9 深淵
コンクリートの無機質な室内に戦闘音が響く。
身体のぶつかる音、服が風を切る音、荒い呼吸音、そして衝撃と鋭い声。
「くッ」
「踏み込みが甘い!」
場所は庁舎 居住区内
相対する狡噛と
元来の運動神経もあってか回避は悪くない。守備も及第点。しかし攻撃だけはまだ伸びしろしかなかった。
前回の八王子ドローン工場での一件以来、狡噛と葉風は時々こうして戦闘訓練をするようになっていた。
言い出したのは葉風だが、狡噛も特段何も言わずにそれを了承している。
それだけ双方にとって都合が良いという共通認識のお陰だろう。
攻撃を仕掛けた葉風の腕を取って勢いを利用し背負い投げる。
ぐるん、と視界が反転し彼女が床に激突した。
「……良くなっては来たが、まだまだだな」
素直に感想を述べると、葉風は少々複雑そうな顔をする。
大方「戦闘慣れしている狡噛さんのレベルにはまだ早いに決まってます」辺りの苦言を言いたげな顔だろうか。
「とりあえず狡噛さんの思考回路は把握しました。少し
「それは構わないが、引きずり込まれるなよ。俺じゃ元には戻せない」
「そうなったら待機を命じて
「それはそうなんだが」
訓練が終われば自然と話題はマキシマについて、となる。
1人よりは2人。
しかし相手は自分の痕跡をほとんど残さない相手だ。
葉風自身も、相手が何を考えているのかが分からないから何も見えていないと話す。
相手が直接的な行動に出る可能性がある以上、足手まといにならない為にも身体を鍛える必要があると考えたのは必然だった。
幸い狡噛の部屋には設備が揃っている。
それにマキシマの話をするにあたって、狡噛の部屋へすぐにアクセス出来るここは都合が良い。
「私はドローン工場の一件、マキシマが関わっていると思います」
「……どうしてそう思う」
「
そうだ。それが奴のやり方だ。自分の手を汚す、汚さないじゃない。
力を持たない人間に具体的な手段という暴力を与え、結果生み出される選択肢を与えている。その行く末で人を殺すなら、そいつは最初からそういう人間だったということだ。
マキシマは数多の犯罪を手引きしているに違いない。
だからこそ狡噛は葉風という力を味方につけたのだった。
「狡噛さん、もう1回」
貪欲なまでに強くなろうとする葉風が、いずれ狡噛の敵になることが無いとは言えない。それでも心強い味方であるうちは彼女を強くして共に戦って貰おう。
狡噛はそう考え、葉風の申し出を了承した。
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「葉風ちゃん、最近狡噛さんの所へ言ってるんでしょ?」
狡噛さんの部屋から自分の部屋へ庁舎内を移動し、家の扉を開けたところで椋羽ちゃんに図星を突かれた。
「う……行ってます…分かる?」
「そりゃ分かるよ。私が知ってる葉風ちゃんより確実に強くなってきてる」
本当は椋羽ちゃんを心配させない為にも事情は話すべきだ。しかし何故か、巻き込んではいけないとそう感じている。
狡噛さんの問題に首を突っ込んだのは私の勝手で、椋羽ちゃんはそれに何も聞かず、言わずとも着いてきてくれるだろう。
理由は言語化が出来ない。でもそれではダメな気がした。
ホログラムを使わない私たちの部屋はどこか狡噛さんの部屋に似てアナログでクラシック。今ここにいる現実こそが全てで、必要なものは自分で選べる。
お揃いのカップも、何度も淹れた紅茶も、ただ椋羽ちゃんがいてくれるだけでここに
「私ね、今すごくワクワクしてるんだ」
「……そっか。葉風ちゃんはそういう時にもっと無茶をするから、気をつけてね」
「うん」
妙に悲しそうな顔をする椋羽ちゃんの表情が気になりながらも、私はお揃いのティーカップに紅茶を注いだ。
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本日非番の彼は、油絵を描きながらも常守を快く部屋に入れる。
「狡噛のことが聞きたいのかい」
「…分かりますか」
「あんた、アイツと妙に縁があるからな」
常守は自分がどのように接すれば良いか未だに分かっていなかった。
もっと理解しろと言う人もいれば、同じ人間だと思うなと言う人もいた。
何より自分は葉風ちゃんよりも出遅れている。
最近は特にそう感じていた。
狡噛さんの懐に飛び込んで行った葉風ちゃんが、彼の信頼を得たのが分かった。
同じ監視官として、私ももっと上手く接することが出来るのではないか。そんな風に思ったのだ。
「犬は犬、飼い主は飼い主。その一線を踏み超えない関係がお嬢ちゃんにとって一番だと思うね」
「でも、葉風ちゃんは」
「狡噛を理解するってのはな」
征陸さんは常守の方へ視線は向けず、絵と向き合いながら答える。
「狡噛のように物を見て、狡噛のように考えるってことだ。それが出来るようになったとしたら、その時あんたのサイコパスは狡噛と同じ数字を叩き出していることだろうよ」
「葉風ちゃんは、違うんでしょうか」
「……深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。彼女はその深淵に属しているのさ」
だからあの娘は狡噛について行って尚、常人でいようとする。そう征陸さんは続けた。
「狡噛はな、闇を見つめすぎたんだ。そして今でもまだ見つめ続けている。アイツにとって世界でたった一つの〈正義〉ってやつはその闇の奥底にしか無いんだろう」
「では征陸さんにとって葉風ちゃんは〈普通〉ではない、と」
「普通の人間は死ぬことを怖がるもんだ。だが彼女は違う。あの娘は簡単に心の壁を越えてくる。そんな人間を〈普通〉と表現するのは違うだろうよ」
「心の、壁」
思い当たる節がないとは言えない。
足立区のエリアストレス上昇警報によって出動したあの日。葉風ちゃんは対象者の心理状態を理解していたように感じた。
それがどんな原理で成されたのか常守には分からない。
けれど征陸さんがそれを〈危険〉で〈普通〉ではないと判断したことだけは分かった。
「その正義をお嬢ちゃんも奴と一緒に探したいと思っているのなら、俺にはもう何も言えない。俺ぁあんたを止められないよ。コウの時もそうだった」
「それって」
常守が尋ねたところで腕のデバイスから通信が入った。
着信は
最後に征陸さんは私を呼び止め、告げた。
「お嬢ちゃんは普通でいい。そんな深淵に自ら飛び込む真似はしなくたっていいのさ。人は十人十色だからな」
その言葉は、今の常守には救いにも似た響きを持っていた。