同日――
東京都 私立桜霜学園 教室
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女の噂は足が速い。
些細なことでも直ぐに誰かに知られている。
これほどの特大ネタが、この閉じた学園で広まらないはずがないだろう。
「死体は
「らしいね」
「
「らしいね」
彼女が何を言っても、手元の小説を読んでいる。
いや、聞いてはいるけれど、関わりたくなかったのだ。
「ねぇ、ちょっと真面目に聞いてよ!」
「聞いてるよ。
「それでって……」
良くないことには最初から近付かない。
噂話もしない。
迂闊に動くと本当に危ない気がするのだ。
まるで毒蛇が自分たちの周りで手ぐすね引いて待っているような、そんな悪寒さえする。
「葦歌ちゃん、私たちの幼馴染じゃない」
それは事実だ。
だから少しでも手掛かりが欲しい、と霜月を見つめるその視線を、無碍にはしたくなかった。
「
「え」
「大久保さん、かなり入れあげてたんでしょ? 向こうも案外満更でも無かった様子だし、聞いてみたら何か知ってるかもよ」
「…うん」
何か含んだように暗い顔をする彼女に、それ以上なんて言葉をかけたらいいのか。霜月には分からなかった。
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夜の帳を優しく照らす月が、ただ静かに空に鎮座している。
月明かりが差し込むその部屋で、王陵 璃華子は傍に横たわる彼女とベッドを共にしていた。
「父が好きだったキルケゴールの言葉よ。『人間は動物より勝っているからこそ、言い換えれば、人間は自己であり精神であるからこそ、絶望することができるのである』絶望を知らなければ希望もない。父の絵の題材にバラバラの人体が多いのは、自己に抱えた矛盾の象徴なのよ。」
その甘美な素肌を隠すように、彼女はシーツを引き寄せる。
隣に横たわる
顔までもシーツで覆われた状態では判別もつかない。
「私は父を尊敬していた。芸術家としての義務を自覚して啓蒙としての創作姿勢にこだわり続けたあの人は、本当に素晴らしい絵描きだったと今でも思っているわ」
暗闇の中王陵 璃華子は立ち上がり、誰にも聞かれぬ言葉を零す。
「だからね、その務めを途中で放棄してしまったことがことさらに許せないの」
それは誰に向けた独白だろうか。
分からない。
この場にその言葉を聞く者はもう居ない。
しかし王陵 璃華子は聞いて欲しかった。
「昨日ね、父が亡くなったの。もうとっくに死んだも同然の人だったけど、とうとう心臓まで本当に止まっちゃった。でも大丈夫、悲しくなんかないわ。父の務めは娘の私が
一糸まとわぬ王陵 璃華子が語りかけながらシーツを剥ぎ取る。
その下からは目を見開いたまま絶命し横たわる
「素敵だと思わない? ドキドキするよね葦歌さん」
もちろん、彼女が返事をすることはない。
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夜も更けたとある郊外の洋館に、灯りが点っている。
このシビュラ社会において珍しく洋館然とした佇まいに負けることなく、部屋の中には暖炉、鹿の剥製など滅多にお目にかかれない代物が並ぶ。
その中で男が2人。
ひとりは客人だが、若い白髪の男。もうひとりはこの館の主である妙齢の男で、ショットガンを手入れしている。
こちらもこの時代には大変珍しい実銃だ。
「ユーストレス欠乏性脳梗塞。ま、公認の病名ではありません。原因不明の心不全という形で処理されている死因のおおかたは、実はこの症例に該当すると言われています」
「聞いたことがある。ストレスケアによる弊害だそうだが」
「かねてより適度なストレスは免疫活動を活性化させるなど、好ましい効果もあるとされてきた。所謂人生の張り合い〈生きがい〉と言い直しても良い」
暖炉の火が揺らめき、ぱちり、と火花を散らした。
「ところが、サイコパス診断が恒常化してしまった結果、ストレスの感覚が麻痺しすぎて刺激そのものを認識しなくなる患者が出てきた。こうなると、生ける屍も同然です。やがては自律神経そのものが自らの機能を見失い、生命活動を維持できなくなる」
「嘆かわしい限りだな。人は自らを労るあまり、生物としては寧ろ退化してしまったわけか」
白髪の男一一
自らの趣味を話すように。老人との対話を楽しむように。ただ自分の、知見を広げるために。
「実はね。これだけ医療体制が発展したにも関わらず、統計上の平均寿命は短くなる傾向にあるんですよ。まぁ決して公にはならないデータでしょうが」
「当然だな。この時代、生きがいと呼びうる物は全て枯れ果ててしまった。命の在り方を誰も真面目に語ろうとしなくなった」
「件の王陵 璃華子の父親もね。まさにその、ユーストレス欠乏症患者だったんです」
名を
ある時期に一世を風靡したイラストレーターである。
少女の肉体をモチーフに、残虐で生々しい悪夢を描き出す天才だった。
しかし本人は至って生真面目な
曰く『人間は心の暗部、内に秘めた残虐性を正しく認識することで、それを律する良識と理性、善意を培うことが出来る』と。
彼はそのための啓発として自らの創作活動を定義付けていた。
しかし、サイコパス判定の普及が彼の自認する役目を終わらせた。
人は自らを律するまでもなく、機械による計測で心の健康を保てるようになったからだ。
王陵 牢一はこのテクノロジーを歓迎したらしい。
方法はどうあれ、彼が理想とした人の心の健やかなる形は実現した。
その結果として、自らの使命が完了しその人生は無価値なものになったわけだが。
「驚きだな。芸術家というのは総じて俗物だと思っていたが」
「まぁ心には葛藤もあったでしょうが、牢一はその解消に、早速先端技術である各種のストレスケアを活用した。その依存ぶりは耽溺と言ってもいいほどだった、と娘の璃華子は語っています」
「その結果、ベッドから起き上がることもない生きた死体に成り果てたと」
「父を慕う娘からすれば、許し難い話でしょうね。王陵 牢一は二度殺された様なものです。まずは科学技術によって才能を殺され、そして社会によって魂を殺された」
「つまり、その少女の犯行の動機は父親の復讐、かね?!」
「さて、どうでしょう。願わくば…さらに向こう側の意義を見出して欲しいものですが」
しかし猟犬も、あの
いわばこれは、どちらが早く深淵に辿り着き、真実を目にするかの鬼ごっこなのだから。
紫蘭は王陵 璃華子を表現するに相応しい花である。
花言葉は〈あなたを忘れない〉〈変わらぬ愛〉〈美しい姿〉〈楽しい語らい〉。
対して彼女には、どんな花が似合うだろうか。