火山の異変-1
絶え間なく吐き出される火山灰が、春空を覆いつくしている。時折厚い降灰の隙間を縫って、か細い陽光が差し込むと、上空を乱舞するエアームドの装甲が照らされ、航空機の衝突防止灯のように点滅して見えた。
ハードマウンテンを望む一帯は今日も変わらず硫黄の匂いが鼻孔を塞ぎ、肌を焦がす熱気に満ちている。
ポケモントレーナーのコウキは、左手首のポケッチに目を落とした。辺りは早暁のように薄暗いが、すでに午前七時を回っている。早々に目的を果たせば日没までに下山できるが、長引く可能性を考慮し野営の支度も整えてあった。
それにしても重い。キャンプ道具を満載したザックのベルトが両肩に食い込み、背負った瞬間、思わず顔を顰めた。
山道を進む足取りも頼りなく、登り始めて一時間もしないうちに息が上がってくる。旅を終え安定した生活を送るうちに、すっかり体が鈍っていた。隣を歩くゴウカザルが鋭い視線を周囲に配りつつ、時折、心配そうにこちらを振り向く。ポケモンに手荷物を運ばせることもできたが、今は彼に余計な斤量を課したくなかった。
「……悪いね。僕は大丈夫だから」
本当かよ、と言いたげな顔をされたが、今は警戒に専念させるべきだ。しかしこのザマでは、何時間も歩き回った上に野宿などすれば体を痛めかねない。コウキは手がかりを午前のうちに掴み、さっさと引き上げる決意を固めた。
今日連れているポケモンには、数日かけて地理を教え込んである。ゴウカザルはコウキのペースに合わせ、やや遅めのペースで先導してくれる。
彼の白い首元でシルバーのアクセサリーが、鈍い光を放っている。『やすらぎのすず』と呼ばれる小さな鈴で、激しいバトルの中でも破損しないよう特殊な樹脂で覆い、細めのチェーンを通したものである。ヒコザルの頃はなかなかの存在感だったが、ゴウカザルまで成長した今は相対的に小さく見える。振ると涼し気な音色を聞かせてくれるが、戦闘の役には立たない。無意味な音は、隠密行動の妨げになる。樹脂でコーティングしたのは、そのボリュームを抑える目的もあった。なぜこれほどの労力をかけてまで、この鈴を持たせているのか訊かれると、コウキはその都度適当な理由をでっちあげ、本当の理由は決して語らなかった。
ハードマウンテンに異変が生じたのは、二ヶ月ほど前のことだった。修行に訪れたトレーナーが野生ポケモンの大群に襲撃され、多勢に無勢の苦境に立たされた挙句、あわや命を落としかけたのである。偶然通りかかった別のトレーナーが加勢していなければ、手持ち諸共八つ裂きにされていただろう。
麓で一報を受けたポケモンレンジャー達は、稀に見る重大インシデントに騒然となり、即日調査を開始した。ところが調査の最中にも入山者の負傷が相次ぎ原因究明どころではなく、無傷のトレーナー達に早急な下山を促し、身動きの取れない重傷者の捜索と搬送を終えた時点で、司令部は二次災害の危険性を考慮し全ての隊員を撤退させていた。
最初の事故が起きてから、ハードマウンテンではポケモンの狂暴化のみならず、地震やマグマの爆発の頻度が増加し明確な噴火の兆候を見せている。これらの原因を突き止めるには、火山活動を左右する謎のアーティファクト『火山の置石』と、それを守護するヒードランの様子を確認するのが先決である。そのために、今日は火山の最奥部まで踏み込む必要があった。
降灰に塗れながら山道を二時間ほど歩くと、火山内部に広がる広大な洞窟への入口が、山の中腹でぽっかりと口を開けているのが見えてきた。
「ビビるなって! ポケモンを出すんだ」
入口の手前で岩に腰をおろし一息ついていると、突然男の怒声が響き、コウキはぎくりと身を強張らせた。立ち上がって耳を澄ますと、洞窟内からポケモンの唸り声と人間の悲鳴とが入り混じる、緊迫した音声が届いてくる。
無許可での入山・入洞が規制されていることは、サバイバルエリアに住む友人のバクから伝え聞いていた。
一連の騒動を受け、ポケモンレンジャー本部は、やむを得ない事情がない限り入山を禁ずる旨を告知していた。今のところ、この規制が解除される目処は立っていない。今朝がた挨拶した隊員も、一般のトレーナーに立ち入りの許可は一切出していないと明言していたはずだ。
単独では危険すぎると護衛を申し出る者もいたが、コウキは丁重に辞退していた。一人のほうが気兼ねなく戦えるし、余計な負傷者を出せば、リーグスタッフ達の反対を押し切って、自ら足を運んだ意味がない。とはいえ屈強なレンジャー隊員の手を借りていれば、荷物が肩に食い込む不快感はずいぶん軽減していたはずで、その点ではやや後悔が残る。
洞窟を覗き込むと、入ってすぐの広間の中心で、一組の若い男女が身を寄せ合い、その周囲をサイドンやゴローンなどが取り囲んでいるのが見えた。ポケモン達はいずれも両目が血走り荒んだ面構えである。
思えばコウキが入山してから、ここまで野生ポケモンの姿を殆ど見かけなかった。早々に襲われるものと思いきや接敵は皆無で、あまりの静けさに首を傾げたほどだった。
どうも野生ポケモン達は、この先客に誘引されていたらしい。コウキが遠目に様子を見ている間にも、新手が続々と姿を現していた。
「何やってんだ、早く!」
恐怖に吞まれたのか、動こうとしない女の手から男がボールを毟り取り、強引にポケモンを繰り出していく。
「頼むぞハスボー、ビッパ!」
コウキは一目で無理だと読んだ。二頭はまだ幼い上に端から闘争心がなく、トレーナーを守るどころか、怯えて男の足元に縋りつく有様である。
「おい、前に出ろよ!」
男は焦るが、右手に握りしめた黒い自撮り棒だけは離そうとしない。
『通報しました』
『もう手遅れ』
『画面録画しとこ』
『バズってて笑った』
現状をライブ配信しているらしく、自撮り棒の先端に取り付けられたスマートフォンが、対岸の火事を愉しむ視聴者のコメントを、無機質な音声で淡々と読み上げている。
よく見ると男はスカタンクの尻尾のような髪こそ奇妙だが、顔の彫りが深く筋肉質な体型をしているので、ルックスは悪くない。女のほうも、熱気と恐怖によって噴き出た脂汗で化粧が見苦しく崩れてはいるが、目が大きく顔立ちそのものは整っている。おそらく一部界隈ではそれなりに人気のある、カップル系配信者か何かなのだろう。
「お前のタイプならいけるだろ! なんとかしろよ!」
男が唾を飛ばして叫び、力ずくで前線に送り出されたハスボーは、たちまち横から飛び出してきたサイホーンに弾き飛ばされ宙を舞い、壁にぶち当たると、地面に転がりぴくりとも動かなくなる。続けざまにビッパがサイドンに蹴り飛ばされ、洞窟の奥まで吹き飛び見えなくなった。
女が悲鳴を上げ、男が顔面蒼白となり、コメント欄が加速する。
『お前がなんとかしろや』
『かわいそう』
『大好きクラブに訴えます』
『さっさと死んでこい』
「……行こう、ゴウカザル」
コウキが呟くと、ゴウカザルが待ってましたとばかりに洞窟へ突入し、微塵の躊躇もなく野生ポケモンの群れに踊り込むと、瞬く間に数頭のサイドンを殴り倒した。あんぐりと大口を開け言葉もない男女の前で、拳が唸りを上げ、当たるを幸い一気呵成に薙ぎ払う。
奇襲を受けた野生ポケモンの中には狂奔する者もいたが、大半は踏みとどまり迎え撃つ意思を見せた。その一部がコウキの気配を嗅ぎ付けたらしく、ゴローンやゴルバットなどが喚声を上げ、洞窟の出入り口に殺到してくる。
即座に腰のモンスターボールからサーナイトが飛び出し、スカート状の器官を翻しながら優雅に進み出て、コウキを背に庇った。細い体が若紫色に発光したと思うと、先陣を切って転がり込んでくるゴローンの勢いがサイコパワーで相殺され、車のブレーキを踏み抜いたように急停止する。そのまま100kgを超える巨体を宙に浮かび上がらせ、後続のポケモンを狙って砲弾のように発射すると、ゴルバットとマタドガスが次々に撃墜され、地面で折り重なって失神した。
その向こうでは、十頭を超えるサイドンとサイホーンが倒れている。野生に生きる者に特有の、無骨な蛮勇を振るったポケモンたちは、寸分違わず急所を打ち抜く正確無比の早業になす術もなく、白目を剥き地に伏せたのだった。
二頭の働きにより、野生ポケモン達の顔に怯えの色が濃く差したとき、ゴウカザルが雄叫びを上げると張り詰めた糸が切れたのか、たちまち押し合い逃げていく。狂暴化といっても、彼我の力の差を感じ取る知性まで手放したわけではないらしい。
わずか一分余りで、洞窟内は先ほどまでの喧噪が嘘のように静まり返った。
コウキは左右を固めるゴウカザルとサーナイトを従え、洞窟の隅でへたり込んでいる男女に歩み寄った。男のほうは相変わらず自撮り棒を握り、スマホのカメラをこちらに向けている。
「怪我はありませんか」
コウキの喉から、自分でも驚くほど低い声が出た。言葉とは裏腹に冷たい一瞥を向けると、男女は野生ポケモンに囲まれていたとき以上に震え上がった。
コウキは少年ながら、短い半生を通じて数多の修羅場を潜ったために、余人を近づけない張り詰めた雰囲気が全身から漂っている。
女は脚に力が入らず、立ち上がることはおろか口もきけない有様だが、男のほうは生来鈍い性質なのか、ヘラヘラとした笑みを口元に浮かべて立ち上がった。
「は、はい……どうも、助けて頂いて」
「あなた達が、ではなくて。あなた達のポケモンが、です」
コウキがぴしゃりと言うと、男がはっとして、意識のないハスボーとビッパに駆け寄ったが、手当ての仕方を知らないのか自撮り棒を握りしめたまま右往左往している。
「どいてください」
焦れたコウキは男を下がらせ、自ら診ることにした。その間にも男は興味深げにカメラを向けてくるので、さすがに不快の念を覚えるが、今はポケモンの介抱が優先だ。
二頭が受けたのは技とも言えない軽い当て身だが、小さな体には、当たりどころ次第で致命傷になり得る。コウキはハスボーとビッパを仰向けに寝かせ、慎重な手つきで体を探ってみると、恐怖で失神しているだけで、骨折や内臓破裂といった重大な怪我はないようだ。一安心してリュックサックから飲料水の容器を取り出し、痣になりかけている箇所を軽く洗い流してから、スプレー式の傷薬を吹きかけてやった。
「大丈夫だとは思いますが、念のために今すぐ山を下りて、ポケモンセンターに連れて行ってあげてください」
コウキは立ち上がり、男のほうを見もせず言った。
「は、はい!」
男は壊れたおもちゃのように何度も頷く。
「僕のサーナイトに送らせます。この子は麓までのルートを覚えていますから、くれぐれも離れないでください」
「分かりました……」
横で聞いていたサーナイトは、危険地帯のど真ん中で主の傍を離れることに渋い顔をしたが、君にしかできないことだからと重ねて告げると、逡巡した後、仕方なくといった様子で一礼した。
コウキはサーナイトの頭を撫でながら、腰のホルスターからトランシーバーを抜き、応答したレンジャーに事情を伝え男女を迎えるよう依頼しておく。先の出動において、決死の働きで一人の死者も出さなかったレンジャー達にしてみれば、無断でハードマウンテンに入り込んだ二人の行為は、彼らの努力を無駄にしかねない暴挙もいいところであるが、通信相手は一も二もなく保護を引き受けてくれた。
「山を下りるときは、配信とかは一切やめて歩くことに集中してくださいね。足元は冷えた溶岩ですから、転んだら大怪我をしますよ。まして、そんな露出の多い服装ではね」
コウキはトランシーバーの電源を切り、男女に向き直った。
「え……でも」
男が何か言いかけたが、口答えは許さない。
「でなければ、安全は保証できません」
煮え立つ苛立ちを隠し通せるほど、コウキはまだ大人ではなかった。
「僕のサーナイトは何が何でも、お二人を生きて山から下ろします。この子はそのために最善を尽くしますから、あなた方が足元に気を付けていないと思ったらスマホを取り上げるか、あるいは……もっと過激なことをするかもしれません。この子にしてみれば、お二人が生きてさえいればいいんですから」
サーナイトはコウキの感情を敏感に受信し、二人をじっと睨みつけている。手持ちで紅一点の彼女は、コウキの指示に最も忠実と言っても良かった。二人を送り届けろと言われれば、どんな手を使ってでも、きっとやり遂げてくれる。そのためなら、この二人が素直に従わないと見れば、力ずくでも言うことを聞かせるはずだ。それこそ骨の一本ぐらいは平気でへし折り身動きを封じた上で、サイコパワーで荷物のように運搬する……なんてことも、本当にやりかねない。むろん野生ポケモンなどには指一本触れさせないだろうから、その点は安心である。
「いいですね?」
「わかりました!」
コウキが念を押し、サーナイトから冷たい視線をたっぷりと浴びた男は冷や汗を流し、慌ただしく自撮り棒を引っ込めスマホをジーンズのポケットに捩じ込んだ。
「そちらの女性は歩けそうですか? 歩けなければ……」
「歩けます! 歩けますから!」
男が女の腕を掴み、力任せに立ち上がらせる。見ると、失禁したらしくハーフパンツの股が濡れているが、目立った怪我はなさそうだった。
「それじゃ、僕たちは調査を続けるので。サーナイト、麓でレンジャーさん達が待ってるから、後はよろしくね」
コウキが声をかけるとサーナイトは再び一礼し、ゴウカザルに一瞥をくれた。その目はコウキにかすり傷ひとつでも付けたら許さないと重ったるい釘を刺していたが、ゴウカザルは鼻で笑って相手にしない。いつものことだった。
倒れたポケモン達も死んだわけではない。サーナイトに促された男女が洞窟を出ていくまで、コウキはゴウカザルと並んで目を光らせていた。
「ねえねえ、君のトレーナーさんは何者なんだい?」
洞窟を出るなり、男は女を支えながら、数歩先を行くサーナイトに声をかけた。言いながら、女に貸していないほうの手でスマホのカメラを向ける。
しかし画面の中の後ろ姿は待てど暮らせど、一向に、何の反応も示さなかった。
「おーい、聞こえてる?」
ドレスを着た女性のように華奢な背中は、黙ってついて来いと告げている。
男は唇を尖らせた。
「トレーナーに似て面白くねえポケモンだな。ってかさ、そもそも、あの根暗なガキは一体どこの誰なんだっつーの。偉そうな口聞きやがって」
「ちょっと、そういうのやめなって」
女が青い顔で制止するが、男は聞く耳を持たなかった。
「なにビビってんだよ。せっかくの撮れ高だぜ? リスナーも神回だって盛り上がってるよ……あれ?」
不意に、信じられない速度で流れるコメント欄に目をやった男は、この日最大の衝撃を受けることになった。
読み上げ機能をオフにしたことで気づくのが遅れたが、視聴者は口を揃えて、ひとつの重大な事実を指摘していたのである。
「はぁ? マジ?」
「……なに。どうしたの」
突然素っ頓狂な声を上げ、立ち止まった男を見て女が眉を寄せた。
「あ、あの……サーナイト、さん?」
男の声が、初めて震えた。
サーナイトも足を止めたが、依然として振り向きもしない。故に彼女の双眸が、コウキを侮辱した男への憎悪で炯々と燃えていることに、二人は一切気づかなかったのである。
「君のトレーナーって、チャンピオンだったんだね……?」
男の手の中で、スマホが熱した飴のようにぐにゃりと捻じ曲がり、不気味な音を立て、粉微塵に砕け散った。