しょうぶどころの一角で、事情をかいつまんで語るに留めたいコウキと、ディテールまで微に入り細を穿って聞き出そうとするジムリーダー陣との間で展開された、きわめて馬鹿馬鹿しい攻防が決着を迎えた。要所要所でモミが援護してくれたが、結局、大半のことは白状させられた気がする。むろん、彼女の肉体に仄かな劣情を抱いたくだりは伏せたが。
「へえぇぇ……」
頬杖をついて聞き入っていたナタネが茶髪の毛先を弄り、底意地悪い笑みを浮かべた。
「ハクタイにそんな甘酸っぱい伝説があったなんて知らなかったなぁ。ジムリーダーとして、勉強不足だったよ」
「で、伝説って……」
顔を真っ赤にしたモミが、翠眼を落ち着きなく右往左往させてから、きっとした目つきで睨みつけてきた。彼女には悪いが、全然怖くない。
「コウキさんも、そこまで正直に話さなくてもいいじゃないですか!」
「へ?」
「ぶふっ」
先ほどから肩を痙攣させていたスズナが、コウキの間抜けな反応に止めを刺され、盛大に噴き出す。
共に危険地帯を切り抜ける中で、互いの未熟さを痛感し、強くなると誓い合った。言ってしまえばそれだけのことだ。
「僕は、あくまで事実を述べたまでですよ」
コウキは、わざとらしく肩を竦めてみせたが、ほとんど無視された。
「モミ、アナタ……意外と大胆ね!」
メリッサが嬉しそうにモミを見やる。相変わらず、普通過ぎる髪型と服装に見慣れない。
「そんなに早くから、チャンピオンのフィアンセの座をゲットしていたなんて!」
「フィ……そ、そんなんじゃありませんわ」
「そんなんじゃないというのは、その、正式なプロポーズをまだしてもらっていないから、ですか?」
「スモモちゃんまで、やめてください……」
モミは両手を広げ、大袈裟に首を振って見せた。そこまで必死に否定されてしまうと、少々寂しい気持ちになってくる。できるだけ事務的に語ったつもりが、期待していたような淡泊な空気を作り出せなかったのは、非常に申し訳なく思うが。
「モミさんはバトルだけじゃなくて、男を見極める目も一流だったってわけね。あたしも森でくさポケモンばっかり追いかけてないで、出会いの方も探した方がいいのかな……」
ナタネの切実なぼやきに、しめたと思った。
「モミさんのバトルが一流? 気になりますね」
我ながら実にわざとらしい声だったが、幸いスズナが食いついてくれた。
「えーっ、コウキくん知らないの!? モミさんって今、バトルタワーで大活躍してるんだよ。この前マスターランクに上がって、スポンサーまでついたんだから!」
「そうなの!?」
今度の反応は、演技ではなかった。驚いてモミを見ると、彼女の恥じらいの質が変わった。
「タワータイクーンに勝ったコウキさんの前で、そんなに持ち上げないで」
「全然持ち上げてないし! 比べる相手が悪すぎだから。あたしは、事実を述べたまでですよ」
コウキの口調を真似たつもりらしく、スズナは言葉の後半で声を低くした。
バトルタワーは誰にでも平等に門戸が開かれている点で、一地方の看板を決めるポケモンリーグとは趣を異にする。実力さえあれば、いかなる外道であろうと、のし上がることができる。必然、全国から血に飢えた戦闘狂や、成り上がりを目論む野心家が集い、日夜鎬を削り合う魔境と化していた。その中でも選りすぐりの精鋭だけが上がることを許されるマスターランクの舞台は、並みの才能や努力では一生かけても辿り着けない領域だ。
その中でも上位の実力と認められれば、フロンティアブレーンの一角にして、バトルタワーの頂点に君臨する『タワータイクーン』に挑む権利が与えられる。ポケモンリーグのチャンピオンとは事情が違い政治的な権限はなく、立場を奪い取れるわけでもないが、勝利すればチャンピオンにも劣らない、莫大な富と名声を手にできた。
「コウキくんはチャンピオンだし、クロツグさんにも勝ってるし……ぶっちゃけ、これ以上ない玉の輿だよね」
ナタネが手酌で注いだ酒を煽りながら言う。この酔っ払いは、何としても話をそちらの方面に戻したいようだ。
「でもさ、ハクタイの森で出会ったときのコウキくんって、まだ何者でもなかったわけでしょ。その頃から、この子は将来大物になるって、それはもうビビッときちゃったわけ?」
「そんなつもりじゃなくて……あたしはただ、一緒に進んでくれる人を探していたから」
「そのわりには、ロマンチックに再会とか誓い合ってましたけど?」
「え、えーと、あの、あ!」
追い詰められたモミが素っ頓狂な声を上げ、勢いよく立ち上がった。危うく後ろに倒れかけた椅子を素早く支えたナタネが、何事かとモミを見上げている。
「あの、コウキさん! あの時のヒコザルに……今はゴウカザルでしたか。もしよかったら、彼に会わせていただけませんか?」
テーブルをはさんで、勢いよく指をさしてくるモミに、コウキは笑って頷く。
「ええ。もちろん、構いませんよ」
コウキは立ち上がり、ベルトに装着したモンスターボールの中で、小傷だらけのひとつを拳で軽く小突く。たちまち、ぱかりと開いたボールの口から光の粒子が迸り、ゴウカザルが弾丸のように飛び出した。テーブルから少し離れた床に着地した彼は、頭上の炎をとろ火ほどの火力に抑えている。
「まあ、立派になって」
モミは両手を合わせて、久しぶりに会う親戚の子供と再会したかのような顔になった。
「おー、コウキのゴウカザル、ますます貫禄出てきたね」
メリッサの言葉に、スズナが頷く。
「他の子も気合入ってるけど、やっぱりこの子は別格だよ」
大方の話は、ボールの中で聞いていたのだろう。ゴウカザルは五人分の視線にも動じることなく、床にあぐらをかき、太々しく欠伸を噛み殺している。
スモモが、ふと首を傾げた。
「ゴウカザルは、モミさんのことを覚えているでしょうか?」
コウキは退屈そうな相棒をじっと見て、答える。
「覚えていると思うよ」
それを聞いたモミが、にこにこ顔でテーブルを迂回し、ゴウカザルに歩み寄っていく。恩も恨みも絶対に忘れないやつだから、甲斐甲斐しく世話をしてくれた人物は、きっと好意的に記憶しているはずだ。
ゴウカザルは首を動かさず、目だけで彼女の顔を見上げると、口の端をにっと釣り上げた。
「テレビで見ても分からなかったけど、実際に会ってみるとヒコザルの面影があるのね」
モミはしゃがみ込み、ゴウカザルと目線を合わせようとしている。
「そうですか? 毎日顔を合わせてるのに、僕にはわからないな」
コウキも椅子から立ち上がり、モミの隣で腰を落とす。
「ずっと一緒にいると、かえって気づきにくいこともあります。それに、あの……もしかして、この鈴は」
モミはコウキと並んでしゃがみ込んだまま、ゴウカザルの胸元に右手を伸ばし、彼の首にかかるアクセサリーを手のひらに載せた。ヒコザルの頃はネックレスに見えたが、進化した今はチョーカーに近い。先端に釣り下げた鈍色の鈴は特殊な樹脂でコーティングされ、物理的な強度を高めつつ音色のボリュームを抑え、隠密行動においても邪魔にならない工夫が施されていた。
まぎれもなく、あの日モミから授けられた『やすらぎのすず』である。ただ、かなり手を加えてしまっている。
「すいません、ちょっと改造しちゃいました」
コウキは少しバツが悪くなり、言い訳がましく言う。
本当なら家宝か何かのように、厳重に管理すべきだったのかもしれない。深窓の令嬢さながらに、決して汚さず、決して傷つけず、血なまぐさい闘争とは無縁の空間で大切に保管していれば、こんな野暮ったい加工はしなくてもよかった。だが、もしそうしていたら、自分はここまで強くなれなかった。モミとの約束を果たすことは絶対にできなかったという、確信めいたものがある。
「もしかしてとは、思っていたのですけれど……本当に、あの時の鈴なのね」
ゴウカザルは馴れ馴れしい人間を嫌うが、鈴を撫でるモミの白い指先は、拒絶することなく受け入れている。
「……嬉しい、です。あの頃は本当にお金がなくて、他にお渡しできるものがなかったの。それなのに、ここまでして、ずっと大事にしてくださるなんて」
モミは言葉通り、本当に嬉しそうな顔を見せてくれた。コウキも、ほっとして表情が緩む。ゴウカザルの前でしゃがんだまま、忍び笑いを交わしていると、本当にあの日に戻ったような気持ちになってくる。
「あたしがゴウカザルなら、何を見せられてんだって気分になると思う」
「スズナも、さすがにナタネさんに同意するよ」
「さすがにってどういう意味よ」
気の抜けた声に振り向くと、ジムリーダー達はわざわざ椅子を動かしコウキたちの後ろに特等席を拵え、見世物でも鑑賞するかのように、こちらのやり取りを面白おかしく眺めていたらしい。ナタネに至っては椅子に対して逆向きに座り、行儀が悪いことこの上なかった。座面を脚で挟んでいるため、しゃがんでいるコウキからは股が見えるのだが、指摘すべきなのだろうか。
「ご、ごめんなさい。皆さんを無視して話を進めてしまって」
モミが慌てて腰を上げると、立ち眩みを起こしたらしく、足元がふらつく。踵が高い靴を履いているのが仇となり、二、三歩たたらを踏んだ。
「うわ、大丈夫ですか?」
コウキが咄嗟に立ち上がり、華奢な肩を支える。
「おー、ジェントルメーン……」
椅子に横向きで座り、背もたれに肘を載せたメリッサが目を細めた。
モミは一瞬体をびくりと震わせ、コウキの顔を間近で見つめてから、ばっと距離を取る。
「す、すみません。ここのところ運動不足で」
背けた横顔が、耳まで赤い。
「そうなんですか。実は、僕も最近運動不足なんですよね」
自分でも何を言っているのかよく分からない。
「っていうか、さっき鈴を交換したって言ってなかった? じゃあ、モミさんのハピナスがつけてる髪飾りも、そういうことなんだよね?」
ナタネが、疲れ切った声で問いかけてくる。
「髪飾り?」
コウキが首を傾げると、モミは少し迷う素振りをした後、おずおずとモンスターボールを掲げた。汚れの少ない綺麗なボールから湧き出た閃光が、丸っこい桃色の生物に変化し、ふわりと床に降り立つ。
「ハピナスに進化したんですね」
ラッキーの頃より一回り大きくなり、肩と腹回りに小さな翼のような体毛を備えた姿は天使さながらの可愛らしさで、見ているだけで邪気を抜かれてしまう気がする。転じて、この子の前で悪事を働くことはできないという、なんとも言い難い圧迫感を覚えた。ふりまく笑顔の奥には悪意の欠片も存在しないのに、舐めた真似は決して許さない、純度100%の善意に基づく独特のプレッシャーをかけてくるのである。
「コウキくん、ハピナスの顔の横を見て」
いつの間にか横に並んでいたスズナが、囁くように言ってくる。言われるまま、パーマをかけたような毛束に目をやると、ハピナスから見て右側の一箇所に、白いアクセサリーが取り付けてある。
「これってもしかして、かいがらのすず……?」
コウキが歩み寄ると、ハピナスはにっこりと笑う。
位置的に髪飾りというより、イヤリングのようにも見えた。破損しにくい特殊な加工を施した『かいがらのすず』に、金属の留め具を後付けしたようだ。
「モミさんこそ、ずっと大事にしてくれていたんですね」
「あたしも、ちょっと改造しちゃいましたけど」
はにかむモミと視線を交わすと、さすがに顔が火照るのを抑えきれず、床の一点を気まずく見つめることしかできない。
「コウキさん、モミさん……さすがに、観念した方がいいんじゃないでしょうか」
ポケモンと格闘技以外には関心の薄いスモモまでが、やや赤らんだ顔で降伏を勧めてくる有様である。
「観念、とは……?」
よせばいいのに、モミが聞き返してしまう。
「……」
幸か不幸か、スモモは気まずそうに黙り込んでいる。
コウキは大きく深呼吸し、覚悟を決めた。この空気をなんとかするには、もう、これしかない。
「モミさん。今から、バトルしましょう」
表情を引き締め、厳然と対戦を申し込んだのである。
そもそも、この店は人の恥ずかしい過去を詮索したり、偶然再会した男女を公開処刑にしたりするためにあるわけではない。その名の通りバトル談義に花を咲かせたり、一流のトレーナー同士が手合わせをしたりする、エキサイティングな社交場のはずだ。にもかかわらず、先ほどまでコウキが覚えていた心身の火照りは、強敵との邂逅から生じる挑戦的な興奮とは種類が全く違っていた。
この危機的状況をぶち破る手はもはや、ただひとつしかない。あの夜別れてから、命がけで積み重ねてきたものをぶつけ合うのだ。チャンピオンとしてではなく、ひとりのポケモントレーナーとして。何より、ひとりの男として、である。
「……!」
モミが弾かれたように顔を上げたとき、ジムリーダー達から酒気が消え失せ、瞳に獰猛な輝きを宿し始めていた。
すなわち今ここで、あの日交わした約束の答え合わせをしよう。予定より早く、場所も違うけれど、そんなことは些事だ。
「……ええ、そうですね。そのために、ここまで来たんですもの」
馬鹿騒ぎに翻弄され、赤くなったり青くなったりしていたモミの顔が凛と引き締まり、不敵な微笑に自信を滲ませている。
コウキのすぐ後ろで、ゴウカザルが立ち上がる気配がした。
ハピナスは相変わらず、にこやかにモミに寄り添っている。
「おーい、ガチでやるなら外で頼むぞ。本気で暴れられたら、保険じゃ賄いきれねえ」
慌てた様子で声をかけてきた店主に頷き、コウキはゴウカザルを伴って、ゆっくりと店の扉を開いた。店内のシャンデリアもなかなかの光量ではあるが、太陽光には太刀打ちできるはずもなく、ほんの一瞬、視界が純白に染まる。
チャンピオンに続いて、モミを先頭に、世間に顔を知られた女たちがぞろぞろと外に出てくると、案の定注目を集めてしまう。サバイバルエリアでたむろしていたトレーナー達が、たちまち群がってきて、スマホを取り出し、許可もなく撮影を始めた。
「チャンピオンとジムリーダーがくるイベントの告知なんて、あった?」
「ないよ、多分お忍び。万バズ確定」
「チャンピオンがこんなところでバトルかよ。相手は誰だ?」
「知らないの? たまに晒されてるよ」
「当たったら嫌なトレーナーの一人ではある。夜のバトルなら別だけどな」
「この前あいつの剥きコラ拾ったから、DMで送ってやるよ。濃いのが出るぜ」
もはや、こちらが慣れるしかないのだろう。無礼極まる観衆やメディア関係者の前でも、決して余裕を失わないシロナに対し、今さらのように尊敬の念がこみ上げてくる。
雑音が飛び交う中、コウキは努めて無表情のまま、5・6メートルほどの間合いでモミと向かい合った。
「ひゃー、すごい注目されちゃってるね! スズナたち大人気じゃん!」
「大人気というか……それに注目されているのは、あたし達じゃなくてコウキさんとモミさんですよ」
観衆に向けてポーズを決めるスズナを、スモモが冷ややかに窘めている。
「それじゃあ、審判はあたしがやるね」
ナタネが進行役を買って出ると、スズナが意地の悪い顔で制止する。
「あれだけ飲んで、二人の試合を仕切れるの?」
「あたしを誰だと思ってるわけ?」
「アタシが代わりましょーか」
「メリッサまで!?」
ナタネがわざとらしく落ち込んで見せると、スズナたちはからからと笑う。いずれにしても、じゃれ合いに過ぎず、本気でナタネの手腕を疑う者は誰もいない。彼女に限らず、シンオウの女性ジムリーダーの天才性は誰もが認めるところで、ナタネ、スズナ、スモモの三人は十代の頃からジムを預かる立場にあった。メリッサは二十代での就任だが、別地方から移住してきて間もなく頭角を現し、町興しのコンテストでも活躍するなど、二足の草鞋を履きこなす才女である。
コウキもしばしば天才と評されるが、才能に限って言えば高が知れていると、強く自覚していた。今はともかく、かつてジムを巡っていた頃など、彼女たちからすれば取るに足らない腕前だったはずだ。形の上では勝利を収め、バッジを受け取ることができたのは、挑戦者を叩き潰すことがジムリーダーの職務ではないからである。
実際コウキが敗北した回数は、一度や二度では済まない。山賊のような大人たちに寄って集って身ぐるみを剥がされ、ポケモン共々行き倒れ寸前まで追い詰められたこともある。傷が膿んで高熱にうなされながら、飲み水を求めて荒野を彷徨ったこともあった。何があってもしぶとく生き延び、這い上がることができたのは、異常とも言うべき強さへの執着が、傷だらけの体と心に後退を許さなかったからだ。
手持ちのポケモン達には、随分厳しく鍛えてしまったと、すまない気持ちも少なからずある。馬鹿げた執念ひとつで突き進む、未熟極まる子供を信じたばかりに、何度も辛い思いをしただろう。
だが……その全てが、今日この瞬間に報われるのだ。
「僕は、最初からこいつでいきますよ」
背後に控えていたゴウカザルが、待ってましたとばかりに進み出る。
ポケモンを先に出すのは、不利を受け入れる意思表示である。つまり相手に手心を加えることになるが、コウキの相棒がゴウカザルであることは周知の事実であり、出し惜しみをしないという意味では、対戦相手への敬意の表れとも言えた。
「チャンピオンに胸を貸していただけるなんて、滅多にない機会。感謝しますわ、コウキさん」
モミは店を出る前に、ハピナスをボールに戻していたらしい。コウキの厚意を素直に受け止め、改めて送り出したのは、紫色の肌を持つ、気球のような姿のフワライドだった。こちらを見据える両目は、生物の眼球というより衣服にかかるボタンのようで、まるで生気を感じられない。このポケモンには格闘戦が一切通用しないばかりか、上空から一方的に攻撃される危険もあった。なるほど、ゴウカザルは不利である。
「うげっ……」
相変わらずゴーストポケモンが苦手らしいナタネの表情がわずかに曇ったが、すぐに気を取り直して、コウキとモミに鋭く目配せをする。
覚悟はいいか、など。今更聞かれるまでもない。
コウキは、口元に笑みを浮かべた自分を意外に思う。これまで手段に過ぎなかったバトルに、信じられないほどの昂りを覚えていた。気を抜けば観衆の前であるにもかかわらず、激しく勃起しかねない。
だが、深呼吸をひとつすれば、たちまち気は鎮まった。そして昼間だというのに視界が薄暗くなり、対峙しているフワライドだけが淡い光を帯び、ぼうっと浮かび上がるように見えてくる。対戦相手がちらりと覗かせる、針の穴ほどの隙や弱みをも見逃さない、極限の集中の内に精神を押し上げたのである。
「準備は良いみたいだね。それじゃあ……バトル、開始!」
ナタネが進み出て、右手を掲げた瞬間、ゴウカザルが弾丸のように襲いかかった。高度を取られる前に捕まえたかったのだろうが、その両手は間一髪で空を切り、上昇を許してしまう。
フワライドは地上を悠然と見下ろし、リボンのような腕を顔の前で二枚重ねた。たちまち、どす黒いエネルギーが集結していく。そして青空の一部が丸く切り抜かれ、その一点だけが宇宙に直結したかのように見えるほど、底の知れない暗闇を球状に練り固めたものを、猛烈な速度で撃ち下ろしてきた。
――シャドーボール。
無論単発ではなく、雨霰と連射してくる。
ゴウカザルは地上を駆け回り、フワライドに的を絞らせない。怨念の塊が地面に激突する度に、中身を血液さながらに飛び散らせる。無数の飛び降り自殺者が次から次へと墜落してくるような、ぞっとする光景だった。
「高度制限なしの屋外戦じゃ、当然こうなるわな」
観衆の一部が喚き立てる。
「あいつの戦い方は毎回あんな感じで、とにかく汚ねえんだ」
「汚いっていうか、いやらしいんだよ。いやらしいのは身体だけにしておけっての」
モミに敗れた者の怨嗟であろうか。
言い訳は、敗北の痛みを和らげるが、同時に己を停滞させる。自分の無力さを直視する苦痛に耐えた者だけが、わずかに一歩、先へ進むことができる。そして、その積み重ねこそが、資質の有無や技能の高低をも覆す、揺るぎない強さの地盤となるのだ。
何発目かも分からない漆黒の球体が中身をぶちまけた頃、コウキはようやく声を発する。
「……そろそろ、かな」
指示らしい指示でもなく、ゴウカザルは振り向きもしない。それでいい。意図は間違いなく伝わった。ポケモン達には、戦闘中は何があっても相手から目を離してはならないと、きつく教え込んである。それは何らかの指示を下した際も例外ではなく、耳だけで聞き取り、一度で正確に理解するよう徹底的に仕込んだのだ。
コウキに限らず、初心者の域を脱したトレーナーは普通、戦闘中に逐一指示を出すことはない。仮に「ピカチュウ、10まんボルトだ!」などと口にすれば、次の行動が相手に筒抜けとなるからだ。モミのフワライドにしても、高所から技を撃ち下ろす判断を自ら下していた。トレーナーとは、事前に打ち合わせ済みなのだ。
安全圏から一方的に攻撃し、逃げ回る相手が疲れたところを確実に仕留める。シンプルだが理にかなった戦法だ。
相手が、並みのポケモンなら。
「いつものことではありますが……あれだけ走り回っても全く息切れしないなんて、どんな鍛え方をしているのでしょうね」
腕組みをしたスモモが、真剣な顔で呟く。
モミはさすがにポーカーフェイスを保っているが、ポケモンはそうもいかない。技を連発したフワライドの顔に、疲労の色が滲み出たのを、コウキの鋭い視力が捉えていた。
モミには悪いが、このゴウカザルに体力勝負を挑むのは下策だ。こいつは相手の技が尽きるまで、何時間でも走り続けるだろう。
降り注ぐ弾幕が途切れると、ゴウカザルは立ち止まって四肢を踏ん張り、鼻から深く息を吸い込んだ。数秒後、肺が破裂するのではないかと思うほど大きく胸郭を膨らませた彼は、顎が外れんばかりに大口を開き、凄まじい火炎の息吹を頭上へ吐き出したのである。
――かえんほうしゃ。
フワライドは身を翻し、間一髪で直撃を免れたが、ゴウカザルは一直線の炎を連発し、長槍で突き上げるようにして追い詰めていく。フワライドは紫色の肌を焦がしながらも空中で独楽のように回転し、火柱の隙間を懸命に縫う。
モミには、フワライドを救う秘策はないようだった。
激しい回避機動を繰り返し、やがて疲れ果てたフワライドが高度を下げた瞬間、ゴウカザルが空中へ躍り上がる。そして右の拳が漆黒に染まり、五指の先が不気味に伸びて、鎌のように鋭利な鉤爪を形成していく。
――シャドークロー。
かつてメリッサに勝利したとき、バッジと共に贈られた技マシンで習得した技だ。ギラティナとの対決でも振り回した、亡霊を引き裂く暗黒の刃である。
フワライドの胴体に大きな切り傷が走り、風船から空気が抜けるような音と共に、錐揉み状態で墜ちてゆく。
誰もが勝負あったと思ったとき、フワライドは地面に衝突する直前で最後の力を振り絞り、落下の軌道を変え、先に着地していたゴウカザルに飛びつこうとした。腕を絡みつけて自爆し、せめて一矢報いるか、あわよくば刺し違えようというのだろう。ゴーストポケモンらしい意地の見せ方だ。
もしも、これが『だいばくはつ』とか『じばく』とか、破壊力が桁外れの大技なら危険だった。しかし愛情深いモミが、我が身を犠牲にする残酷な技を教え込むとは考えられない。あくまで特性としての『ゆうばく』が本能的に発動したに過ぎず、ゴウカザルは容易く腕をすり抜ける。
小規模な爆発の後、倒れたフワライドは空気の抜けた風船のように、ほとんど平坦になるまで潰れ、バッテン模様の口元から一筋の黒煙を吐き出していた。
ナタネが割って入り、判定を下す。
「そこまで。ゴウカザルの勝ちね」
たちまち、どよめきが広がる。
「めちゃくちゃスッとしたよ。あんまり調子に乗ってんじゃねえぞボケ」
「ちょっと勝ち越したぐらいで、いい気になるからだ。大人しく森に帰って娼婦でもやってろ」
薄汚い野次を飛ばす者は、声こそ大きいものの、人数が多いわけではない。
「そこ! いい加減にしてください!」
桃色の短髪を逆立てたスモモが観衆の一角を指差し、大音声を轟かせた。
「度を超えた暴言は進行の妨げになります! 一流のトレーナー同士のバトルです。静かに見学できない人は、即刻立ち去ってください」
スモモの背後で、ルカリオが青白い毛並みに殺気を漲らせている。主従共々しなやかな筋肉に覆われた全身から、悪意を跳ね除ける熱い気概と、獰猛な捕食者にも似た威圧感が滲み出ていた。
スモモは、コウキをして、年下とは思えない気骨と技量の持ち主である。シンオウにおけるジムリーダー就任の最年少記録は、今後も当分は破られないだろう。
野次を飛ばしていた一団は、聞く者の肺腑を揺るがす怒声にすっかり肝を潰されたらしい。おとなしく観戦していた大半のトレーナー達からも冷たい視線を浴び、気まずそうに背中を丸め、すごすごと退散していく。
文字通り肩身の狭い後ろ姿が見えなくなってから、スモモはふんと鼻を鳴らし、コウキとモミに一度ずつ頭を下げた。
「どうも失礼しました。ナタネさんも」
スモモは、審判役のナタネにも会釈する。
「出たよ、スモモちゃんの喝」
ナタネが苦笑すると、スズナがスモモの肩を労うように叩く。
「今回は我慢したほうでしょ」
コウキは、相手にしてやるだけ情に厚いと思う。当のモミなどは外野の罵声どころか、スモモの声すら聞こえていないかのようだ。現に今もフワライドを戻したボールをじっと見つめて、周囲を気にする様子もなかった。先発として果敢に戦った手持ちポケモンを労っているのか、次の選出を思案しているのか、はたまたその両方か。いずれにしても、なかなかの集中力だと思う。
ゴウカザルの洗練された業前を目の当たりにした彼女が、じっくりと考え抜いた末に繰り出したのは、巨岩のような体躯を誇るかくとうポケモン、ハリテヤマである。小細工が通じないと見たのか、かくとうポケモン同士の真っ向勝負に切り替えたようだ。
「うーん、これは……」
スモモは、渋い顔をしていた。
「二本目、開始!」
ナタネが声を張り上げるなり、観衆は激しい打撃の応酬を予測し緊張したが、両者の対戦は不気味なほどに静かな立ち上がりを見せた。
ハリテヤマは巨大な両手で守備を固め、上体を細かく揺らし、無言のプレッシャーをかける。対するゴウカザルは構えを取ることもなく両手をだらりと下げたまま、巨体が詰め寄る圧迫感を、そよ風に揺れる木の葉のように受け流していた。
コウキはハリテヤマを一目見て、できると感じた。マスターランクを勝ち抜くだけあり、生半可な鍛え方ではない。肥満して見える体の真実は、筋肉の塊であろう。全身が強靭な肉の装甲で覆われている。技量も申し分ない。水面を滑るように進む足運びは、200kgを超える体重を感じさせず、あらゆる格闘術を自在に操る熟達の武芸者らしい佇まいである。
だからこそ彼は間合いに入る直前で、ぴたりと足を止めた。ゴウカザルの全身に些かの力みもなく、いかなる攻撃にも対処し得る柔軟な気勢が満ちているのを、はっきり見て取ることができるのだろう。
どちらかが毛ほどでも隙を見せれば、勝負は瞬時に決する。両者はじっと睨み合ったまま、一触即発の読み合いに突入していく。恐るべき緊迫した気圧が一帯を支配し、見つめる観衆は一人残らず息を詰めた。
「やば……」
猛吹雪の中でも厚着しないスズナが青ざめた顔で震え上がり、我が身を抱き締めている。その肩を抱くメリッサも、表情が完全に凍り付いていた。
張り詰めた空気の中で、コウキは一人、感動に胸を打たれていた。よくぞここまで鍛え上げた。彼女がどれほどの覚悟で心を鬼にして、愛する手持ちポケモンに厳しい修行を課したのか、想像に余りある。
本当に素晴らしい仕上がりだ。……とはいえ。
それでも……やはり。
ゴウカザルには、一歩及ばない。
「間もなく決着ですよ、ルカリオ」
額に冷や汗を浮かべたスモモが、緊張に拳を握り固めた相棒に声をかけたとき、均衡が崩れた。
ゴウカザルが、不意に顎を開く。そして、ハリテヤマの間合いの外から『かえんほうしゃ』を放つ――”フリ”をした。
ハリテヤマはボールの中で、前の一戦を観察していたのだろう。ゴウカザルが口から火を噴くことを知っており、灼熱から顔を守ろうと、本能的に両手を上げる。ほとんど無意識の行動だろうが、それが命取りとなった。
その瞬間ゴウカザルが土を蹴り、迅雷の速度でハリテヤマの懐に飛び込む。わずかに生まれた防御の隙間から、左右の拳による猛ラッシュを土手っ腹に叩き込んだのだ。
――インファイト。
肉を穿つ恐ろしい音が響き渡り、分厚い腹部が拳骨の形に陥没する。めり込んでいた拳が離れると、腹はすぐに元の丸みを取り戻したが、体内では内臓が踊り狂っているのだろう。ハリテヤマは両目をひん剥き、打たれた腹を両手で抱えた。間近で見ていた観衆の一部が呻き声を上げ、自らの腹を同じように押さえている。
一撃で倒れず持ちこたえたのは、むしろ気の毒だった。呼吸が止まるほどの苦痛で土色になった顔面に、今度はジャブのような追い打ちの拳が飛んだ。
――マッハパンチ。
この技を視認してから回避するのは、いかなるポケモンでも不可能に思えた。
軽いが、的確に脳を揺らす一撃に意識を飛ばされかけたハリテヤマは、慌てて頭部を両手で覆い隠した。すると、今しがた強打を受けた腹を打たれる。痛む腹を反射的に庇うと、次はまた顔面を殴られてしまう。
ハリテヤマは巧みな上下の打ち分けに翻弄され、手も足も出ない。間合いの内外を自由に出入りする、軽やかなステップに対処する力は、重大なダメージを負った体のどこにも残っていないようだった。
スモモが、たまりかねて言う。
「ナタネさん、止めてください」
ゴウカザルがパンチを放つと見せかけ足元を払うと、すっかり腰が引けた巨体は容易く重心を失い、地響きを立てて横転した。
「ちょっ……そこまで、そこまで! ストップよ!」
大の字になったハリテヤマを見下ろし、これ見よがしに拳を振り上げたゴウカザルに、ナタネが慌てて声をかける。
「ゴウカザルの勝ち!」
裁定を聞くなりゴウカザルは素直に構えを解き、コウキの前に戻った。首と肩をぐるりと回し、関節の緊張をほぐしながら、次の相手を待ち構えている。
「早く、自分を止めろと言っているようでした……」
スモモは試合の終盤から、ゴウカザルが苛立たしげな視線をナタネに送っていることに気づいていたのだ。
慰めにもならないので口にはしないが、モミのハリテヤマは優秀だった。間合いの管理も、タイミングの測り方も、全て抜群に上手かった。
ただ――ゴウカザルの武術は、上手いとか下手とかいう次元にはない。明日の命の保証もない日々を過ごし、未来への希望も、生命への執着すらも手放した者は、身につけた技術以上の強さを発揮する。コウキは今でも、彼が捨て身の覚悟でギラティナに力を示した光景を、鮮明に思い出すことができた。
やぶれたせかいに引き摺り込まれたギンガ団ボス・アカギとの決戦で、ゴウカザルは深手を負った。死んでもおかしくない重傷で、意識を保っていたのが不思議なほどの出血にもかかわらず、根性ひとつでアカギの思想をひっくり返して見せた。
同行していたシロナは決着がついてから応急処置を手伝うのみで、一切加勢してくれなかった。ゴウカザルが今でも彼女を嫌っているのは、その記憶によるところが大きいのだろう。
アカギとの死闘を制したとはいえ、仲間は全員、立ち上がることすら難しい。コウキ自身も手傷を負い、すぐにでも治療が必要だった。ポケモンの手当てを優先したために、多くの血を失っている。
自分たちはどう見ても壊滅状態なのに、一緒に飛び込んできた湖の守り神はおろか、現役のチャンピオンさえ、なぜか助太刀してくれない。そんな絶望的な布陣で、連続してギラティナの試練に挑む羽目になったとき、ゴウカザルは死を身近に感じていたはずだ。
コウキ自身はあの時、不思議なほどに恐怖を覚えていなかった。地獄の深淵を思わせる、ギラティナの紅い瞳に見据えられても、どこか懐かしい気がするだけで、ほとんど何の感慨もない。あるのは、圧倒的な虚無だけ。宇宙が生まれる前には『無』なるものが広がっていたと聞く。ひょっとすると、これがそうなのかもしれないと、朦朧とした頭の片隅で馬鹿なことを思った。怒りも悲しみも一切覚えず、血が抜けた体は、ギラティナの眼差しから、むしろ暖かいものすら感じ始めていたのだ。ポケモン像の前で交わした約束を果たせないことだけは、ごくわずかに口惜しいが……事ここに至っては、全てが取るに足りないことなのだろう。
コウキは血塗れの右手で相棒の肩を掴み、囁く。
長生きさせてやれなくて、ごめん――でも、君を一人にはしない。僕も、必ず一緒にいくから。
だからここで、僕と一緒に死んでくれ。
するとゴウカザルは、最後に一度だけ、コウキの顔をじっと見上げた。意識も虚ろだった瞳に、闘志の光が舞い戻っている。
そして彼は、もう振り返らなかった。激しい雄叫びと共に、最後の力をもって、大きく跳躍する。ギラティナの懐へ一直線に飛び込んで、喉元に右手の爪を突き立てる瞬間、やすらぎのすずが、ちり……と、鳴ったような気がした。
「どうする? まだ、続ける……?」
ナタネが、モミの顔色を恐る恐る窺っている。実力差はもはや明らかだ。彼女がポケモン達を我が子のように慈しんでいることは、この場の誰もが知っていた。勝ち目のない勝負に送り出すことを良しとしないのではないかと思うのも、自然なことだろう。観衆の間でも、妥当な結果だと言いたげな空気が流れ始めている。
もっとも当の本人だけは、有象無象の落ち込んだ雰囲気など歯牙にもかけていなかった。
「ここで終わるものですか」
大きな瞳には、コウキと、ゴウカザルの姿しか映っていないようだ。ハリテヤマをボールに戻したモミは、凛然として続行を宣言し、気丈な笑顔を浮かべてみせた。
「流石ですわコウキさん。でも……まだまだ、これからですから」
コウキは頷きながらも、どう逆転するつもりなのか、純粋な興味を覚えた。ゴウカザルの実力は骨身に染みたはずだ。生半可なポケモンでは突破できず、元よりハピナスでは勝負にならない。タイプの相性以前に、気性の問題が大きかった。修羅場に臨んで仲間を守るためには死力を尽くすだろうが、競技としてのバトルには、悲しくなるほど向いていない。
果たして一体、誰の力を借りるのか。
モミの手の内でモンスターボールが発光し、ひとりでに浮かび始める。観衆とジムリーダー達が息を詰めて見守る中、捻り出された結論は、驚くべきものだった。
――ひゅあぁぁぁん……!
図鑑の中でしか聴いたことがない、透明感たっぷりの鳴き声が耳に心地良い。
眩い光から飛び出したのは、航空機に酷似した流線形のフォルムが特徴的なドラゴンポケモンだった。ヒロイックな赤と白のツートンカラーが目にも鮮やかである。
むげんポケモン・ラティアス。彼女は上空を鋭く一回りすると、ふわりと舞い降りてきて、静かにゴウカザルと相対した。優しさの中にも覚悟が覗く、いい面構えだ。真剣勝負に無傷で勝ちたいなどと、甘ったれたことは一切考えていない。
「……そうだよな。あのゴウカザルを倒すには、それしかない」
観衆の一人が呟くと、周囲が満場一致で同意し、大声で囃し立てる。
「その組み合わせなら負けるわけがない!」
「最初からラティアスにやらせれば良かったんだ。出し惜しみしやがって!」
どうやら、モミが伝説のポケモンを遣うことは、バトルゾーン界隈では常識のようだ。彼女の実力と知名度が窺い知れる。コウキがクロツグに勝利してから、しばらく離れている間に、タワーの勢力図を塗り替えたに違いない。
こちらの手の内はもう、殆ど見せていた。一方ラティアスの情報はまだ、何一つ得られていない。それでもゴウカザルは不安の色を見せなかった。コウキもまた、未知との対決には慣れ切っている。フタバシティを出て、ナナカマド博士からヒコザルを授けられた日から、ずっとそうだった。行く先々で大人の悪意が四方に満ち、破滅と隣り合わせの生活の中では、確実に生き延びられる保証なんて、どこにも存在しなかった。
そしてコウキ達はいつだって、同じ選択を積み重ねてきたのだ。
「いつも通り、正々堂々正面突破だ」
ゴウカザルはコウキの言いつけを守り、決して振り向くことはない。見慣れた白い背中はラティアスをじっと睨みつけたまま、頭から髪のように伸びる炎が急激に強まり、天まで焦がしかねないほどの勢いで大炎上し始める。続いて両足から、両拳から、鍛え上げた肉体の至るところから次々と炎が噴き出し、火花を散らして全身を覆い尽くした。凄まじい火力が周囲の気温まで上昇させ、熱気に耐えかねた観衆が後退りしている。
ゴウカザルは思わぬ強敵の出現に、文字通り燃えていた。ラティアスは、落ち着き払って動じない。
「そ、それじゃあ……三戦目、開始!」
両者の闘気が辺りをすっかり震撼させた頃、汗を浮かべたナタネがようやく口を開き、勝負開始の合図を告げた。
ラティアスとゴウカザルは5メートルほどの距離を保ちつつ、一点を中心に円を描くように、ゆっくりと移動し始める。互いに隙を見せて誘ったり、攻撃の気配を滲ませ揺さぶりをかけたりしながら、両者の描く円が僅かずつ狭まり、じわりじわりと一撃必倒の間合いに接近していく。
駆け引きの内容を見るに、両者の技量は伯仲していた。身体能力も五分だが、タイプはラティアスに利がある。
ゴウカザルは数多の苦境を不屈の精神力で乗り越えてきたが、ラティアスも極限の緊張を跳ね除ける心を備えていることは、目を見ればすぐに分かった。
両者は互いを睨視して、相手の心臓を引き裂くような気圧をぶつけ合っていたが、決着の口火を切ったのはゴウカザルのほうだった。
後の先を奪い合う読み合いの末、浮遊するラティアスの移動にほんの少しだけ固さが見えた瞬間、ゴウカザルが誘いに乗じて五体に力を漲らせ、猛然と襲いかかる。右手に展開された『シャドークロー』が喉笛を抉る直前、ラティアスはしなやかに身をくねらせ紙一重で回避した。
すれ違い様、ラティアスが内なる神秘を解放し、両目に妖しい輝きを帯びた。たちまち、攻撃を空振りしたゴウカザルに不可視の重圧が押し寄せ、鍛え抜かれた肉体を捻り潰す。
――サイコキネシス。
空間そのものが歪むほどの念動力を発揮し、ゴウカザルの纏う炎が急激に圧縮された次の瞬間、爆音と共に弾ける。可燃性のガスに火でも点けたかのような爆炎の中心から放り出されたゴウカザルの体は、地面を激しく転がった末にぐったりと横たわり、立ち上がることはなかった。
「そこまでよ! ラティアスの勝ち!」
ナタネが鋭く告げると、地鳴りのような歓声が上がる。
「チャンピオンのゴウカザルを倒したぞ!」
「やっと大人しくなったか。しぶとい奴だったな」
「当然の結果だ。伝説のポケモンは伊達じゃねえ」
観衆は口々にラティアスを褒め称える。スモモに一喝された連中と違い、残ったバトルタワーの利用者達は、寄せ集めなりに応援団らしきものを形成していた。日ごろは潰し合う間柄にも仲間意識が芽生えるのか、あるいは単に美女だからか、躍起になってモミの陣営を応援している。コウキはアウェイ感を覚えつつ、小走りにゴウカザルの元へ駆け寄った。まだ熱い体を抱き上げると、やすらぎのすずが首元で、ちり……と、虚しい音を立てた気がした。
派手に吹き飛ばされたが、数日休めば後遺症も残らないだろう。ポケモンは人間ほど柔弱な生き物ではない。
「いい試合だった……ありがとう」
どれほど不利であろうとも、最後まで彼が迷わなかったのは、自分が倒れてもチームとしての勝利は揺るがないという味方への信頼があったからだ。なればこそ心おきなく立ち回り、仲間を牽引するリーダーとしても、チャンピオン・コウキの相棒としても、非の打ちどころのない試合運びを見せたのだ。全てを出し切ったゴウカザルは敗れながらも、結末にさわやかな余韻を残していた。
気絶した相棒をボールに戻したコウキは、素晴らしい試合をさせてくれたラティアスにも感謝を覚えた。一方で、腰につけたモンスターボールのひとつが、憎悪の波動で揺れている。表向きは冷たく見えるサーナイトの胸に、同じ主を戴く者への仲間意識が深く根付いていることを、コウキはよく知っている。命を懸けた勝負ではないのだから、そこまで怒りを燃やす必要性はないと思うが、それがこの子の強さの源でもあった。なお、彼女も漏れなくシロナを嫌っている。
「コウキさんのゴウカザルに勝てるなんて、信じられないわ」
モミが喜びの声を上げると、ラティアスが甘えた鳴き声を上げ、嬉しそうに頭をすり寄せている。すかさずサーナイトが飛び出しそうになり、コウキは苦笑して、ボール越しに撫でてやった。
「コウキくん、次のポケモンはどうする?」
ナタネに言われたコウキは、ゆっくりと振り向く。
「もう決まっています」
「どの子にするの?」
いきり立つサーナイトを抑え、ナタネだけに聞こえる小声で告げる。
「影を、出そうかなって」
ボールの中で息巻いていたサーナイトが、すっと引き下がる気配がした。ゴウカザルの仇を取るという一点では、異議を挟む余地がないのだ。無理もない。あの日、彼女が刺し違える覚悟で作り出した小さなブラックホールを、肩についた塵でも払うように消し飛ばした相手である。
ナタネが息を呑み、顔色を変えた。
「……本気なの?」
「一番確実ですから」
「確実って……それは、そうかもしれないけど」
小声で囁き返すナタネの両膝が震えていた。ラティアスを撫でるモミと、コウキの顔とを何度も見比べ、ごくりと唾を呑んでいる。ゴーストポケモンが苦手だからとか、そういう意味合いとは全く違う恐怖を隠しきれていない。
コウキは構わず、モミとラティアスの前に戻った。
「流石ですモミさん。伝説のポケモンを従えているなんて驚きました」
「従えるなんて、とんでもない。あたしはただ……この子の力を借りているだけですわ」
本当に強いトレーナーの台詞だ。コウキは深く頷き、己の直感への確信を深めた。
今日連れているポケモンならサーナイトでも、ハッサムでも、トゲキッスでも、タイプ相性の面では優位に立つことができる。だが、あのラティアスはモミに首を垂れ、心からの敬服を示していた。あのような顔をしているポケモンは、傷つくほどに際限なくギアを上げ続け、限界を超えた強さを発揮するものだ。教科書通りにポケモンを選出すれば、かえって被害を広げることになるだろう。
「だけど……」
そして何よりも、実利の面だけでなく、取るべき敬意の示し方がある。
「あまり、調子に乗るなよ」
思っていたよりも、ずっとドスの利いた声を出すことができた。顔もおそらく、それなりに怖い表情になっているはずだ。大人たちから幾度となく言われた台詞を真似したら、意外と様になった。泣く泣く出番を譲ってくれたサーナイトの気持ちを代弁したつもりだ。
両目をぱちくりさせるモミを見て、自己満足に浸るコウキの足元で、影がぐにゃりと波打つ。
「……!」
なんとも言えない顔をしていたモミが、はっとして表情を引き締める。ラティアスが鋭く吼え、主を背に庇った。
コウキの背後で、底なしの闇をどろりと煮詰めたような、ひどく粘り気のある質量が濁濁と地面を這っている。ゴウカザルが放射していた灼熱の残滓が消し飛び、冷たい両手で内臓を直接撫で回されているような、生理的に受け入れ難い何かに触れた時に覚える類の悪寒が、サバイバルエリアを支配していく。
「コウキ、あなた、そこまでモミのことが……」
メリッサの震えた呟き声が、遥か遠くに聞こえた気がした。
物理的に気温が下がったのか、あるいは魂が感じ取ったのか、誰にも分からない。ただ、その場にいる全ての人とポケモンが、等しく肌寒さを覚えたのは確かだ。
どれほど強い光を当てても、表面はぬらりとした艶を浮かべるだけで、決して底を透かして見ることはできないのだろう。まるで誰かの逃げ道を塞ぐかのように、扇状に膨張した暗黒の底で何かが蠢き、じわりじわりと現世へ這い出ようとしていた。重油に似た液体が迫り上り、羽化できず腐敗した蛹のように陰鬱な塊を成したと思うと、やがて、ずるりと、一頭の巨竜を吐き出したのである。
生気のない灰色の肌に、毒々しい赤と黒の縞模様と、眩い金色の甲殻を備えた姿はちぐはぐなようで、不思議とまとまりがある。鋭利な棘を備え、自在に変形できる暗黒の翼を背負い、逞しい六本足で大地を踏みしめる、異形のドラゴンだった。
忘れ去られた叛逆の神、ギラティナの顕現である。万物の始源たる創造神の系譜を継ぐ御子の一柱ながら、その畏れ多い出自こそ、彼が何よりも憎悪する対象なのだろう。
「これが、神様ですか……」
スモモが後退り、山のような巨躯を見上げていた。隣でルカリオがぽかんと口を開け、唖然とした顔で震えている。
科学と考古学とが手を取り合い、御伽噺にメスを入れたのは、つい最近のことだ。コウキと共に異世界から生還したシロナが、関係者に熱弁を振るってリーグから莫大な予算を引っ張り出し、世界中から優秀な人材をかき集めた一大プロジェクトである。そして秀才たちは、驚くべき早さで、神々の住まう領域が物理的に実在することを明らかにしつつあった。神話は、古代人が自然を擬人化した幻想などではないと、データで裏付けたのだ。すると冷淡だった世間は即座に手のひらを返し、お祭り騒ぎをしてシロナと学者達を称えた。そして若き新チャンピオンの遣う”影”が、どうやら本当に神様らしいことさえ認めたのである。
コウキでさえ顔を合わせると、いまだに薄ら寒さを覚える。銀河の始まりから終わりまで眺めても余りある、果てしない時の流れを見つめてきた灼眼の前ではきっと、あらゆる偽りが意味をなさない。
そんな彼がなぜ、僕を選んでくれたのだろう……。問いかけても、返ってくるのは虚ろな沈黙だけだった。
ポケモンとは――ギラティナがポケモンかという議論はさておき――ポケモンとは程度の違いこそあれ、正しい心の持ち主と信頼関係を築かなければ、本来の力は発揮できないものだ。トレーナーがポケモンを選ぶのではなく、ポケモンがトレーナーを選ぶ。実力のあるトレーナーであれば、誰もが自覚する真理である。
望んでそうしているわけではないが、結果として、真面目に生きてきた部類だとは思う。しかしギラティナが人間社会の細かい規則や、ちっぽけな倫理観に興味を持つわけがない。彼が見ているのはもっと本質的な、人の生き方というか、魂の重さそのものではないだろうか。見限られたら、何が起こるかもわからない。いまだ行方知らずのアカギのように異世界の底に引き摺り込まれ、死ぬことさえ許されず、終わりのない闇の中を飲まず食わずで永遠に彷徨う羽目になるのだろうか。もし自分もそうなれば、無限の放浪の果てに、あの老け顔と再会できるかもしれない。二度と見たくない面ではあるが。
ギラティナと絆を結んだ日から、コウキは日常の些細な選択ひとつひとつが命懸けになったようだった。それもトレーナーとしての修行のうちと、真摯に受け止めてはいるが、万一の覚悟は常にしている。いざとなれば、神話に土足で踏み込んだ全人類の代償を肩代わりするつもりでいるが、今のところは彼のお眼鏡にかなっているらしい。だからこそ、今日も呼びかけに応えてくれたのだ。
コウキの背後に控えていたギラティナが、ばさりと翼を全開にした。獲物を襲うヨルノズクのように、殆ど羽音を立てることなく巨体を宙に浮かべると、コウキの頭上をふわりと飛び越え、音もなくラティアスの前に着地する。推定750kgの体重にもかかわらず、水面に一枚の羽毛でも落としたかのように、音も、振動も、完全にゼロだった。
「あなたが、噂の神様……」
モミが、感慨深げに言う。驚くべきことに、ギラティナを見上げる顔には、まるで緊張の色がない。ハクタイの森で、テッカニンと間近で見つめ合った時と、何ら変わらない。
やがて彼女は、にっこりと笑って見せた。
「体は逞しいけれど、お顔は、とっても可愛らしいのね」
これ以上ない強面のはずだが、気は確かなのだろうか。視力が低いと言われた方が、まだ納得感がある。他の連中もコウキの内心と一言一句まで同感らしく、一斉にモミを凝視し「本気か?」と言いたげな視線を浴びせていた。
だがその意外な一言は、ラティアスの緊張を優しく解きほぐした。瞳から、怯えの色が消え去っている。そして先ほどまでの勝ち気な表情とも異なる、全てを手放した者に特有の晴れやかな顔つきで、一度だけモミを振り返り、優しげに微笑んだ。
「でも……あたし達だって、負けないんだから!」
茶目っ気たっぷりな、それでいて、どこまでも誠実な声だ。そのラティアスの気持ちを代弁したかのような言葉が、戦闘開始の合図となった。
激しい気勢のラティアスに対し、ギラティナからは殺気の一片すら感じ取れない。勝利を目指す情熱や、痛みや敗北への恐怖といった、生物として当たり前の執着が決定的に欠落している。
ラティアスは、何も詰まっていない腹など探るだけ無駄と、早々に見切りをつけたようだ。大きく距離を取ると、体を弓なりに反らして大きく息を吸い込み、途方もない生命力を、胸郭の内で超高密度の衝撃波へと、じっくりと時間をかけて変換していく。紅白の羽毛に青い稲妻が走り、凛々しい顔立ちと相まって、雄個体のラティオスと入れ替わったかのようだ。
攻撃の予備動作を隠そうともしないのは、決死の覚悟の表れだろう。速いばかりで威力に欠ける小技では、何万発放とうが、この魔神を打ち倒すことはできないと悟ったのだ。だからこそ、たった一度の攻撃に全てを賭ける。技の完成前に邪魔をされたら、それまでということだ。どのみち勝つ術はない。
あまりの潔さに、コウキは慄然として唸る。ポケモンとの間で、これほどの絆を育むことのできるトレーナーがいようとは。どう考えてもバトルタワーの有名人で終わる器ではない。
一帯の緊張がピークに達し、百戦錬磨のトレーナー達は、一人残らず呼吸を忘れた。
やがてラティアスは今日まで刻んだ歴史の全てを捧げる支度を整え、天地を分かつ竜の力の奔流を、喉の奥から絞り出したのである。
――りゅうのはどう。
それは青白い閃光を纏い、ギラティナの前面へ殺到する。彼は逃げも隠れもしない。モミへの純真な愛の結晶とも言うべき、ラティアスからの小細工なしの一撃を、ギラティナもまた馬鹿正直に真正面から受け止めたのだ。要塞の一つや二つは分子レベルまで分解しかねない、猛烈なエネルギー波が爆音と共に衝突する。衝撃の余波で暴風が吹き荒れ、観衆が数名、ドミノ倒しに倒れ込むのが見えた。まばらに生えた木々が、幹から激しく揺れている。コウキは必死で足を踏ん張り、激突の結末を目に焼き付けようとする。モミも同じく、暴風で若草色の髪が乱れ、ドレスの裾が捲れようとも構うことなく、ラティアスの背中を凝視していた。
予想通り、ギラティナは倒れない。予想を超えていたのは、鬼気迫る表情のラティアスから放たれる魂の奔流を、小川でも遡るように悠々と逆走し始めたことだ。むろん無傷のはずがない。顔や胸に痛々しい傷口がいくつも開き、どす黒い液体が噴き出している。それでも彼は極太の六本足で地面を踏み締め、一歩ずつ確実に、のしのしと歩み寄っていく。ラティアスは腹に一層力を込めたようだが、創造神の光に灼かれようとも頑固に進み続けた、不屈の足取りを遅らせることはできない。確かな死の予感が、矛盾を孕んだままで、ラティアスの瞳に大きく映し出されていた。
波動のうねりを突破したギラティナの翼が、ぐねりと波打ち形を変えた。つかの間の蠢動の末、縁に点在していた三本の棘が、ぞわりと滑って一箇所に集約される。真紅の棘が密集し、翼端で強固に噛み合うと、それはもはや飛翔のためには存在していない。深い怒りを覚えた人間が、思わず握り固めた拳を思わせる、きわめて暴力的な代物だった。
「ラティアス……!」
モミが叫んだとき、ギラティナは恐るべき兵器と化した右の翼を機械的に振り上げ、淡々と打ち下ろした。
――ドラゴンクロー。
それが避けようもないことを、コウキは誰よりもよく知っている。長尺の差はあれど、この世に生を受けた者は皆等しく、いつか必ず死に至る。そんな不可避の運命と同じ理が働いているのだと、ラティアスも一目で悟ったのだろう。永遠の救済を切望する亡者が、最後の審判で祈りを捧げるかのように、涙の浮かぶ両目を切なく伏せたのである。
轟音が弾けた。猛烈な一撃を首筋に浴びたラティアスは、異常な速度で真下の地面へ射出され、凄まじい勢いで地面に叩き付けられる。これほどの衝撃なら、地球の裏まで響いたかもしれない。
「ラティアス!」
砂塵の向こうで悲鳴に近い声がして、モミが走り出す気配がした。
「ギラティナ」
コウキが声をかけると、ギラティナは翼を一振りし、土煙の壁を吹き飛ばす。
ラティアスは、腹這いで地面にめり込んでいた。想像を絶する威力の一撃に心身を粉砕され、完全に意識を失っている。モミは、半ば埋まったラティアスを助け出そうと悪戦苦闘していた。地面からにょっきりと生えた赤い翼を両手で引っ張るが、女一人の力でどうにかなるものではない。ジムリーダー達が慌てて駆け寄り、パニックに陥ったモミを抑え、ラティアスに息があることを確かめていた。
青ざめた女たちを、ギラティナは冷たく俯瞰している。
コウキは、胸の内で自責の念を強めた。明らかにやり過ぎだった。決してギラティナが悪いのではない。モミとの再会で舞い上がった己の落ち度だ。チャンピオンともあろう者が、実力者とはいえ一般人に過ぎない彼女に、本気を出して良いわけがなかった。
ただ、自分の全てを見てほしかった。その下心が間違いだったのか。
観衆の一部がポケモンを繰り出し、ラティアスの体を掘り起こしている。コウキも救助活動に加わろうとしたとき、不意に日差しが遮られ、はっとした。
モミも、観衆も、ジムリーダーも、ポケモン達も、誰もが手を止め空を見上げた。いつの間にかギラティナまでが顔を上げ、一点をじっと見つめている。その眼差しの中に、ごく僅かではあるが、彼らしくもない揺らぎを感じ取り、コウキは目を見張った。それが驚きだったのか、怒りだったのか、あるいは悲しみだったのかは定かでないが、死人と大差のない虚ろな顔に、表情と呼べるものが表れるのは珍しい。
視線を釣り上げると、何者かが太陽を背負っていた。比較的大型のポケモンが、無言でこちらを見下ろしている。顔貌は逆光になって分からないが、羽衣のような翼を広げたシルエットに見覚えがあった。
「クレセリア……」
モミの声が掠れていた。
三日月の化身が引き起こした疑似的な日食に目を奪われていると、突然、視界が純白に染まった。コウキは慌てて目を伏せる。肉眼で太陽を見上げれば、目を灼かれるのは当然だ。
ところが瞼を閉じてなお、視界は眩い白光を強めていく。網膜を焼き尽くすかと思うほどの光が、ようやく収束した先に広がっていたのは、全く記憶にない光景だった。
サバイバルエリアの喧噪が遠ざかり、すっかり乾いた冷風だけが味気なく吹き抜けている。
真っ先に違和感を覚えたのは、視座の高さだった。この数年でかなり身長が伸びたとはいえ、あまりにも高すぎる。まるで、この世の全てを睥睨しているかのような位置関係だ。
それにしても、ここは一体どこなのだろう。
コウキは異様に高い視点を活かして周囲を見渡し、戦慄が走った。何頭かのポケモンがまばらに倒れ、あちこちで血の海に沈んでいる。その中にディアルガとパルキアと思しき、巨大なドラゴンの姿をみとめて、ようやく思い出すことができた。
ここは……槍の柱だ。
テンガン山の頂上から望む下界の景色は、やや趣が異なる気もするが、間違いない。あの日以来、一度も訪れていないが、太い石柱が整然と立ち並んだ光景は、今でもよく覚えている。
コウキは10メートルほど先に、一人の少年が立っていることにも気がつく。妙に古風な服を着ている。なおかつ遠目にも、彼が重傷を負っていることは明らかだった。額から流れる血が右目を塞ぎ、口元が吐瀉物にまみれ、呼吸に喘鳴が伴っている。
肩で息をする少年に、コウキは突然、強烈な既視感を覚えた。目を凝らし、驚愕する。膝をつき、片目だけでこちらを睨む顔が、自分にそっくりではないか。雰囲気が近いどころではない。生き別れた双生児として紹介されたら、即座に納得できるほどだ。
そして、そんな彼を庇うポケモンがいる。自身も深手を負いながらも、辛うじて宙に浮き、こちらに立ちはだかっているのは、クレセリアだった。天女に例えられるほど、この上なく美しいはずのポケモンが、満身創痍で震えている。流れ落ちた鮮血が、べっとりと石畳を濡らしている。特徴的なベール状の翼は無残に千切れ、内臓にもダメージがあるのか、口から血泡まで噴いていた。意識があるのが不思議なほどで、これ以上戦えるはずがないが、双眸だけは屈することなく、憤怒と闘志で激しく燃え上がっていた。
競技としてのポケモンバトルではない、命のやり取りの現場に特有の、凄惨な空気に呑まれそうになる。コウキは本能的に後ずさろうとして、動くことができず、困惑する。脳は確かに指令を下したはずなのに、脚が一歩たりとも動かない。恐怖で動けないのではない。腰が抜ける感覚とは全く違う。これは、どちらかといえば……そうだ。脚が、はなから存在していないとでも言うべきか……。
我が身を見下ろしたコウキは、半ば冗談のつもりで描いた推測が、まさか的を射ていたとは思いもしなかった。脚もなければ腕もない。赤と黒の縞模様を備えた長大な体が重力を嘲笑い、正体不明の力で虚空を浮遊している。
コウキは、ようやく理解することができた。これは……ギラティナの記憶だ。やけに高い視座にも得心がいく。修行を積んだトレーナーが、波動を通じてポケモンの心象風景を垣間見ることは、ままあることである。
記憶の中で、ギラティナは見慣れたドラゴンの姿をしていなかった。巨大な翼は、翼としての機能と形を同時に失い、漆黒の靄を無造作に引き千切ったかのような、不気味に蠢く六本の触手に変化している。比べてみると、逞しい六本脚で地面を踏みしめているほうが、力強く見えないこともない。しかしそれは、現世に適応するために作り出した仮初の体に過ぎず、真の力を発揮するとき、彼は脚も翼も放り出してしまうのだ。
真横を見れば、金髪を結い上げた奇妙な髪型の男が立ち尽くしていた。苦痛に喘ぐ少年を見つめる横顔が、なぜかシロナに酷似している。状況からすれば、ギラティナが過去に従ったトレーナーであろう。その力を最大限に引き出せるのだから、凡百の実力ではあるまい。しかしギラティナの意識には、男に対するパートナーとしての信頼も、愛情も、一切合切、何もなかった。
男のほうも、ギラティナを見ようともしていない。場違いな微笑を口元にはりつけながら、前髪に隠れていない右目だけは、全く笑っていなかった。美男だがじっと見つめていると、なぜか寒気を覚えた。
一体、何がどうなっている。自分にそっくりな少年に、元チャンピオンにそっくりな男。そして傷ついたクレセリアと、彼女の後ろで倒れている、生死も不確かなポケモンたち……。
映像は、唐突に途切れた。夜が明けるように視界が開けると、コウキは再びサバイバルエリアに立っている。
半ば埋まったラティアスは、間もなく救助されるところだった。
「あのクレセリアは、モミさんのポケモンなの?」
ナタネの問いかけに、モミは曖昧に首を振った。
「……いいえ。でも時折、力を貸してくれるのです」
「そうなんだ。じゃあモミさんがピンチになると駆けつける、スーパーヒーローみたいなものね」
「それは少し違いますわ。きっと、ラティアスのためでしょう。あたしが出会う前から仲良しなのです。だから……」
モミは、慎重に言葉を選んでいる。
「あたしは、お友達のお友達……ということになるのかしら」
クレセリアは、ゆっくりと舞い降りてきた。モミとラティアスを背に庇い、ギラティナを睨んで、咆える。まるで問い質すような声音だった。静かだが、強い怒りを感じさせる。
ギラティナは沈黙で応じた。その、どこか他人事な態度が癪に障ったのだろうか。クレセリアが今一度鋭く咆えると、ベール状の翼が発光し、見る者の視界を純白に染めた。その光はやがて上空の一点に集結し、第二の太陽さながらの、巨大な光球と化す。そして、地上の影など一片たりとも残すものかと、ギラティナの頭上へ吸い込まれていく。
――ムーンフォース。
案の定ギラティナは、避けようとはしなかった。しかしラティアスに見せた、あえて受け止めるほどの慈悲はない。ぼんやりと天を仰いでいた彼は、光球が顔面に衝突する直前で、右の翼を真横に一閃した。物体の移動速度が音速を突破し、大気の壁をぶち破る爆発音と共に、眩い光の塊が弾け、砕け散る。
クレセリアは、怯むことなく間合いを詰めた。その瞳には、あわよくば刺し違えようなど不遜な希望は欠片もなく、愛する誰かに全てを捧げる、痛切な覚悟で塗りつぶされている。
息がかかりそうな距離まで肉薄したクレセリアは、胸元で作り出したもうひとつの光球を、小さな両手で捧げるようにして、ギラティナの体に押し付けた。しかし捨て身の一撃は、灰色の肌をわずかに焦がしたのみで、さしたる痛手にもならない。
――月が、太陽の真似事か。
コウキの全身に鳥肌が立つ。男とも女ともつかない音声が、波動を通じて頭蓋に直接流れ込んできたのだ。
成り行きを静観していたモミが、目を丸くしてギラティナを見上げた。彼女にも、同じ声が聞こえたのかもしれない。
ギラティナは拳状に変形させた翼を、アッパーカットの要領で、斜め下から振り抜く。命の根幹を揺さぶる鈍い音がして、クレセリアは虹色の羽毛を撒きながら、上空に激しく打ち上げられた。誰もがあんぐりと口を開け、はるか彼方へ吹き飛ぶ月の女神を見送ることしかできない。唯一ギラティナだけが翼を広げ、風を巻いて空へ飛び出し、自ら打ち上げたクレセリアに追い付く。そして、今度は地上に向けて叩き落した。
「まずい、下がれ!」
コウキが叫び、観衆が慌てて散開した直後、クレセリアの体が流星の勢いで大地にめり込み、轟音と共にサバイバルエリアの地盤を揺らした。
「一体どうなってんのよ! あたしが知ってるポケモンバトルじゃないんですけど!?」
土煙を吸い込んだナタネが、激しく咳き込みながら抗議している。
コウキは視界を確保すべく、ボールからポケモンを繰り出そうとしたが、唐突に土煙が搔き消え、はっとした。
地面に叩き付けられたクレセリアは、まだ倒れていなかった。全身の土を振り落とし、半ば千切れたベール状の翼で、一ミリでも高く浮かび上がろうとしている。たとえ肉体を粉砕されようとも、あの憎らしい”影”の喉笛に喰らい付くのだと、燃えるような怒りを宿した双眸で、ぎろりと上空を睨みつけた。
だが……今日の彼はいつにも増して無慈悲だ。虫の居所でも悪いというのか。
「これは……」
コウキは思わず眉を顰める。クレセリアの真下で、影がタール状にどろりと融解し、不気味にのたうち始めていたからだ。クレセリアが異変に気付き、視線を落とした時には、もう遅い。闇の中心から、一本の黒い帯に似た何かが飛び出したかと思うと、たちまち蔓のように枝分かれして、傷ついた体に巻きつき、冷たい地面へ完全に縫い付けてしまう。すると今度は先ほどよりも細長く、しなやかに蠢く無数の触手が這い出してきた。藻掻くクレセリアの眼前で、触手の先端が、みるみるうちに砕けたガラスの破片か、あるいは赤錆びた包丁を思わせる、血生臭い凶器の形へ変化していく。
――かげうち。
「ギラティナ、もういい! そこまでだ!」
コウキの絶叫がサバイバルエリアに響き渡る。空に向かって両手を広げ、全身で決着を宣言した。太陽を背負ったギラティナの表情は、逆光になっていて、細部までは窺えない。こちらを見下ろす灼眼だけが、いつも通り、ぎらりと光って見えている。
「よくやってくれた! もう十分だ!」
重ねて声を張り上げると、クレセリアを拘束していた黒い触手がするりと解けた。生者を地獄に引き摺り込もうと、押し寄せていた亡者の気配が、潮が引くように掻き消えていく……。
やがてギラティナが地上に降りても、コウキ以外に彼の勝利を讃える者はいない。観衆はもはや一人として、咳払いひとつ漏らさなかった。静まり返ったサバイバルエリアで、彼の着地は相変わらず、振動も、風圧も、完全にゼロである。
「ありがとうな。お前は、やっぱり強いよ」
コウキがトレーナーとしてかけた労いだけが、わずかに風に乗って聞こえていたが、ギラティナは何も応えず、影の世界へゆっくりと帰還していく。いつも通りだと思った直後、彼がわずかに首を傾げ、横目でクレセリアを流し見たような気がした。驚いて目を凝らすと、すでに彼の肉体はどろりと融解し、半ば地面に沈み込んでいる。
「ギラティナ……?」
呼び止めた先には、初めから何も存在していなかったように、コウキの身振りに合わせて動く、見慣れた輪郭が横たわっているだけだった。
クレセリアは、体中に乾いた血を貼り付けたまま、無言でコウキの影を凝視していた。