学旅行)」の知らせだった。

 

そして、その行き先は、あろうことか京都である。

 

「いい、部長。これは『文芸部』としてのアイデンティティを懸けた戦いなのよ!」

 

放課後の部室。旅行のしおりを広げたあいつが、鼻息も荒く俺に詰め寄ってきた。

手には、どこから仕入れてきたのか京都のグルメガイド。それも「文豪が愛した名店」特集のページだ。

 

「戦いって……。ただの学年行事だろ。自由行動の時間だって限られてるし」

 

「甘いわね、部長。京都といえば文藝の都! 私たち文芸部員たるもの、文豪が執筆の合間に食べたあの食事、あの甘味を五感で体験して、それを血肉に変える義務があると思わない?」

 

そうして、ペンでガイドブックを激しく叩く。

 

「例えばここ! 『三嶋亭』の牛鍋とか! それから平八茶屋のとろろ汁とか! 夏目漱石がどんな想いでこれをもぐもぐ……じゃなくて、思索に耽りながら食べたのか。それを知らずして、どうして新作が書けるっていうのよ!」

 

「……もぐもぐって言ったよね、今。と言うか、いくらするか知ってる?それ」

 

猛烈な「食のプレゼン」を横目に、俺は隣の席を盗み見た。

彼女は、ノートPCの画面を見つめたまま、文字通り「石」になっていた。

 

---

 

わたしの脳内では、先日の「二人だけの京都」が、邪魔者の騒がしい声によってかき乱されていた。

 

(……な、なんで……きょ、京都……。……な、なんで……あいつが……)

 

自分と部長だけの「取材」だったはずの場所。あの猫町の静寂も、ゴスペルのパイプオルガンの音も、松葉の出汁の匂いも。それをこいつらが「食べ歩きコース」として土足で踏み荒らそうとしている。

 

部長がもし、自分に教えたあの「秘密のルート」を、みんなにも同じように教えたら。

こいつらと一緒に、あのにしんを解して食べたりしたら……。

なぜだろう、どうでもいいはずだ。どうでもいいはずなのに。

胸が、苦しい。

 

「……ひ、ひぃ! ……な、なな……。……お、おま……お、お前……。……きょ、京都は……そ、そんな……浮ついた……気持ちで……行く場所じゃ……ない……!」

 

絞り出すような声で反論した。

 

「え〜? 何言ってるのさ。京都なんて浮ついてナンボじゃん。浴衣着て、映えるスイーツ食べて、文豪の残り香をクンクンしながら、美味しいお肉を頂く。これぞ文化の極み!」

 

「……ク、クンクン……って……。……ふ、不潔だ……。……ぶ、文豪への……冒涜……だ……っ! ……バ、バカっ! ……!」

 

「えー。 私はただ、みんなで楽しく美味しいものを共有したいだけなのに!」

 

「……あー、お前達。その、文豪の食事もいいけどさ。ほら、他にもあるだろ? 金閣寺とか、清水寺とか……」

 

俺は必死に、こいつらの意識を「食べ歩き」から「一般的な観光」へ逸らそうとする。

もしこいつらを『松葉』に連れて行こうものなら、あいつの「食の嗅覚」は、俺と彼女が以前ここに来たこと、それもかなり「手慣れたルート」で回ったことが即座に露見するだろう。

 

「あんたたち、さてはあんまり乗り気じゃないわね? あんただって、あんなに熱心に執筆してたじゃない。ねえ、せっかくの京都だし、部長に美味しいお店、案内してもらおうよ!」

 

---

 

「……っ!!」

 

彼女は、燃え上がるような視線で俺を射抜いた。

その目は、「絶対に、一文字も、あいつに教えるな」という強烈な圧を放っているようで。

 

「……ぶ、部長。……お、お前……。……案内……。……す、する……のか……?」

 

「いやしないから。 俺はただの一般生徒だし、京都なんて修学旅行の予習程度しか知らないって」

 

「……ふ、ふん。……そ、そうだよな……。……ぶ、部長に……そ、そんな……小洒落た……趣味……あるわけ、ない……。……あ、当たり前……だ……」

 

彼女はそう吐き捨てて、再びPCに向き直った。

けれど、その背中には「もし教えたら、にしんの骨で刺す」と言わんばかりの、どす黒い執念が渦巻いている。

 

5月の風は爽やかなはずなのに、俺の背中には嫌な汗が流れていた。

あいつらの底なしの食欲に、彼女の独占欲に近い創作意欲。

 

この二つを乗せた京都合宿が、平穏なものになるはずがない。

 

カバンの中の、あの日京都から持ち帰ったパンフレットを、さらに奥深くへと押し込んで。

 

「……京都か。……はぁ、胃が痛くなりそうだな、これ……」

 

俺の独り言は、皆がめくるグルメガイドの音にかき消された。

 

---

 

「……えーっと。そのページの端っこに小さく書いてある数字、ちゃんと見てる?」

 

俺は、他部員が机に広げたフルカラーのグルメガイド——それも『京都・至高の老舗特集』なんて仰々しいタイトルの雑誌——を指先で叩いた。

 

「なに? 部長。さっきから細かいことばかり……。あ、この『三嶋亭』のページ? 創業明治六年だって! 川端康成や池波正太郎もきっとここで、霜降りの牛肉を前に筆を走らせたに違いないわ」

 

「筆を走らせる前に財布が走って逃げ出すよ。ここ、ディナーはもちろん、ランチですら俺らのお小遣い一ヶ月分じゃ軽く足りない値段なんだけど。……というか、まさかこれ『文芸部の合宿費』で落とそうとしてないよね!?」

 

「えっ、ダメなの? 部員の教養を深めるための、いわば『必要経費』じゃない。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」

 

部室の入口でスポーツバッグを放り出したばかりの別の部員が、こいつの呼びかけに「なにそれ美味しそう!」と無邪気に食いついてくる。

 

「見てよこのサシ! まるで芸術作品。ここでお肉を一枚口に含めば、私の胃袋……じゃなくて、創作意欲が爆発して、三島由紀夫ばりの耽美な文章が書けちゃう気がするの!」

 

「三嶋亭? 焼肉? すき焼き? いいじゃん、京都でお肉! 私、走るのにお肉必要だし。部長、いいお店知ってんじゃん! さっすが部長!」

 

「いや、俺が勧めたんじゃないから。……気楽に言ってくれるなよ。俺のお小遣いはお前たちの食欲を満たすための魔法のカードじゃないんだぞ……っていうか、お前も何か言ってくれ。三嶋亭とか、お前の文藝観からしてどうなんだ」

 

---

 

わたしは、さっきからノートPCの画面を睨みつけたまま、指一本動かさずに固まっていた。

その周囲には、京都の北白川で見せたあの瑞々しい感性とは正反対の、どす黒いオーラが漂っていた。

 

(……み、三嶋亭……。……お、お肉……。……に、にく……)

 

わたしにとって、あの京都での思い出は「猫町」の静寂や「ゴスペル」のアンティークな空気、そして「松葉」のにしんの骨を一本ずつ解していくような、繊細で湿り気を帯びた時間だった。

 

それが今、あいつの底なしの食欲と、一緒に騒ぐ「お肉! 走る!」という体育会系的なエネルギーによって、「高級牛肉食べ放題ツアー」へと塗り替えられようとしている。

 

「……お、お前……。……こ、こいつら……そ、そんな……テカテカした……場所……連れて……行く、のか」

 

「行かないよ! というか行けないんだって、予算的に!」

 

「……ふ、ふん。……そ、そう、だよな……。……ぶ、部長の……分際で……。……三、三嶋亭なんて……。……あ、当たり前……だ……」

 

わたしはそう吐き捨て、キーボードを叩き始めた。だが、その打鍵音はいつになく激しい。

「ねえ部長。お金がないなら、部長の家にある『秘蔵の古本』とか売って工面すれば——」

 

「いや倫理ってものを……いいか、京都合宿は、あくまで『文芸』に根ざした、つつましくも高潔なものであるべきだと思うんだけど」

 

「え〜……ケチだなぁ……。あんたも部長を説得してよ! お肉、お肉食べたいって!」

 

「……し、知らん! ……に、肉より……お、お前を……。……に、にしんに……してやる……! ……バ、バカ……!」

 

こいつらの脳天気と無邪気。そして、聖域を荒らされまいとするわたしの殺気で。

 

5月の爽やかな風が吹く部室の中、部長だけが、来たるべき京都合宿の「財布の崩壊」と「平和の終焉」を予感して、深く深いため息をついていた。

 

「三嶋亭はさすがに無理だとしてもさ、こういう文豪の気配が残るようなところなら、雰囲気あっていいじゃん。創作の刺激になりそうだし!」

 

そう言って別の部員が差し出したスマホの画面には、『文豪が愛した京都の名店・名所巡り』というまとめサイトが表示されていた。

 

そこには、大正ロマン漂う洋館の喫茶店や、哲学の道沿いに佇む古びた店、そして鴨川を一望できる老舗の蕎麦屋などが、美麗な写真と共に紹介されている。

 

「おっ、いいじゃんいいじゃん!分かってるぅ!」

 

さっきまでの肉はどこへやら。身を乗り出して、差し出されたスマホを覗き込む。

 

「ほら見てよ、部長。ここなんて名前からして最高じゃない? 『喫茶ゴスペル』。ヴォーリズ建築の洋館なんだって! それにこの『猫町』ってお店も、萩原朔太郎っぽくて素敵。あ、この『松葉』のにしん蕎麦も……これこれ、こういうのを求めてたのよ!」

 

「……っ!!」

 

思わず、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで硬直してしまった。

キーボードを叩く指は完全に止まり、モニターにはわたしの青ざめた顔が反射して。

 

わたしにとって、その画面に並んでいる写真は、数ヶ月前に部長と二人歩いた「あの日の記憶」そのものだ。

 

自分だけの秘密の聖域、自分だけの創作の源泉。それが今、あいつの指先でスクロールされ、横からは「美味しそう!」という無邪気な声に晒されて。

正直、気が気でないとはこのことだろう、と思うのだった。

 

---

 

やばい。このリスト、俺たちが回ったルートとほぼ一致している。ここでうっかり「あ、そこいいよね」なんて言おうものなら、間違いなく俺たちの秘密は、一瞬で白日の下に晒されるのだろう。

 

「……あ、ああ。……へぇ、いいんじゃない。いかにも文芸部っぽいし、健全で」

 

俺は努めて平坦な声を出し、視線を窓の外へと逸らした。

 

「でしょ? 部長。特にこの『ゴスペル』のスコーン、食べログの評価も高いんだから。みんなもこういうの好きでしょ? ほら見てよ、このアンティークな内装!」

 

そういうとスマホを彼女の目の前に突き出して。

 

「……ひ、ひぃ! ……な、なな……な……」

 

彼女は、まるで自分の恥ずかしい日記を音読されているかのような顔をして、ガタガタと震え出した。

 

「……し、知らない! ……み、見たこと……ない! ……こ、こんな……お洒落な……場所……。……に、人間が……行っていい……場所……違う」

 

「ええっ!? そうかなぁ。執筆の参考になりそうだけど——」

 

「……う、うるさい! ……お、お前は……だ、黙って……揚げパン……食べてろ……! ……ぶ、部長! ……お、お前も……な、なにか……言え……!」

 

「……え、俺? いや、俺はほら、京都は中学の修学旅行以来だし。あいつがそんなに嫌なら、別の場所を探したほうがいいんじゃないかな……」

 

「え〜、部長も消極的だなぁ。あ、これとかどう?いいんじゃないかな」

 

「うん! 私、この水路閣ってところ行ってみたい。レンガのアーチがかっこいいし、走ったら気持ちよさそう!」

 

そうして指差したのは、南禅寺の水路閣。

彼女があの日、「ソリッドなエロスがある」とか不穏な供述をしていた場所だ。

 

「……っ、ぶ、部長……お、お前……。……ぜ、絶対に……。……お、教えるな……よ……」

 

そういうと、机の下で俺の制服の裾をぎゅっと掴んできた。

その手は小刻みに震えていて、上気した顔には「嫉妬」と「拒絶」、そして「隠し事の焦り」が入り混じっている。

 

自分たちが歩いたあの道を、他部員や別の部員と一緒に、まるで初めてのように歩き直さなければならない地獄。

あるいは、彼が彼女たちに「ここはいいところだよ」と案内してしまうことへの恐怖か。

 

「……分かってる。……何も知らないから、俺は」

 

俺は、隣の彼女にしか聞こえない声でそう囁くのが精一杯だった。

 

---

 

「ま、まあ……そういうのも、いいかもね。部長として、なにか……なにか考えておくよ……」

 

俺は引きつった笑いを浮かべながら、どうにかそれだけを絞り出した。

喉の奥がカラカラだ。あいつのあの「獲物を狙う獣」のような鋭い視線から逃れるように、俺は手元の資料を無意味に整頓し始める。

 

やばい。これ以上、あのまとめサイトのページを深掘りされたら終わる。

もし「ねえ、この『猫町』ってお店、どうやって行くのが一番効率いいかな?」なんて聞かれようものなら、俺は反射的に「バスで藝大前か、七条から京阪に乗って出町柳まで行って……」と、あのルートを即答する自信がある。

 

そうなれば、その場で「食の追求」という名の尋問が始まるのは火を見るより明らかだ。

 

(……別の、別のプランを組むしかない。それも、あの日回ったルートから一ミリも重ならない、全く別の京都を……!)

 

冷や汗が背中を伝う。脳内では、京都の地図が高速で書き換えられていた。

金閣寺、二条城、嵐山……。ベタな観光地なら、俺が詳しくても「中学の修学旅行の記憶」で押し通せるはずだ。

間違っても、北白川の静かな住宅街や、哲学の道の隠れ家的な喫茶店を候補に入れてはいけない。

 

「……ぶ、部長」

 

隣から、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。

彼女が、机の下で俺の制服の裾を、今にも引きちぎらんばかりの力で握りしめている。

 

顔を上げなくても分かる。

今の彼女は、上気した顔に「絶交」の二文字を浮かべ、俺を射殺さんばかりの目で見つめているはずだった。

 

(……お、教えたら……。……こ、こいつらを……あ、あの場所、に……連れて、行ったら……。……こ、殺す……。……も、最中の……た、祟りで……呪い、殺す……)

 

言葉にならない彼女の執念が、服の裾を通じてダイレクトに伝わってきていた。

 

---

 

わたしにとって、あの京都は「負けヒロイン」としての自分を少しだけ忘れ、彼という一人の男子と共有した、たった一編の秘蔵の物語だ。

それを皆と一緒に「ワイワイと再放送」することなんて、わたしの心が許すはずもない。

 

「……あ、あのさ。やっぱり、文豪にこだわりすぎると、歩く距離も増えるし……。ほら、もっと体を動かせるところの方がいいだろ? 伏見稲荷の千本鳥居を一番上まで登るとか……」

 

「え〜、それもいいけどさ。やっぱり『文芸部』なんだし、美味しいお蕎麦は外せないよ。ねえ、部長、この『松葉』ってお店、南座の隣なんだって。場所、わかる?」

 

そう言うと、追い詰めるように身を乗り出してくる。

彼は、数ヶ月前にあの店で、にしん蕎麦を美味しそうに(そして恨めしそうに)食べていたわたしの横顔を必死に脳内からかき消そうとしているのだろう。

 

「……さ、さあ? 南座って、あの大きな建物だよね。……まあ、当日に地図見ればなんとかなるんじゃないかな……あはは……」

 

たどたどしすぎる彼の返答に、皆が怪訝そうに目を細める。

一方で、わたしの握る力は、さらに一段階強まっていた。

 

---

 

(……ダメだ。この場を凌いでも、合宿当日までこの緊張感は続くのか?)

 

俺は、あの日京都から連れて帰ってきた「秘密」の重さを改めて噛み締める。

部長として、部員全員が楽しめるプランを立てる義務。そして、一人の男子として、彼女との「あの日の物語」を守り抜くという、あまりにも難解で居心地の悪いミッション。

 

「……な、なにか……別の、プラン……か、考えろよ………お前……ぶ、部長……だろ……」

 

彼女の消え入りそうな、けれど切実な囁きが耳に届く。

俺は、他部員のグルメガイドと別の部員の無邪気な笑顔から逃げるように、真っ白なメモ帳に「嵐山・トロッコ列車」と、震える手で書き込み始めた。

 

---

 

夕食後のリビング、俺は椅子に座ったまま、真っ白な灰になったボクサーのような格好で、動けずにいた。

 

目の前のテーブルには、あいつらが置いていったグルメガイドのコピー。その横に、書きかけの「京都・健全観光ルート案」のメモが散乱している。

 

「……お兄様?真っ白ですよ?」

 

背後から、心配そう、かつ少しだけ面白がっているような妹の声がした。俺の肩にそっと手を置き、顔を覗き込んでくる。

 

「……ああ、お前か。いや、ちょっと……燃え尽きただけだよ」

 

「燃え尽きるにはまだ早いですよ、五月なんですから。どうなされたのですか? また文芸部の……あの、個性豊かなお姉様方に何か無理難題を?」

 

妹が淹れてくれた温かいほうじ茶の香り。うん、ささくれ立った俺の心に、実に染み渡る。重い頭を上げると、ため息混じりに答えた。

 

「……学年合宿のコースを考えてたんだよ。行き先が京都なんだ」

 

「京都! 修学旅行の定番ですね。素敵じゃないですか。お寺巡りに、美味しい和菓子……わたしもお土産、期待しちゃいます!」

 

「あー、うん。普通なら、楽しいだろうな。普通なら。でもほら、うちの部は普通じゃないだろ。一人は三嶋亭のすき焼きを食べさせろと暴動寸前だし、ほかにも文豪の店を片っ端から制覇すると息巻いてるやついるし……」

 

何より、彼女だ。

あいつが「あの日の京都」を自分だけの聖域として、必死に守ろうとしている。

もし俺が皆をあの場所に案内しようものなら、彼女の手によって俺の社会的な、あるいは物理的な生命が絶たれるのは間違いない。

 

「……うーん。みなさんが満足する京都のコース、ですか…」

 

妹は俺の隣に座り、じっと俺の顔を見つめてきた。

その瞳の奥には、あいつらとまた違う、妹特有の鋭い「直感」が光っている。

 

「お兄様。単なるコース決めにしては、少し……いえ、かなり、『隠し事がある人の顔』をしていますよ?」

 

「……っ、そんなことないよ。ただの予算と時間のパズルのせいだ」

 

「そうですか? あれ、でも…京都といえば、お兄様、以前にたしか取材で行っていませんでしたっけ? たしか、お土産で最中買ってきてくれたような……」

 

俺は背中に流れる冷や汗を感じながら、視線を逸らし、ほうじ茶を啜って誤魔化す。

 

「いいですか、お兄様。女の人の恨みは、京都の冬より冷え込みますからね。とはいえ、皆さんの満足をすべて満たすような、そんな針の穴を通すようなコース、お兄様に組めるのでしょうか?」

 

妹はクスクスと笑いながら、俺の書きかけのメモを覗き込んだ。

 

「『嵐山・トロッコ列車』……。うーん…お兄様、これでは逃げ腰すぎです」

 

妹の容赦ない指摘が、俺の胸に深く突き刺さる。

家の中ですら、俺は「京都」という巨大な迷宮に、出口も見つからないまま迷い込んでいた。

 

「……京都のお土産、何がいい?」

「そうですね。お兄様が無事に帰ってこれたら、何でもいいですよ。……秘密の思い出以外なら」

 

妹のいたずらっぽい笑顔に見送られ、俺は再び、白紙に近いメモ帳と向き合うことになった。

 

---

 

「……やっぱり、あの叔父さんに相談するしかないか」

 

妹が部屋を出た後、俺は机に突っ伏したまま、独り言を漏らした。

前回の「秘密の取材旅行」の際、完璧すぎるルートを伝授してくれた叔父。

京都の大学に通い、街の隅々まで知り尽くしているあの人なら、きっと今の俺の絶望的な状況を打破する「プランB」を提示してくれるはずだ。

 

今回の相談内容は、前回よりも遥かに難易度が高い。

 

文藝の香りがして、美味しいものが食べられて。

 

それでいて、前回のルート…北白川、哲学の道、花見小路、四条と重ならないことである

 

---

 

「……もしもし、叔父さん? また京都のことで相談なんだけど。……いや、今回は『食欲の怪物』と『野生のスピード狂』も一緒で。

……そう、前の場所は『封印』されたんだ。上書き禁止。……分かってくれる?…そうそう、さすが京都のOB」

 

電話の向こうで、叔父さんが面白そうに笑う気配がする。

きっと、俺が直面している複雑過ぎる力学を、ある種の喜劇として理解してくれたのだろう。

 

「……いや、だから。叔父さん、デートじゃないって言ってるだろ。ただの文芸部の合宿の下見、みたいなもんだから」

 

受話器の向こうで、叔父さんは「がはは!」と豪快に笑い飛ばしている。

相変わらず、この人は人生をラブコメか何かだと思っているのだろう。

 

「いいか。女を連れてあの北白川から哲学の道のコースを回って、デートじゃないなんて言い訳は京都の神様が許さねえよ。あの沈黙の空間、あの湿り気のある空気……。相手の女の子も、今頃お前にメロメロか、あるいは一生モノのポエムを書き上げてるはずだぞ」

 

叔父さんの言葉に、俺は思わず黙り込んだ。

確かに、彼女はあの日、俺の袖を掴んだまま、耳まで真っ赤にして「責任取れ」なんて呟いていた。……いや、あれは責任転嫁の類であって、決して叔父さんの言うような甘酸っぱい意味ではないはずだ。たぶん。

 

「まあいい、次だな。確実に『墜とし』にかかるなら、嵐山だ。王道だが、文藝の香りを嗅がせつつ、胃袋も掴む。完璧なプランがあるぞ」

 

叔父さんが提案してきたのは、前回の「静」の京都とはまた違う、華やかで、けれど歴史の闇が深いルートだった。

 

 天龍寺・渡月橋 足利尊氏ゆかりの地。亀山天皇の離宮跡。 景色は最高だが人が多い。早朝を狙え。

 森嘉(もりか)の豆腐。川端康成や司馬遼太郎が愛した、京都の豆腐の代名詞。 テイクアウトの「飛龍頭」を二人で分け合え。

 松籟庵(しょうらいあん) 近衛文麿の別邸を改装した豆腐料理店。 値は張るが、ここで近衛文麿の話をすれば「知的な男」を演出できるぞ。

 祐斎亭(ゆうさいてい) 川端康成が『山の音』を書いた元料理旅館。丸窓と水鏡が絶景だ。要予約。締めはここにしろ。

 「松籟庵」と近衛文麿の影

「松籟庵か……。近衛文麿の別邸って、それ、めちゃくちゃ文藝っていうか、歴史の教科書レベルじゃないか」

 

「そうだ。あの優柔不断で耽美な貴族政治家が、この嵐山の絶景を眺めながら何を想ったか……。そんな話をしながら、川沿いの個室で極上の豆腐を食う。どうだ、文芸部の女子なら一発で落ちるだろ?」

 

「いや、だから落とすんじゃないから。むしろあいつなら、近衛文麿の末路を想像して『……ご、業が……深い……』ってメモを取り始めて、食事が進まなくなるのが目に見えてる」

 

それに、と俺はメニューの価格を思い浮かべて溜息をつく。

 

あいつら全員、それに俺の分まで含めて「松籟庵」でコース料理なんて頼んだら、たとえランチといえど、俺の貯金は京都の露と消えてしまう。

 

「叔父さん、普通の観光より文藝に触れられればいいんだ。森嘉の豆腐なら、店頭で揚げたての油揚げや『飛龍頭』を買って、河原で食べるくらいなら高校生でもいけるけど」

 

「お、分かってるな。森嘉の豆腐をそのまま食うのも、それはそれで『通』だ。

川端康成が書いた『古都』の世界そのままだからな。……いいか。嵐山は『嵯峨野』の奥へ行けば行くほど、寂れて、陰気で、耽美になる。

前にお前と一緒にいた子なんかは、そっちの方が喜ぶだろ?」

 

「……まぁ、確かに」

 

北白川とは別の、けれど同じくらい深く、重厚な京都。

近衛文麿の美学と、川端康成の静寂。そして他部員を満足させるであろう、圧倒的な「食」のクオリティ。

 

これなら、前回のルートと重なることなく、かつ文芸部としてのメンツも保てるかもしれない。

 

「よし。嵐山、嵯峨野ルートで組み直してみるよ。……叔父さん、一応聞くけど、女子三人を連れて歩く場合の、一番の注意点は?」

 

「がはは! 簡単だ。『食わせろ、歩かせるな、そしてお前の思い出を語るな』だ。特にお前、前のコースを懐かしそうに話したりしてみろ。修羅場確定だぞ」

 

叔父さんの笑い声が耳に残る中、俺は通話を切った。

「思い出を語るな」……。彼女とのあの静かな時間を、胸の奥に封印したまま、嵐山の喧騒を切り抜ける。

 

俺の学年合宿は、どうやら近衛文麿の政治並みに、難解で危ういものになりそうである。

 

「……松籟庵抜き、なら…。うん、それなら現実的なラインが見えてくる」

 

俺は手元のメモ帳に、叔父さんのアドバイスを「高校生のお小遣い版」に書き換えながら、真面目にシミュレーションを始めた。

 

松籟庵の豆腐懐石は確かに魅力的だ。とはいえ、一人数千円から一万円近い出費は、文芸部の予算を瞬時に蒸発させる。それに、そんな高級店に他部員を連れて行ったら、「お肉のおかわりは?」とか「デザートは別腹だよね?」と、際限のない追加オーダーで俺のライフはマイナスに突入間違いなしだ。

 

うん。ここは「質より雰囲気、そして圧倒的な文藝感」で攻めるプランを組もう。

 

「……あいつ、当日は、お互いに初対面のフリをするくらいの覚悟でいてくれるだろうか」

 

俺は、誰もいない部屋でそう呟いていた。

 

---

 

「いいか、みんな。京都合宿のルートが決まった。題して『文豪の愛した静寂と、伝説の豆腐を巡る嵯峨野紀行』だ」

 

俺は、昨日妹に「逃げ腰」と笑われたメモを捨て、新しく清書した「攻め」の旅程表を机に広げた。

 

文芸部・京都合宿(暫定決定ルート)

10:00:JR嵯峨嵐山駅 集合

 

10:30:嵯峨「森嘉」の豆腐体験

 

川端康成『古都』に登場する伝説の豆腐。揚げたての「飛龍頭」を食し、文豪の舌を追体験する。

 

11:30:野宮神社 〜 竹林の小径

 

『源氏物語』ゆかりの地。紫式部が描いた「別れの美学」に触れる。

 

13:00:落柿舎 〜 祇王寺(苔の寺)

 

向井去来が愛した隠れ家と、平家物語に描かれた悲恋の舞台。湿り気のある静寂の中で、各々執筆のインスピレーションを得る。

 

15:00:嵐山公園(河原)にて、文芸部・青空創作会議

 

「……やるじゃない、部長。昨日までの『お肉食べたい他部員をどうにかして巻こうとしてる情けない顔』が嘘みたい」

 

そういうと、獣の様な目はどこへやらと、身を乗り出して。

旅程表の「森嘉」という文字を指先でなぞった。

 

「川端康成が愛した……伝説の飛龍頭。いい響きじゃない。お肉じゃないのは残念だけど、『伝説』っていうスパイスがあるなら納得せざるを得ないわ。それに、中がふわふわなら、それは実質カロリーゼロってことでしょ!」

 

「わたしもいいと思う! 嵯峨野って結構歩くところでしょ? 竹林の中を走……あ、いや、歩くのも気持ちよさそう。部長、やるじゃん!」

 

別の部員が「さっすが部長!」と俺の背中をパシパシと叩く。……痛い。けれど、この二人の快諾を得たことで、俺の作戦の第一段階は成功だ。

 

そして、肝心の彼女はといえば——。

 

「…………」

 

彼女は、旅程表に書かれた「祇王寺」や「落柿舎」という文字を、穴が開くほど見つめていた。その瞳には、安堵と、驚きと、そして……どこか「裏切られたような寂しさ」が混じっているのを、俺は見逃さなかった。

 

「……ぶ、部長。……お前……。……きょ、京都のことなんて……な、なにも……し、知らない……ふり……してた、くせに……」

 

彼女が、蚊の鳴くような声で、けれど鋭く俺を刺してきた。

 

「……あ、ああ。まあ、部長として一晩中必死に調べたんだよ。ほら、ガイドブックとか、ネットとか、色々駆使してさ」

 

俺は努めて事務的な、他人のフリをするようなトーンで答える。これが叔父さんに言われた「思い出を語るな」という鉄則の遂行だ。

 

「……ふ、ふん。……そ、そうだよな。……ぶ、部長が……自分のセンスで……こんな……し、渋い……ところ選ぶわけ、ない……。……ど、どうせ……どっかの……う、受け売り、だろ……。……し、死ね……っ!」

 

---

 

わたしはそう吐き捨ててPCに向き直ったが、その指先は相変わらず震えていた。

 

あいつのもってきた、この「嵐山プラン」。

それが、わたしとの思い出を汚さないための配慮なのか、それとも、彼が「他の女子」とも同じように素敵な京都を過ごそうとしていることへの予兆なのか……

 

その「居心地の悪さ」が、わたしの嫉妬と創作意欲をさらに煮詰めさせていく。

 

「よーし、そうと決まれば当日が楽しみだね! 私、今から飛龍頭に合うお漬物とかリサーチしなきゃ」

 

「修学旅行だよ、修学旅行。……まあ、いいけど」

 

彼は冷や汗を拭いながら、決まったばかりの旅程表を畳んでいた。

あいつらの食欲を逸らし、エネルギーを発散させ、わたしとの思い出を守る。

綱渡りのようなプランニングは成功したように見えたが、本当の地獄は、京都の駅に降り立った瞬間から始まるのだろう。

 

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学年合宿の初日、京都は予報通りの五月晴れに恵まれた。

 

だが、クラス単位での移動となれば、そこに「情緒」や「文藝」が入り込む隙間はない。俺たちはただ、大型バスに揺られ、ガイドさんの旗を追いかけ、教科書で見たことのある風景をスタンプラリーのように消化していった。

 

「ま、眩しい……。これ全部売ったら、一生お肉に困らないわね」

 

なにやら不穏な計算をしていたが、周囲の観光客の多さに圧倒され、食欲の暴走には至らなかったようである。というか鹿苑寺の金閣をみて思う感想がそれか。それなのか。

 

枯山水の石庭を見ていると、「ねえ、あの石、走って飛び越えたら怒られるかな?」と純粋な瞳で聞いてきたので、全力で止めた。

龍安寺のそれをみて、飛び越えようとするとか、いったいどうなってるんだ陸上部。ちょっと指導方針について問いただしたいところである。

 

広い境内をただ黙々と歩く。クラスメイトたちと足並みを揃え、適当な世間話に相槌を打つだけの「普通の高校生」としての時間。なんというか、仁和寺ではじめて京都らしさ、を体験している気がした。

 

「……ふぅ。ようやくホテルか。疲れたな…」

 

夕食後、旅館の広間でクラスメイトたちと談笑しながら、俺は密かに安堵していた。

一日目は、俺がプランニングした場所とは一ミリも重ならなかった。これなら、あいつらに「以前ここに来たことがあるのでは?」と感づかれる心配もないはずだ。

 

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部屋に戻る途中、廊下の隅で自販機の炭酸飲料を買っていた彼女と鉢合わせた。

 

「……あ。今日はお疲れ」

 

「……っ、ひ、ひぃ! ……ぶ、部長……」

 

彼女は、買ったばかりの缶を両手でぎゅっと握りしめ、上気した顔で俺を睨みつけた。

 

「……な、なにが……き、金閣寺……だ。……あ、あんな……ピカピカして……。……あ、当たり前……だろ……。……ぜ、全然……お、面白く……ない……」

 

「まあ、クラス移動だしな。……明日は、例の嵯峨野プランだから。もう少し、マシな景色が見れると思うよ」

 

俺が彼女にしか聞こえない声でそう告げると、彼女はふいっと視線を逸らした。

金閣寺の派手な輝きに、自分たちの「秘密の記憶」が塗り潰されそうになったことへの彼女なりの抵抗か。

あるいは、明日への期待と不安か。

 

「……ふ、ふん。……ど、どうせ……あ、あいつらが騒いで……台無しになる……責任、取れ」

 

彼女はそれだけ言い捨てて、小走りに女子の部屋へと戻っていった。

 

嵐の前の静けさ

俺は自室の布団に横たわり、天井を見つめる。

明日は二日目。クラス単位の行動を離れ、いよいよ文芸部としての「自由行動」が始まる。

 

完璧なはずの「嵯峨野・文藝防衛プラン」。

あいつら食欲を「伝説の飛龍頭」で満たし、体力を「嵯峨野の散歩道」で消費させ、彼女の思い出を「北白川」から遠ざけることで守り抜く。

 

……はずだ。

 

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二日目、午前九時。

京都駅の喧騒を離れ、俺たちは嵯峨野線へと乗り込んだ。

目指すは嵐山。十六時の集合時間まで、俺はこの「文芸部・決戦ルート」を完遂しなければならない。

 

JR嵯峨嵐山駅に降り立つと、五月の爽やかな風が吹き抜けた。だが、俺の隣を歩く女子三人の空気感は、五月晴れとは程遠い。

 

「ねえ、駅を出て三歩歩いたけど、まだ『伝説』の匂いがしてこないんだけど」

 

早くもハンターの目で周囲を警戒している。彼女の言う「伝説」とは、もちろん俺が先日プレゼンした「森嘉」の豆腐のことである。

 

「……いや、早すぎるから。まずは渡月橋の方を回って、お腹を空かせてから……」

 

「却下。創作活動にはブドウ糖が必要なの。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」

 

「……ひ、ひぃ! ……な、なにも……き、聞いてない……。……お、お前……。……わ、私に……ふ、振るな……」

 

俺と他の部員の間の絶妙な距離感。彼女は早くも「居心地の悪さ」を全開にしていた。

その視線は、俺の顔を通り越し、はるか遠くの愛宕山あたりを恨めしそうに射抜くようで。

 

人混みを避け、住宅街の奥へと進む。やがて見えてきたのは、古びた、けれど凛とした佇まいの「森嘉」の店舗だ。

 

「これが、川端康成が愛した豆腐屋か……」

 

俺がそう呟くのと、「飛龍頭、四つ!」と注文する声が横から聞こえたのは、ほぼ同時だった。

 

「はい、熱いから気をつけてね」

 

手渡されたのは、揚げたての「飛龍頭」。

紙袋越しでも伝わってくる熱量。そして、油の香ばしい匂い。

 

「……はふっ、あふっ……! な、なにこれ。中が信じられないくらいふわふわ! 百合根と銀杏が、まるで文藝の技巧のように複雑に絡み合って……美味しい!」

 

ハフハフと口を動かしながら、至福の表情を浮かべているのを見ていると、流石に紹介した方としても満足である。

その横で、もう一人は「これいいじゃん! 軽いから何個でもいけそう!」と、アスリートらしい勢いで完食していた。

 

---

 

「…………」

 

わたしは、一つだけ残った彼の分の「飛龍頭」と、自分の分を交互に見つめていた。

 

「……食べないの?」

 

「……た、食べる………。……お、お前……。……こ、こんな……場所……。……よ、よく、知ってたな……」

 

部長の京都知識…たとえ受け売りと分かっていても、それを自分以外のために使っていることへの、言いようのない独占欲と嫉妬に、どうしようもなく胸がチクチクする。

 

「……叔父さんだよ。ほら、前に話しただろ」

 

「……ふ、ふん。……あ、当たり前……だろ。……お、お前のセンスじゃない……そ、そうじゃなきゃ……い、居心地が……悪すぎる……」

 

わたしは、そう毒づきながら、飛龍頭を小さくかじった。

そして、その瞬間、ほんの少しだけ顔を綻ばせた表情を見せてしまった。

あの日、北白川でスコーンを食べた時と同じ、わたしだけの「美味しい」の形。

 

あいつはそれを見て、密かに安堵したような表情で。

それが、とても腹正しくて、とても――

 

---

 

「さあ、次は野宮神社だ。源氏物語の世界だぞ」

 

嵐山の空は青く、竹林の緑は目に眩しい。

けれど、俺の心の中は、これから向かう「祇王寺」の苔よりも深く、湿り気を帯びた予感に満たされていた。

 

十六時の京都駅集合まで、あと六時間。

俺の「思い出保護作戦」は、まだ始まったばかりだ。

 

そうして、野宮神社・竹林

 

竹林の小径は、五月の午前中にしては人が多かった。

 

「……ひ、人が、多すぎる……。……こ、これじゃ……た、竹の、声が……き、聞こえない……」

 

彼女が、俺の袖をつまんでそう訴えてくる。手のひら半分ほどの力で、けれど確実に。

 

「我慢しろって。抜けたらすぐ静かになるから」

 

一方で後ろからは、「ここって走っていいの?」と本気の目で確認してくる声が聞こえる。

「駄目だよ」と納得させるのに三回かかった。

もう一人は、飛龍頭の油の香りを全身に纏ったまま、満足げに竹を見上げて。

 

「……んー、いい緑ね。でも、竹ってどうしてこんなにまっすぐ生えてるのかしら。何かの主義主張でもあるの?」

「……れ、れっきとした……植物の……摂理……だ……」

「へぇ、詳しいね。竹のことも創作に使うの?」

「……つ、使わない。……た、縦に伸びる……植物に……きょ、興味……ない……」

 

野宮神社は、竹林の手前に唐突に現れる。

鳥居が黒い。樹皮を剥かない「黒木鳥居」——神道の形式の中で最も古いとされる様式である。

 

「……く、黒木鳥居……。……こ、これ……」

 

彼女が、足を止めた。

さっきまでの「竹林の人混みから身を守る小動物」のような挙動が、すっと消えて。

彼女の瞳には、あの北白川の哲学の道でも見た、「作家」の顔が戻っていた。

 

「……『源氏物語』……賢木の巻……。……ろ、六条御息所が……斎宮として……こ、ここで……潔斎した……。……げ、源氏と……別れる前……。……この……黒木の前……どんな気持ちで……」

 

誰にも向けていない言葉を、境内の空気に溶かすように呟く。

 

「……贈られた……や、八重桜の……太い枝………歌の……やり取り……そ、それが最後で……」

 

「ロマンチックね」と食い気味に言いかけて、もう一人が「どんな話なの?」と無邪気に聞いて。それでも彼女の世界は壊れなかった。

 

彼女の目が、俺だけに向けた視線で一瞬だけ揺れる。

 

「……お、お前……こういうの……好きだろ……」

 

「そうだな」

 

それだけの、短いやり取り。

他の二人には、ただの相槌にしか聞こえなかっただろう。

 

祇王寺は、そこから少し奥へ入ったところにある。

 

「苔の寺」とも呼ばれる、祇王寺。

平家物語に登場する祇王と仏御前——権力に翻弄された二人の白拍子が、最後に尼となって余生を過ごしたとされる場所だ。

 

入口の小さな門をくぐった瞬間、先程までの喧騒が嘘のように。

 

「あ…」

 

短く声を上げて。

 

「……静かすぎる。なんか……怖いくらいだね」

珍しく、アイツが食欲以外の言葉を出した。

 

それが答えだ。

苔の庭というのは、写真では分からない。

緑が——ただ、広がっている。

苔は蒸れた匂いがして、光を吸い込むように濃く、深い。

竹の葉が風に揺れるたびに、光の粒が苔の海に降り注いで消える。

その繰り返しを、この場所は何百年も続けているのだ。

 

先程まであれほど走っていい?と聞いていたこいつですら、走ることを忘れている。

 

そして彼女は。

 

縁側のような板張りの前で、棒立ちになっていた。

ネタ帳を取り出しかけた手が、止まっている。

 

ただ、この場所が——祇王という名の、報われなかった女の残り香が、何かを直撃したのだろう。

 

いずれにしても、俺には何も言えない。

隣に立って、苔の庭を一緒に見ていることしかできない。

 

「………祇王は……き、清盛に捨てられて……ここで余生を送った。けど……それは、本当に泣き言……だったのかな。も、物語の中では……そ、そういう結末だけど……」

 

「……続きがあった、かもしれないな」

 

「………お、お前……たまにそういうこと……い、言うよな。……ぶ、部長の、くせに……」

 

「くせに、ってなんだよ」

 

「……し、死ね……っ」

 

彼女は、それだけ言って、今度こそネタ帳を開いた。

ペンが、苔の緑に向かって走り始める。

 

他の二人が、少し離れた場所から俺たちを見て、何かに気づいたような目をしていた。

 

だがそれは一瞬で、「ねえ、次どこ? そろそろ甘いものが食べたいんだけど」という、いつもが帰ってきた。

 

落柿舎を経て、嵯峨野の細い道を歩きながら、時計が十四時半を回った頃。

 

「お腹空いた」と言い出したのをきっかけに、お昼にすることにした。

 

嵯峨野の路地にある、小さな店。

平日の午後で空いていた。ざる豆腐と、かけうどんと、山菜の小鉢。

 

「……ぶ、部長。……う、うどん……。……こ、しが……ある……」

「そうだな」

「……し、汁が……に、にしん……じゃない……」

「そうだな」

 

「……ふ、ふん」

 

彼女はそれ以上何も言わなかったが、うどんを最後の一本まで食べて、十六時の京都駅集合まで残り一時間というところで、嵐山の渡月橋の近くに出た。

 

観光客の波に揉まれながら。

 

「次来たら絶対ここ走る」との力強い宣言と、「次来るときは三嶋亭の予算も確保してきなさい、部長?」と本日最大の要求を前に。

 

「……あ、うん」

 

力なく答えるしかなかった。

 

「よろしい。あと、部長」

 

他部員が、珍しく真剣な顔をして、俺を見た。

 

「……今日、楽しかったよ。文芸部っぽかったし」

 

「……ま、まあ。そうだな」

 

「……部長って、もしかして、かなり気が利くんじゃない?」

 

「……普通だよ」

 

「そう?」

 

あいつは、そのまま何かを言いかけて、ふっと笑った。

 

「……まあいいわ。でも、私は鼻が利くから。覚えておいて?」

 

それだけ言って、渡月橋の人混みへと歩き出した。

 

そうして、一瞬だけ後ろを振り返ると。

 

彼女が、橋の欄干から川を見ていた。

ネタ帳は閉じている。ペンも持っていない。

ただ、水を見て。

 

桂川は、春の残り水を引きずったまま、緩やかに流れる。

 

「行かないの?」

 

「……わ、分かってる。……お、置いてくな……バ、バカ……」

 

彼女は振り返らないまま、ゆっくり歩き始めた。

俺の少し後ろを、いつもの半歩の距離で。

 

十六時ちょうど、京都駅の集合場所。

 

四人揃ったのを確認して、俺はこっそり息を吐いた。

他部員の嗅覚に、全滅を喫することなく一日を生き延びた。

 

「……疲れた。帰ったら、なにか甘いものを食べるべきだと思わない?」

「帰ったらランニングする」

 

そんな声がするなか。俺だけに聞こえる声で。

 

「……か、帰ったら……。……よ、読ませて、やる……」

 

「え?」

 

「……だ、だから………祇王寺で……書いたやつ。……お前だけ、読ませてやる。……感謝、しろ………」

 

「……ああ。ありがとう」

 

そう返すと、彼女はマフラーに顔を半分埋めて、新幹線のホームへ向かう人波の中へと歩き出した。

 

五月の京都の空は、もう夕方の色に滲んでいた。

帰りの電車の中で、彼女の書いたものを読む。それだけのことが、妙に胸に残ったまま。

 

新幹線は、二度目の京都を後にした。

 

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 森嘉の豆腐は、川端康成の『古都』に出てきます。
 飛龍頭(ひろうす)は、がんもどきの京言葉です。店先で揚げたてが買えます。

 一本目を全部覚えていないと、避けられない。
 重ならないルートを組むのは、一本組むより手間がかかります。

 次回は、天然ジゴロの最終兵器。
 いよいよ松籟庵と祐斎亭です。
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