一ミリの狂いもない採寸にも関わらず、何度袖を通しても着慣れない正装に身を包んだコウキが、バトルタワー最上階のレセプションルームに入室したのは、ヒードランと対峙してから二日後のことだった。
「本当に、申し訳なかった」
バトルゾーン全域を見下ろせる、巨大な窓から景色を眺めていた男が振り返り、深々と頭を下げる。歳は三十がらみであろうか。長めの銀髪に、皺のない端正な顔立ちの美男だ。衣装に着られている感のあるコウキとは対照的に、上品なスーツを見事に着こなしている。
「初めまして、ダイゴさん。コウキです」
「……どーも」
コウキが名乗ると、隣でバクが気まずそうに会釈する。彼もまた慣れないジャケットを羽織り、特徴的な赤髪を後ろにまとめた、比較的フォーマルな装いである。
たっぷり十秒近くも最敬礼をしていたダイゴが顔を上げるのを待って、コウキは彼に上座をすすめ、自らはバクと並び下座にかける。純白のクロスを被ったミーティングテーブルを挟んで向き合うと、どこからともなく執事服姿のスタッフが現れ、慣れた手つきで人数分のコーヒーを給仕していく。
給仕人が下がるのを見計らい、コウキはバクを紹介した。
「ハードマウンテン界隈の事情に詳しいので、彼にも同席してもらいました」
「知っているよ。四天王の一人、オーバ氏の弟さんだよね。わざわざ足を運んでもらってすまない」
ダイゴは言いながら、コーヒーをブラックのまま口に運んだ。優雅な所作から育ちの良さが見て取れる一方で、油断のない目配りと全身から発する独特の気圧が、元チャンピオンとしての修行の深さを物語っている。
「いや、俺は別に……」
バクは居心地悪そうに頬を掻く。
「チャンピオンの時間は貴重なものだ。早速、こちらをお返ししよう」
ダイゴは静かにカップを戻すと、隣の椅子で寝かせていたハードケースをテーブルに乗せた。
「失礼します」
コウキが開けると、緩衝材に包まれた暗紅色の岩石が現れた。人の頭ほどの大きさで、それなりの重量がありそうだ。
横目でバクを見ると、小さく頷いている。まぎれもなく、ハードマウンテンから姿を消した火山の置石だった。
「この期に及んで、偽物を持ち込んだりはしないさ」
目くばせを交わし合う少年たちを見て、ダイゴは自嘲気味に笑う。コウキがバクを伴ってきた理由を察したらしい。
「いえ、疑っているわけではないんです。ただ僕自身、火山の置石を目にするのが久しぶりなもので」
現物を確認したコウキは、ハードケースの蓋を閉じた。
事の真相は、金持ちの道楽によるものだった。
ダイゴの鉱物好きは、現役チャンピオンの頃からよく知られていたが、王座を退いた今となっては全世界を巡り歩き、珍しい岩石を蒐集する気ままな日々を送っているらしい。その一環で、半年前からシンオウに滞在し様々な石を拾い集めるうち、ハードマウンテンの奥底から火山の置石を持ち出したことが、異変の引き金となったのである。
ダイゴは、自らリーグに電話を入れてきたというから、受話器を取ったスタッフは仰天したことだろう。
そしてファイトエリアで宿を取っていたコウキのもとへ、火急のアポイントメントがねじ込まれたのは、昨夜遅くのことだった。
「火山の置石と呼ばれるものは、他の地方にも存在していてね。だからこの島に限って、そんな超常現象を引き起こすとは思わなくて。あのヒードランというポケモンは、その石を守ろうとしたんだね。可哀そうなことをしてしまった」
「そうですか……」
コウキは呆れたが、ダイゴを一方的に責めることもできない。置石と火山活動との関連性は、もともと地元の言い伝えに過ぎなかったし、ヒードランに関する注意喚起こそあれ、持ち出しを禁ずる規則などは存在しなかった。故にこの一件は、ギンガ団が山を荒らした時に、さっさと規則を明確にしなかったシンオウリーグの落ち度でもあると、コウキは自責的に受け止めている。
「ヒードランを治療したのも、ダイゴさんなんですよね?」
「うん、そうだよ。思いのほか手強くて、あまり加減もできなかっから、放っておいたら死んでしまうと思ってね」
肩を竦めるダイゴを見て、コウキは内心ヒードランに同情した。
「で、このケースごと預かっちまっていいんすか?」
ダイゴは、バクの言葉に頷いた。
「もちろん。そのケースは返さなくていいし、邪魔なら処分してもらって構わないよ」
「りょーかいです」
バクは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「手間をかけるね。本当なら、僕が自分で返しに行くべきだけど」
「あんたは、ヒードランに顔を覚えられている」
「だろうね。手間をかけるが、よろしく頼むよ」
ダイゴは素直に引き下がり、席を立った。
「下まで送ります」
続いてコウキが腰を上げると、ダイゴは笑って手を振った。
「いや、そこまで気を遣わなくていい。その代わりと言ってはなんだが、今度、ジムリーダーのヒョウタ氏を紹介してくれないか。彼とは仲良くなれそうな気がする」
「機会があれば。ダイゴさんは、この後も石探しを続けるのですか?」
「そうだね。もうしばらくは、シンオウで過ごそうと思っているよ。なにぶん地下が広すぎて、掘っても掘っても終わりがない。そのうち火山の置石に代わるほどの一品が、ぽろっと見つかるような気がするんだ」
元チャンピオンというのは、つくづく、気楽な生き物だと思う。そういえば、コウキが挑んだ先代チャンピオンのシロナも、今では各地の遺跡を巡り、考古学の研究に没頭していると聞く。公務に忙殺されている身としては、羨ましい限りだ。
「僕の拠点はリゾートエリアにあるから、何かあったら訪ねてきてね。いつでも歓迎するよ」
「ありがとうございます、その際はぜひ」
ダイゴは扉を開きかけて、ふと何かを思い出したようにコウキを振り返った。
「シンオウの現役チャンピオンとの顔合わせが、このような形になってしまったのは残念だけど……次に会うときは、君の影の中にいるという、神様のお目にかかりたいものだ」
彼は去り際に初めて、一地方の頂点に立ってもなお高みを目指し続ける、一人のトレーナーとしての顔を覗かせたのだった。
「たぁー! いけ好かない野郎だな」
ダイゴが退室した途端、緊張を解いたバクが大きく伸びをする。
「昨日の今日で、急に呼び出して悪かったね」
「いや、それは全然構わねえよ。どうせ暇だったし」
バクは、すっかり冷めたコーヒーのカップを手に取り、一息で飲み干した。
「文句のひとつでも言ってやろうと思っていたのに、なんだよ、あのオーラは。言葉が腹の底まで引っ込んじまったぜ。お前もあと十年くらいしたら、あんな感じの男になっちまうのかねえ」
「どうかな。僕には、あそこまでの貫禄は出せない気もするけど。ところで、火山の置石はバクが戻してきてくれるの?」
「おうよ、任せとけって」
コウキにとってバクは、幼馴染のジュンとヒカリを除けば、数少ない同年代の友人である。あまり危険な目に遭ってほしくはないが、彼ほどハードマウンテンの地理や生態系に通じている者は滅多にいないため、素直に頼むことにした。
「噴火したらマジでやべえし、今すぐ行くとするか」
「本当は、僕も一緒に行きたいところだけど」
「チャンピオン様は忙しいだろ。このくらいのお使いは、俺にやらせてくれよ」
ジャブのような軽口の応酬をしながら、廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。
「ヒードランには、よろしく伝えておいてくれ」
「あー、ヒードランなあ。元チャンピオンにぶっ飛ばされた上に、現役のチャンピオンにまでボコボコにされて、可哀そうな奴だぜ」
悲鳴を上げて転げまわるヒードランの姿が、コウキの脳裏に蘇った。
「それは、本当に申し訳ないと思っているよ」
タワーの裏手にある、スタッフ用の出入り口から外に出ると、日はまだ昇り始めたばかりだった。バクの健脚なら、昼過ぎにはハードマウンテンの最奥部に辿り着くはずだ。
シンオウリーグでは、火山の置石が祭壇に戻り次第、広報が会見を開く手筈を一晩のうちに整えてあった。ダイゴのおかげでスタッフ達は職場に泊まり込む羽目になったが、別地方の元チャンピオンのやらかしなどは、容易に糾弾できるものではない。各メディアにはダイゴの名を伏せた上で、噴火の懸念がなくなった事実だけを伝えることになっている。
「それじゃあ、後は頼んだよ。今度お礼するから」
「べつにいいって。それよりウチのじいちゃんが、お前に会いたがっていたぜ」
「うちって、しょうぶどころのこと?」
「そーそー! お礼してくれるってんなら、たまには顔を見せてやってくれよな」
「うん、わかった」
「それじゃあ、またな」
バクはハードケースの取っ手を握りしめ、足早に去った。
コウキは友人の背を見送りながら、サバイバルエリアの片隅にある、一軒の飲食店を思い出していた。扉に『一見さんお断り』の一文が張り出され、ジムリーダーの紹介がなければ中に入ることすら許されない。結果として、単なる飲み屋としての枠組みを超え、一流のトレーナーが親交を深める社交場となっていた。先ほどダイゴが話題に上げた、ジムリーダーのヒョウタも時折顔を出し、父のトウガンと酒を酌み交わしていることがある。
バクの祖父が腕を振るって作る料理は、いずれも絶品だった。大人たちの酒盛りに加わる気はないが、気分転換にはなるだろう。
コウキは数日のうちに半日分の時間を捻出すべく、スマホのカレンダーアプリを開き、半年先までびっしり詰まったスケジュールを睨みつけた。