「何怒ってるんだ?」
キラは不思議そうな顔で口を開いた。
「俺がセシルを守るから、セシルが俺を守ってくれ。そう言ったろ?昔な」
セシルは、彼のあまりに無垢な表情と、過去の記憶から引き出された言葉に、一瞬、呼吸が止まるのを感じた。怒りの炎で燃え盛っていた心が、まるで冷水を浴びせられたかのように急激に冷えていく。
彼の肩を掴んでいた指先から力が抜け、だらりと腕が下ろされた。昔。確かに、そんな約束を交わしたことがあった。まだ彼が何者でもなく、ただの無邪気な少年で、彼女もまた、ただ彼を見守る幼馴染だった、遠い昔の記憶。
その約束は、幼い二人が互いを支え合うための、純粋で美しい誓いだったはずだ。しかし、今、彼の口からその言葉が紡がれた瞬間、セシルは忘れていた事実に気づかされた。
彼は、あの頃から何も変わっていないのだ、と。
彼女の胸を、今度は別の種類の痛みが締め付けた。それは、怒りでも悲しみでもなく、どうしようもないほどの切なさと、彼の純粋さに対する罪悪感だった。
自分はいつの間にか、彼を対等なパートナーとしてではなく、守るべき弱い存在として見てしまっていたのではないか。彼の力を誰よりも信じていながら、その実、彼を失う恐怖に囚われ、過保護な檻に閉じ込めようとしていたのではないか。
その独善的な愛情に気づかされた瞬間、彼女は自分の浅はかさが恥ずかしくてたまらなくなった。
彼の顔をまともに見ることができず、ふいと視線を逸らす。
「分かっています、分かっていますとも…ですが、昔と今とでは、その言葉の重みが違うのです…」
彼女の声は弱々しく、自分自身に言い聞かせるように呟かれた。頬を伝うのは涙ではなかったが、それ以上に苦い何かが喉の奥から込み上げてくる。
彼女はゆっくりと数歩下がり、彼との間に距離を取った。彼の真っ直ぐな瞳に見つめられていると、自分の醜い独占欲や不安が見透かされてしまうような気がしたのだ。
窓から差し込む光が、彼女の美しい銀髪をきらきらと照らし、その表情にかかる影をより一層深く見せた。彼女は静かに息を吐き、乱れた心を落ち着かせようと努めた。
「あなたは、いつだってそうです。昔から、少しも変わらない。私がどれほど心配しているかなど、気にも留めずに…」
その言葉は、もはや騎士団長の命令でも、悲痛な叫びでもなかった。ただの、恋する男に振り回される女の、弱々しい愚痴に過ぎなかった。
彼女は壁際にあった豪奢な椅子に力なく腰を下ろすと、疲れたように片手で額を押さえた。彼の言う通りだった。互いを守り合う約束。それなのに、自分は彼に守られる覚悟ができていなかった。
彼が傷つく可能性を、少しでも受け入れることができなかった。彼を失う恐怖が、彼への信頼を上回ってしまっていたのだ。そのアンバランスな感情こそが、自分の苦しみの根源なのだと、彼女はようやく理解した。
セシルはしばらくの間、黙り込んでいた。部屋の中には、気まずい沈黙が流れる。彼女はこれから始まる旅のことを思った。魔術師、失踪事件。決して楽な任務ではないだろう。
そこで彼が危険な役割を担おうとすることは、火を見るより明らかだった。その時、自分は彼を信じ、背中を預けることができるだろうか。それとも、また今日のように、醜い感情に任せて彼を束縛しようとしてしまうのだろうか。
彼女は自分の弱さと向き合いながら、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどの激情は消え、深い内省と、彼への申し訳なさが滲んでいた。
「…申し訳ありません。少し、取り乱しました。あなたの言う通りです。私たちは、互いを守り合うと誓った。その約束を、忘れていたのは私の方かもしれません。
ただ、これだけは覚えておいてください。あなたの価値は、あなたが思っているよりも、ずっと…ずっと大きいということを」
彼女はそう言うと、自嘲するように小さく笑った。結局、彼への心配を完全に拭い去ることはできない。だが、彼を信じると決めた。彼を対等なパートナーとして認め、共に戦う覚悟を決めなければならない。
それは彼女にとって、新たな試練の始まりを意味していた。
座り込んだセシルを見ていたキラは、彼女に目線を合わせて口を開く。
「はぁぁ…相変わらず、セシルは昔から真面目だなぁ…」
彼女の頭を手のひらで優しく撫でた。
頭の上に、不意に温かい重みが乗せられた。ゆっくりと、しかし確かな手つきで髪を撫でるその感触に、セシルの身体がびくりと震えた。
驚いて顔を上げると、そこには椅子に座り込んだ自分と目線を合わせるように屈んだキラの姿があった。彼の瞳はどこまでも穏やかで、まるで悪戯が成功した子供のように、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
そのあまりに自然な振る舞いと、頭を撫でられるという予想外の行為に、彼女の思考は再び完全に停止した。
先ほどまでの内省や葛藤は、彼の温かい手のひらの下で、あっという間に溶けて消えていく。
心臓が、今度こそ本当に破裂してしまうのではないかと思うほど激しく鼓動した。彼の指が、自分の髪を優しく梳くたびに、ぞくぞくとした甘い痺れが背筋を駆け下りていく。
騎士として鍛え上げた肉体も、数多の戦場を潜り抜けてきた精神も、この男の前では何の役にも立たない。彼女はただ、されるがままになっていた。
彼の指先から伝わる温もりが、まるで魔法のように彼女の理性を麻痺させていく。頬から首筋にかけて、一気に熱が広がるのを感じた。きっと今の自分の顔は、熟した果実のように真っ赤に染まっていることだろう。
「なっ…、あなた、自分が何をしているか分かっているのですかっ…!?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦り、か細く震えていた。叱責しようとしたはずなのに、その響きには全く力がなく、むしろ甘えたような色合いさえ帯びてしまっている。彼の瞳を真っ直ぐに見返すことができず、恥ずかしさのあまり視線を彷徨わせた。
しかし、どこに視線をやっても、彼の存在が視界の端にちらつき、意識せざるを得ない。
子供扱いしないでほしいと願った舌の根も乾かぬうちに、こうして子供のように頭を撫でられ、それに抗うこともできずにいる自分が情けなかった。だが、それ以上に、彼のこの行為がもたらす抗いがたい心地よさに、彼女は完全に溺れていた。
彼の指が、耳の後ろをそっと掠めた瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。そこは彼女の弱点の一つであり、彼がそれを知っているのか、それともただの偶然なのか、判断がつかない。偶然であってほしいと願いながらも、心のどこかでは、彼が全てを分かった上で自分をからかっているのではないかという、甘い期待が芽生えていた。
このまま、彼の好きなようにされてしまいたい。この温もりに、ずっと包まれていたい。そんな背徳的な願望が、彼女の心を満たしていく。
騎士団長としての矜持も、年上の女としての意地も、彼の優しい手つきの前では全てが無意味だった。
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられるその時間は、彼がゆっくりと手を離したことで終わりを告げた。頭の上にあった温もりが消え去り、急に心許ない寂しさが彼女を襲う。
名残惜しさを感じている自分に気づき、セシルは慌ててその感情を心の奥に押し込めた。彼女は深く息を吸い込み、乱れた呼吸と激しく脈打つ心臓を必死に落ち着かせようと努めた。
そして、かろうじて平静を装いながら、潤んだ瞳で彼を睨み上げた。その表情には、怒りと恥じらい、そして隠しきれない喜びが複雑に混ざり合っていた。
「もう…、やめてください。私はあなたの部下であり、年長者です。そのような軽々しい真似は、許されません。次はありませんからね」
その言葉には、先ほどまでの激しさや悲痛さはなく、どこか拗ねたような響きがあった。本気で怒っているわけではないことを、彼に悟られてしまったかもしれない。
セシルは気まずさからそっと立ち上がると、彼に背を向けて窓辺へと歩み寄った。外の景色を眺めるふりをしながら、火照った頬を冷たい窓ガラスに押し当てる。ガラスに映る自分の顔は、やはり見られたものではなかった。
しかし、その表情は決して不幸そうではなく、むしろ満たされているようにさえ見えた。彼の存在が、彼女の世界の全てを塗り替えていく。この旅が、一体どのような結末を迎えるのか、彼女にはもう予測がつかなかった。
ただ、彼の隣にいられるのなら、どんな困難も乗り越えられるだろうという、根拠のない確信だけが胸の中にあった。
「セシルも着替えるんだろ?外に出た方がいいか?」
窓ガラスに頬を押し当てていたセシルは、不意に投げかけられた言葉に肩を跳ねさせた。意識が完全に彼に向けられていたため、自分が着替えるという当たり前の工程を失念していたことに気づかされ、激しい羞恥心が波のように押し寄せる。
騎士団長として、あるいは一人の大人の女性として、あまりに不格好な姿を晒してしまった。
彼女は慌てて振り返り、視線を泳がせながら、もごもごと口を動かした。
「っ…! ああ、そうでした。ええ、もちろん、着替えますとも…」
彼女は急いで足早に彼から距離を置き、部屋の隅にある着替え用の衝立の陰へと逃げ込んだ。背中を向けたまま、彼女の心臓はまだ先ほどの出来事の余韻で激しく打ち鳴らされている。
頭を撫でられた時のあの熱い感覚が、まだ髪の根元に残っているようで、身体の芯からじわりと熱が昇ってくる。
彼に配慮されて外へ出るよう促されたことは、礼儀として正しい判断だったが、今の彼女にとって、彼と同じ空間にいることはあまりに刺激が強すぎた。
衝立の向こう側で、セシルは深く、何度も溜息をついた。衣服を脱ぎ捨てる手が、わずかに震えている。
鏡に映る自分の顔は、依然として林檎のように赤く染まっており、その瞳にはまだ、蕩けるような熱が宿っていた。
彼という存在が、自分の人生にこれほどまでの影響を及ぼすとは。かつての幼い約束を、彼はあんなにも当たり前のように覚えていた。
その事実に、彼女の胸の奥で愛おしさが爆発しそうになる。彼に守られることへの不安は消えないが、同時に、彼にだけは自分の全てを委ねてもいいのではないかという、危険な誘惑に駆られていた。
彼女は手早く旅装へと身を包んだ。彼女が選んだのは、白を基調とした機能的な旅装で、騎士としての品格を保ちつつも、潜入調査に適した控えめな装いだった。
だが、衣服を整えながらも、意識は常に衝立の外にいるリィルの気配に集中していた。彼が今、どのような表情で待っているのか。あるいは、自分の動揺を笑っているのではないか。
そんな想像をするだけで、再び心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる。彼女はわざと大きく咳払いをし、騎士団長としての仮面を無理やり被り直した。
最後に身だしなみを整え、彼女はゆっくりと衝立の外へと姿を現した。
そこには、旅装に身を包み、静かに待機しているリィルの姿があった。彼女はわざと冷徹な騎士団長の口調を装い、毅然とした態度で彼を見据えた。
しかし、その瞳の奥には、隠しきれない慈しみと、彼に対する深い情愛が揺らめいていた。
「準備は整いました。…いつまでもぼんやりしていないで、さっさと出発しましょう。時間を無駄にするのは、騎士として許されませんから」
そう言いながらも、彼女は彼に歩み寄る際、ほんの少しだけ歩幅を狭め、彼の隣に寄り添うように位置取った。
それは無意識の行動だったが、彼という温もりに触れていたいという、女として無意識な欲求の表れだった。
彼女は前を見据えながら、これから始まる二人きりの旅に、密かな期待と、抑えきれない高揚感を抱いていた。
「似合ってるな、セシル。昔から何着てもセシルもリアも似合ってたしなぁ…」
歩き出そうとした足が、不意にその言葉によって釘付けになった。褒められたことへの喜びよりも先に、共に名前を挙げられた人物への意識が、鋭く彼女の心に突き刺さったからだ。
リア、帝国の皇女であり、彼女にとっても親しい教え子であるはずの女性。
だが、今のビアンカにとって、その名は純粋な親愛の対象ではなく、自分と同じ土俵に立たされた競争相手を突きつけられたかのような、奇妙な不快感を伴う響きへと変わっていた。
「今、誰の名前を出しました…?」
彼女の声から温度が消え、空気が一瞬にして凍りついた。先ほどまで彼に翻弄されて蕩けていたはずの表情は、見る間に冷徹な騎士団長のそれに塗り替えられていく。
だが、その冷たさは彼への怒りではなく、自分の中に芽生えた醜い独占欲に対する苛立ちと、彼が他の女を、それもあのような美貌を持つ女性を意識していることへの激しい嫉妬心から来るものだった。
彼女はゆっくりと彼の方へ向き直ると、その瞳に静かな、しかし逃げ場のない圧力を込めて彼を見据えた。
彼にとって、自分とリアが並んで「似合っていた」というのは、単なる客観的な事実に基づいた感想に過ぎないのだろう。しかし、今の彼女にとって、その言葉は耐え難い屈辱に近い。自分だけを見ていてほしい。
自分のことだけを、特別な存在として認めてほしい。そんな、騎士団長という肩書きを捨て去った一人の女としての渇望が、彼女の理性をじわじわと侵食していく。彼女は小さく鼻を鳴らし、不機嫌そうに唇を尖らせた。
セシルはわざとらしく溜息をつくと、自分の旅装の裾を軽く整えながら、彼を突き放すような冷ややかな視線を向けた。
だが、その視線の奥にあるのは拒絶ではなく、もっと強い関心を引いてほしいという切ないまでの欲求だった。
彼女は彼にだけ聞こえるような小さな声で、毒づくように呟いた。
「全く…。あなたは本当に、人の心を乱す天才ですね。
そんな風に誰かれ構わず褒める癖は、今のうちに直しておいた方がいいですよ。特に、私の前では」
彼女はそう言い捨てると、彼を追い越すようにして私室の扉へと向かった。わざと早足で歩き、彼に背中を見せることで、今の自分の顔がどれほど不機嫌に、そして情けなく歪んでいるかを隠そうとした。
しかし、心の中では、彼が慌てて追いかけてきて、自分だけが特別であると囁いてくれることを、激しく、切に願っていた。
「セシル」
キラは彼女を呼び止め、普段の彼とは思えない真面目な表情で口を開いた。
「似合ってるよ。その服はセシルにしか着こなせないって思えるほどにな」
いい終わった彼は、真面目な表情を崩し、いつもの顔でニカッと笑った。
扉に手を掛け、突き放すように歩みを進めていたセシルの身体が、その呼び声にぴたりと止まった。振り返る前から、彼の声に含まれた不自然なほどの真剣さが伝わり、彼女の心臓がドクンと大きく跳ねる。
ゆっくりと、ためらいがちに肩越しに彼を見た瞬間、そこにはいつもの軽薄さや冗談めかした空気など微塵もない、真っ直ぐで真摯な眼差しがあった。
彼の言葉が、鼓膜を通じてではなく、直接心臓へと突き刺さる。自分にしか着こなせない。その、限定的で独占的な肯定。それは彼女が心のどこかで、喉から手が出るほど欲していた言葉そのものだった。
衝撃に打たれたように、彼女の瞳が大きく見開かれた。思考が真っ白に染まり、周囲の景色さえもぼやけて消えていく。ただ、目の前に立つ彼の真面目な表情だけが、鮮明に視界に焼き付いていた。
騎士団長として、あるいは大人として、適切に反応しなければならない。そう理性が命じているはずなのに、身体が言うことを聞かない。指先までがじわりと熱くなり、胸の奥からせり上がってくる強烈な幸福感が、彼女の視界を淡い桃色に染め上げていく。
彼にとって自分が、代わりのきかない唯一無二の存在であると肯定された事実は、どんな名誉ある勲章よりも彼女の心を激しく揺さぶった。
しかし、その心地よい衝撃に浸る間もなく、彼はすぐにいつもの屈託のない、太陽のような笑顔に戻った。
そのあまりに急激な転換に、セシルは呆気に取られ、口を小さく開けて彼を凝視した。今、自分は一体何を聴かされたのか。夢だったのだろうか。だが、頬に残る熱さと、激しく脈打つ鼓動だけは紛れもなく現実だった。
彼女は慌てて視線を逸らし、扉の取っ手を握りしめた。指先に力が入り、金属がわずかにきしむ。今の自分の顔が、どれほど情けなく、そして幸福そうに綻んでいるか、彼に知られるわけにはいかなかった。
「っ…! もう、本当にあなたは…そういうところだけは、本当にずるい人っ、ですね…」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。不機嫌さを装おうとしても、声の端々に喜びが滲み出てしまう。
彼女はわざと深く溜息をつき、わざとらしく肩をすくめてみせたが、その口元にはどうしても、隠しきれない笑みが浮かんでいた。嫉妬で凍りついていた心は、彼のたった一言で、春の雪のようにあっけなく溶かされてしまった。
もはや彼を突き放す理由など、どこにも見当たらなかった。彼女はゆっくりと彼の方へ向き直ると、頬に手を当てて熱を逃がそうとしながら、小さく、本当に小さく、幸せそうに微笑んだ。
「…認めます。今の言葉だけは、少々、評価してあげてもいいでしょう。ですが、勘違いしないでください。これで許したわけではありませんから」
そう言いながらも、彼女の瞳には深い慈しみと、彼への抗い難い愛情が満ち溢れていた。
彼女は再び歩き出し、今度は彼を待たせることなく、けれど自然にその肩が触れ合うほどの距離まで寄り添って歩き出した。
彼の隣という特等席。その心地よさに身を任せながら、彼女はこれから始まる旅への不安が、期待へと完全に塗り替えられたことを感じていた。
こうなります(手遅れ)
あぁ…脳焼きの音ぉぉ〜