引きこもりの俺、悪質自立支援施設から抜け出し本当の意味で自立してみせる。 作:ナッパー
絶望の底でクワを振り下ろし続けて3日が過ぎた。
腕の皮膚は擦り剥け、血と泥でぐちゃぐちゃになり、曲げ伸ばしすら激痛が走る。同室の少年とは、あれ以来一切の会話がない。彼は俺を視界に入れないようにし、俺もまた彼に近づかないようにしていた。
ここでは誰もが、己の保身という冷酷な盾を構えている。
優しさや同情なんて、自分を危険に晒すだけの毒でしかなかった。
そんな地獄の中で、そいつはあからさまに浮いていた。
「はぁ……はぁ……だ、誰か……水……」
午後の作業中、隣の区画から地響きのような唸り声と、ドスンという重い音が聞こえた。
見ると、作業着のボタンが弾け飛びそうなほどの巨体を丸め、一人の男が倒れ込んでいた。体重は軽く100キロを超えてるだろう。
丸刈りの頭から滝のような汗を流し、脂汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らしている。
「おいデブ! さっさと立て! サボってんじゃねえぞ!」
見回りの職員がすかさず駆け寄り、デブの背中をバンバンと足蹴にした。
「す、すみません……でも、お腹が減りすぎて、目が回って……」
「知るか! 自分の体重管理もできねえからそんな体になってんだろうが! 立ち上がれ!」
そのデブは、ひぃ、と短い悲鳴を上げ、豚のような悲鳴をあげながら必死に起き上がろうとしたが、肥満した体は自重に耐えかね、何度も泥の中に突っ伏した。
その姿は無様で、惨めで、誰の目から見ても滑稽な姿をしているだろう。
周りの寮生たちは関わり合いを恐れて目を背け、黙々と作業を続けている。
俺も、あの時の暴行の恐怖が蘇り、慌ててクワに手を伸ばした。
関わるな、助けたらまた殴られる……
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
————ぐぅぅぅぅ……。
倒れたデブの腹から、痛々しいほどの大きな虫の音が鳴り響いた。
その音を聞いた瞬間、俺の頭の中に昨日の夕食の光景が浮かんだ。
この施設の食事は、成人男性には到底足りない量の冷めた米と、汁物だけ。
あの巨体であの食生活を強制されれば、飢餓状態に陥るのも無理はない。
「……おい、立てるか」
気づけば、俺はクワを置いてデブ脇に手を差し伸べようとしていた。
自分でも正気とは思えなかった。
また連帯責任で殴られるかもしれない。
だけど、見知らぬ巨体が泥に塗れて震えている姿に、どうしても自分自身のと境遇が重なって見えてしまったんだ。
「え……?」
男が涙と泥で汚れた顔を上げた。
つぶらな目が、信じられないものを見るように見開かれる。
「あ、危ないよ……君まで殴られる……」
「いいから、早く掴まれ」
肉体労働で比例した身体の激痛をこらえ、死に物狂いでそいつの腕を引っ張った。
重たい……。
まるで岩を引き上げているようだったが、なんとか立ち上がらせることに成功した。
それを見た職員が忌々しそうに舌打ちをする。
「チッ……新入り、余計な世話焼いてねえで自分の仕事しろ。そいつに甘い顔すんな」
幸いにも、今日は職員の機嫌がそこまで悪くなかったのか、それ以上の追及はされずに済んだ。
その日の夜。
消灯前のわずかな自由時間、入浴を終えた俺が廊下の隅で痛む手を擦っていると、巨体が影を作った。
昼間のデブだ。彼は周りを警戒するようにコソコソと見回すと、俺の隣にドスンと腰を下ろした。
「……さっきは、ありがとう。僕、太一って言うんだ」
太一は、申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。
「……俺はあやうく巻き添えになるところだったんだぞ。二度と助けねぇからな」
素っ気なく返すと、太一は弱々しく眉を下げて笑った。
「ごめんね。でも、すごく嬉しかったんだ。ここに来てから、誰も僕のこと見てくれなかったから……みんな、僕が倒れても踏みつけていくような人ばかりだったから」
太一はそう言って、自身のパンパンに張ったお腹を擦る。
「僕ね、昔から食べるのが大好きでさ。親からもお前は食い意地が張った豚だって呆れられて……気づいたら騙されてここに放り込まれてたんだ。街にいた頃は、工業高校で機械いじりばっかりしてて、友達もいなくて……」
ぽつり、ぽつりと語られる彼の身の上話は、どこか俺の引きこもり生活と似通っていた。
家族からも……外の社会から弾き出されて、家族にさえ見捨てられた存在……多少、環境や境遇は違えど、俺たちは二人とも不要品として、この世の果てに捨てられたんだ。
胸の奥が、痛いくらいに激しく締め付けられた。
薄暗い部屋のモニター越しに輝く妹の姿。
俺を見知らぬ風景として冷ややかに見捨てて去っていったあの一瞥。
親が業者に高額な金を握らせ、俺を部屋から引きずり出させたあの冷酷な決断。
それと、太一が実の親から食い意地が張った豚と吐き捨てられ、騙されてこの山奥へ叩き込まれた絶望。
そこに何の違いがあるだろう? 俺たちは、一番愛してほしかった家族から要らないもののレッテルを貼られ、この世の掃き溜めみたいな施設にに不法投棄された人間だった。
悔しさと、惨めさと、どうしようもない激痛が、一気に喉の奥まで込み上げてくる。
強く噛み締めた唇の端から、鉄の味がした。
その横で、太一は涙と泥で汚れた顔を拭おうともせず、ポロポロと大粒の涙をこぼし続けた。
「……本当はさ、ただ……『おかわり』って言いたかっただけなんだ。『たくさん食べて偉いね』って、お母さんに笑ってほしかっただけなんだよ……」
100キロを超える大きな体を丸めて、声を殺して泣く太一。
その無垢で、あまりにも哀れな叫びが、俺の胸を何度も何度も鋭く突き刺した。
ここには救いなんてない。
誰に助けを求めても届かない。
世界中から見捨てられたこの地獄の暗闇で、でも――目の前に、俺と同じ痛みを抱えた奴がいた。
太一は鼻をすする音を響かせながら、作業着のポケットから慎重に何かを取り出した。
それは、潰れてすっかり形が崩れた小さな乾パンだった。
昼食の時に密かに隠し持っていたものだろう。
ここでの乾パン一粒は、命を繋ぐ金以上の価値がある。
それを震える手で俺の方へ差し出し、太一は途切れ途切れの声で言葉を紡いだ。
「あのね……僕、生まれてからずっと、友達がいなかったんだ。機械いじりばかりしてて、暗くて、こんな体型だし……親にも気持ち悪がられてさ……」
つぶらな瞳から、次から次へと溢れ落ちる涙。
「でも、君は……今日、僕のために声をかけてくれた。自分だって辛いはずなのに、巻き込まれるかもしれないのに、助けようとしてくれた……。だから……だからさ……」
太一は唇を噛み締め、消え入りそうな、けれど必死な声で言った。
「僕と……僕と、友達になってくれないかな……? こんな僕だけど……君の友達になりたいんだ……!」
差し出された手。
潰れた乾パンを大事そうに握りしめた、泥と汗で汚れた太い手。
俺がこいつを助けた理由なんて、正直自分でもよく分かっていない。
ただ、脊髄反射で、咄嗟に動いただけだ。
もし、職員の機嫌が悪かったら、反抗的な態度と見なされて俺が殴られていてもおかしくなかっただろう。
ぶっちゃけ、これ以上関わり合いになるのも御免だと言う感情もある。
だがこいつは……家族にさえ不要品として捨てられ、誰からも必要とされなくなった俺に、こいつは友達になってほしいなんて乞うてくれたんだ。
自分自身だって絶望の淵にいるというのに、俺という存在を、心から認めてくれたのだ。
喉の奥が、熱い塊で塞がりそうになる。
さっきまで胸を支配していた冷たい絶望の中に、ぽっと小さな灯火がともるような感覚だった。
俺は作業着の袖で目元を乱暴に拭うと、その太い手から、差し出された乾パンを勢いよく受け取った。
「……『なってくれないか』なんて言うんじゃねぇよ」
「え……?」
「もう……とっくになってるだろ。俺たち」
太一の丸い顔に、涙と泥に塗れながらも、くしゃりと弾けるような笑顔が広がった。
「うん……! うん……! 友達だ……!」
差し出された乾パンを半分に割って、二人で口に放り込む。
パサパサとして素朴なその味は、冷え切った心にじんわりと染み渡っていった。
先のことなんて何も分からない。
この先どんな理不尽が待っているのかも分からない。
けれど、冷たく暗いタコ部屋の中で固く握り合った手の温もりだけが、確かに俺たちに一人じゃないという小さな救いを与えてくれていた。
「俺は鈴山千尋って言うんだ……よろしくな太一」
俺は、生まれて初めて……友達が出来たんだ。