3-1
窓のない部屋は苦手だ。閉塞感を覚えながらも、カメラマンの許しが出るまで、コウキは努めて笑顔を保ち続けた。
「相変わらず、この手の仕事は好きじゃないようだね」
小さなテーブルを挟んで、向かいのソファに腰かけたクロツグがにやりと笑う。過ごし慣れた職場だからか、シャツとチノパンだけのカジュアルな装いである。トレードマークのコートは椅子の背に掛けてあった。先ほどから何度も座り直したり、脚を組み替えたり、腕を組んだりしている。
「今日のコウキはやけに垢抜けた恰好をしてきたから、てっきりカメラを意識するようになったのかと思ったが、違ったようだね。女の子の目を気にするにしては、少し遅いような気もするが……視聴者のコメントにあった通り、コレでもできたのかね」
クロツグは小指を立てた右の拳を、これ見よがしに突き付けてくる。脳を介さず言葉を垂れ流しているとしか思えないのに、ところどころ的を射ているのが恐ろしい。下手に言い訳をすれば、わずかな矛盾を取っ掛かりに、真実を洗いざらい白状させられてしまうだろう。先日と同じミスを繰り返したくはないので、今回は曖昧な苦笑だけを返しておく。
それにしても、昨今の過剰なハラスメントブームを歯牙にもかけない物言いである。同性にもセクシャルハラスメントが成立し得るなど、彼には想像もできないことだろう。相手の性別にかかわらず、スタッフに対する口の利き方に神経をすり減らしているコウキにしてみれば、羨ましい限りだ。つくづく、息子のジュンをそのまま中年にしたような男である。長めの金髪などの身体的な特徴だけでなく、話し方や身振り手振りに至るまで、所作の多くが共通している。
「すいません、何度もフォローしてもらっちゃいました。ポケモンのことはともかく、僕自身のことは、どうも上手く話せなくて」
「誰にでも得意、不得意はある。それに雑談というものは、意外と奥が深いんだ。やれと言われて、すぐにできる人は少ないよ」
コウキが素直に会釈すると、クロツグは歳のわりに皺の少ない目尻を下げた。兄弟同然に育ったジュンの父親ではあるが、幼い頃に顔を合わせた記憶は数えるほどしかない。雲の上の存在だった男と対等に口を利いていることには、彼に勝利した今となっても現実感が希薄だった。
タワータイクーンとリーグチャンピオンとの対談企画は、バトルタワーの地下にある殺風景な会議室で恙無く進行し、たったいま終了したところだった。この企画のためだけに、スタッフ達はテーブルや椅子といった最低限の家具を設置したり、カメラの画角を細かく調整したり、夜遅くまで企画書やタイムテーブルを作成したりと、安い給与に見合わない労務を提供してくれた。
バトルタワーでもポケモンリーグでも、スタッフ達はコウキからは見えないところで日夜、心身を削って働いている。理不尽な目に遭っても「仕事ですから」の一言で全てを水に流す、その諦めを含んだ切ない強さは一体どこで、どうやって身につけたのだろう。少ない対価のために、惜しげもなく健康を手放せる彼らの物語こそ、全国放送すべきではないのか。そこに需要がないことが不思議でならない。
「インターネット上でのライブ配信はテレビの生放送と違って、テレビ局まで行かなくて済むところが気に入ったよ。近ごろは歳のせいか、バトルゾーンから本土のコトブキまで移動するだけでも疲れてしまってね」
クロツグが突然、訊かれてもいないのに、中年としての体力事情を語り始めた。
「ジョウトに出張するときは、もっと大変なんだ。こんなことでは手持ちのポケモン達にも対戦相手にも示しが付かないから、運動量を増やして体を鍛えているのだよ。その甲斐あって少しは腹回りも引き締まってきたと思うのだが、うちの妻も息子も一切褒めてくれないんだ。体型の変化に気づいて褒めてくれたのは、コウキ、きみが初めてだよ」
言葉が無限に出てくるのは、キャリアを通じて獲得したスキルというより、持って生まれた性質なのだろう。
「そうそう。もうひとつ、ライブ配信の良いところに気がついたぞ。視聴者の反応をリアルタイムで見ることができるのは、本当に素晴らしいね。若者と同じことをするのは少し恥ずかしい気もしていたが、やってみると多くの学びがあるものだ。君たちも、そう思わないか?」
周囲のスタッフ達は配信機材を片付けるのに忙しく、誰も彼の話を聞いていない。
「それは僕も同感です」
コウキだけが相槌を打つと、クロツグは話題を変えた。
「そういえば配信中はあえて触れなかったがね。最近出回っている例の動画、私も観たぞ」
「モミさんとのバトルのことですか」
クロツグは深く頷き、腕組みをする。
「あのギラティナというポケモンは……いや、神様だったか?」
「ポケモンですよ」
「そうか。今日も、君の影の中にいるのかね」
コウキは、椅子から伸びる影に目をやった。
「……いますよ。クロツグさんとバトルしたときも、一応いたんですけどね」
「あの日は出てこなかったな」
「そういうルールでしたから」
「そんなものは人間の都合でしかない。彼には関係ないことさ」
クロツグも、コウキの足元に視線を落とした。
「あえて”彼”と呼ばせてもらったがね。彼はきみを勝たせるためなら、頼まれていなくても自ら顔を出すのではないかな」
「どうでしょうね」
「失礼を承知で言うがね……万一君が敗北しそうになったら、有無を言わさず飛び出してきて、全てを破壊し尽くすだろうと、私はあの映像を観て思ったよ」
「……」
否定したいが、相応しい言葉が出てこなかった。コウキの中にも、奴なら必ずそうすると、ほとんど確信に近いものがあった。
コウキが影を見つめて沈黙すると、クロツグは再び話題を変える。
「ポケモンは、なぜ戦うと思う?」
思いがけない問いかけに、コウキは思わず顔を上げた。
「……え?」
「私は若い頃、不思議で仕方なかったんだ。彼らが人に従い、人に命じられるまま戦うこと自体がね」
「独特の視点ですね。ナナカマド博士でも、そういう研究はしていないと思います」
「あの人は進化の権威だが、心理学は専門外だろう」
「いや、そういうことを言いたいわけじゃ……まあ、はい。そうですね」
「それで、きみは、なぜポケモンが自分のために体を張ってくれるのか説明できるかね」
「まあ……ある程度は」
言語化を試みたことはないが、毎日触れあっていれば自ずと分かることだと思う。一柱の例外を除けば。
「ギラティナだけは未だに、よく分かりませんけどね」
コウキは次第に、脳のリソースの大半を全く別の思考に向け始めていたが、この名前を口にするときだけは、目の覚めるような緊張が走った。
クロツグは深く頷き、熟練のトレーナーらしい、鋭い眼差しを向けてくる。
「私も昔は随分頭を悩ませたが、ある日きみの言う通り、そこまで難しい話ではないことに気がついた。恩返しだったり、高いプライドだったり、単純に闘争本能だったり。細かな違いを抜きにすれば、いくつかのパターンに分類することも可能だ」
戦う理由は、そのポケモンの強さに直結していると、彼は確信を込めた様子で語る。
「それを見抜くことができれば、そのポケモンの行動は一定、予測できる。だから私は常々、相手のポケモンがなぜトレーナーの言葉に従うのか、両者を結び付けているものが何なのかを、よくよく見極めるようにしている」
「なるほど」
コウキは頷きながらも、クロツグの言葉に響くものはなかった。目的が明らかになれば、辿る過程も自然に見えてくるという理屈だろうが、旅の中では戦う目的なんて、いちいち考える余裕はなかった。目的があるとすれば、生き延びることだけだ。プロセスなんてどうでもいい。どんな手を使ってでも、絶対に勝つ。さもなければポケモン共々破滅する。
クロツグは、競技としてのポケモンバトルに人生を捧げた男だ。闘争との向き合い方が根本的に違う。
「それは、当たりますか」
コウキは、努力して興味津々な顔を作る。
「当たるとも。だから私はこの仕事を続けられているんだ」
クロツグは大袈裟に両手を広げて言ってから、さすがに百発百中とはいかないがね、と付け加え、真剣な顔つきになる。
「ギラティナは、そうだな……一言で言ってしまえば、プライドの高さではないのかな」
「プライド……?」
どこかチープな響きに、つい首を傾げてしまう。
「プライドは案外、馬鹿にならないぞ。それを守るために人殺しをする者だっているんだ」
コウキの内心を見透かしたのか、クロツグが身を乗り出して畳みかけてくる。
「それは人間やポケモンの話でしょう」
「きみは先ほど、ギラティナはポケモンだと言っていたがね」
コウキは、はっとした。
クロツグは、構わず続ける。
「自分で選んだトレーナーが敗北するなんて、絶対に許せない。そんなプライドの持ち方をするポケモンも、少なからずいる。あの動画を観たとき、彼もその手合いだと思ったんだ。特別な根拠があるわけではないが、なんというか……そういう顔をしているように見えたのだよ」
可愛い顔をしていると、モミが言い放ったことを思い出す。
「直接触れ合ってみれば、もっと分かることがあるかもしれないが……きっと私には、彼と対話をする資格などないのだろう。あの日きみを追い詰めることができていれば、私も挑戦できたのに……つくづく力不足だった。本当に残念だよ」
「あの時は、感動したと言ってくれましたが」
「それも本心だった。あの幼く、うちの息子に振り回されてばかりだった少年が、別人かと思うほど強い男になって、私の前に立っていたのだからな。だからこそ君のお父さんが、今の君を見ることができないことも……同じくらい、残念だ」
クロツグは言葉通り、心底残念そうな顔で天井を仰いだ。そして深いため息をついてから、再びコウキに視線を戻す。
「ところで、あのモミという子のことは私もよく知っていてね。対戦したこともあるよ」
「そうなんですか?」
この日初めて、興味をそそられる話題になった。
「なんだ、随分と前のめりじゃないか」
指摘されて、コウキは何食わぬ顔で椅子に座り直す。
「タワータイクーンのバトルに興味を持たないトレーナーなんていませんよ」
「本当かね。どうも、それだけではないようだが。突然のイメチェンと、何か関係があるのかね」
クロツグが、いたずらを思いついたジュンにそっくりな笑みを浮かべたので、コウキは危機感を覚えた。幸い、先ほどから20代前半くらいの気弱そうな女性スタッフが、クロツグの背後で声をかけたそうにしている。
「ギラティナのお眼鏡に叶ったのは、私ではなく彼女のほうだったわけだ。世界は広いというか、灯台下暗しというか。ついでに、あの子は真面目一辺倒だったコウキのお眼鏡にも叶ったということなのかな」
コウキが視線を送ると、女性スタッフがようやく口を開く。
「あ、あの……次の打ち合わせが始まるので、15階の会議室までお願いします」
「む!」
クロツグは、相手がびくりと震えるほどの勢いで振り返り、立ち上がった。
「おお、そうだったか。この後は久しぶりにコウキと昼飯でもと思ったが、そうもいかないようだ。すまないね」
「いいえ、気にしないでください」
どのみち断らざるを得なかったので、むしろ好都合だ。
「それじゃあ、また会おうチャンピオン。いつか私にもギラティナを見せてくれたまえ」
それだけ言い捨てて、クロツグは大股に会議室を飛び出していく。女性スタッフは、椅子の背もたれに置き去りにされた哀れなコートを回収すると、コウキに向かって深々と一礼し、退室した。他人事ながら、その頼りない背中を気の毒に思う。クロツグの秘書としての役目は、新人に割り当てられる最初の職務だと聞く。バトル以外は壊滅的なタワータイクーンの身の回りのサポートは、ファイトエリアで職を得た者には共通の登竜門なのだ。良くも悪くも常識に囚われない言動と向き合ううちに、おかしいのはクロツグではなく自分かもしれないと錯覚し始めるというから、若手の苦労は察するに余りある。そんなとき、新人を現実に引き戻すのは先輩の役目だ。そしてクロツグに間近で仕えた日々は、キャリアの先々まで語り草になるのである。
周囲では、スタッフ達が片付けをあらかた終えていた。機材の大半が廊下に搬出され、床を這っていたコードも全て回収されている。一切手伝わなかったことを、申し訳なく思う。
コウキは立ち上がり、座っていた椅子をスタッフの一人に手渡してから、足元に目をやった。
「……みんな、お前に興味津々だね。人気者になれて良かったじゃないか」
わずかな皮肉と自虐を含んだ呟きは、誰にも聴かれてはいなかったと思う。
影は、いつも通り横たわっている。