夢の続き-1
サバイバルエリアは、雲一つない快晴だった。春の陽気が肌に心地良い。置石が祭壇に返還されたことで、ハードマウンテンから飛来する火山灰も、今日は比較的おとなしかった。この辺りはバトルタワーで負け込んだトレーナーが、己とポケモンを鍛え直すために訪れるというが、これ以上ないトレーニング日和といえる。
ポケモンセンターを通り過ぎ、並木の裏手に回り込むと、大きめの平屋が現れる。窓が少なく、外から中を覗くことは、ほとんど不可能だった。看板も出ておらず、とても飲食店には見えない。
バクの自宅でもあり、祖父と二人暮らしだが、あいにく本人は不在とのことだった。彼の祖父には話を通してくれているらしい。
コウキはゆっくりと、しょうぶどころの扉を開いた。イッシュ地方のゴーストポケモンを模した巨大な照明が、視界を橙色に染める。炎に見えるのは、特殊な電球による演出である。モチーフとなったポケモンは本来、青白い炎を放つそうだが、お化け屋敷ではないのだから暖色で正解だろう。各テーブルにも、蝋燭に似たスタンドライトが設置され、大人っぽさを補強していた。
「おう、待ってたぜチャンピオン!」
奥の厨房から、大柄な老人が髭面を覗かせた。内装の繊細な雰囲気とは裏腹に、豪快な気風の店主である。六十を過ぎているはずだが、胸板が厚く、壮年のように逞しい体つきをしている。頭は地肌が剥き出し産毛一本残っていないものの、かつては孫のオーバやバクと同じ赤髪で覆われていたらしい。
「オーナー、お久しぶりです」
コウキが会釈すると、店主は皺ばんだ目尻を下げた。
「ちょっと見ないうちに背が伸びたんじゃねえか? まあ、適当にかけてくれや」
「わかりました」
コウキは、店主が足を鳴らして調理に戻るのを見送り、手近なカウンター席に腰を下ろした。
メニューらしきものがなく手持ち無沙汰で、いつもの習慣から、スマホを手に取り明日のスケジュールに目を通しかける。
「コウキくん?」
声をかけられ振り返ると、三つ編みのツインテールを下げた少女が立っている。子供っぽい髪型とは裏腹に、胸元を大胆に開けたワイシャツにミニスカートという男好きのしそうな服装が、不思議と猥褻なギャップを生んでいる気がした。
「……スズナ?」
名を呼ぶと少女は両手を叩き、満面の笑みを浮かべる。
「うわー久しぶり! 奇遇だね!」
店主に勝るとも劣らない大音声が響き渡り、コウキは苦笑した。
スズナは、シンオウ最北端の豪雪地帯にある、キッサキシティのジムリーダーである。コウキと同い年の北国育ちで、氷ポケモンの扱いに長けているが、何かにつけて『気合い』を重視する情熱的な一面がある。
「久しぶり。一人で飯でも食いにきたの?」
「んなわけないじゃん! あたしたちは、今日女子会してるの!」
スズナが指した店の奥に目をやると、六人掛けのテーブルで、見覚えのある女たちが昼酒を食らっているのが見えた。
「うほーい! コウキくん、おひさー! 元気にしてたー!? とりあえず、こっちにきてよ!」
スズナに負けない声量を轟かせたのは、ハクタイのジムリーダー、ナタネである。酩酊し体幹に力が入らないのか、こちらに向かって手を振ると、首から下までくねくねと動く有様だった。
「ハーイ、チャンピオン。今日はみんなお休みネ?」
ヨスガのジムリーダー、メリッサは年長者として場を仕切っているらしく、比較的正気に近いようだ。今日はオフのためか、翼を広げたクロバットのようなヘアスタイルは鳴りを潜め、パープルの長髪を背に垂らしている。服装も派手なドレスではなく、シンプルなシャツにジーンズと全てが普通すぎて、一瞬だけ、彼女が誰だか分からなかった。もちろん口にはしない。
「お久しぶりです、コウキさん! 今日は先輩ジムリーダーの皆さんから、色々なことを学ぼうと思って、参加させて頂いています!」
そしてトバリジムのスモモが、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がり、腰を直角に曲げ力強い挨拶を決めた。肩が剥き出しのノースリーブ姿でも、無防備さや女性的な際どさを抱かせないのは、彼女の修行の賜物なのだろうか。
スズナは、愛想笑いを浮かべるコウキの腕を掴み上げた。
「よーしッ! チャンピオンはお酒もチャンピオンなのか、見せてもらおっかな! 飲み比べなら、スズナが気合いで押し切るんだからっ!」
「いや、僕はお酒を飲みにきたわけじゃないんだけど」
「きこえなーい!」
いつにも増してハイテンションなスズナによって、コウキは強制的に酒席へ引き摺り込まれる。
「オーナー、お酒追加で! 強いやつをじゃんじゃん持ってきてー!」
呼ばれた店主が、両手に色とりどりのボトルと人数分のグラスを携えてくるが、酒の銘柄などはひとつも分からない。
唖然とするコウキの前に、店主はひときわ高そうなボトルを立てた。
「こいつはサービスだ。コウキがチャンピオンになって一年経つだろ。次の防衛戦も勝てるように、俺なりの願掛けみたいなもんだ」
「さっすが! わかってるじゃん!」
スズナが目を輝かせ、琥珀色の液体をグラスに注ぎ始めて、違和感を覚えた。
ショットグラスが六個ある。ひとつ多い。
「巻き込んでしまって、ごめんなさいね。コウキさん」
荒れ模様の宴には異質な、おっとりとしていて、どこか遠慮がちな声。ぱっと視線を向けたコウキは、思わず目を見張った。
「えっ……モミさん、ですよね!? どうしてここに」
ジムリーダーの影から身を乗り出したのは、樹海の深淵を思わせる、神秘的な雰囲気を漂わせた、二十歳前後の若い女性だった。
上品にまとめた深緑のロングヘアを肩の前に下ろした姿は、四年半前と同じだった。最後に会ったときと異なりボレロは羽織っていないが、首元まである長袖のロングドレスで全身を覆っている。暖かい季節でも肌の露出を控えるのは、旅塵や日差しから肌を守る上で理にかなっているが、実用性の追及というより、本人の趣味としての意味合いが強いのだろう。
モミは、胸の前で両手を合わせた。
「はい。お久しぶり、かな? 時々こちらのお店でお食事をするようになって、それでジムリーダーの皆様と知り合ったのですわ」
眉を八の字にして困ったような笑みを浮かべているのも、共にハクタイの森を切り抜けた日と、何ら変わっていない。
一方で、目鼻立ちの整った慈顔に薄化粧を施しているのを見て、現在は修行の旅を終え、どこかに定住しているのだろうとコウキは推測した。旅をしている女はあまり化粧をしない。風呂に入れない日も珍しくなく、山のような荷物を背負って何キロも歩く過酷な生活の中で、携帯できる化粧品は日焼け止めくらいのものだ。
それよりもコウキが気になったのは、この数年で彼女がどこまで腕を上げたのかということだった。この店は優秀なトレーナーが、ジムリーダーや四天王、あるいはバトルタワー関係者の紹介を受けて、初めて足を踏み入れることができる。提供される料理やドリンクの価格も、その日暮らしのトレーナーが気安く頼めるものではない。
「えーっ、モミさんとコウキくんって知り合いだったのっ!?」
ナタネが声を張り上げると、ジムリーダー達の視線がモミとコウキの顔を行ったり来たりする。
「知り合いというか、その……昔ちょっと、お話したことがあるというか」
「おっけーおっけー! とりあえず乾杯しよ!」
コウキがしどろもどろに答えると、スズナが酒をなみなみと注いだグラスを全員の前に叩き付けた。
「あたし、お酒はちょっと……」
顔を引き攣らせるスモモを無視して、スズナは酒が零れるのも構わず、己のグラスを天高く衝き上げる。
「はーい、みんなグラス持って! コウキくんのチャンピオン防衛一周年と、モミさんとコウキくんの再会を祝して、かんぱーい!」
コウキは反射的にグラスを手に取り、軽く打ち鳴らした。覚悟を決め、グラスの中身を一息にあおると、湯のように熱い液体が食道を滑り、胃袋まで落ちる感覚があった。
「さすがチャンピオン、いい飲みっぷりデース!」
メリッサがわざとらしく拍手し、スズナが早くも二杯目をグラスに流し込んでくる。
「ちょっと、これ以上は」
「なになに? あたしの酒が飲めないわけー?」
「あはは! スズナってば気合い入り過ぎじゃない?」
ナタネはメリッサに次ぐ年長者のはずだが、後輩を制止する気はさらさらないようだ。コウキは仕方なく、突き付けられたグラスの中身を喉へ流し込む。
「やるじゃん! あたしも負けてらんないね!」
スズナが腰に手を当て、風呂上りにモーモーミルクでも飲むようなポーズで、何杯目かも分からないグラスを一息に煽った。
三杯目をすすめられたが、コウキは流石に断り、誰にともなく水を要求する。
早くも歪み始めた視界の中で、モミが水差しを手に取り、新しいコップに冷水を注いで渡してくれた。
一地方のチャンピオンとして、リーグ関係者ですらない彼女の前で、前後不覚に陥るのは避けたい。
コウキが礼を言って水を受け取り、ぐっと飲み干す光景を見ていたナタネが、不意に口を開いた。
「うわぁーコウキくん、喉仏大きくなったね! もう大人だなぁ」
セクハラじみた発言にコウキは思わず噴き出しそうになる。飲みかけた水が気管へ浸入し、咳き込むコウキを見て、スズナが腹を抱えて笑い転げた。
「ちょっとナタネさん、急に何言ってるの!」
「だって、めちゃくちゃ動いてるんだもん」
「な、ナタネさん……そういうの、あたしも良くないと思います」
「あはは! スモモちゃん顔真っ赤!」
ジムリーダーとしての職務で、よほどストレスを抱えているのだろうか。コウキは怒りや呆れの念よりも、リーグの頂点に立つ者として、彼女たちの労働環境への懸念が先に立つ。
「だって、ちょっと前までザ・少年って感じだったのに、急に肩とかもがっしりしちゃって、すっかり男の人って感じだよねぇ」
「ストップストップ! お水飲んで、お水」
「今日のナタネは、なんだか情熱的デス!」
スズナが未使用のコップを探し始めた時には、メリッサが冷水をナタネに手渡していた。
水を一口飲んでから、ナタネは隣で黙り込んでいるモミに酔眼を向ける。
「ね、モミ、あなたもそう思わない? 久しぶりに会ったんでしょ?」
先ほどから、モミが飲みかけのグラスを手にしたまま、周囲のバカ騒ぎが耳に入らないかのように、無言でコウキを見つめていることに気づいていたらしい。
「えっ!? えっと、そ、そうですわね……」
突然発言を求められ、我に返ったモミは慌ててグラスをテーブルに置いた。言葉を探しているのか、しばらく沈黙したせいで、余計に注目を浴びてしまっている。
「最後にお会いしてからは、ずっと、テレビの中の存在でしたけれど……あたしも、その、とっても素敵な男性になられたと思いますわ」
両手の指をもじもじと擦りながら、呟くように言ったモミの耳が、薄暗い店内でも分かるほど赤くなっていた。
予想よりも”ガチ”な反応だったらしく、ナタネは目を丸くした。他のジムリーダー達も、はっと息を呑み口を噤む。意図せずジムリーダー達の視線に晒されたモミは、その圧力に耐えられなかったのか、とうとう俯いてしまった。
店内を流れるジャズの音色が、いやに大きく聞こえてくる。
まずい、この空気をなんとかしなければ。コンマ一秒でも早く、彼女を救わなければならない。
「えっと、はい、ありがとうございます。モミさんも、なんというか、すごく綺麗になりましたよね。僕も、びっくりしちゃいました」
言ってから、しまったと思った。バトルにおいて、対戦相手に手の内を読まれていた時のような、血の気が引く感覚。
まずい、立て直さなければ。
何度か息を呑みこみ、この場に相応しい論理的な発言を組み立てようと悪戦苦闘する。
「あ、いや、前が綺麗じゃなかったとか、そういうわけじゃなくて! あの時も素敵でしたけど、その、大人っぽくなったという意味で!」
結局、気の利いた言葉など、ひとつも出てこなかった。ようやく発することができたのは、すべて本音である。この期に及んで本音しか吐けない自分自身に、コウキは深く失望する。チャンピオンとして過ごした一年間を通じて、それなりに社交性を育んできた自負は今この瞬間、木っ端みじんに砕けた。
再び訪れた沈黙は、一時間とも二時間とも感じられたが、現実に経過していたのは、数秒のことだったのだろう。
「……ふふっ」
微かに聞こえた笑い声によって、コウキは絶望の底から意識を引っ張りあげられた。我に返ると、モミが顔を上げ、こちらを真っ直ぐ見つめている。
「少しだけ、安心しましたわ」
モミは見覚えのある、ほにゃほにゃとした笑顔を見せてくれた。その瞬間、強張っていた肩回りの緊張が抜けた。
「お互い、背丈は伸びましたけれど……中身のほうは、あまり変わっていないようですわね」
「はは……そうみたいですね」
コウキは、久しく忘れていた胸の高鳴りを抑えかねた。
テーブルを挟んでいなければ、彼女の手を取っていた可能性すら捨てきれない。拳を握りしめ、精一杯の笑顔を返す。各方面に向けて作り笑いをする機会は多かったが、この時ばかりは、不思議なほど自然に笑うことができたと思う。
「なに、この……なに? なんなの、これは」
ナタネが口を切った瞬間、視界が開けた気がした。一連のやり取りを傍から見れば、衆人環視のもとで、堂々と見つめ合っていたことになるのだろう。
今更のように、顔が熱くなってくる。
コウキとモミが、ばっと目を逸らしたのは、ほとんど同時だった。
「ちょ、ちょっと待って。あなた達、ずっと会ってなかったんだよね?」
額を押さえたナタネが、状況の整理を試みる。
「そうですね……たしか、あの夜からお会いしていませんから、もう四年以上になるかと」
止める間もなく、モミが自爆してしまう。
「あの夜って、なに!?」
目を輝かせるスズナを見て、モミは己の失言に気づいたらしく、顔色を変えた。
「あ! いえ、あの、変な意味ではありませんからね! 最後にお別れしたのが、たまたま夜間だったというだけのことで」
「絶対嘘じゃん! ……いったぁ!?」
思い余ったスズナがテーブルを叩き、掌を抱えて悶絶する。重厚なテーブルは、少女の腕力ではびくともしなかった。
「これは……ロマンスの気配がしマース!」
メリッサが踊りだしそうな勢いで身を乗り出してくる。座っていなければ、ダンスの一つも披露してくれたことだろう。
「なるほど、これがロマンス……」
スモモだけは、なぜか真面目な顔で聞き入っている。
「そういうことする人には見えないけど、もしかして、一夜の過ち的なアレなの?」
スズナは掌の痛みが引くと、好奇心を抑えきれない様子で、モミに人差し指を鋭く突き付けた。
「ち、違います! 言われてみれば、一晩テントを共にしましたが……それだけです」
無自覚に傷口を広げてしまうのは、つくづく彼女らしいと思う。
「テントを共にって……四年前でしょ? そのとき、あんた達何歳よ! 不純よ不純!」
「落ち着いてください」
酔いが回っていることもあって語気を強めるナタネに、コウキは顔を顰めた。
「昔、僕がハクタイの森を抜けようとしたとき、たまたまモミさんと出会って一緒に行くことになったんです。その時は一日で抜けられると思ったんですけど、思いのほか苦戦して、野営することになっちゃって。本当に、それだけですから」
見かねて助け舟を出したつもりが、逆効果だった。
「ハクタイの森で、男女が同じテントで……って、本当に、なにをしてたわけっ!? なんで別々じゃなくて一緒なのよ! ちょっと、ハクタイのジムリーダーとして聞き捨てならないんですけど!」
興奮した女の金切り声が店中に響き渡り、驚きの表情を浮かべた店主が厨房から顔を出す。
もはや全てを白状する他に、場を収める手段はないようだ。
「僕から、ちゃんと説明しますから。だけどナタネさんが考えているほど、大層な話じゃありませんよ」
モミを矢面に立たせて、自分だけ逃げるつもりはなかった。コウキは羞恥に耐えながら、四年以上も昔の小っ恥ずかしい記憶を辿り始める。