負けヒロインが多すぎる! IF ―156の負け   作:nelldrip

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 三日、一文字も書けなかった。
 書けない理由は、たぶん外にはない。
 七月、梅雨の京都。京都に向かう、2つの思い。
 本屋と、豆腐と、丸窓。
 最後まで、描かれない想いの到達点。


負けヒロインが多すぎる! IF ”小鞠知花は天然ジゴロの夢を見るか” 第四話

豊橋に戻ってから、三日が経った。

 

放課後の部室。窓の外では野球部が声を上げている。カレンダーはとっくに五月の後半を指していて、期末試験の影がじわじわと近づいてくる季節だ。

 

彼女は、今日もPCに向かっていた。

向かっては、いるのだが。

 

「…………」

 

キーボードを打つ音が、しない。

 

俺が文庫本のページを捲っていると、視界の隅で、彼女がぼんやりと窓の外を見ているのに気づく。

十秒。二十秒。一分。

打鍵音は、相変わらず、しない。

 

「……お前」

「……っ! ……な、なな、なに!?……び、びっくりした……。……し、死ぬかと……」

「大げさだな。……手、止まってるぞ」

「……と、止まってない。……こ、これは……思索中……だ」

 

彼女は、慌てて画面に目を戻したが、カーソルは一文字も動いていなかった。

 

こういうことが、三日続いている。

 

翌日も、同じだった。

 

今度は本すら広げずに。

 

俺は彼女を観察することにした。

彼女は原稿用紙とPCを交互に眺め、ペンを持ち上げ、置き、また持ち上げ、を繰り返して。ネタ帳を開いても、一ページ目でぼんやりして止まる。

 

「……書けないのか?」

 

「……か、書けてる! ……た、ただ……こ、構成を……練ってるだけ……」

「三日で一文字も増えてないだろ」

「……っ、な、なんで……知って……」

 

彼女は、投稿サイトの管理画面を確認した俺の手元を見て、かみつくような目をした。が、すぐに力が抜けて、椅子の背もたれに深く沈み込んで、バツが悪そうに言った。

 

「………な、なんか……か、書けない。……こ、言葉が……出てこない……というか……き、来たと思ったら……あ、ありきたりで……」

 

珍しいことである。

彼女が「書けない」と口にするのは、俺の知る限り、片手で数えるほどしかない。

 

「……どういうシーンで詰まってるんだ?」

 

「……う、うるさい。……聞くな」

 

「部長として聞いてる」

 

「……う、うぐ……ま、まぁ……いい……。その…す、好きな相手が……自分のことわかってくれてるかどうか……分からないシーン。……も、もどかしくて……言葉にならない、みたいなとこが、どうしても……」

 

彼女は、PCの画面をぱっと閉じた。見せたくないようである。

 

「……そ、そういうの……て、手に取るようにわかるはず……なのに。……な、なんか……ぜ、全部……う、嘘みたいになる…」

 

俺は少しの間、黙っていた。

 

「……なら取材、だな」

 

「……え?」

 

「手に取るように分かるのに言葉にならないなら、まだ体験が足りないんだ。お前が書けなくなるのは、だいたいそういう時だろ」

 

彼女が、俺をじっと見た。

怒っているような、それでいて何かを確かめているような目。

 

「………お、お前……なにが言いたい、んだ……」

 

「別に。……ただ、手が止まってる時は、たいてい、答えが外じゃなくて内側にある時だから。……気づいてないだけで」

 

「……っ……な、なにそれ。へ、変なこと言うな……バ、バカっ……」

 

彼女は顔をそらして、ネタ帳を膝の上に引き寄せた。

開かない。ただ、表紙を撫でるように指先を置いている。

 

そのネタ帳には、祇王寺の苔庭の前で書いたものが挟まっているはずだった。

帰ったら読ませてくれる。

そう約束したまま、俺はまだそれを受け取っていない。

 

彼女も、渡していない。

 

「……な、なぁ」

「ん」

「……いや、その……。……な、なんでも……ない……」

 

また、それだ。

京都の帰り道でも、同じことが何度かあった。言いかけて、飲み込む。

 

俺は文庫本を閉じた。

 

「……今日、帰り、少し遠回りしないか。川沿いの道。……まあ、原稿のことは、一旦置いといて」

 

彼女が、ゆっくりこちらを向いた。

 

「……な、なんで……そ、それを……い、今……」

 

「部長として、部員の調子を整えるのも仕事だよ」

 

「……ふ、ふん。……よ、よく、はたらく、ぶ、部長……だな……」

 

彼女は、また視線を逸らした。

窓の外。野球部の掛け声。沈みかけた五月の日差しが、彼女の横顔を照らして。

 

「……わ、わかった……よ。……ちょっと、だけな……」

 

PCをシャットダウンする音がして、彼女がカバンに荷物を詰め始めた。

ネタ帳も、一緒に。

 

他の二人は、今日、補講と部活。

部室を出たのは二人だけだった。

 

---

 

川沿いの道は、夕方になると人が少なくなる。

部室を出て、そのまま並んで歩いていたが、特に言葉はなかった。

彼女は俺の半歩後ろ、相変わらずの位置で、カバンの肩紐を両手で掴んで。

 

水面が、傾いた日差しを受けてきらきらしていた。

 

「……お前」

 

「……っ、な、なに。……い、いきなり……」

 

びくっと肩を跳ね上げて、彼女が足を止めた。構えるような目で、俺を見る。

 

「京都の二日目さ」

「なんか、どこか恨めしそうだなって思ってたんだよ。祇王寺でも、帰り道でも。……何で?」

 

沈黙。

 

彼女の表情が、ゆっくりと変化した。

構えていた目が、泳いで、また戻って、今度は足元に落ちた。

 

「……」

 

何かが、唇のところまで来て、止まっている。

それが分かった。分かったから。

急かさなかった。川の音だけが、しばらく続いて。

 

「……じ、自分で……考えろ」

 

彼女が、そっぽを向いた。

 

「バ、バカ…っ」

 

それだけ。

 

ふたたび歩き始める。俺の半歩後ろ、いつもの位置で。

さっきより少しだけ、歩幅が速い気がした。

 

俺は特に追い打ちをかけなかった。

ただ、川沿いの道を、また並んで歩き続けた。

 

少しして、彼女が独り言のような声を出した。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……た、楽しかった……よ。……に、二日目。……ち、ちゃんと」

 

「そうか」

 

「……そ、それだけ……だ。……き、聞いてないのに……い、言ってやった……んだからな。……か、感謝しろ……バカ……」

 

「ありがとう」

 

「……っ、な、なんで……素直にお礼……言うんだ……へ、変なやつ……」

 

彼女が、マフラーに顔を半分埋めた。

五月にマフラーをしているのは彼女くらいのものだが、今はそれが丁度良く思えた。

 

川は、相変わらず緩やかに流れている。

 

「自分で考えろ」が答えなのか、それとも答えを保留しただけなのか。

俺にはまだ分からない。

 

ただ、恨めしそうだった理由の輪郭くらいは、何となく見えている気がした。

見えているけれど、今は、確かめない方がいい。

 

「……ぶ、部長。……か、帰ったら……。……ほ、本当に……あ、あのノート……よ、読む……か?」

 

「読むよ」

 

「……よ、読んでも、ぜったい……た、大したことないから……。……き、期待すんなよ……」

 

「期待してないよ」

 

「……っ、な、なによそれ! き、期待しろよ!バ、カ!」

 

「いや、どっちだよ」

 

彼女が、口を噤んだ。

それから、小さく、本当に小さく、笑った気がした。

 

夕方の川沿い。

二人の影が、水面に細長く伸びていた。

 

---

 

一ヶ月後。

六月の、雨が多い季節。

 

夕食後のリビングで、テレビを見ていた時だった。

電話が鳴って、父親が取る。

「お、和彦——」と俺に向けて受話器を差し出してきた。

 

「叔父さんから。京都、ついてくかって」

 

「……え?」

 

父親は興味なさそうにチャンネルを変えながら、もう一度繰り返した。

 

「よう、元気か」

 

「……叔父さん、どういうこと?」

 

「どういうことも何も、文字通りだ。今度うちの会社の若いのを二、三人連れて京都行くんだがな。まあ半分仕事、半分遊びってやつだ。お前、最近京都ちょくちょく行っとるだろ。なんなら一緒に来るか。四人くらいなら席あるぞ」

 

「……ちょくちょくって、まだ二回だよ」

 

「十分だ。二回行けばもう京都通だ。どうする?」

 

俺は少し考えた。

六月の京都。梅雨の雨が石畳を濡らす季節。しかも叔父さんの会社の若い人たちと、である。

 

「……一人で行くの?」

 

「一人でもいいし、誰か連れてきてもいいぞ。まあ、あんまりワイワイするつもりはないんだが」

 

「……いつ?」

 

「来月の頭あたり。日帰りだ」

 

また京都か、と思った。

と同時に、祇王寺の苔庭を思い出して。

それから、帰り道の川沿いで「自分で考えろ」そう言ってそっぽを向いた彼女を。

 

「……少し考えてもいいか」

 

「もちろん。急かさんよ。まあ、来るなら来い、くらいの話だ。一人でふらっと来てもいいし、誰か連れてきてもいい。……ただまあ」

 

叔父さんが、少し間を置いた。

 

「梅雨の京都はいいぞ。雨に濡れた寺なんか、文句なしだ。……文芸部の部長なら、そのくらい知っておいた方がいいだろ」

 

「……また、そういうことを言う」

 

「じゃあな。返事は来週でいいから」

 

通話が切れた。

 

リビングに戻ると、父親がチャンネルを変え続けていた。

 

「どうする?」

 

「……まだ分からない」

 

「そうか」

 

それだけの会話で、父親はテレビに戻った。

 

俺は自分の部屋に上がって、机に肘をついた。

 

梅雨の京都。

叔父さんの会社の人たち。席は四人分ある。

 

一人で行く、という選択肢が一番単純だ。

誰かを誘う、となると——

 

脳裏に浮かびかけた顔を、一度頭を振って散らした。

 

「……まぁ、行くかどうかから、だよな」

 

独り言が、梅雨前の湿った空気に溶けた。

 

---

 

翌日の放課後。

 

部室に入ると、二人が揃っていた。

 

一人はタオルで首を拭きながら「あ、部長」と振り向いて。

もう一人はすでに購買のパンを開封している。

彼女の席は、まだ空だ。

 

「来月の頭、叔父さんと京都行くんだけど。席が余ってるから、誰か来ないかって話で」

 

「京都!」

 

タオルを放り投げ、こちらをみる。目が光ったが、すぐに曇った。

 

「……来月の頭って、いつ?」

 

「七月の最初の土曜」

 

「あー」

 

そういって、天を仰いだ。

 

「ダメだ。大会と被ってる。……惜しいーめちゃくちゃ惜しい。嵯峨野もう一回行きたかったのに」

 

「それは残念」

 

「本当に残念。部長、次があったら絶対声かけてよ」

 

「分かった」

 

いたく残念そうに、それでも切り替えの早さで「まあ、大会頑張る」とタオルを畳んだ。

 

「おまえは?」

 

「私?」

 

もう一人が、パンから顔を上げた。

日付を指折り数えて、少し考えて。

 

「……ごめん、その週末、家の都合があって。抜けられないんだよね」

 

「そうなの」

 

「本当残念だよ。梅雨の京都、なんか風情あって良さそうなのに。叔父さん予定変えられないの?」

 

「いや、少しは遠慮ってものを…ていうか無茶言うなよ」

 

少しだけ惜しそうな顔をして、またパンに戻った。

 

「……まあ、部長が行くなら、それはそれで」

 

「それはそれで?」

 

「……なんでもない」

 

意味深なことを言って。

 

「……まぁ、そっちの方が、都合いい場合もあるんじゃない?」

 

「何が?」

 

「なんでもない」

 

全く教えてくれる気がないらしい。

 

---

 

部室に、静かな時間が戻る。

 

俺は窓の外を見た。曇り空。梅雨の入り口みたいな、重たい雲が低く垂れていた。

 

廊下から、遠慮がちな足音がして——扉が、静かに開いた。

 

「……あ、ぶ、部長。……も、もう……きてたんだ……」

 

彼女が、カバンを抱えて部室に入ってきた。

 

「……ちょっといいか」

 

「……な、なに。……ひ、人を呼び止めるな……びっくりする……」

 

彼女はいつも通り椅子を引いて座りかけていたが、俺の声のトーンが少し違ったのを感じ取ったのか、カバンを膝に乗せたまま、こちらを向いた。

 

「来月の頭、叔父さんと京都行くんだけど。席が余ってるから——」

 

「……きょ、京都…また?」

 

彼女の目が、微妙に揺れた。

 

「うん。梅雨の時期だけど。あいつらに声かけたんだけど、二人とも都合合わないって」

 

「……ふ、ふたりとも?」

 

「そう。一人は大会、もう一人は家の用事」

 

彼女が、ゆっくりと状況を整理するように、少しの間黙った。

 

そして。

 

「……ふ、ふたりっ?!」

 

「うん」

 

「……お、お前と……ふ、ふたり?!」

 

「叔父さんの会社の人も来るから、厳密には五人だけど」

 

「……し、知らない人と……ふ、ふたり……い、いや、ご、ごにんっ?!」

 

「そう」

 

彼女は、カバンを抱える腕にぎゅっと力を込めた。

耳が、じわじわと赤くなっていく。

 

「……な、なんで……わ、私に……き、聞くんだよ……」

 

「他にいないから」

 

「……そ、それだけ?」

 

「……お前、梅雨の京都、好きそうだし」

 

沈黙。

 

彼女は俯いて、カバンの肩紐を指でなぞり始めた。

考えているのか、逃げ場を探しているのか、あるいはその両方か。

 

「……ぶ、部長。……お、お前……。……ま、また……」

 

「また、なに?」

 

「……な、なんでも……ない」

 

また、その言葉だ。

少しの沈黙の後。

 

彼女が、小さく声を出した。

 

「……で、でも……い、行こう……かな」

 

俺は少し驚いた。もう少し時間がかかると思っていたから。

 

「……ま、前に……ま、回れなかったところ……。……い、行ってみたい……かも……」

 

「前に?」

 

「……き、聞くな……。……そ、そういうところ……ある。……ぶ、部長が……し、知らなくていい」

 

彼女は俯いたまま、それでもカバンを持ち直した。

行く、という意思表示だった。

 

「……べ、別に……た、楽しみとかじゃないから。……ぶ、文藝の……し、資料収集」

 

「分かってる」

 

「……ふ、ふん。……ま、また……帰りは、き、電車……か?」

 

「いや、往復とも車」

 

「……そ、そう……か……」

 

彼女が、またうっすら耳を赤くしながら、PCを開いた。

それ以上は何も言わなかった。

けれど、さっきまでの「上の空」が、どこかへ消えていた。

指先が、久しぶりにキーボードの上で動き始めている。

 

そこで。

 

「へぇ」

 

後ろから声がした。

 

本のページを捲る音が、いつの間にか止まっていた。

本を膝に置いたまま、こちらをじっと見ている。品定めするような、それでいてどこか楽しそうな目で。

 

俺と、彼女を、交互に。

 

「……な、なに」

 

むこうが気づいて、即座に牽制した。

 

「……別に」

 

ふっと視線を本に戻して。

 

「……ただ、へぇ、って思っただけ」

 

「……な、なにが『へぇ』なんだよ」

 

「なんでもない」

 

ページが、また捲られた。

 

部室に、打鍵音が戻ってくる。

窓の外の曇り空が、少しだけ明るくなった気がした。

 

---

 

七月の最初の土曜日。

 

朝の八時過ぎ。

玄関の外でクラクションが一回鳴った。

 

カーテン越しに覗くと、少し前のモデルのアルファードが、うちの前に静かに停まっていた。シルバーのボディが、曇り空を反射している。梅雨明け前の、蒸した朝だ。

 

「……あいかわらず、でかいな」

 

カバンを担いで玄関を出ると、運転席の窓が開いた。

 

「よう、ぴったりだな」

 

叔父さんだ。サングラスをかけて、いかにも「遊びに行く気満々」という顔をしている。

 

助手席には、三十代くらいの男性が二人。振り返って会釈してくれた。叔父さんの会社の若い人、というのはこの二人らしい。

 

「こっちは田中と木村。どっちも俺の会社の後輩だ。コイツは甥っ子で、高校生だ」

 

「よろしくお願いします」

 

「よろしくねー」

 

二人とも、感じのいい人たちだった。

 

俺は後部座席に乗り込んだ。

三列シートの二列目。広い。

 

「……もう一人、友達も乗せていくから」

 

「ああ、聞いてるよ。前もいた文芸部の子だろ」

 

叔父さんがニヤッとした気配が、バックミラー越しに伝わってきた。

 

「……部員です」

 

「同じだ同じ」

 

---

 

「よし、行くか」

 

そういうと、静かに走り出した。

 

彼女の家は、うちから自転車で十分ほどの住宅街にある。

一度だけ、ぶっ倒れたあいつを届けに行ったことがあるから、場所は分かっていた。

 

「……その子、京都気に入ったのか?」

 

「……どうだろ。まあ、そんなに人混みは得意じゃないけど、結構好きだと思います」

 

「なら梅雨の平日外れた時期はちょうどいい。観光客が少ないから」

 

「そうですね」

 

「おい」

 

「なに」

 

「今日は俺たちのことは気にするな。田中も木村も、勝手に動くから。お前はお前のペースで回ればいい」

 

「……叔父さん、一応同行者ですよね」

 

「帰りは拾ってやるから心配するな」

 

全力で笑い飛ばされた。

 

アルファードが、住宅街の細い道を曲がる。

見覚えのある、落ち着いた通り。

 

「……あ、あそこです」

 

叔父さんがウィンカーを出して、速度を落とした。

 

彼女の家の前。

玄関のドアが、ちょうど開いたところだった。

 

玄関の前。カバンを両手で持って、少しだけ背筋を伸ばして。

いつもの制服ではない。当たり前だけど。

 

紺のワンピースに、薄手のカーディガン。足元はローファー。

髪は、いつもより、少し丁寧にまとめてあって。

 

気のせいか、いつもより洒落ている気がした。

 

「……お、おはよう……ござい、ます」

 

彼女が一瞬固まった。

車のサイズに驚いたのか、見知らぬ大人二人に驚いたのか、おそらく両方だ。

 

「……ひ、ひぇ……。お、大きい……。こ、これ、バス……?」

 

「バスじゃないよ」

 

後部座席のドアを開けてやると、彼女はおっかなびっくり乗り込んできた。

シートに座って、車内の広さを確かめるように、きょろきょろと首を動かす。

 

「……す、すごい……。お、お金持ち……?」

 

「会社の車だ」

 

「……か、会社……」

 

「よう、嬢ちゃん。前以来だな!」

 

バックミラー越しに、叔父さんが人懐っこい笑顔を向けた。

彼女は「ひ、ひぃ……よ、よろしく……おねがい……します……」と、消え入りそうな声で返した。

 

田中さんと木村さんも振り返って会釈してくれると、彼女は直角に頭を下げた。

 

「……お、大人……ばかりだ……」

 

「まあ、そうだな」

 

「……わ、私、ど、どうすれば……」

 

「普通にしてれば大丈夫」

 

「……ふ、普通が……い、一番……むずかしい……」

 

それは、確かにそうかもしれない。

 

叔父さんがアクセルを踏んで、アルファードが静かに動き出した。

 

「着くのは十時半頃かな。十七時に京都で拾ってやるから、その間は好きにしていいぞ。田中と木村も勝手に動くし、俺も俺で用があるから。二人で回ってこい」

 

「……あ、ありがとうございます」

 

「がはは、礼はいらん。」

 

高速に乗ると、車内が静かになった。

田中さんと木村さんは前で小声で話している。叔父さんは鼻歌を歌っている。

 

彼女は、窓の外を見ていた。

流れていく景色を、静かに目で追っている。

 

「……今日、行きたいところ、決めてきたか」

 

「……う、うん。……ち、ちょっと……だけ……」

 

「どこ?」

 

「……い、言わない。……い、行ってから……わ、わかる……」

 

「そうか」

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……き、今日……よ、よろしく……」

 

窓の外を見たまま、彼女が言った。

耳が、少し赤かった。

 

「ああ、よろしく」

 

アルファードは、梅雨曇りの空の下を、西へと走った。

 

---

 

高速を走りながら、俺はスマートフォンを取り出した。

 

「一応こっちも考えてきたんだけど」

 

「……な、なに……?」

 

「祐斎亭、って知ってるか」

 

彼女が、窓から視線を戻した。

 

「……ゆ、祐斎……亭……?」

 

「嵐山の、大堰川沿いにある。……川端康成がかつて山の音を書いて、今は染色作家の奥田祐斎の——」

 

「……あ、あそこ……。……み、見たことある……写真で……。……お、大堰川が……ま、丸い窓に……う、映り込んで……。……ひ、光が……」

 

「うん。あの丸窓の景色な。梅雨の時期、水量が増えるから、今の季節が一番いいって叔父さんに聞いて」

 

彼女は、少しの間黙った。

何かを確かめるように、自分の鞄を膝の上で握り直している。

 

「……よ、予約……いるやつ……じゃ……ないの……あそこ……」

 

「取った」

 

「……と、取ったの?」

 

「うん。梅雨の時期は混まないけど、一応」

 

また沈黙。

 

「……お、お前……。……ま、また……て、手慣れた……こと……してる……」

 

「叔父さんに教わっただけだよ」

 

「……その叔父さんって……」

 

彼女が、バックミラーの方をちらりと見た。

鼻歌を歌っている叔父さんが、タイミング良くこちらに気づいてニヤッとした。

 

彼女は即座に視線を膝に落とした。

 

「……な、なんか……い、色々……わかった気がする」

 

「何が」

 

「……な、なんでも……ない」

 

それきり、彼女は窓の外に戻った。

 

でも、さっきとは少し違う顔をしていた。

怒っているわけでも、緊張しているわけでもない。

 

「……祐斎亭……か……」

 

窓ガラスに向かって、小さく呟く。

 

「……い、行く。……ぶ、部長の……割にはいいセンス、してる」

 

「ありがとう」

 

「……か、勘違いすんな……バカ」

 

アルファードは、静かに西へ走り続けた。

 

---

 

京都駅のロータリーで、アルファードが停まった。

 

彼女が先に降りて、伸びをしながら駅舎を見上げている。俺が降りようとすると、叔父さんが運転席の窓を開けた。

 

「おい」

 

小声だ。彼女には聞こえないトーン。

 

「……なに」

 

「祐斎亭か。やるじゃないか」

 

叔父さんが、低く笑った。

 

「まあ、俺の好みからしたらちょっと地味だがな。俺なら松籟庵から渡月橋で夕陽を——」

 

「いや、趣旨が違うから」

 

「分かってる分かってる。あの子、文藝の子だろ。なら祐斎亭は正解だ。光と水と、古い建物。文句なしだ」

 

叔父さんが、少し真面目な顔になった。

 

「よーし、今日は決めてこいよ」

 

「……何を」

 

「とぼけるな」

 

そう言って、叔父さんが何かをさっと差し出してきた。

 

封筒だった。

 

「……え」

 

「開けてみろ」

 

薄い封筒の中に、諭吉が二枚、入っていた。

 

「……い、いや、これは貰えないですよ」

 

「受け取れ」

 

「でも——」

 

「甥っ子の勝負時というなら、叔父として応援してやろうってもんよ。がはは」

 

「……勝負とか、そういうんじゃ——」

 

「いいってことよ!俺に任せとけ!」

 

叔父さんが、サングラスを少し下げてこちらを見た。

 

「嵐山行くなら、この間話した松籟庵に連れて行け。昼のコースなら意外と高くない。あそこの縁側で大堰川を見ながら豆腐懐石を食って、それから祐斎亭に歩いて行け。順番はそっちの方がいい」

 

「……なんで順番まで」

 

「腹が満たされてから美しいものを見るのと、空腹で見るのとでは、感動の質が違う。」

 

笑い飛ばしながら、叔父さんは封筒を俺のジャケットのポケットに押し込んだ。

 

「上手くいったら、大学入ってからバイトで返せ。利子はとらんから」

 

「……叔父さん」

 

「行け。あの子、待ってるぞ」

 

バックミラー越しに、彼女が駅舎の柱に寄りかかって、こちらを見ているのが見えた。

 

「まぁ……ありがとうございます」

 

「礼はいらん。ただ、お前」

 

叔父さんが、エンジンをかけながら最後に言った。

 

「あの子、お前のことちゃんと見てるぞ。お前がまだ、気づいてないだけだ」

 

窓が閉まった。

 

アルファードが、静かにロータリーを出ていく。

田中さんと木村さんが手を振っていた。

 

俺は封筒をポケットの奥に押し込んで、彼女の方へ歩いた。

 

「……な、なに話してたんだよ」

 

「……叔父さんに、色々教えてもらってた」

 

「……ふ、ふん。……ま、またあの……人生ピンク色の人に……」

 

「聞こえてたのか」

 

「……す、少しだけ……お、お前の叔父さん、全然違うタイプ……だな……お前と……」

 

「そうだな」

 

「……ふ、ふん……。……ま、まあ……い、いいけど」

 

彼女が、カバンを持ち直した。

 

「……い、行くぞ。……ぶ、部長。……案内、しろ」

 

梅雨曇りの京都駅。

 

人波の中に、二人で歩き出した。

 

---

 

「行きたいところって、どのあたり?」

 

バスを待ちながら聞くと、彼女はカバンから メモを取り出した。

折り畳んだ紙を、少し恥ずかしそうに広げる。

 

「……きょ、京都市内……し、四条のあたり……」

 

覗き込むと、彼女の字で地名がいくつか書き連ねてあった。

 

恵文社一乗寺。

誠光社。

それから——恵文社。

 

「……ぜ、全部……ほ、本屋……なんだけど……。……い、いいか……」

 

「いいよ。古本屋か?」

 

「……ふ、古本もあるけど……。……え、恵文社は……い、一乗寺に……あって……す、少し……北。せ、誠光社は……ご、五条………」

 

彼女が、地図を指でなぞりながら説明してくれる。普段の挙動不審がいくらか薄れて、「作家」の顔になっている。

 

「……ぜ、全部……い、一度……い、行ってみたくて……ね、ネットで調べてた……」

 

「調べてたのか」

 

「……ひ、ひぃ! な、なんでもない! べ、別に……た、楽しみ……とか……じゃ……」

 

「分かった分かった。じゃあ午前中にそっちを回って、昼は松籟庵にしよう。嵐山の方だから、午後そのまま祐斎亭に流れられる」

 

「……しょ、松籟庵って……」

 

「叔父さんに教わった店。豆腐料理。……近衛文麿の別邸だった場所だよ」

 

彼女の目が、ぴたりと止まった。

 

「……こ、近衛……文麿……」

 

「そう」

 

「……こ、近衛……。……あ、あの……昔の政治家……」

 

「そう言ってたな、叔父さんも」

 

「……ぶ、部長……。……お、お前の叔父さん……。……す、少し……み、見直した……」

 

彼女がメモを畳んで、カバンに戻した。

それから、独り言のように呟いた。

 

「……こ、近衛文麿の……べ、別邸で……と、豆腐……食べて……。……そ、それから……ゆ、祐斎亭……か……」

 

「うん」

 

「……な、なんで……そ、そんなに……手慣れ、てるんだよ……」

 

「叔父さんのおかげだよ」

 

「……」

 

バスが来たので、二人で乗り込み、窓際の席に並んで座る。

 

梅雨の京都は、しっとりと濡れていた。

石畳も、瓦屋根も、街路樹も。全部が水を含んで、いつもより色が深い。

 

「……きょ、京都って……梅雨の方がいい、な」

 

彼女が窓ガラスに少し顔を近づけて、外を見ていた。

 

「そうだな」

 

「……ぶ、部長。……ま、まず……ど、どっちから……い、行く……?」

 

「恵文社、一番遠いから最初にそっちから潰していこう。一乗寺まで行って、南に下りながら回れば効率いい」

 

「……ふ、ふん。……ぶ、部長……らしい……こと……い、言うじゃないか……」

 

「部長だからな」

 

少し自慢げに言う。

 

「……バ、カ……」

 

彼女が、窓の外に視線を戻した。

口元が、少しだけ緩んで。

 

バスは、梅雨の街を北へと走った。

 

---

 

恵文社一乗寺店は、外観からして普通の本屋じゃなかった。

 

古い民家のような佇まい。看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな。

でも扉を開けた瞬間に、空気が変わった。

 

本の匂い、というより——編集された空間の匂い、とでも言うべきか。

棚の一冊一冊に、誰かの意志が宿っている。ジャンルで分けるのではなく、テーマで、あるいは感触で、本が並んでいる。

「旅と孤独」「光と影」「言葉の手触り」——そういう括り方。

 

「……す、すごい……」

 

彼女が、入り口で固まった。

 

「……ほ、本屋……なのに……。……な、なんか……ち、違う……。……ぜ、全部の本が……わ、たしに……話しかけてくる……みたいな……」

 

「なんか分かるかも、その感覚」

 

「……お、お前も……わかる、のか……?」

 

「なんとなく」

 

彼女は答えず、そのまま棚の間に吸い込まれていった。

 

俺は少し離れた場所で、文庫本をぱらぱらとめくりながら、彼女を視界の隅に置いていた。

 

彼女は、棚の前でしゃがんだり、背伸びしたり、本を取り出しては戻し、また取り出す。その繰り返し。ネタ帳は開かない。ただ、本と対話している。

 

三十分経った。

 

彼女が、文庫本を一冊と、小さな詩集を一冊、抱えて戻ってきた。

 

「……か、買う……」

 

「いいじゃないか」

 

「……お、お前は……」

 

「俺はこれ」

 

薄い随筆集を一冊。梅雨の京都で読むのにちょうどいいと思った。

 

レジで会計を済ませて、店を出る。

曇り空から、細かい雨が落ち始めていた。

 

「……よ、よかった……」

 

彼女が、本を大事そうにカバンに仕舞いながら言った。

 

「……きょ、京都って本屋まで違うんだな……と、豊橋とは……空気が違う……」

 

「文藝の都、って言うだろ」

 

「……ふ、ふん。……お前、がそ、そういうこと……い、言うのは珍しい……」

 

それから誠光社へ。三条の、これまた小さな店だった。

恵文社よりもさらに小さい。でも、棚の密度が違う。一冊一冊が、まるで厳選されたように置かれている。

 

ここでも彼女は黙り込んだ。

今度は、棚の前に立ったまま、ずっと動かない。

 

「……気に入ったか」

 

「……し、しずかに……して……。……い、今……き、聞いてる……」

 

「聞いてる?」

 

「……ほ、本の……こ、声……」

 

何も言えなかった。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……わ、わたしの、お、おすすめ……。……ど、どう……」

 

珍しく、感想を求めてきた。

 

「流石だと思った」

 

「……梅雨の……ほ、本屋……。……い、いいな……」

 

彼女が、誰にともなく呟いた。

 

---

 

四条河原町から阪急に乗った。

 

梅雨の昼前だ、車内はガラガラで。

窓の外に京都の街並みが流れて、少しずつ緑が増えていく。

 

彼女は、買った詩集を膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。さっきから、ページを開いていない。ただ、流れる景色を目で追っている。

 

桂で乗り換える。嵐山線のホームに降りると、空気が少し変わった。湿度が増して、草の匂いが混じってくる。

 

「……か、桂って……あ、あの……桂離宮の……」

 

「そう、近くにある」

 

「……い、行ったことない……」

 

「予約がいるからな」

 

「……い、いつか……」

 

彼女が、独り言のように呟いた。

「いつか」が誰と、とは言わない。

 

嵐山線は二両編成の小さな電車だった。

のんびりとした速度で、住宅街と田んぼの間を縫うように走る。

 

「……こ、の電車……な、なんか……い、いいな……」

 

「ローカル線っぽいだろ」

 

「……て、鉄橋……わ、渡る……?」

 

「桂川を渡るよ。もうすぐ」

 

言い終わる前に、車窓が開けた。

桂川の鉄橋。雨上がりの川が、鈍い銀色に光っている。水量が多い。梅雨らしい、重たい川だ。

 

彼女が、窓に顔を近づけた。

 

「……お、大きい……。……か、川が……ふ、膨らんでる……」

 

「雨が続いてるからな」

 

「……こ、これ……。……ぶ、文章に……し、したい……」

 

ネタ帳を取り出しかけて、でも電車がすぐに鉄橋を渡り切ってしまって、彼女は「……っ、は、早い……」と悔しそうにした。

 

「松尾大社、寄ってみようと思うんだけど」

 

「……ま、松尾……?」

 

「嵐山の手前で降りれる。醸造の神様を祀ってる古い神社で、庭園がいい。あと、今の季節は花菖蒲が——」

 

「……い、行く」

 

即答だった。

 

「……は、花菖蒲……。……む、紫……。……梅雨に……さ、咲く花……。……い、いい……」

 

松尾大社前で降りると、雨がまた少し落ちてきた。

彼女が鞄から折り畳み傘を出した。俺も出す。

 

「……ぶ、部長。……か、傘……」

 

「持ってきた」

 

「……ふ、ふん。……ち、ちゃんと……し、してるじゃないか……」

 

どこか残念そうな彼女と、鳥居をくぐる。その瞬間、境内の空気が変わった。

古い、という言葉では足りない。重い、という方が近い。創建が奈良時代より前とされる神社だ。

 

「……ふ、古い……。……こ、こういうの……」

 

「こういうの?」

 

「……ひ、人が……け、けちょんけちょんに……ち、小さく……み、見える……場所……。……す、好き……」

 

庭園に入ると、花菖蒲が咲いていた。

紫と白が、雨に濡れて深く色づいている。水の張られた庭に、花が映り込んでいる。

 

彼女が、傘を持ったまま立ち止まった。

 

動かない。

 

ネタ帳も出さない。

ただ、花菖蒲の庭を見ている。

 

雨粒が花びらに落ちて、小さく揺れる。また落ちて、また揺れる。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……な、なんで……こ、こんなに……し、知ってるんだよ……京都のこと……」

 

「叔父さんが——」

 

「……そ、それだけ……じゃ……ないだろ……」

 

彼女が、花菖蒲を見たまま言った。

 

「……お、お前が覚えてるんだろ……。……わ、たしが……す、好きそうなの……一個一個……」

 

俺は、傘の柄を握り直した。

 

「……まあ、そうかもな」

 

「……バ、カ……」

 

彼女の声が、雨音に混じって、小さく消えた。

 

紫の花菖蒲が、雨に揺れていた。

 

---

 

松尾大社から嵐山まで、歩いて二十分ほどだ。

 

「……歩く?」

 

「うん」

 

「……ど、どのくらい……」

 

「二十分くらい」

 

彼女が、一瞬だけ「……また……光年単位の……」という顔をした。

が、空を見上げて、雨が小降りになっているのを確かめて、黙って歩き始めた。

 

松尾橋を渡る。

桂川が、足元に広がった。

 

「……お、大きい……」

 

「さっきの鉄橋から見たやつだよ」

 

「……お、同じ川……」

 

彼女が欄干から川を見下ろした。梅雨の水量で、川幅いっぱいに水が広がっている。灰色と緑が混ざったような色だ。

 

「……こ、こういう川……。……げ、源氏物語に……で、出てくる……川の……い、色……みたいだな……」

 

「そうか?」

 

「……お、男君が来ない夜に……み、見る川の色……書いてみたい」

 

ネタ帳を取り出しかけて、でも橋の上だから風が少しあって。

彼女はページが飛ばないように押さえながら、何かを書き留めた。

 

橋を渡ると、嵐山の住宅街に入る。

 

観光地らしい喧騒は、まだ遠い。

細い道を、二人並んで歩く。

塀が続いて、木が枝を伸ばしていて、梅雨の雨に濡れた石畳が続いている。

 

「……し、静かだな……」

 

「嵐山って、一本入ると静かだろ」

 

「……お、表通りのイメージと……ち、違う……」

 

彼女が、濡れた石畳を慎重に歩きながら言った。

ローファーが濡れないように、少しだけ歩幅が小さくなっている。

 

「……ぶ、部長。……あ、あの……」

 

「ん」

 

「……こ、こうやって歩いてると…景色が違うな……で、電車で通り過ぎるのと……」

 

「そうだな」

 

「……匂いが……ち、違う……濡れた石の匂いと……き、木の匂いがいい……」

 

彼女が、傘を少しだけ傾けて、空気を吸い込んだ。

 

雨の嵐山の匂い。湿った土と、緑と、古い石が混ざったような、重たくて深い匂い。

 

しばらく歩くと、前方に竹林が見えてきた。

この間の修学旅行で来た、あの竹林とは別の場所だ。もっと細い、人気のない道沿いの竹だ。

 

彼女が足を止めた。

 

「……あ……」

 

「どした?」

 

「……竹が濡れて……い、色が違う。……乾いてる時と……」

 

確かに、雨に濡れた竹は深い緑で、艶があった。

修学旅行で見たものより、ずっと濃い色をしている。

 

「…写真……と、撮っていいか……」

 

「じゃぁ傘持っててやるよ」

 

彼女がスマートフォンを取り出した。

何枚も撮る。角度を変えて、また撮る。

 

それから、ネタ帳を出して何かを書く。

書きながら、また竹を見上げる。

 

「……いいな……同じ場所でも、き、季節と天気でまるで違う……」

 

「そう…かもな。京都は何度来ても変わる」

 

彼女が、ネタ帳を閉じた。

それから、ふっと俺を見て。

 

「……お前……い、今少し…楽しそう、だな……」

 

「そうか?」

 

「……う、うん。……ぶ、部長面……じゃなくて……なんか普通に」

 

「普通に?」

 

「……た、楽しそうって……い、言ってるだろ……バ、カ……」

 

彼女がそっぽを向いて、また歩き始めた。

 

俺は、少し遅れてついていく。

 

二人分の傘が、細い道に並んで、濡れた石畳の上に小さな影を落としていた。

 

---

 

渡月橋の喧騒から、少し外れた。

 

川沿いの道を歩いていると、観光客の波が薄くなっていく。土産物屋の軒先が途切れて、木々が増えて、道が細くなる。

 

「……ぶ、部長。……ほ、本当に……こ、こっちで……あ、合ってるのか……」

 

「たぶん合ってる」

 

「……た、たぶん……って……」

 

不安そうな彼女を連れて、川沿いをさらに進む。

丘というか、小高くなった斜面に沿った道だ。木が鬱蒼として、梅雨の雨に濡れた葉が、頭上を覆っている。

 

「……ここ……ほ、本当に……きょ、京都……? ま、まるで……山の中……みたい」

 

「嵐山は山だからな」

 

「……そ、そうじゃなくて……人が……い、いない……」

 

確かに、観光客の姿がない。

大堰川の水音だけが、斜面の下から聞こえてくる。

 

もう少し進むと——階段があった。

 

下へ降りていく、石の階段。

苔が生えていて、雨に濡れて光っている。手すりは古びた木だ。木々の間から、川面が見える。

 

「……あ」

 

彼女が、声を出した。

 

「……お、降りる……の?」

 

「うん」

 

「……こ、こわい……」

 

「滑らないように気をつければ大丈夫だ。ほら」

 

俺が先に降りながら、手を差し出した。

 

彼女が、一瞬だけ固まった。

それから、傘を閉じて、おっかなびっくり手を伸ばしてきた。

 

「……ひ、ひぃ……こ、苔が……つ、つるつる……」

 

「ゆっくり降りれば大丈夫」

 

一段、また一段。

木の手すりと、俺の手を交互に頼りながら、彼女が降りてくる。

 

階段を降りきると、視界が開けた。

 

目の前に、大堰川。

 

水量が多い。梅雨の川は、どっしりとした重さで流れている。対岸の山が、雨靄の中に霞んでいた。

 

そして、川沿いに——古い建物が、静かに佇んでいた。

 

数寄屋造りの、落ち着いた外観。

庭に松の木が数本、雨に濡れて深い緑をしている。

 

「……ぶ、部長……。……こ、ここ……」

 

「松籟庵」

 

「こ、これが…」

 

彼女が、建物と、松と、川を、順番に見た。

 

「……こ、近衛文麿、の……べ、別邸。……こ、ここが……」

 

「そう。別邸だったとこだよ。昭和の初め頃だな」

 

「……こ、ここで……お、大堰川を……み、見ながら……な、何を……か、考えてたんだろ……」

 

彼女が、川を見た。

靄の向こうに、嵐山の山肌が見え隠れしている。

 

「……き、綺麗……だな……。……に、人が……い、いないから……よ、余計……」

 

「中に入ろう」

 

「……は、入るの?!」

 

玄関に近づくと、仲居さんが静かに出てきた。

予約の名前を告げると、「お待ちしておりました」と、奥へと案内してくれた。

ギリギリだったが、良く取れたものだ。運が良い。

 

通された部屋は、川に面した縁側のある座敷だった。

 

障子を開けると——大堰川が、真正面にあった。

雨靄の中、山が霞んで、川が流れている。松の枝が、静かに揺れている。

 

彼女が、縁側の前で立ったまま、動かなかった。

 

「……こ、ここ……。……す、すごい……」

 

それだけだった。

いつもの「……部長の分際で……」も、「バカ」も、出てこなかった。

 

ただ、川を見て。

 

雨が、また少し強くなるのにあわせて。

松の葉が鳴る音が、部屋の中まで聞こえてくる。

 

松籟、という言葉の意味が、ようやく分かった気がした。

 

---

 

案内された部屋は、二人には少し広すぎるくらいの、静かな個室だった。

 

床の間に、一輪の花。

梅雨の季節らしい、紫陽花が一輪だけ、古い花入れに活けてある。

 

「……ひ、広い……」

 

彼女が、おっかなびっくり座布団に腰を下ろした。

正座して、膝の上に手を置いて、背筋を伸ばしている。普段の部室とは全然違う姿勢だ。

 

「そんなに緊張しなくていいよ」

 

「……き、緊張……してない……。……こ、これが……わ、私の……ふ、普通……」

 

明らかに緊張している。

 

仲居さんがお茶を持ってきて、静かに置いていった。

「あ、あ、ありがとう……ございます……」と、直角に頭を下げていた。

 

窓の外。

雨が川面を叩いて、細かい波紋が広がっては消える。対岸の山は靄の中。

 

「……み、見てると……あ、飽きない……な……」

 

「川って、そうだよな」

 

「……む、昔の人が……か、川沿いに……す、住んだのって……こ、こういう……り、理由……も……あ、あるんじゃないか……。……ず、ずっと……み、見てられる……から……」

 

「近衛文麿も、毎日これを見てたわけか」

 

「……こ、近衛文麿……。……た、大陸政策……の……あ、あれこれを……か、考えながら……こ、この川を……」

 

彼女が、少しだけ遠い目をした。

 

「……せ、政治家って……つ、辛いな……。……き、綺麗な景色の……ま、前で……そんなことも……か、考えなきゃいけない……」

 

「小説みたいなこと言うな」

 

「……これでも…書いて、る……」

 

まぁ、たしかに。そんなことを思いながら、ただ、この時間の心地よさを楽しんだ。

 

---

 

静かに、料理が運ばれてくる。

 

白い豆腐が、透き通った出汁の中で、静かに揺れている。

それから、小さな前菜が並んだ折敷。季節の野菜の炊き合わせ、湯葉の小鉢、それに木の芽を添えた白和え。

 

「……き、綺麗……」

 

彼女が、折敷を見下ろして呟いた。

 

「……た、食べ物なのに……え、絵みたいだ……」

 

「食べていいんだぞ」

 

「……わ、わかってる……。……で、でも……す、少し……み、見てたい……」

 

彼女は、しばらく折敷を眺めてから、白和えに箸をつけた。

 

「……っ。……ふ、ふわ……っとしてる……。……き、木の芽の……に、匂いが……」

 

「どう?」

 

「……お、お前……。……ほ、本当に……ゆ、許せない……」

 

「何でだよ」

 

「……こ、こんな……い、いい場所……。……し、知ってて……。……な、なんで……ま、前につ、連れてこなかった……んだよ……」

 

「いや、予算的に無理だろ」

 

「……む、無理でも……つ、連れてこい」

 

理不尽だ。でも、それが彼女なりの「よかった」の言い方だということが、分かった。

 

出汁を一口啜って、それから豆腐を。

 

「……っ……」

 

声が、出なかった。

 

彼女が、箸を持ったまま、少しの間止まった。

 

「……と、豆腐って……。……こ、こんなに…あ、味がするんだな……」

 

彼女は、もう一口食べて。それからまた食べた。

 

窓の外で、雨が続いている。

川の音と、松の音が、部屋の中に静かに届いてくる。

 

二人とも、しばらく黙って食べていた。

 

この間、にしん蕎麦を食べた時もそうだったけれど、彼女と一緒にいると、黙っていることが苦じゃない。

 

「……に、西田幾多郎って……きょ、京都学派の……て、哲学者……い、いるだろ……」

 

「哲学の道、だな」

 

「……な、なんか今ならわかる気が、する。……こ、こういう景色と一緒に……て、哲学を……考えたら……な、なんか……出てくる気がする」

 

「何が?」

 

「……知らない……。……で、でも……な、なんか……で、出てくる……気がする」

 

彼女は、川を見たまま、また豆腐を口に運んだ。

 

---

 

最後のお茶を飲みながら、彼女がぽつりと言った。

 

「……きょ、今日……き、来て……よかった……」

 

「お気に召したようで、なにより」

 

「……う、うん。……ほ、本当に……よかった……」

 

窓の外の大堰川が、梅雨の雨を受けて、静かに、どこまでも流れていた。

 

デザートは、小さな水羊羹だった。

 

梅雨の季節に合わせたのか、青楓の葉が一枚、器の端に添えてある。

 

それを見てまた「……綺麗……」と呟いて、しばらく眺めてから、丁寧に食べた。

 

「……み、水羊羹って……な、夏の食べ物と思ってたけど……」

 

「梅雨の終わりから食べるらしいよ」

 

「……そうか……じ、じゃあ……ちょうどいい、季節…なんだな」

 

最後の一口を食べ終えて、彼女はお茶を一口啜った。

 

それから、窓の外を。

 

川は、変わらず流れている。

雨は、少し細くなって、山の靄が薄くなりかけていた。

 

「……な、名残、惜しい……な……」

 

「そうだな」

 

贅沢な時間、というのはこういうものを言うのだろう。

美味いものを食べて、景色を見て、余分なことを考えない。

それだけのことが、こんなに豊かな時間になる。

 

俺が素直にそう思えていたのも、隣に彼女がいたからかもしれない。

 

ふと、横を見ると。

 

彼女が、困ったような顔をして、視線を逸らした。

 

窓でも、川でも、床の間でもなく——どこでもない場所に、視線を向けている。

 

「……どうした?」

 

「……な、なんでも……ない……」

 

「なんか気になることあるか?」

 

「……な、ない……って……い、言ってる……」

 

語尾が、少し尖った。

 

気に入ってくれただろうに。

松籟庵の空気は、明らかに彼女の琴線に触れていた。

湯豆腐も、水羊羹も、川の景色も。

それは食べ方や、呟いた言葉で、十分に伝わっていた。

 

なのに、今の表情は何だろう。

 

「……お前、本当に何でもないか?」

 

「……な、ないって…言ってる……」

 

また視線を逸らす。

今度は、畳の目を数えるように、下を向いた。

 

耳が、じわじわと赤くなっている。

 

俺は首を傾げた。

 

食べ物が合わなかったわけではない。

体調が悪いようにも見えない。

景色が気に入らなかった、というわけでも、明らかにない。

 

「……ま、まあ。……出るか……」

 

彼女が立ち上がった。

座布団を几帳面に直して、カバンを持ち上げる。

 

それから、一度だけ窓の外を振り返った。

 

大堰川を、二秒ほど見て。

 

「……い、いいお店……だったな……」

 

それだけ言って、部屋を出た。

 

俺は、彼女の後ろ姿を見ながら、何かが引っかかっていた。

あの表情は、怒っているのとも、照れているのとも、少し違う。

 

何だろう。

 

答えを出せないまま、俺も立ち上がって、部屋を後にした。

 

廊下で仲居さんに見送られながら、彼女は「あ、あ、ありがとう……ございました……」と、また直角に頭を下げていた。

 

階段を上って、川沿いの道に出る。

雨は、ほとんど上がっていた。

 

「……次、祐斎亭だな」

 

「……う、うん」

 

「歩いていける距離だよ。ほぼ隣だし」

 

「……わ、わかった……」

 

彼女は、返事だけして、歩き始めた。

 

半歩後ろ。いつもの位置。

 

ただ、今日は少しだけ、その距離が近い気がした。

 

気のせいかもしれない。

 

俺には、やっぱりよく分からなかった。

 

---

 

松籟庵の廊下を歩きながら、わたしは自分の胸の内を持て余していた。

 

(……な、なんなんだよ……)

 

仲居さんに頭を下げて、靴を履いて、階段を上る。その間ずっと、心臓が妙な速さで動いていた。

 

贅沢な時間だった。本当に。

 

湯豆腐の出汁の味も、水羊羹の青楓も、窓の外の大堰川も——全部、良かった。良すぎた。

 

それが、問題だった。

 

(……こ、こんな場所に……ふ、二人で……き、来て……。……あ、当たり前みたいな顔して……す、座って………)

 

彼は、何も考えていないような顔をして、川を見ていた。

豆腐を食べながら「京都の豆腐は違うから」とか、さらっと言って。近衛文麿の話をして。

 

何も考えていない。

 

それが、たまらなく——腹立たしい。

 

(……わ、たしは……こ、こんなに……)

 

前部長のことを、思い出そうとした。

失恋の痛みを、ちゃんと抱えているはずの、あの感覚が。

 

出てこない。

 

川の音と、松の音と、彼が豆腐を食べる気配だけが、部屋の中に満ちていて。

 

大切にしていた痛みが、どこかに押しやられていた。

 

(……ち、違う……。……べ、別に……そ、そういうことじゃ……)

 

そういうことじゃない、と思いたかった。

 

でも。

 

デザートの水羊羹が運ばれてきた時、彼がさりげなく「梅雨の終わりから食べるらしいよ」と言った。

そういうことを、この男はさらっと知っている。叔父さんに聞いたのか。

 

あるいは。

わたしのために、調べてきたのか。

 

それだけのことが、胸に刺さって、抜けない。

 

(……前の部長……わ、たしの……す、好きなものを……こ、こんなふうに……)

 

比べるのは、違う。分かっている。

前部長は前部長で、彼は彼だ。

 

だから、比べない。

比べないけれど。

 

(……お、お前……な、何がしたいんだよ……)

 

窓の外の大堰川を、最後にもう一度だけ見た。

雨に煙る山。静かに流れる川。

 

この景色を、彼と並んで見ていた。

 

それが——

 

(……い、居心地が……よすぎる……)

 

それが、一番困る。

 

腹も立たない。泣きたいわけでもない。

ただ、居心地がよくて、名残惜しくて、それでいて——このまま時間が止まればいい、なんてことを、少しだけ思ってしまった。

 

そんな自分に気づいた瞬間、視線を逸らした。

 

彼には、絶対に悟られたくなかった。

 

(……ぶ、部長の……バ、カ……少しは、き、気づけよ……)

 

心の中でだけ、そう思った。

 

声には出さない。出せるはずがない。

 

前部長に思い切って伝えたあの時は、状況が背中を押してくれた。

 

今は——状況は、何も押してくれない。

ただ、梅雨の大堰川が流れているだけだ。

 

(……で、でも……)

 

階段を上りながら、わたしは川沿いの風を吸い込んだ。

 

(……も、もう少しだけ……こ、この時間が…続けばいい…のに…)

 

それだけは、正直に、思った。

 

雨上がりの嵐山の空気が、あいつの頬を撫でていった。

 

---

 

松籟庵を出ると、川沿いの道を少し歩いた。

 

雨は上がっていたが、石畳はまだ濡れていた。木々からは、時々に雫が落ちてくる。

 

「……すぐそこだよ」

 

「……お、お前の『すぐそこ』は……し、信用……できない……」

 

「本当にすぐそこだから」

 

大堰川に沿って、数分歩くと——祐斎亭の入口が見えてきた。

 

古い石段が、斜面を上っている。

苔が生えて、雨に濡れて、光っていた。

 

「……あ」

 

彼女が、足を止めた。

 

「……す、すべりそう……」

 

「そうだな」

 

俺は、特に何も考えず、手を差し出した。

 

「ほら」

 

彼女が、固まった。

 

一秒。二秒。

 

「……お、お前……」

 

「階段、濡れてるから」

 

「……そ、そうだけど……」

 

「滑ったら危ないだろ」

 

また一秒。

 

彼女が、おそるおそる手を伸ばしてきた。

指先が、俺の手に触れる。

 

「……っ」

 

「ゆっくり。大丈夫だよ」

 

一段、また一段。

彼女は、俺の手を握ったまま、慎重に石段を上った。

 

上りきると、彼女がすっと手を引いた。

 

「……あ、あり、がと……」

 

消え入りそうな声だった。

 

俺は「うん」とだけ答えて、受付の方に向かった。

 

---

 

わたしは、その場で少しの間、動かなかった。

 

(……て、天然……)

 

わたしは、自分の右手を、左手でそっと包んだ。

 

まだ、温度が残っている。

 

(……て、天然ジゴロ……め……)

 

嬉しい。素直に、嬉しかった。

階段が濡れているから、ただそれだけの理由で、何のためらいもなく手を差し出してくる。

 

悪意も、計算も、ない。

 

それが——

 

(……い、一番……た、質が悪い……)

 

計算があるなら、まだ怒れる。

「あざとい」と切り捨てられる。

 

でも、この男は本当に何も考えていない。

ただ、階段が濡れていたから。

ただ、滑ったら危ないから。

 

それだけだ。

 

(……ぶ、部長……。……お、お前……)

 

手の温度が、少しずつ薄れていく。

 

わたしは、それが消えてしまう前に、ぎゅっと自分の手を握り直した。

 

嬉しいと思う気持ちと、この朴念仁めという気持ちが、ぐるぐると混ざり合って——

 

結局、どちらも本当だった。

 

「……こっちだよ」

 

彼が、受付の前から振り返った。

 

「……い、今……い、行く……」

 

わたしは、手をカーディガンのポケットに入れた。

温度を、もう少しだけ、閉じ込めるように。

 

「……バ、バカ……」

 

誰にも聞こえない声で呟いて、石段の上から、雨上がりの大堰川を一度だけ見下ろして。

それから、彼の方へ歩いていった。

 

受付で名前を告げると、スタッフの方がすぐに「お待ちしておりました」と案内してくれた。

 

松籟庵と同じだ。

予約が、きちんと入っている。

 

わたしは、その様子を横で見ていた。

 

(……ま、また……)

 

松籟庵も、そうだった。

祐斎亭も、そうだった。

 

名前を告げるだけで、滑らかに案内が始まる。

あいつは、当たり前のような顔をして、スタッフと短いやり取りをしている。

 

(……な、なんなんだ……こいつ……)

 

エスコートに、慣れすぎている。

 

いや、分かっている。叔父さんの差し金だ。あの頭ピンク色の、人生全部ラブコメみたいな叔父さんが、「松籟庵を予約しろ」「祐斎亭を予約しろ」と入れ知恵したに違いない。

 

でも。

 

差し金だとしても、予約したのは彼だ。

調べて、電話して、名前を入れて。

 

わたしのために。

 

それが、事実だ。

 

嬉しい。

素直に、嬉しかった。

 

と同時に——

 

(……な、慣れすぎ……だろ……。……こ、こんなの……な、何人の……お、女に……や、やってきたんだよ……)

 

理不尽な怒りが、じわりと湧いてくる。

彼が今まで誰かをエスコートしたことがあるかどうか、そんなこと知らない。

たぶんない。おそらくない。絶対にない。

 

でも、こうも自然にやられると——

 

(……ぶ、部長の……く、くせに……)

 

「こっちだよ」

 

彼が、振り返った。

 

「……っ、わ、わかってる……」

 

わたしは、少し語気を強めて答えた。

 

スタッフの人に案内されながら、廊下を歩く。

古い建物の軋む廊下。窓の外に、大堰川が見える。

 

「……あ、あの……」

 

わたしから、小声で彼に話しかけた。

 

「……お、お前…よ、予約……いつ…したんだ……」

 

「先週」

 

「……せ、先週……」

 

「叔父さんに場所教わってから、すぐ」

 

わたしは前を向いたまま、あいつのカーディガンの袖を少し引っ張った。

 

「……お、お前……。……な、なんで……そ、そんなに……て、手際が……い、いいんだよ……」

 

「別に、電話一本だよ」

 

「……そ、そういうことじゃ……ない……」

 

「じゃあ、何が?」

 

「……な、なんでも……ない……」

 

また、その言葉だ。

 

案内された部屋に入ると、丸窓があった。

 

大堰川に面した、古い書院造りの部屋。

そして、奥田の染色作品が、静かに壁を飾っている。

 

でも、わたしの目は今、丸窓ではなく——

 

あいつの袖を引っ張りながら、俯いていた。

 

嬉しい気持ちと、複雑な気持ちと。

両方が本当で、どちらも嘘じゃない。

 

それが、また——たまらなく、居心地が悪くて、良い。

 

「丸窓、見てみろよ」

 

彼の声がした。

 

顔を上げて。

丸窓の向こうに——大堰川が、雨上がりの光を受けて、静かに光っていた。

 

「……あ……」

 

複雑な感情が、一瞬、凪いだ。

 

「……き、綺麗………」

 

それだけは、素直に、出てきた。

 

---

 

祐斎亭の中を、スタッフが案内してくれた。

 

建物は、かつて川端康成が山の音を執筆した、明治時代に建てられた旧別荘であり、奥田祐斎——染色作家の、アトリエとして使われていた場所だ。

 

「こちらが、染色作品になります」

 

廊下に沿って、作品が展示されている。

「夢こうろ染」——光の当たり方によって、色が変わる染色技法。

 

彼女が、一枚の布の前で足を止めた。

 

「……い、色が……か、変わる……?」

 

「光の角度によって、です。こちらをご覧ください」

 

スタッフの方が、照明の角度を変えてみせた。

 

深い紫が——黄金色に変わった。

 

「……っ」

 

彼女が、息を呑んだ。

 

「……お、同じ布……なのに……。……ひ、光で……こ、こんなに……」

 

「平安時代、禁色とされた『黄櫨染(こうろぜん)』を現代に再現したものです。天皇のみが着ることを許された色、と言われています」

 

「……こ、黄櫨染……。……き、禁色……」

 

彼女が、ネタ帳を取り出した。

震える手で、何かを書き留める。

 

「……ひ、光を……受けた時だけ……あ、現れる色……。……ふ、普段は……か、隠れてて……。……そ、それって……」

 

独り言のように呟きながら、ペンが走る。

 

俺は黙って、隣に立っていた。

 

次の部屋に移ると、大きな丸窓があった。

 

川に面した、円形の窓。

直径一メートルほどだろうか。古い木の枠が、窓を縁取っている。

 

窓の向こうに——大堰川が、額縁に収まった絵のように広がっていた。

 

雨上がりの光が、川面に反射している。対岸の嵐山が、靄の中から少しずつ姿を現している。

 

「……」

 

彼女が、丸窓の前で立ち止まった。

 

ネタ帳を、閉じた。

 

「……ぶ、部長……」

 

「ん」

 

「……こ、ここ……。……ず、ずっと……み、見てた……くなる、な……」

 

「…そうだな」

 

丸窓は、世界を切り取る。

四角い窓より、ずっと。余分なものを削ぎ落として、川と山と空だけを、そこに閉じ込める。

 

「……え、絵みたい……だけど……。……え、絵じゃない……んだよな……。……ほ、本物の……か、川が……な、流れてて……。……ほ、本物の……や、山が……あ、あって……」

 

「うん」

 

「……そ、それが……な、なんか……」

 

彼女が、言葉を探すように、少し黙った。

 

「……す、凄い……と思う……。……に、人間が……わ、枠を……作ったら……。……し、自然が……え、絵になる……んだ……」

 

俺は、彼女の横顔を見た。

 

丸窓の光が、彼女の顔に落ちている。

梅雨の柔らかい光だ。

 

「……写真、撮るか?」

 

「……うん……」

 

スマートフォンを取り出して、丸窓を撮る。

何枚も、角度を変えて。

 

それから、ふと俺の方を向いた。

 

「……お前も……は、入れよ」

 

「え、俺が?」

 

「……き、記念……だろ。……ぶ、文芸部の……き、記録……だ」

 

「部長として?」

 

「……そ、そう……は、早くしろ……」

 

俺は丸窓の前に立った。

彼女がスマートフォンを構える。

 

「……も、もう少し……よ、横……。……か、川が……み、見えるように……」

 

「こう?」

 

シャッター音がした。

 

「見せてよ」

 

「……あ、あとで……」

 

彼女が、スマートフォンをカバンに仕舞った。

 

---

 

一番奥の部屋は、川に一番近い場所にあった。

 

縁側のような廊下が、川に向かって開いていて、手すりの向こうに大堰川が迫っている。

 

欄干に手をついて、川を見下ろす。

水面が、足元すぐそこにあるような感覚だ。

 

「……ち、近い……。……か、川が……」

 

彼女が、欄干に両手をついて、身を乗り出した。

 

「……お、落ちそう……」

 

「落ちるなよ」

 

「……お、落ちない……バ、カ……」

 

川の音が、大きく聞こえる。

雨上がりで水量が多いから、流れの音が低く、重たい。

 

「……ぶ、部長。……か、川って……さ、さっきと……お、同じ川……なのに……ち、近くで……み、見ると……ち、違う……な……」

 

「角度が違うからな」

 

「……い、一力の……か、鴨川も……。……き、北白川の……そ、疏水も……。……きょ、京都って……か、川が……多い……」

 

「水の都…か」

 

彼女が、ネタ帳を開いて。

欄干に肘をついて、川を見ながら書く。

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

川の音。

遠くから、観光客の声がかすかに聞こえてくる。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……あ、あの……」

 

彼女が、ネタ帳から目を上げた。

川を見たまま、続ける。

 

「……き、今日……。……ぜ、全部……よ、良かった……ほ、本屋も……し、松籟庵も……。……こ、ここも……ぜ、全部……」

 

「そうか」

 

「……お前が……こ、来いって……い、言わなかったら……。……し、知らなかった……場所……ば、ばかりだ……」

 

「俺こそ。来てくれたて、良かったよ」

 

彼女が、ぴたりと止まった。

 

欄干に置いた手が、少し強く、木を握った。

 

「……な、なんで……そ、そういうこと……い、言うんだよ……」

 

「いや、だって一人で回ってもしょうがないだろ?」

 

「……っ……。……バ、カ……」

 

耳まで赤くなって、彼女は川に視線を落とした。

 

ネタ帳のページが、川風に少し揺れた。

 

見学を終えて、建物を出ると、空が明るくなっていた。

 

雨は完全に上がっている。

西の空に、薄く陽が差し始めていた。

 

「……ぶ、部長」

 

歩きながら、彼女が言った。

 

「……き、今日……き、来て……。……ほ、本当に……よ、良かった……」

 

二度目だ。

さっきも同じことを言っていた。

 

「ありがとう」

 

「……な、なんで……お、お礼……言うんだよ……。……い、言うのは……わ、私の……せ、セリフ……だろ……。……バ、カ……」

 

「じゃあ、お互い様で」

 

彼女が、少し黙った。

 

「……お、お互い様……か……」

 

「うん」

 

「……ふ、ふん……」

 

それきり、彼女は何も言わなかった。

 

ただ、いつもの半歩後ろではなく——今日は、少しだけ、並んで歩いていた。

 

大堰川の水音が、二人の後ろに遠ざかっていく。

 

雨上がりの嵐山の空が、梅雨の薄明かりの中で、静かに広がっていた。

 

---

 

祐斎亭を出て、大堰川沿いの道を歩いた。

 

十五時を少し回ったところだ。

叔父さんとの約束は十七時。京都駅まで、嵐山からなら四十分もあれば着く。

 

時間は、ある。

 

渡月橋が見えてきた。

橋の上には観光客が行き交っているが、川沿いの道は、午後の光の中で穏やかだった。

 

雨上がりの大堰川は、さっきより少し落ち着いた色をしていた。

靄が晴れて、嵐山の稜線がくっきりと見えている。

 

彼女が、足を止めた。

 

川を見ていた。

 

渡月橋と、その向こうの山と、橋を映す川面を。

 

「もう少し、ここにいたいな」

 

珍しく、たどたどしさのない言葉だった。

 

俺は時計を見た。

十五時半。

 

「時間はあるよ」

 

「……う、うん。……わ、分かってる……けど……」

 

彼女が、川沿いの石に腰を下ろした。

カバンを膝に抱えて、渡月橋を見ている。

 

俺も、隣に座った。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

川の音。

遠くで、観光客の声。

橋を渡る人たちの、かすかな足音。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……こ、ここ……。……な、何度……き、来ても……い、いいな……」

 

「そうだな」

 

「……き、季節で……ち、違う……んだろうな……。……あ、秋は……も、紅葉で……」

 

「きれい、だろうな」

 

「……ふ、冬は……」

 

「寒いけど、人が少ない。雪が降ると最高に綺麗らしいよ」

 

「……は、春は……」

 

「桜が出るから、逆に混む」

 

彼女が、小さく笑った気がした。

 

「……く、詳しいな……」

 

「叔父さんに聞いた」

 

「……ま、また……あ、あの人……」

 

「京都に住んでたからね」

 

川面に、西日が差し始めていた。

雨上がりの光は、普通の晴れの日より柔らかい。水面が、金色と銀色の間のような色で揺れている。

 

渡月橋を、観光客が渡っていく。

カップルや、家族連れや、一人で来ている人。

 

みんな、同じ橋を渡って、同じ川を見ている。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……あ、あの橋……。……な、何人……わ、渡ったんだろ……」

 

「平安時代からあるから、数えきれないな」

 

「……みんな……同じ川を……見て……。……お、同じ橋を渡って……でも……感じることはみんな違う…」

 

「そうだな」

 

「……わ、私が今……感じてることも……」

 

彼女が、そこで止まった。

 

川風が、二人の間を抜けていった。

 

「……な、なんでも……ない……」

 

また、その言葉。

 

でも今日は——「なんでもない」の前に、確かに何かがあった。

 

俺は、川を見たまま、聞かなかった。

聞かない方が、いい気がしたから。

 

「……も、もう少し……だけ……」

 

「うん」

 

「……いて、いい?」

 

「いていいよ」

 

彼女が、また川を向いた。

 

渡月橋の向こうに、嵐山の山が、夕暮れの色に染まり始めていた。

 

---

 

言葉は、なかった。

 

川の音だけが、流れている。

それから、どこかの木で鳴いている小鳥の声。

何の鳥か分からないけれど、梅雨の晴れ間に、のんびりと鳴いている。

 

不快じゃない。

むしろ——心地よかった。

 

誰かと黙っていて、それが苦じゃない、というのは、考えてみれば不思議なことだ。

普通、沈黙は何かで埋めたくなる。

話題を探したり、スマートフォンを見たり。

 

でも今は、何も埋めたくなかった。

 

川が流れていて、鳥が鳴いていて、彼女が隣にいる。

それだけで、時間が満ちている感じがした。

 

彼女は、ネタ帳を膝の上に置いたまま、川を見ていた。

書かない。スマートフォンも出さない。

 

ただ、見ている。

 

渡月橋の上を、人が行き交う。

川面が、夕方の光でゆっくりと色を変えていく。

 

「……」

 

彼女が、小さく息を吐いた。

 

緊張が解けたような、あるいは何かを諦めたような、そういう息だった。

 

俺は、特に何も言わなかった。

 

川の向こうの山が、少しずつ影を濃くしていく。

梅雨の晴れ間の夕方は、光が柔らかい。雨が洗った空気の中で、全部の色が、少しだけ深くなっている。

 

小鳥が、また鳴いた。

 

「……な、なんの鳥……だろ……」

 

彼女が、独り言のように言った。

 

「分からないな」

 

「……お前も……し、知らないのか……」

 

「鳥は詳しくない」

 

「……ふ、ふん。……は、叔父さんに……き、聞いておけ……」

 

「鳥までは知らないんじゃないかな」

 

彼女が、また黙った。

 

川の音。

鳥の声。

 

それだけ。

 

どのくらい、そうしていただろう。

十分か、二十分か。

 

時計を見る気に、なれなかった。

 

彼女が、ふっと空を見上げた。

 

雲の切れ間から、青空が少し覗いている。梅雨の、薄い青だ。

 

「……きょ、京都の空……って……」

 

「ん」

 

「……な、なんか……高い……な……。……と、豊橋と……お、同じ空……の、はずなのに……」

 

「気のせいじゃないか」

 

「……き、気のせいじゃ……ない……なんか違う……んだよ……うまく言えないけど……」

 

川風が、また吹いた。

 

彼女の髪が、少し揺れた。

 

「……ぶ、部長」

 

「ん」

 

「……こ、こういう時間……。……す、好きだ……」

 

俺は、川を見たまま答えた。

 

「俺も」

 

彼女が、何も言わなかった。

 

ネタ帳のページが、川風にそっとめくれた。

また、白いページ。

 

今日、最後まで——そのページには、何も書かれなかった。

 

書かなくても、いい時間というのが、あるのかもしれない。

 

小鳥が、一声鳴いて、どこかへ飛んでいった。

 

---

 

「……そ、そろそろ……い、行く、か……」

 

彼女が、先に立ち上がった。

 

スカートの裾を払って、カバンを持ち直す。ネタ帳を仕舞う。いつもの、帰り支度。

 

「そうだな」

 

俺も立ち上がった。

 

渡月橋に向かって、川沿いの道を歩く。

 

来た時より、人が減っていた。夕方に向かう時間、観光客の波が引いていく。

 

道の両側に木が並んでいて、西日が木漏れ日になって地面に落ちている。光と影が交互に続く、薄暗い道だ。

 

雨上がりの土の匂いがした。

 

彼女は、俺の半歩後ろを歩いていた。

いつもの位置。

 

足音が二つ、石畳に響いている。

 

川の音が、遠くなっていく。

 

「……ぶ、部長」

 

彼女が、呼んだ。

 

いつもと、少しだけ違う声だった。

 

俺は、足を止めた。

振り返ろうとした、その瞬間。

 

温かいものが、唇に触れた。

 

一秒にも満たない、短い時間。

 

それから、離れた。

 

「……っ」

 

彼女が、俺の前に立っていた。

 

顔が、真っ赤で。

耳まで、首まで、全部。

 

目が、潤んでいる。

唇を、きつく結んでいる。

 

震えていた。

 

「……い、言わなくて……い、いい……から……」

 

消え入りそうな声だった。

 

「……き、聞かなくて……い、いいから……」

 

川風が、木漏れ日の道を抜けていった。

 

彼女は、視線を地面に落としたまま、動かなかった。

 

俺も、動けなかった。

心臓が、やけにうるさい。

 

木漏れ日が、彼女の赤い耳を照らしていた。

 

---




 祐斎亭の「夢こうろ染」は、光の角度で色が変わります。
 平安の禁色、黄櫨染を再現したもので、光が魅せる本当の姿。
 同じ布。ただ、魅せ方が変わるだけ。

 丸窓は、そこに実際にあります。
 枠を作ると自然が絵になる。

 ちなみに、松籟庵は昼のコースなら意外と手が届きます。

次回、最終回。
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