負けヒロインが多すぎる! IF ―156の負け 作:nelldrip
最初は、いつもの「うぐ」とか「ぐぬ」とかの類だと思っていた。
「……ひっ……く……」
八奈見の手が。原稿用紙をめくる音が、途切れて。
部室が、いっぺんに静かになる。
外は、夏の熱がまだ少し残る、野球部の煩い九月の放課後。
その音がやけに遠くて、代わりに、机の下から漏れてくる嗚咽だけが、近い。
「……こ、小鞠ちゃん」
「……み、見るな……」
「……ごめん」
八奈見が、原稿用紙の束をそっと机の上に戻した。
角を揃えて。丁寧に。
さっきまで、無邪気に音読していた奴と同じ手つきとは思えないほど、慎重に。
「ごめんね、本当に」
しゃがみ込んで、机の下を覗き込む。
「……これ、そういうやつじゃなかったね」
「……ひっ…く……べ、べつに…いい……ど、どうせ……わたし」
「読んじゃったのも、ごめん。声に出したのは、もっとごめん」
返事はない。
ただ、机の下で、小鞠が顔を伏せたまま、丸まっているのが見えた。
誰も、何も言わなかった。
こういうとき、何を言っても余計だということくらいは、皆分かっている。
だから、机の上の原稿を片付けることにした。
それが、部長の俺にできる唯一の後始末と思ったから。
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ホチキス留めの束は、思ったより重い。
さすが百五十六枚である。
これだけの量を三ヶ月。部誌の締切に毎回ひいひい言っている俺からすると、正直、頭が下がる。
束を持ち上げると、いちばん上のページが、少し。
めくれて、目に入ったので、反射的に読んでいた。
小鞠の小説なら、面白くないわけがない。
「あ!」
焦ったように、八奈見が顔を上げた。
「ちょっと温水くん!」
「なに?」
「それ、だめ!今それ読むのだめだから!」
「え、なんで?」
「なんでもだよ!」
そうは言うが、思わず読み進めてしまう。
とにかく、文章がいい。読ませる文章だ。
特に気に入ったのが、京都の描写だった。
古い喫茶店。パイプオルガン。焼きたてのスコーン。
書棚の匂い。疏水の音。ベンガラ色の壁。
……こいつ、行ったこともないのに、よくこれだけ書けるな。
俺は、そのまま何ページかめくった。
八奈見が「ああ……」と、両手で顔を覆う。いや、なにがダメだというのか。
焼塩が「ぬ、ぬっくん、それ――」と言いかけて。
白玉の視線が、こちらに刺さっているのは分かった。どうにも視線が痛い。
とはいえ、それに気を取られる余裕がなかった。
正直に言おう。少し、感心していたのだ。
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「……いいじゃないか、これ」
部長さんが、顔を上げて、言った。
「よく書けてる。すごいぞこれ」
誰も、何も言わない。
そうして。
「情景描写がうまい。特にこの、喫茶店の場面。音と匂いだけで書いてるだろ。……こういうの、書こうと思っても書けないのに」
部長さんはページを繰りながら、思ったことをそのまま口にした。
部長として、というより、一人の読者として、という感じに。
「あと、このヒロインの子」
「……んなっ!」
机の下で、ゴツンと頭をぶつける音がする。まぁ。わからなくはない。
「このヒロイン、可愛らしくていいよ。口が悪いのに、ぜんぶ裏返しなのが伝わってくる。人見知りで、意地っ張りで、でもちゃんと、相手のこと見てて。」
正直、何を言ってるんだ、と思った。
自分が言ったその言葉。意味、この人わかっているのか。本気でそう思った。
気づかないのが、不思議でしょうがない。
机の下で、また、ゴツンと頭をぶつける音がする。見なくてもわかる。真っ赤な顔の小鞠先輩が思い浮かんで。
三度目は、さすがに大丈夫かと思ったと同時に。
「このヒロイン、好きだよ、俺」
…今の言葉、わかってるのだろうか?そのヒロインが誰か、って。
そう思った時。
なぜだろう。胸の奥が、こう、冷たくなる気が、した。
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…なぜだろう。周囲の視線が、一気に冷たくなった気がした。
なにかマズイことでも言ったか?そう思い、少し場を和ませようと思って。
「……し、しかしまぁ」
「…………」
俺は、真ん中あたりのページを指で叩いた。
「京都の、ここ。ホテルの前で騒いでる場面」
「…………」
「ここ、断ってないんだよな。『まだ』とか『心の準備が』とか、そんなことしか言ってない」
読み返して、我ながら吹き出してしまった。
「これ、要するにホテルでもいいってことだろ。このヒロイン、部長のこと好きすぎだろ」
……なぜだろうか。その瞬間、周囲の空気がさらに冷たくなったような気がした。
「あと、これは…うん、あれだな」
「……あれ、って」
八奈見の声が、少し低い気がする。うん、なんか怒気を感じるのは気のせいだろうか。
「この主人公。部長のほう」
「うん」
「こいつ、女心がぜんぜん分かってないよなぁ」
言ってから、我ながら笑ってしまった。
「せっかくヒロインがこんなに頑張ってるのにさ。鈍いにも程があるだろ、こいつ」
「…………」
「まあ、それがこの小説の味っちゃ味なんだけど。読んでてちょっとイライラするよな、この部長。小鞠も、よくこんな朴念仁書けたな」
そうして顔を上げると。
なぜか。
空気が、これまで経験したことがないほど、冷たかった。
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八奈見が俺を見ている。にこにこした顔ではない。かといって、怒っている顔でもない。
どちらかというと——**憐れんでいる**ような。
焼塩は、口を半分開けたまま固まって。
いつも元気なやつが、こういう顔をするのを、俺は初めて見た。
というか、せめて一言くらい言え、気まずいにもほどがある。
そして、白玉である。
「……部長さん?」
「な、なに」
「こう、どうしても許せないときって、あるじゃないですか?そういうとき、ビンタとキック、どっちがいいと思います?」
「いや、どっちも嫌なんだけど?」
笑顔である。うん。
だが、目がまったく笑っていない。
気づけば、反射的に一歩下がっていた。
「な、なんだよ。俺、なんか変なこと言ったか?」
「いえ」
「じゃあ——」
「**部長さんは何もしてませんよ?**」
言葉の意味が、分からない。
いや、なにもしてないなら、その視線はやめてほしいのだが。
分からないまま、俺は机の下に視線を落とすと。
小鞠が、いつの間にか顔を上げていて、じっと見ていた。
泣いたあとの、腫れぼったい目で。なぜか、耳まで真っ赤にして。
なのに、その目つきだけが——死んだ魚の目である。
文化祭の準備で三日徹夜したときですら、ここまで死んだ目はしていない。
「……こ、小鞠?」
「…………」
「あの、なんか、俺——」
「……**お、お前**」
机の下から、這うように出てくると、俺の前へ。
「うん」
「……ほ、ほんとうに……」
「うん」
「……**ぬ、温水、だな**……」
それだけ言うと、小鞠は原稿の束を俺の手からひったくり、部室を出ていった。
ただ、どうしてだろう。
原稿を取り戻す小鞠が。
少しだけ、勝ち誇った顔に見えた気がした。
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残された部室は、ただ静かなまま。
やがて、八奈見が深いため息をつくと、俺の肩をぽん、と叩いた。
「温水くん?」
「……はい?」
「はぁ…そういうとこだよ?」
もういちど、ため息をつきながら、部室を後にしていった。
焼塩は、俺の顔をまじまじと見て。
「ぬっくんは…ぬっくんだねぇ…」
「何が?」
焼塩は答えない。
代わりに「わー」と天井を仰ぎ、それきり、カバンを掴んで帰っていった。
白玉は荷物をまとめながらに。
「部長さん?」
「な、なんでしょう」
「あの原稿、身長が百四十八センチですよ」
「……うん、聞いてた」
「はぁ…ちゃんと読んでるのか読んでないのか、わからなくなってきました」
そう言って、白玉も部室を後にした。
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一人になった部室で、俺は椅子に座り直した。
西日が、机の上を斜めに切っている。
……いったい何がどうしたというのか。
俺は、部員の書いた小説を読んで、正直に褒めただけである。
情景描写がいいと言った。ヒロインが可愛いと言った。主人公が鈍いと言った。
本心だ。お世辞は一言も言っていない。
部長として、というより、読者として、まっとうに評価したつもりだ。
登場キャラクタの設定に、自分の身長を当てはめるのだって、普通にやるだろう。
なのに。
全員から、氷点下の目で見られた。
白玉に至っては、ビンタかキック宣言である。
小鞠は、お前は温水、と意味不明なことを残し、出ていって。
うん。まったく、分からない。自分が自分以外であるはずもないのだから。
一応、ここは全員が負けヒロインの部室のはずだ。
なのだが、どうやら今日の負けは、俺、ということらしい。
…なんで?
これで、天然ジゴロは完結です。
京都は、三回に分けて書きました。
一度目が北白川、二度目が嵯峨野、三度目も嵯峨野。
ルートはぜんぶ実在します。歩けます。予約もいったりいらなかったり。
タイトルの「天然ジゴロ」は、彼女がつけた名前です。
何と呼べばいいか分からないものを渡されたとき、
人は名前をつけて、手元に置こうとします。
小鞠が、百五十六枚かけて、三ヶ月かけて。
それでも書き切れなかった、吐き出し切れなかった温水への想い。
なお、温水は温水なので最後までその主人公が誰か、気づいていません。
読解はできる。全問正解してます。
ただ、自分だけが。そこに役者として当てはめる思考を持たない
だけど、小説の中の小鞠をみて、好きだと言ったその言葉。
それは、多分。
小鞠にとって、心から欲しい言葉だった。
そんな気が、するのです。
なお、次書くとしたら、佳樹か白玉後輩。大穴でてぃあらです。