十二歳でマサゴタウンを旅立ったコウキが、血の滲む鍛錬の末、初めてジムバッジを手にしたのは半年後のことだった。
良い流れに身を任せ、次なるジムを目指す道中で、広大な森林地帯とぶつかる頃には一つ歳を重ねていた。
当時はギンガ団を名乗る犯罪組織が各地で暗躍し、シンオウ全体がきな臭い情勢にあった。そんな状況で何が潜んでいるかも分からない森林を単独で通り抜けるのは、コウキにしても気持ちの良いものではない。
同じく森の入口で二の足を踏んでいたモミが、偶然通りかかった少年に声をかけたのは、他に選択肢がなかったのだろう。
歳の差は三つとのことだから、あの日の彼女は十五、六だったはずだ。ポケモンは、温厚極まるラッキーしか連れていなかった。闘争心に欠けた主従が悪人に目を付けられたら、どんな悲劇に見舞われるか分かったものではない。力の無さを自覚しているのか、縋るように同行を求めるモミの言葉に、コウキは一も二もなく頷く。
鬱蒼と生い茂るハクタイの森に足を踏み入れた序盤は、予想に反して、和やかな雰囲気で進むことができた。他人と連れ立って歩くこと自体久しぶりのことで、身の上話やバトル談議に華を咲かせた。
しかし森の入り口が見えなくなると、素性の知れないトレーナーに絡まれ始める。いずれも大した腕ではなかったが、連戦はリソースの消耗につながる。
コウキは、一刻も早く街中に出ようと急ぐ。
モミは、薄緑のボレロにロングスカートを合わせた外見重視の装いながら、足拵えは厚底のロングブーツで厳重に固め、コウキに遅れを取ることがない。お嬢様然とした雰囲気に似合わず、粘り強い足腰の持ち主で、野山を歩き込んでいるのは一目瞭然だった。
一方バトルはお世辞にも上手いとは言えず、野生ポケモンには太刀打ちできても、人に調教された個体が相手では、まるで勝負にならない。
差し出せる金銭や物品の乏しい女は、最悪、肉体で命乞いをする手もあろうが、頻度によっては性病のリスクを伴う。第一、同じ女に目を付けられたら奥の手は通用しない。見た目ひとつで生き延びられるほど、修行の旅は甘くなかった。
当時のモミは歳下のコウキから見ても、あらゆる面で脇の甘さが目についた。それが相手の油断を誘う落とし穴でさえないことは、すぐに分かった。図体ばかり大きく、中身は幼児と大差ない。隙だらけで、やろうと思えば如何様にも料理できる。遠出しようものなら、食い詰めた旅人に骨までしゃぶり尽くされるだろう。彼女が今日までトレーナーとしてやってこられたのが不思議でならない。
そのせいかコウキの胸に、これまで抱いたことのない、強烈な庇護欲が湧き起こっていた。その献身ぶりは、思い出すと自分でも恥ずかしくなるほどで、彼女の白く眩い柔肌に傷を付けてなるものかと、立ち塞がる荒くれ者をことごとく叩きのめした。
あの時ほど手持ちのポテンシャルを引き出せたことは、以後、今に至るまで一度もない。後年のシロナやクロツグとの対決でさえ、気迫の一点ではあの二日間に劣っていたことは、誰にも明かせない最大級の恥部である。
思春期を迎えたばかりだったコウキにとって、女性を連れての移動は、あらゆる面で刺激が強い。
第一に、長旅には排泄の問題が付き纏う。
公衆トイレが随所にある街道と違い、深い森や高山などを越える際は青空の下で済ませるしかない。地面に直接排泄することが許されていないエリアもあるため、修行中のトレーナーは必ず人間用とポケモン用と、それぞれの簡易トイレを携帯していた。コウキは折り畳み式の簡易便器と排便袋をバックパックに常備しており、当然モミにも用便の備えはある。ただし、ちょっとしたテントのような製品は、重量がある上に嵩張るため旅人には敬遠され、よほど高貴な出自でもない限り、女性といえど用を足す際は無防備な姿を曝け出すことになる。
これといって規制のない場所では簡易トイレすら使用せず、出したものは土に埋めるのが基本である。ハクタイの森には用便に関しての厳密なルールはなく、催した時は各自、道から外れた茂みなどで手早く済ませた。お互い野営に慣れた身で珍しいことでもないが、コウキにしてみれば異性というだけで、なんとなく気まずいものがある。生物として当然の生理的な活動に過ぎないはずのものが、異性というフィルターを通すだけで、微妙な非日常感を持つことを、コウキはこの時初めて知った。
第二の試練は夜間にあった。
途中途中で野生ポケモンに気取られぬよう忍び足になったり、挑んできたトレーナーを追い払ったりするうち、木々に空を遮られた森は、いつの間にか薄暮の色を抱き始めていた。まだ夕方なのに、気を抜くと木の根に躓きかねないほど暗いのは、ハクタイの森の奥深さの証左といえる。コウキはこの日、遭難者を探すポケモンレンジャーと何度かすれ違っていた。
ハクタイの森は夜になると、どこからともなくゴーストポケモンが現れ、人の命を奪うとされる。真偽はともかく森の中で光源を用いれば、危険なポケモンを呼び寄せる可能性は捨てきれない。かといって一メートル先も見えない暗闇を明かり無しで進むのは、ヨルノズクでもない限り不可能である。
コウキはモミと話し合い、ポケモン達の疲労を考慮して、この日は野宿することにした。
日が落ちる前に、野営に適した空間を発見できたのは僥倖だった。古木が倒れた直後で、見上げると、枝葉の屋根が途切れ青空が覗いている。都合よく、近くで小川も流れていた。人が飲むには適さずとも、手や食器を洗うことができる。
二人でテントの位置を決め、各々荷を解き設営作業に取り掛かる。コウキは、先にポケモンを寝かせるタープを組み立てることにした。タープの中にはテントと一体化したものも多いが、単体で使いたいシーンが多く、コウキは独立するものを採用していた。ワンタッチで容易に立ち上がり、サイドシートを備えているところが好ましい。
地面にペグを打ち込んでいると、突然、森の奥から何かがすっ飛んできた。ぎくりとして顔を上げると、テッカニンが頭上で浮遊し、赤いガラス玉のように無機質な眼で、こちらをじっと俯瞰している。知識として持っているだけで、実物を見るのは初めてだった。人間の乳児ほどの体格ながら、一枚が人の顔ほどもある四枚の翅と、鎌のような両腕を広げると、なかなかの威圧感になる。このあたりの地下に住む、幼虫のツチニンが成長したものだろうか。甘い樹液や発酵した果実などを好む植物食のポケモンであり、人や他のポケモンを捕食することはないはずだが、一体何をしに現れたのか。
いずれにせよ、野生のむしポケモンなど、少し脅せば逃げ去るだろう。
コウキは、共にテントのペグを打っていたヒコザルに応戦を命じた。ヒコザルが威勢よく応じて前に出るなり、大口を開け、火の粉をばっと吐きかける。
すると、信じがたいことが起こった。火の粉が触れる直前、標的の姿が、空中から跡形もなく消滅したのである。
「えっ!?」
コウキは思わず目を剥く。何の小細工も弄さず、物理的な移動速度のみで人の動体視力を圧倒するポケモンと出会うのは、これが初めてのことである。
テッカニンは報復の機会を窺っているのか、コウキ達を中心に森を旋回しているが、飛翔姿は全く目に捉えきれない。不気味な羽音だけが耳をざわつかせ、真っ二つに割れた木の葉が無数に宙を舞う。
残像を引いて乱舞していたテッカニンが、いきなり方向転換し、一直線に飛び込んでくる。ヒコザルが慌てて火を噴くが、掠りもしない。
ほんの一瞬、鋭利な爪が刃物のように光って見えた。首筋を抉られる予感に鳥肌が立つ。コウキは咄嗟に頸動脈を両手で覆い隠したが、テッカニンは目もくれない。
そして、様子を見ていたモミを目掛け稲妻のように飛んでいく。
「嘘だろ!?」
思わず叫ぶコウキの脳裏で、モミの首根から血柱が立ち上る光景が明滅した。テッカニンは、障害物となる組み立て途中のテントをずたずたに引き裂き、音速に近い速度で正面から突っ込んでいく。
コウキは顔を歪め、固く目を閉じる。血池を目の当たりにする覚悟を決めるには、さすがに三秒ほどの時間を要した。
息があれば、救護をせねばならない。おそるおそる目を開くと、現場は予想だにしない運びとなっていた。
テッカニンは信じがたい制動力で、モミの間近で静止していた。ピンで固定したかのように、顔の高さで、上下左右に一切ぶれることがない。とりポケモンでも、これほどのホバリング能力を持つものは珍しい。
コウキにとって何より衝撃だったのは、見返すモミの表情に緊張の色がないことだった。相変わらず、母親が我が子を見つめているような、陽だまりの微笑みを崩していない。彼女に寄り添うラッキーも同様である。
コウキが呆然としていると、背後で茂みをかき分ける気配がした。
「テッカニン、どこ行くの!」
中性的な声と共に、つなぎ姿の少年が息も絶え絶えに姿を現した。本人の体より大きく見えるザックには、旅の装備が詰まっているのだろう。男女の区別もつけ難い年頃から旅に出るのは、両親の教育方針がよほど厳格か、放任主義かのどちらかであろう。
どうやらこのテッカニンは野生ではなく、彼の手持ちだったようだ。
むしポケモンの多くは気性難だったり知能が高くなかったりして、信頼関係を築くことが難しい。子供が連れ帰ってきて大暴れするのは、全国の親には定番の災難であろう。中でもテッカニンはポケモン全体の中でも、特に人との意思疎通が苦手な部類といえる。ましてトレーナーが子供では、何を言っても相手にされず、気ままに振る舞うのは道理だ。
「他のトレーナーさんに付いていったらダメだよ」
少年は、立ち尽くすコウキには目もくれず、夢中でテッカニンに駆け寄る。
「あなたが、この子のトレーナさんかしら?」
モミは、視線を少年に落とした。
「うん! ぼくのテッカニン、カッコいいでしょ」
「ええ、とっても」
「こいつは最強なんだ! 誰にも負けたことないんだよ。悪いやつはバラバラにしちゃうんだから」
「あらまあ、そうなのですね」
モミが口元に手を当てると、ラッキーが主に釣られ、短い手を羽ばたくように動かしながら笑う。
コウキは、にこりともできなかった。まるで、本当に誰かを惨殺したことがあるかのような言い回しに鳥肌が立つ。
「でも、たまにしか言うことを聞いてくれないんだ。本当は、ぼくのこと好きじゃないのかな。今だって、ぼくより、おねえさんのことが好きみたいだし」
悲しそうに眉尻を下げる少年に、モミは柔らかい微笑みを向ける。
「いいえ。この子はきっと、お腹が空いているだけですわ」
言いながら腰を下ろし、叢に置いていた荷物から、小瓶と刷毛を取り出した。それを見たテッカニンの目が、心なしか嬉しそうに輝く。
「なあに、それ?」
「これはソノオタウンで買える、あまいみつです」
モミは小瓶の蓋を開けると、琥珀色の蜜を刷毛に吸わせ、手近な木にたっぷりと塗りつけた。それを見たテッカニンが、待ってましたとばかりに飛びつく。鋭い爪で木にしがみ付き、夢中になって啜り始めた。
「そんなに急がなくても、逃げたりしませんのに」
可笑しそうにくすくす笑うモミを、少年は呆気にとられたような顔で見上げた。
「どうして……?」
「どうして、というと?」
モミは瓶の蓋を閉じ、少年に視線を戻す。
「ぼくもソノオタウンから歩いてきたんだ。あまいみつ、テッカニンが欲しそうにしてたけど、お金がなくて買えなかったこと、どうしてわかったの?」
「そうだったのですね。あたしも、あなたがソノオタウンを通ってきたことは知りませんでしたが……この子が、これが欲しくて飛んできてしまったのは、なんとなくわかりました」
「なんとなく?」
モミは、小瓶と刷毛を少年に握らせた。
「ええ、なんとなく」
「ぼくにも、わかるかな?」
「わかりますわ。ポケモンのことが大好きなら、誰でもね」
「わかったら、テッカニンと、もっと仲良くなれる?」
「もちろんですわ」
「そっか、そうなんだね」
モミは荷物から追加でもうひとつ、未開封のあまいみつを取り出し、少年の荷物に入れてやった。
「ありがとう、おねえさん! ぼく、もっとポケモンのこと大好きになるからね。行くよ、テッカニン!」
塗りたくられた蜜をあっという間に平らげたテッカニンは、おかわりを要求しているのか、今度は素直に少年の後ろに続く。
小さな主従が森の奥へ消えてから、モミはようやくコウキを振り返った。
「ごめんなさいね。ちゃんと蓋をしていたのに、匂いが漏れていたのかしら」
コウキは首を振る。
「いいえ。僕も珍しいポケモンを捕まえるために、買おうかと思いましたから。怪我がなくてよかった」
「コウキさんこそ、お怪我がなくて良かった。ヒコザルも大丈夫でしたか?」
「僕らは、大丈夫ですよ」
「そう、良かった。本当に……」
「……どうかしましたか?」
モミの表情が、僅かに暗い。
「だってコウキさんのすぐ後ろで、ヌケニンが、ずっと浮かんでいたから……」
「えっ……?」
コウキの全身に戦慄が走る。弾かれたように振り向くが、当然、何もいない。
超高速で飛び回るテッカニンに気を取られ、別の脅威が忍び寄っていたことには、全く気付いていなかった。
「ちょっと、背中を向けてくださる?」
全身の毛穴に、粟を生じていた。脚が震えて、動くことができない。
モミは、凍り付いたコウキの背後に回り込み、しばらくの間、後頭部や背中を注意深く観察していた。
「……うん、怪我はなさそうね。きっとあの子も悪さをする気はなくて、トレーナーさんを守ろうとしていたんだわ」
「そう、ですか」
「あたしも少しびっくりしたけれど、本当にこれが欲しかっただけだったみたいで、良かったです」
すっかり青ざめたコウキに、モミは小瓶を振って見せた。あまいみつは、ハクタイの森の手前に位置するソノオタウンの特産品である。はちのこポケモンのミツハニーを使役して、無数の花々からかき集めたご当地モノだ。町の人口は、全住人の顔と名前を覚えられそうなほど少ないが、誰もが柔和な人相で、旅人にも親切だった。
「ポケモン達に食べさせようと思って、買いすぎました」
モミは、肩をすくめた。
「ポケモンって、ラッキーにですか? ラッキーも、あまいみつ食べるんですね!」
コウキは、わざと声を張り上げる。
「この子にというより、野生の子とか、他のトレーナーさんにお裾分けしようかなって。それにしても……」
モミの視線が、破壊された野営装備に移る。
コウキの被害は、ポケモン達を休ませるためのタープが多少裂けた程度だが、モミが組み立てていたパップテントは骨組みから両断され、修理の仕様もない。ポールの切り口は刃物で斬ったように鋭利で、つくづく、これが自分たちの首でなくてよかった。一方で、今更のように、先ほどの少年トレーナーへの憎らしさがこみ上げてくる。しかし、あのテッカニンに対抗する術がない以上、クレームは言えなかった。
「あの子はちょっと、やんちゃ過ぎですわね。でも、この程度で済んでよかったのかも」
彼女の言うとおり、相手が幼かったのは不幸中の幸いである。大人なら、ポケモン用の餌などで引き下がるはずもなく、所持金を全額巻き上げられていたかもしれない。最悪、身ぐるみ剥がされ野垂れ死にもあり得た。ほとんど強盗と変わらないが、強者専横が罷り通るのが、当時の旅の常識である。上の世代と交流すると、これでも一昔前よりはマシだというから恐ろしい。
殺伐とした旅を改革すべく、ポケモンリーグは史上初の女性チャンピオンの主導で、様々な施策を打ち出していた。その甲斐あって、シンオウの治安は氷が融けるように改善しつつあるが、まだまだ丸腰では夜道を歩けそうもない。
「モミさんのテントは、もうだめそうですね」
「はい。残念ながら。買い換えるしかなさそう」
痛い出費ですとぼやき、モミは散らばったテントの残骸を拾い集めた。大きな破片を重ね、紐で縛っている。この場に放棄せず、持ち帰るつもりなのか。壊れた装備を放棄するのは確かにマナー違反だが、律儀なことだと思う。
「でも、コウキさんのは大丈夫そうね」
モミは残骸をまとめ、邪魔にならないよう隅に置くと、荷物から裁縫道具を取り出した。
「どうするんですか?」
「あたしに任せて」
モミは針と糸を手に、タープのサイドシートに向かうと、裂け目を器用に縫い始めた。コウキにも裁縫の心得はあるが、ここまでスムーズではない。鼻歌交じりに針を操り、ぱっくりと裂けた一箇所を、流れるように補修していく。
「……すごいな」
見事な手際にコウキは、昔お気に入りのぬいぐるみを修繕してくれた、母アヤコの姿を重ねた。
「一旦は、こんなものですわね」
サイドシートは、名医が外科手術を施した痕のようにぴたりと縫合され、雨水が沁みることもないように見えた。あとは、街で防水シートを買って貼り付ければ完璧だ。
「これなら、しばらく保ちそう。ありがとうございます」
「気にしないで。あたしが付いてきたばかりに、こんなことになったのですから。むしろ、ごめんなさいね」
針をしまいながら困ったように笑うモミを見て、再びコウキの中で、熱い使命感が湧き上がってくる。
「僕のテントは無傷ですから、良かったら使ってください」
「え? それではコウキさんは?」
「僕はどこでも寝られます。ポケモンと一緒にタープの下で大丈夫です。モミさんが直してくれましたし」
テッカニンや、ヌケニンへの恐怖などは、すっかり吹き飛んでいた。男というのは、つくづく単純な生き物である。
「でも、それでは風邪を引いてしまいますわ。寝袋はお持ちなの?」
「寝袋はないですけど、毛布はありますから」
当時は、激安ブランドのキャンプ用品を通販で気軽に注文できる時代ではなかった。駆け出しのトレーナーはポケモンと抱き合い、震えながら一夜を明かすほかなく、多少資金に余裕があっても装備は修繕を繰り返し、長く大切に使うものである。
コウキは手持ちポケモンの食住を優先し、自らは二の次にしていた。なんとなく、モミからも同類の気配を感じる。
「そんなのいけませんわ。あたしだって、こう見えて丈夫ですのよ」
モミは胸元に片手を置き、茶目っ気たっぷりに言う。
「いやいや、ダメですよ」
コウキは努力して怖い顔を作って見せた。寝袋だったと思しき布切れが、テントの残骸の下敷きになっていることに気づいていたからだ。時期的に凍死の懸念はなくとも、女性が寒さに弱いらしいことは、夏でもあまり冷房を点けないアヤコから聞かされている。
きっとモミには、強引についてきた負い目があるのだろう。だとしても、一度譲ると言ったものを引っ込めるわけにはいかない。
似たようなやり取りを数往復した頃、ふと空腹を覚えた。ここまでの道中で口にしたのは水ばかりで、食事はパンを一切れ齧っただけだ。
コウキは、結論を保留とした。
「とりあえず……僕もテントを張るだけ張っちゃうんで。それから、ご飯でも食べながら話しましょう」
モミは、はっとしたような顔をした。
「うん、そうね。それなら、準備はあたしにやらせて」
コウキの返事も待たず、モミは夕食の支度を始めた。直火は起こさず、灰の受け皿を備えた焚き火台に燃料を投じている。その手つきを一目見て、裁縫だけでなく料理の手際でも彼女に及ばないと察し、おとなしくテントの設営に集中することにした。
夜間に雨が降る可能性を考慮し、傾斜と地面の水はけを見極め、できるだけ雨水が溜まりにくい場所を確保する。位置を決めたらヒコザルの手を借りて、大きな石ころなどを排除する。最後に、風向きと木の位置関係から出入口の向きを決めた。
あとは幾度となく繰り返した作業で、目を瞑ってもできる。
森の中ゆえ突風で吹き飛ばされる懸念はないが、鋭利な枝が落ちてくるかもしれない。念のためもう一度頭上を確認した上で、使い込んだスリーブ式のインナーテントを組み立て、フライシートをかける。力いっぱいペグを打ち込み、一夜の拠点が完成した。
ちょうど、モミも調理がひと段落したところだった。焚き火台の上に、清潔な水と穀物の入った鍋を置き、一口サイズにカットした木の実と調味料を加え、蓋をそっと閉じていた。
「すみません、食材を出してもらって」
コウキが歩み寄ると、モミは顔を上げて笑った。
「いいえ。お口に合うと良いのですが」
鍋の中身が煮えるまでの間は、ポケモン達に食事を摂らせる。お互い旅費に余裕があるわけではないのに、同じように有名ブランドのポケモンフーズを与え、デザートに甘い木の実までつける。木の実の種類は違えど、やはりソノオタウンで、住人からの好意で分けてもらったものだった。氏名を聞きそびれていたが、おそらく同じ人物からの提供だろうと、人相を照らし合わせる。
「僕も、あのお花屋さんの女性から無料でもらったんです」
「やっぱり町を訪れた人みんなに木の実を配っているのかも」
「世の中、怖い人ばかりでもないのかな。案外、優しい人もいるのかも」
「それは、そうですわ。コウキさんだって」
「僕は、そうでもないですよ」
「そんなはずはありません」
モミは自信ありげに、ふふんと鼻を鳴らす。
「横にいたヒコザルが、とっても幸せそうな顔で、あなたを見上げていましたから」
「そうなんですか?」
コウキは、ラッキーと並んで食事をしているヒコザルを一瞥した。
「ええ。だから、この人と一緒なら安心かなって、思ったのですわ」
「そんなに甘やかしているつもりはないんですけどね。毎日毎日、大変なことばかりだし」
「甘やかされることが、ポケモンの幸せに繋がるとは限りません」
モミが、真剣な表情になる。
「毎日の苦労を乗り越えて、コウキさんや他のポケモンと一緒に成長していくことも幸せのかたちです。この子にとっても、きっとそうなのですわ」
「そこまで、わかるんですか?」
「わかりますわ」
すっかりトレーナーの顔で、きっぱりと断言する。
「あたしはコウキさんみたいに、悪い人を見破ったりするのは苦手ですけど……でも、どんな人かぐらい、一緒にいるポケモンを見ればわかります」
やがて、火にかけていた鍋が蓋を揺らし始めた。吹きこぼれないよう蓋を少しずらしてから、食器と、折り畳み式のローチェアを展開する。焚き火台の前で、二脚横並びに配置してみた。
腹を満たしたポケモン達がタープで転寝を始めると、あたりは静寂に包まれる。まだ夕方の時間帯だが、森の中はほとんど夜と変わらず、早くもホーホーの鳴き声が聞こえてくる。コウキは荷物からランタンを取り出し、ローチェアの間に置いた。
ほどなく粥が炊き上がり、モミが蓋を開けレードルで軽く混ぜてから、木製の碗に盛って渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
両手で碗を受け取ると、手のひらに心地よい温かさが伝わってきた。食欲をそそる匂いに従い、碗と同じ木製のスプーンで粥を口に運ぶ。
「……おいしい」
その呟きは、お世辞ではない。
「それはよかった。お口に合ったようで、安心しましたわ」
モミは本当に安心したように、ほにゃほにゃとした笑みを浮かべた。ここまでの道中、何が起きても余裕そうだったのに、こちらが粥を口にするとき、初めて緊張したような顔を見せたのが、不思議だった。
「男の子がどれくらい食べるかよくわからなくて、作りすぎたかもしれません」
モミは、自分の分をよそりながら言う。
「このくらい、すぐ食べちゃいますよ」
これも嘘ではない。雑穀と木の実の粥はメジャーなキャンプ飯だが、調味料の加減が絶妙なのだろう。企業秘密でなければ、配分を教えてほしいくらいだった。
「コウキさんは育ち盛りですものね」
「育ち盛りは、お互い様じゃないですか」
誰かと食事をするのは久しぶりだ。肩を並べて言葉を交わしているだけで、胸の中で鬱屈としていたものが晴れていく。
宣言通り、食事を始めて程なく鍋は空になった。特段コウキが食い意地を張ったわけでもない。結局のところ、モミも空腹だったのだろう。
目を付けていた小川で食器と調理器具を濯ぎ、片付ける。それから焚き火の前に戻り、しばしの間、他愛もない話をした。
「それじゃあ、ぼちぼち寝るとしますか」
まだ早いが起床時刻を考えると、そろそろ横になった方が良いだろう。
「はい。あたしに構わず、テントで休んでくださいね」
コウキは、モミがテントを失ったことを、すっかり忘れていた。
「……いや、やっぱり、それはちょっと。僕こそ適当にやるんで、テントは使ってください」
ジュンやヒカリが相手なら気兼ねなく熟睡するところだが、なぜかモミにはそれができない。
「でも、そこまでご迷惑はかけられません」
今朝出会ったときからの揺るぎない自己犠牲の精神が、頑なにコウキの首を横に振らせる。
「迷惑じゃないです。むしろ、モミさんだけ外で寝られるほうが僕には迷惑というか」
「わかりました。あなたが外で寝るなら、あたしも外で寝ます」
「それはさすがに変でしょう」
コウキは失笑した。
「うーん、言われてみれば、それもそうですわね……あ!」
一瞬引き下がったかに見えたモミが突然大きな声を上げ、身を乗り出してくる。
「あたしたちが一緒にテントで寝れば解決ですわ!」
モミは、万事解決と言わんばかりに翠眼を輝かせた。焚き火の映る大きな瞳が間近にあって、コウキは思わず赤面する。頭の片隅で、まつげが長いな、とか思う。
「いや、それは、天才的な発想かもしれないけど……」
コウキのテントは一人用だが、寸法は成人用で、少年の身には広く感じる。互いに大人とは言えない年頃で、荷物をどければ二人で寝ることも十分可能だろうが、物理的なスペースの問題ではないと思う。
歯切れの悪いコウキに、モミは少し憮然とした顔になった。
「もしかして窮屈だと思いますか? そこまで太っているつもりはないのですけど」
「太ってるなんて思いません。ただ……」
「ただ?」
コウキは返答に窮した。
モミは、同じ十代にしては胸元や腰回りが豊かで、女性的な曲線がはっきりしていた。日焼けしていない美貌を見続けると緊張するので、時折視線を落とすと、衣服を押し上げる豊かな胸の膨らみが目に飛び込んでくる。慌ててさらに視線を落とせば、肉付きの良い脚にロングスカートがぴっちりと張り付いていて、どこにも逃げ場がない。
昼間はそうでもなかったのに、今は少しでも気を抜くと、彼女のプライベートな部位に視線が釘付けになってしまう。
一緒に寝ようと言われて、コウキは、体に生じた未知の反応に狼狽していた。異性に強烈な欲望を抱くのは、ほとんど初めてのことだ。これまでの短い人生で味わったことのない、体の芯から湧いてくる激しく熱い渇望には、恐怖すら覚えた。
そういえば、コトブキシティで共闘したヒカリは同い歳だが、三年もすれば、ここまで成長するのだろうか。本人が聞いたら激怒しそうなことをあれこれ想像し、気を紛らわせるしかない。
「……なんでもないです」
コウキの脳はすっかりオーバーヒートし、上手い言い訳など、ひとつも出力できなくなってしまった。
「では、問題ありませんわね」
モミは両手を合わせて、嬉しそうに微笑む。
たしかに厳しい旅の中では、女性としての尊厳を諦める場面も多々あるのだろう。だからといって男が譲ると言っているのに、頑なに聞き入れない思考回路は全く理解できない。
「……はい。そうですね」
コウキは、これ以上考えるのをやめた。ポケモンと旅をする中で、理屈で説明できない物事には飽きるほど直面してきた。今の状況もきっと、そのひとつに過ぎないのだから。
危険地帯における就眠時の心得として、寝間着ではなく平服のまま横になる。一番上のジャケットと帽子ぐらいは脱いでも、履物は絶対に脱がず、むしろ靴紐を絞め直す。夜半、攻撃的な野生ポケモンや悪意のあるトレーナーに襲撃されたとき、即座に対処するための備えである。
モミはブーツぐらい脱がせてほしいとぼやいたが、コウキは固く許さない。ならばと、見張りを兼ねて交代で休むことを提案したところ、今度は一度寝たら朝まで起きるのが難しい体質だと言い出す。呑気なものだと思う。
ポケモンに徹夜で見張りをさせ、自分だけ優雅に寝ているなどは論外である。朝から晩まで周囲を警戒し、出くわしたトレーナーや野生ポケモンに応戦し続けた彼らから休息を奪えば、信頼関係が破綻しかねない。
どのみち、コウキはわずかな異変でも、たちどころに目を覚ましてしまう。過酷な旅は、肉体を精密なレーダーのように作り変えた。ギンガ団をはじめ、危険な大人と相まみえる経験を重ねたコウキの五感はポケモン並みに研ぎ澄まされ、他人が向けてくる、ちょっとした悪意も見抜く第六感に近いものすら備えた。そうでなければ生き延びられなかった。
そうした感覚が、背中合わせに寝息を立てる、無防備な女の気配を鋭く感受してしまう。
モミは隣で、驚異的な速さで眠りに落ちていた。編み込んでいた長い髪を下ろしたと思うと、コウキが髪型の変化にときめく暇もなく横になり、一分とかからず意識を手放したのだった。エスパーポケモンの催眠術でも食らったかのような勢いである。とはいえ今日は休みなく歩き続けたから、きっと疲れていたのだろう。女性の身で、泣き言ひとつ言わずに付いてくるので、つい無理をさせてしまった。
コウキはひとつしかない毛布をモミに譲り、隣で肘を枕に寝転んでいた。じっとしていると使い慣れたテントの中の空気に、自分やポケモン以外の誰かの体臭が混ざっていることを、どうしても意識してしまう。
まさに、女そのものの匂いがした。風呂に入っていないのだから当たり前だが、石鹸やシャンプーの類いではない。彼女の体内で旺盛に働いているであろう女性ホルモンが作り出すのか、男をひきつける生物としての何か根源的なものが、嗅覚を通じて熱い官能に変換され、青臭い脳細胞を焼き尽くそうとする。
コウキは深呼吸をして、体温の排熱を試みた。が、むしろモミの匂いを肺一杯に吸い込んでしまい、エアインテークから新鮮な空気を取り込んだエンジンが回転数を上げるように、ますます体の中心部分が熱くなってしまう。
色々な意味で堪らない気持ちになり、固く目を閉じる。
過酷な環境で眠りにつくスキルなら負けていないはずだと、馬鹿げた対抗心を燃やしているうちに、わずかな微睡を得ることができた。
「……んん」
どれほど眠ったかも分からないうちに、モミの寝言なのか、小さな吐息交じりの声で覚醒したコウキは、自分が横になったまま、彼女と向かい合っていることに衝撃を受けた。それも、ほとんど息がかかるような至近距離である。背中合わせだったはずが、いつの間に寝返りを打っていたのか。それも、お互いに。
コウキは慌てて背を向け、テントの生地を凝視する。
顔が熱く、動悸が早鐘のように喧しい。いずれにしても自分などすっかり子供扱いで、異性としては眼中にもないであろうことに、些かの憤りも覚えた。そうでなければ、体温が伝わるほどの距離で眠ることなどできるはずがない。一人でどぎまぎしているのが、心底馬鹿馬鹿しくなってくる。
思わず舌打ちし、再び眠り込もうとするが、意外と幼げな寝顔が目に焼き付いて、なかなか消えてくれない。それどころか幾年もの間にわたり脳裏から消えることなく、今日の再会に至るまではっきりと覚えていたことは、やはり口にできることではない。
悪戦苦闘の末、ようやく一眠りできたのは夜明け前になってからで、不覚にも起床がやや遅れた。目を覚ますなり、寝坊かと顔面蒼白で跳ね起きたが、咄嗟にポケッチに目をやり、ちょうど朝日が顔を出しかける時刻で一安心する。
自分の体を見下ろすと、譲ったはずの毛布がかけられ、隣にモミの姿がない。いつの間に出て行ったのだろう。
コウキは毛布を畳み、テントからゆっくりと這い出た。夜闇の残滓がしぶとく残っているが、まもなく森の奥にも朝が訪れるはずだ。
テントの外では、モミが焚き火台で朝食の支度をしてくれていた。バーベキューネットの上に、湯を沸かすケトルと食パンを載せる傍で、ラッキーが食器を両手に控えている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
モミはこちらを見て微笑むと、ラッキーからマグカップを受け取りドリッパーを載せた。
「まあまあです……」
喉がカラカラで、返事は掠れた。
ケトルから湯を注ぐモミの姿は、寝起きとは思えなかった。深緑色のロングヘアは寝癖ひとつなく、昨日と同じ髪型に編んである。よほど快眠だったのか、肌の血色が良く、目元の腫れぼったさもない。こちらはすっかり寝不足で、ぼさぼさの髪が奇妙に立ち上がり、顔が浮腫んでいることは鏡を見なくてもわかる。不調和も甚だしい。
ふと、モミの衣装が昨日と違うことに気がつく。大まかな構成は同じだが、髪色に合わせてグリーン系でまとめていた昨日と異なり、上着からロングスカートまで全体的に黒を基調としていた。
たとえ風呂に入れずとも、衣類を着替えれば幾分すっきりするし、衛生面でも理にかなう。ただ森の中とはいえ外で脱ぐとは思えないから、こちらが眠っている間に隣で着替えたのだろうか。下着まで換えたとすれば、自分の横で裸になったことになる……。
馬鹿野郎。朝っぱらから何を考えているんだ、僕は。
寝癖頭を両手で掻きむしり、馬鹿げた想像を頭から叩き出す。
「どうかしましたか?」
モミが首を傾げながら、マグカップを渡してくれた。彼女の目を見ることができない。
「なんでもないです……」
コウキは顔を背け、受け取ったカップを口に運ぶ。インスタントコーヒーの香りが、色惚けした脳を一喝してくれる気がした。
コーヒーを飲み干してから、こちらも着替えることにする。テントに戻り、昨日から身につけていたものを脱ぎ、軽く汗を拭いてから、新しいものに袖を通す。残念ながら、モミのようなバリエーションはない。昨日同様、安っぽいロングTシャツに黒の長ズボン。衣服に対して実用性以外でどうこう思ったことは、今日まで殆どなかった。
目脂を取り除き、寝癖をハンチング帽で隠蔽しておく。そういえば、この帽子を最後に洗ったのはいつだろう。嗅覚は、女性のほうが鋭いと聞いたことがある。自分では何も感じないが、モミの鼻に不快でないことを祈るしかない。そして、次の街でこそまともな衣服と手鏡を買おうと、胸に固く決意する。
着替えたコウキは外に出る前に、テントの中を片付けることにした。昨夜貸した毛布を見て、また余計なことを考えそうになり、慌てて打ち消す。理性が働いているうちに、テントの隅に追いやっておく。次に、モミと共有したマットレスを折り畳む。よく見ると明らかに自分のものではない、長い髪の毛が一本付いている。修行僧のように頭を空っぽにして、機械的に取り除く。カフェインの回り始めた頭は、余計な思考を次から次へと生みそうになる。起きて早々、体力をかなり消耗した気がする。
疲れ果てたコウキがテントを出る頃には、男の一人旅では想像もつかない、朝食らしい朝食が用意されていた。折り畳み式の低いテーブルに、二人分のトーストと目玉焼き、コーヒーカップが並ぶ。モミは決して、地面に直接食器を置かない。食べ物がテーブルの上にあるだけで、かなり文明的な光景になる。
「全部やってもらっちゃって、すいません」
コウキが会釈すると、モミは笑って首を振った。
「いいえ、大したものではありませんから」
タープに目をやると、ポケモン達への給餌もしてくれたようだ。ボウルを両手で持ち上げ、口にポケモンフーズを豪快に流し込むラッキーの隣で、ヒコザルが何やら見慣れない餌を夢中で食べている。
「ラッキーが産んだ卵を溶いて、軽く炒めたものをポケモンフーズに混ぜました。勝手に与えてしまったのだけど、良かったかしら」
モミが、折り畳み式のローチェアに座りながら言う。
「あいつは好き嫌いないんで、喜んで食べてますよ。ありがとうございます」
コウキは、ボウルの中の卵料理を手づかみで口に運ぶヒコザルを横目に、モミの隣の席に着く。
「もしかして、この目玉焼きも?」
「ええ。ラッキーの卵を食べたことは?」
「いいえ、ないです」
「じゃあ、ぜひ食べてみて。自慢じゃないけど、どんな料理にしても美味しいの」
勧められるまま、目玉焼きをトーストに乗せ、がぶりと喰らい付く。ゆっくりと咀嚼すると、半熟の黄身がトーストに沁み込み、深く、濃厚な甘味が口いっぱいに広がる。
これは、うまい。コウキは、思わず目を輝かせた。夢中で貪り、あっという間に食べきってしまった。
「……信じられないくらい、美味しかったです。今まで食べた料理の中でも、一番かもしれません」
賛辞の言葉は、大袈裟なものではなかった。モミは感想を聞いて嬉しそうに目尻を下げ、カップにコーヒーを注いで渡してくれた。
「でしょう? 栄養満点で、免疫力も高めてくれるの。カロリーはそこそこあるようだけど、あたし達トレーナーは、よく歩きますからね」
言ってから、モミはようやく自分の食事に手を付ける。
コウキは、まだ口の中に残っていた卵の風味を、コーヒーの苦みで流し込んだ。この世に、これほど美味いものが存在するとは知らなかった。こんなものを毎日食べているのだとすれば、実に羨ましいことだ。
……ひょっとすると、彼女の年齢不相応なスタイルは、この卵によって作り上げられたのかもしれない。一口ずつ上品に食べる姿を見ながら、禄でもない推測をしてしまう。
食事が済むと、昨日と同じように小川で食器を洗い流す。それから小さな歯ブラシで、歯を一本一本丁寧に磨き、口をすすぐ。
タープとテントを撤収し、焚き火台の煤を払うころには、辺りはすっかり明るくなっていた。
この後についての打ち合わせを済ませ、テーブルとローチェアを畳む。
昨日と同じペースで進めば、今日で森を抜けられるはずだが、あまりのんびりとはしていられない。各自荷物をまとめ、さっさと出発することになった。
この日も天候に恵まれ、暑すぎず寒すぎず、歩きやすい気候だった。それは他のトレーナーにとっても同様で、案の定、修行中のトレーナーに度々絡まれる。
モミは引き続き、献身的にヒコザルの手当てをしてくれた。ヒコザルも、そんな彼女にすっかり心を許したようだった。
野生ポケモンの群れはやり過ごし、他のトレーナーは叩きのめす。昨日と同じように、コウキはモミの手を引き、必死でハクタイの森を突き進む。
昼下がり、さすがに休息しようと手頃な岩に腰を下ろしたとき、大柄な男のトレーナーが現れると、コウキの警戒心はピークに達した。彼がモミを視界に入れた途端、濃い髭に覆われた口元を厭らしく歪めたからだ。
コウキの放つ、凄まじい殺気を背負ったヒコザルの戦いぶりは苛烈を極めた。男が操るグレッグルを一方的に叩きのめしたばかりか、トレーナーに踊りかかり、直接攻撃を加えようとする。驚いた男が悲鳴を上げて命乞いをし、見かねたモミが制止の声を上げ、コウキはようやく構えを解いた。
男は顔面蒼白となり、這う這うの体で立ち去ろうとする。
「待ちなさい」
コウキは一瞬誰の声かわからず、ぎくりとした。
男は雷に打たれたように立ち竦んでいる。
「あなたのために戦ったグレッグルを、置いていくのですか」
恐ろしく低く、抑揚のない、絶対零度の声音。むかし、コウキの悪戯に激怒したアヤコでさえ、もう少し暖かい声で話していたのではないか。
ゆっくりと振り向いたコウキは、モミの整った顔から、一切の表情が抜け落ちているのを見て心底ぞっとした。
男は震える手で、意識のないグレッグルをボールに戻すなり、何度も木の根に躓きながら、命からがら逃げていく。
「モミさん、怪我はありませんか」
声をかけると、モミはたちまち穏やかな笑顔に戻り、腰を曲げて、ヒコザルの頭を撫でてくれる。
「あたしは大丈夫ですわ。コウキさんと、ヒコザルのおかげですわね」
その後は、ほとんど休憩しなかった。複数のトレーナーと同時に衝突したり、野生ポケモンを回避し切れず大群に出くわしたりと、モミのラッキーと力を合わせて間一髪で切り抜ける、剣の刃を渡るような場面が続く。
夢中だと、時間はあっという間に過ぎてしまう。陽が落ちて、すっかり夜の闇に包まれているのに、つい先ほど出発したような気がした。
真っ暗でも焦りや恐怖がないのは、すぐ目の前に森の出口があるからだった。
「あ、出口!」
モミが、指をさして言う。危険な森から出られる喜びで、声が弾んでいた。
「なんとか着きましたね。すっかり暗くなっちゃいましたけど」
コウキは、ようやく肩の力が抜けた。昨日から色々な意味で、気を張りっぱなしだった。
ずっと後ろに控えていたモミが、今日、初めて前に進み出る。
コウキはモミと横並びで、ゆっくりと出口を通り、205番道路に出た。森の外には大きな池があり、浮橋の上で、夜釣り客が竿を並べている。釣れるのはおおかたコイキングだろうが、波一つない水面に満月が反射して、静謐な時間が流れていた。
この浮橋を渡った先に、ハクタイシティがある。目的地は、もう目と鼻の先だ。
「よかった……ここまで来れたんだ。あたし一人だったら、絶対に無理だったわ」
モミが数歩先を行き、こちらを振り返って言う。月光を浴びた彼女の姿は、シンオウ神話に女神として登場しても不思議ではないほど、計り知れない魅力を纏い、コウキの心を激しく揺さぶった。
この光景は生涯、忘れることはないだろう。
「……僕のほうこそ、一人だったらきっと森を抜けられなかったと思います」
コウキの胸で、今まで味わったことのない、激しい惜別の念が渦を巻いていた。このままずっと一緒にいたいと、叶わぬ夢を見たくなる。
「あんなに強かったのですから、コウキさんはきっと一人でも抜けられたでしょう。無理やりついてきちゃって、ごめんなさいね」
「いいえ。モミさんと一緒に過ごせて、すごく楽しかったです」
コウキは、浮橋にそっと足を載せてみた。さほど揺れるわけでもないが、念のため、モミに手を差し伸べる。
「そう言ってもらえると、あたしは嬉しいけど……うん、そうね。あたしも、コウキさんと一緒にいられて、とても楽しかったわ」
モミは呟くように言って、そっとコウキの手を取った。森の中で引っ張りまわしていたときとは違う、柔らかい握り方。
「水の中のポケモンを驚かせたら、釣りをしている人たちの迷惑になりますから、慎重に渡りましょう」
無論、口実である。
「そうですね。あの方々の怒りを買って、橋の上でバトルになったりしたら、あたしなんて池に落ちてしまうかもしれませんわ」
相変わらず、ほにゃほにゃと笑う。
「大丈夫です。そうなったら、僕が引っ張り上げます」
意図せず、声に力が込もった。
「落ちるのは否定してくれないのね。あたし、泳げるかしら」
言われて、コウキはなんとなく、モミが池に落下する状況を想像してみた。慌てて手を伸ばした自分まで池に引っ張り込まれ、二人して藻掻く無様な光景が浮かんできて、思わず吹き出しそうになる。
モミも同じような想像をしたのだろう。顔を見合わせ、くすくすと、忍び笑いを交わし合う。
とっくに浮橋は渡り切っていたが、残り僅かな時間を惜しむように、手を繋いだままで歩き続けた。
やがて、目指していたハクタイシティの街並みが見えた。シティと言ってもコトブキとは様子が違い、背丈の高い建物は少ない。比較的こじんまりとした店や民家が立ち並ぶ、落ち着いた雰囲気の街である。
「ここがハクタイシティですか。初めて来たけれど、良いところですわね」
モミの言葉に、コウキは深く頷く。田舎過ぎず、都会過ぎず、全てがちょうど良い。文化の新旧が程よく調和していて、歴史の面影を残す街というキャッチフレーズに相応しい品格だ。いつか旅を終え、どこかに定住するなら、こういうところに住みたい。
目的地には着いたものの、別れるタイミングが、なかなか見つからなかった。
夜の静かな街路をしばらく歩いていると、月光を反射する巨大な彫像に出くわし、はっと息を呑む。今はそうでもないが、当時のコウキには見上げるほど巨大で、とんでもない怪物と対峙したように思えた。
「これが、伝説のポケモンなのね……」
同じく像を見上げたモミの、手を握り返す力が心なしか強くなったようだ。
「……あ」
コウキはようやく、手を繋ぎっぱなしだったことに気がつく。
「す、すみません!」
咄嗟に手を放そうとするが、モミの方が強く握りしめていて、離れることができない。
「え? どうかしましたか?」
「いや……」
きょとんとした顔で見つめられ、みるみる顔が熱くなってくる。かといって、強引に振り解くのも憚られた。
「その……さっきから、ずっと手を繋ぎっぱなしだったので」
今の自分はきっと、耳まで真っ赤になっているのだろう。恥ずかしさに耐え切れず、気弱に俯き、小さな声で指摘する。
「あら、そうですわね」
モミは、あっけらかんとしていた。コウキの右手を放すどころか、むしろ両手で包み込んでくる。
「……改めて、言わせて。この二日間、本当にありがとう」
「モミさん?」
コウキが顔を上げると、モミは翠眼を輝かせ、間近でこちらを覗き込んでいた。
「あなたのおかげで、あたし、夢ができましたわ」
「夢……ですか」
「ええ。あたし、傷ついた人やポケモンを癒すことが好きだし、得意だから……お腹が空いていたり、怪我をしたりして苦しんでいる方々を、ラッキーと力を合わせて治療するのが生き甲斐だったの」
将来は、ポケモンセンターで働きたいって思っていたわ、と。
モミは、静かに語り続ける。
「でも、それだけじゃだめだって、コウキさんを見ていて気付いたの」
「僕を見て……?」
「だってあたしが弱いせいで、コウキさん達が必死に庇ってくれて、傷ついて……これでは、本末転倒です」
「僕たちは、そんなこと」
「そんなこと、あるのです」
モミはぴしゃりと遮り、コウキの手を握り直す。
「だから、あたしも強くなります。この像みたいな、伝説のポケモンに勝てる日がくるとは思えないけど……だけど、それでも自分の身ぐらいは自分で守るの。それから、今度はあたしが誰かを守って、傷つく人やポケモンを一人でも減らすの!」
きっぱりと宣言したモミは、この二日間で、一番どきっとする顔をしていた。決意に彩られた美貌を前に、ますます顔が熱くなる。鼓動も、馬鹿みたいに速い。
それでもコウキは、今度こそモミの顔から目を背けなかった。
「……僕も強くなります。こんな化け物みたいなポケモンに襲われても、誰かを守れるくらいに」
あなたを守れるくらいに、と言えなかったことをコウキは先々まで悔やみ続けることになる。それでも辛うじて、彼女の手を両手で握り返したことだけは、評価に値すると思う。
「ふふ。それじゃあ、お互い頑張らなくちゃね。……あ、そうですわ!」
モミは何かを思い出したような声を上げ、ぱっと手を離した。
さして寒い夜でもないのに、両手が急速に冷えた気がする。
「あまり高価なものではないのだけど、お礼の気持ち……ぜひ、受け取ってくださいね」
地べたに下ろした荷物からモミが取り出したのは、素朴な、たったひとつの鈴だった。
「これは、やすらぎのすず。どういう仕組みかは分からないけれど、これを持っていると、色々なポケモンと仲良くなれるの」
「やすらぎの、すず……」
コウキは、受け取った鈴を月に捧げるようにして、矯めつ眇めつ眺める。一見どこにでもあるようで、素材の光沢を活かした地肌に安っぽさは欠片もない。軽く振ってみると、柔らかくて温かい音色がして、どこかモミの声音を思わせる。
「それじゃあ、僕からも」
コウキはやすらぎのすずを大切に仕舞うと、自らの荷物から、ひとつの貝殻のようなアクセサリーを取り出した。
「この二日間一緒にいてくれたこと、僕も感謝しているんです。だから、その……僕のも、大したものではないんですけど。良かったら」
「これは?」
「かいがらのすず、って言います」
それは、かつて家族旅行でホウエンを訪れた夏の日に、亡き父と海辺で集めた貝殻を、地元の老人に加工してもらったものだった。
「こんなに素敵なものを、あたしにくれるの?」
モミは、受け取った純白の鈴を月光に掲げた。
「いくつもありますから、どうぞ」
彼女は、すずが奏でる涼し気な音色を気に入ってくれたようだ。
「ありがとう。大切にしますわ」
モミは、かいがらのすずを両手で抱くと、花が咲いたような満面の笑みを見せてくれた。心底、嬉しかった。
同時に、これ以上一緒にいれば、本当に離れがたくなってしまうだろう。
「それじゃあ、僕はこれで。」
このまま彼女の顔を見ていると、執着に抗えなくなる。自分の弱さが怖かった。一刻も早く背を向けて立ち去らなければならない。
当時は、海外でスマートフォンが発明された直後で、トレーナーの大半は携帯電話など持ち合わせていなかった。地方によっては早くから通信技術が発達し、遠く離れたトレーナー同士での通話も可能だったようだが、シンオウにそのネットワークはまだなく、別地方から端末を持ち込んだとしても、圏外でどこにも繋がらなかっただろう。あの頃のシンオウにおける通信といえば、固定電話か、固定式のコンピュータでメールのやり取りをする程度のものだった。考えてみればスマートフォンの誕生は、ほんの数年間で世界を作り変えたと言っても大袈裟ではない。人類が生み出した科学の力には、宇宙を創造したとされるアルセウスでさえ舌を巻くだろう。
いずれにせよ当時、旅の出会いは一期一会。モミと過ごした時間も、一生に一度の縁でしかないはずだった。
「あ、待って!」
ゆえに引き留められたのは、意外だった。
「モミさん……?」
荷物を背負い直し、歩き出そうとしたコウキは、反射的に振り返る。
「コウキさん、締め切りを決めましょう!」
モミの顔は、打って変わって真剣だった。
「締め切り……?」
「そう。さっき、お互いに夢の話をしたでしょう。だから、それの締め切りを決めなくちゃ」
「どういうことですか?」
「夢って、"いつか"じゃ叶わないと思うの。だからここで、いつまでに叶えるのか決めましょう」
コウキは、思わず目を丸くした。先ほどの言葉は、一時の感情の高まりなどではなかったのか。彼女のことを、無意識に見くびっていたことに気づき、反省の念がこみ上げてくる。
「あたしは、そうですね……」
モミはポケモンの像を見上げ、長い間、考え込んだ。コウキは息を詰め、彼女の言葉をじっと待つ。
清々しい秋風が幾筋か、二人の間を通り過ぎた頃。
モミは真正面からコウキを見つめ、はっきりと告げた。
「五年にします。五年で、目の届く限り誰も傷つけさせない、強いトレーナーになってみせますわ」
翠眼に鋭く宿った決意の光は、間違いなく本物だ。
コウキは歩み寄り、今度は自分から彼女の両手を取った。
「だったら、僕も五年です。僕は誰にも負けない強いトレーナーに、強い男になってみせます」
「約束、です。破ったら、許さないんだから」
握り返してくるモミの握力は、先ほどよりも、遥かに力強いものだった。
「絶対、破ったりしませんよ。だからその時は、もう一度ここでモミさんに、僕の強さを見てほしいです」
「もちろん。あたしの強さも、ぜひ見てくださいね」
「じゃあ五年後に、またここで」
「ええ。五年後の、同じ日に」
モミは手を握ったまま、ポケモン像を見上げて言う。
「ここで神様に、あたしたちがどれだけ成長したのか見てもらいましょう」
コウキも像を見上げ、鋭く睨みつけた。
「望むところです」