シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF―   作:エーアイ

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第1章 殺すべき女、婿にすべき男
第1話 シャンプーは、同じ乱馬に二度敗れる


 その日、シャンプーは百人近い同胞の前で、今年いちばん強い女になった。

 女傑族の村、その中央に設けられた石造りの闘技場。

 円形に敷き詰められた白い石板には、これまで戦った女たちの靴跡が幾重にも刻まれている。朝から続いた武術大会も、いましがた決着したばかりだった。

 最後まで立っていたのは、紫色の長い髪を揺らす少女だった。

 両手に持った一対の錘を肩へ担ぎ、荒い呼吸を整える。

 正面では、決勝の相手が片膝をついていた。

 相手の手から長槍が落ちる。

 乾いた音が石床に響いた瞬間、見守っていた女たちから歓声が上がった。

 

「勝者、シャンプー!」

 

 審判を務めていた老女が、杖を高く掲げる。

 シャンプーは錘を下ろし、胸を張った。

 

 当然の結果だった。

 

 自分はこの村でもっとも若く、もっとも速く、そして誰より強くなる女だ。

 いずれ村を背負う。

 そのために毎日、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで鍛えてきた。

 負ける理由などない。

 敗者となった女が立ち上がり、悔しそうに唇を噛みながらも拳を胸に当てる。

 シャンプーも同じように拳を胸へ当て、相手の健闘に応えた。

 戦いが終われば遺恨は残さない。

 それもまた、村の掟だった。

 

「シャンプー!」

 

 観客席から何人もの声が飛んでくる。

 その中央で、小さな老婆が杖の上に腰を下ろし、細い目をさらに細めていた。

 シャンプーの曾祖母、コロンである。

 

 褒める言葉はない。

 けれど、わずかに口元が持ち上がっている。

 それだけで十分だった。

 今年の大会も、自分が勝った。

 その証しとして、闘技場の外には豪華な料理が並べられている。

 焼いた豚肉、香草を詰めた鶏、川魚の蒸し物、山菜の炒め物、大皿に積み上げられた饅頭。

 すべて優勝者のために用意されたものだ。

 戦いを終えたシャンプーの腹も、先ほどから盛大に空腹を訴えていた。

 

 ところが。

 

 闘技場を出たシャンプーは、足を止めた。

 

 料理がない。

 

 正確には、料理を置いていた大皿はある。

 しかし、その大半が空になっていた。

 積み上げられていた饅頭は消え、骨だけになった鶏が転がり、豚肉の皿には脂の跡しか残っていない。

 その惨状の中央に、二つの影があった。

 ひとりは、赤い髪を三つ編みにした少女。

 赤い上着を着て、椅子に片足を乗せ、両手で饅頭を抱えている。

 もう一頭は、巨大な白黒の熊猫だった。

 熊猫は器用に箸を使い、最後に残った麺をすすっていた。

 少女が饅頭を飲み込み、満足そうに息を吐く。

 

「いやあ、助かったぜ。ここ二日まともなもん食ってなかったからな」

 

 熊猫が何度もうなずく。

 その手には、どこから持ってきたのか、大陸の旅人にも通じる簡単な文字で「御馳走様」と書かれた木札が握られていた。

 シャンプーのこめかみが引きつった。

 

「それは、私の料理だ」

 

 赤毛の少女が振り返る。

 

「ん?」

 

 少女はシャンプーを上から下まで眺めた。

 肩に担いだ錘。

 大会用の衣装。

 周囲を取り囲み始めた女たち。

 そこでようやく、まずい状況だと気づいたらしい。

 

「これ、おまえのだったのか?」

 

「今年の優勝者に与えられる祝いの膳だ」

 

「そりゃ悪かった」

 

 少女は素直に謝った。

 しかし、その直後。

 手に残っていた最後の饅頭を口に入れた。

 シャンプーの眉が跳ね上がった。

 

「悪いと思うなら、なぜ食べる」

 

「もう手に持ってたしよ」

 

 少女は口を動かしながら答えた。

 周囲の女たちが一斉に武器を構える。

 熊猫は身の危険を察したらしく、そっと椅子から降りた。

 そして赤毛の少女を前へ押し出し、自分は後ろへ下がった。

 

「親父!」

 

 熊猫は視線を逸らし、別の木札を出す。

 そこには、「若者同士で解決」と書かれていた。

 

「てめえ、あとで覚えてろよ!」

 

 シャンプーは熊猫の奇妙な行動よりも、少女の言葉に反応した。

 

「父親?」

 

「まあ、いろいろあんだよ」

 

 赤毛の少女が頭をかく。

 乱馬が使っているのは、大陸の各地で通じる共通語だった。

 発音には旅人らしい癖がある。

 それでも、玄馬と大陸を渡り歩いてきただけあって、日常の会話や武術の話には困らない。

 ただし、女傑族の村で使われる文字や土地固有の言い回し、掟に関わる古い言葉までは身についていないらしい。

 

 シャンプーは錘を両手に持ち直した。

 

「食べた分を返してもらう」

 

「金ならねえぞ」

 

「金などいらない」

 

 錘の先端を、少女へ向ける。

 

「戦え」

 

 赤毛の少女が目を瞬いた。

 

「は?」

 

「それは勝者の料理だ。食べたければ、勝者になればいい」

 

 周囲の女たちから、賛同の声が上がった。

 無断で祝いの膳を食べた異邦人を、そのまま帰すわけにはいかない。

 しかし、女傑族は強者を尊ぶ。

 戦いに勝てば、料理を食べたことも正当な権利として認められる。

 少女は面倒そうに肩を落とした。

 

「食った後に言われてもなあ」

 

「怖いなら、今すぐ膝をつけ」

 

 その言葉で、少女の目つきが変わった。

 先ほどまで気の抜けていた背筋が、わずかに伸びる。

 

「誰が怖いって?」

 

「おまえだ」

 

「言ったな」

 

 少女が椅子から足を下ろした。

 両手を軽く開く。

 武器は持たない。

 構えらしい構えも取らない。

 それなのに、シャンプーは笑みを消した。

 目の前に立つ少女の重心が、音もなく沈んだからだ。

 

 つま先。

 膝。

 腰。

 肩。

 どこにも余計な力がない。

 風が吹けば、そのまま流されてしまいそうに見える。

 だが、逆だった。

 どの方向から攻撃しても、その風に乗って動ける姿勢。

 

 この少女は、戦える。

 

「名前は?」

 

 シャンプーが尋ねる。

 少女は右手の拳を左の掌で包んだ。

 

「早乙女乱馬。無差別格闘早乙女流二代目だ」

 

 聞いたことのない流派だった。

 だが、その名を覚える価値はありそうだった。

 シャンプーも名乗りを返す。

 

「女傑族、シャンプー」

 

 周囲の女たちが、二人を囲むように距離を取った。

 先ほどまで大会が行われていた闘技場へ戻る必要もない。

 ここがそのまま、新たな戦場になる。

 祝いの膳が置かれた広場。

 長机と椅子。

 無数の皿。

 足元には食べ残された骨や、こぼれた汁が残っている。

 平坦な闘技場よりも、はるかに足場が悪い。

 それでもシャンプーは気にしなかった。

 どのような場所であろうと、戦場は戦場だ。

 

「始めるぞ」

 

 返事を待たず、シャンプーは踏み込んだ。

 右手の錘を横薙ぎに振るう。

 空気を押し潰すような音が鳴った。

 乱馬は上体を後ろへ倒し、鼻先すれすれでかわした。

 赤い前髪が風圧にあおられる。

 そこへ、左の錘を下から跳ね上げた。

 乱馬が右足で机の縁を蹴る。

 身体が水平に近い角度で宙へ浮き、二撃目も空を切った。

 

 軽い。

 

 シャンプーはそう感じた。

 

 乱馬の身体は、体重というものを持っていないかのように動く。

 机の上へ片手をつき、その腕一本を軸に回転する。

 少女の踵が、シャンプーの側頭部へ飛んできた。

 シャンプーは左腕の錘で受ける。

 

 硬い音が響いた。

 

 蹴りを受けた腕が、わずかに沈む。

 見た目より重い。

 乱馬は蹴りの反動を利用して回転し、離れた机の上へ着地した。

 

「へえ」

 

 口元に笑みを浮かべている。

 

「けっこうやるじゃねえか」

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 シャンプーは錘を回した。

 左右の錘が、紫色の髪の両側で円を描く。

 一歩目で距離を詰める。

 右を見せる。

 乱馬の視線がそちらへ動いた瞬間、左の錘を手放す。

 

 投げたのではない。

 

 短い革紐で手首につながれた錘が、大きな円弧を描いて乱馬の背後へ回り込む。

 

 前から右の錘。

 後ろから左の錘。

 挟み込む。

 

 乱馬は机の上で跳んだ。

 右の錘が机を叩き割り、後ろから迫った左の錘が空中の乱馬へ襲いかかる。

 空中では足場がない。

 逃げられない。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 乱馬は飛んできた錘の上へ、右足を乗せた。

 

「なっ──」

 

 錘は止まらない。

 乱馬を乗せたまま円弧を描く。

 乱馬はその勢いを利用し、錘の上からさらに跳んだ。

 一気にシャンプーの頭上を越える。

 

 シャンプーは振り向きざまに右の錘を突き出した。

 乱馬の掌と、錘の丸い先端がぶつかる。

 普通なら、掌の骨が砕ける。

 だが乱馬は受け止めなかった。

 触れた瞬間に腕を引き、力の方向を横へずらした。

 錘が逸れる。

 シャンプーの身体も、わずかに前へ流れた。

 その脇腹へ、乱馬の膝が迫る。

 シャンプーは錘の柄を地面へ突き立て、強引に身体を止めた。

 膝蹴りが衣服をかすめる。

 そのまま柄を支点に身体を持ち上げ、両足で乱馬の胸を蹴った。

 今度は乱馬も避けきれない。

 腕を交差させて受けたが、身体が後方へ飛ぶ。

 背中から長机へ激突する。

 机が真ん中から折れた。

 

 熊猫が心配そうに立ち上がり、「乱馬!」と書かれた木札を高く掲げた。

 しかし、壊れた机の向こうから乱馬の手が上がった。

 

「騒ぐな、親父」

 

 木片を払い、乱馬が立ち上がる。

 交差させた腕が赤くなっていた。

 

「効いたぜ」

 

 言葉とは裏腹に、その顔は楽しそうだった。

 シャンプーも胸の奥が熱くなるのを感じた。

 大会の決勝の相手よりも強い。

 目の前の異邦人は、間違いなく今日戦った誰よりも強い。

 

 ならば。

 この女を倒してこそ、今日の勝利は完成する。

 

 シャンプーは錘を下げた。

 乱馬の視線が、左右の武器へ向けられる。

 次の攻撃に備えている。

 だからこそ、武器を捨てた。

 錘が地面へ落ちる。

 乱馬の目がわずかに見開かれた。

 シャンプーはその瞬間、低く踏み込んだ。

 

 右の拳を顔面へ。

 乱馬が首をひねってかわす。

 左の掌底を腹へ。

 肘で防がれる。

 さらに右足を軸に回転し、後ろ回し蹴り。

 乱馬は両腕で受けるが、その上から蹴り抜いた。

 乱馬の靴が地面を滑る。

 

 一歩。

 二歩。

 だが倒れない。

 

 シャンプーは追撃する。

 

 拳。

 肘。

 膝。

 蹴り。

 

 一息の間に四つの攻撃を重ねる。

 乱馬はすべてを完全には避けられなかった。

 拳が肩をかすめ、肘が脇腹に触れ、膝が太腿へ入る。

 しかし、決定打にならない。

 

 攻撃を受けながら、乱馬の動きが変わっていた。

 最初は見てから避けていた。

 いまはシャンプーが動き始める前に、すでに身体をずらしている。

 肩の向き。

 腰の沈み。

 踏み込む足の指。

 それらすべてから、次の攻撃を読んでいる。

 

「そろそろ分かったぜ」

 

 乱馬が言った。

 

「おまえ、右の蹴りを出す前に、ほんのちょっと左肩が下がるな」

 

 シャンプーの呼吸が止まった。

 直後、無意識に左肩が下がる。

 右の蹴りを放つための予備動作。

 気づいたときには、もう蹴り始めていた。

 

 乱馬が前へ出る。

 通常なら、蹴りから離れるために後ろへ下がる。

 だが乱馬は、蹴りがもっとも威力を持つ距離の内側へ潜り込んだ。

 

 シャンプーの右腿に肩を当てる。

 腰を落とす。

 次の瞬間、天地が逆転した。

 

「くっ!」

 

 投げられる。

 シャンプーは空中で身をひねり、両手を地面についた。

 腕の力で身体を跳ね上げ、着地する。

 だが、乱馬は目の前にいた。

 

 掌底が迫る。

 シャンプーは顔を逸らす。

 掌底は頬の横を通り過ぎた。

 

 避けた。

 そう思った。

 

 乱馬の腕が、そのままシャンプーの首の後ろへ回る。

 引き寄せられる。

 額と額がぶつかりそうな距離。

 乱馬の右足が、シャンプーの軸足を内側から払った。

 身体が傾く。

 シャンプーは乱馬の上着をつかもうとした。

 だが指が届くより先に、乱馬が手を離す。

 

 背中が石畳へ落ちた。

 強い衝撃。

 肺から空気が漏れる。

 それでもシャンプーは、すぐに起き上がろうとした。

 

 胸元へ、乱馬の拳が突きつけられる。

 触れてはいない。

 拳一つ分の距離で止まっている。

 だが、このまま打ち下ろされれば、自分は防げない。

 広場が静まり返った。

 

 乱馬が息を吐く。

 

「これで俺の勝ちだろ」

 

 シャンプーは拳を見つめた。

 次に乱馬の顔を見る。

 乱馬の頬にも、腕にも、細かな傷がある。

 一方的に負けたわけではない。

 それでも最後に立っているのは乱馬だった。

 

 シャンプーは目を閉じる。

 

 敗北を認めた。

 

「私の負けだ」

 

 乱馬が拳を引き、後ろへ下がった。

 すぐに熊猫が料理の残骸をまとめ始める。

 この隙に逃げるつもりなのだろう。

 しかし、まだ終わっていない。

 

 シャンプーは立ち上がった。

 

 唇を手の甲で拭う。

 そして乱馬へ歩み寄る。

 

「なんだよ」

 

 警戒する乱馬の肩をつかむ。

 顔を引き寄せた。

 乱馬の頬へ、唇を触れさせる。

 周囲の女たちがどよめいた。

 乱馬は硬直した。

 

「な──」

 

 シャンプーは乱馬から離れた。

 

 胸の奥にあるのは屈辱だった。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 女傑族の女が、外から来た女に負けた。

 ならば敗北した者は、相手へ死の接吻を与える。

 どれほど遠くへ逃げようとも追いかけ、必ず命を奪うという誓い。

 村の誇りを守るための掟。

 

 シャンプーは乱馬をまっすぐ見据えた。

 

「早乙女乱馬」

 

「な、なんだよ」

 

「死の接吻だ」

 

 乱馬の顔から血の気が引いた。

 

「死?」

 

「女傑族の女が、よそ者の女に負けたときの掟だ。おまえがどこへ逃げても、私は追う」

 

 シャンプーは地面に落としていた錘を拾った。

 

「そして必ず殺す」

 

「なんだそりゃあ!」

 

 乱馬の叫びが、村中へ響き渡った。

 熊猫が乱馬の首根っこをつかむ。

 もう片方の手で荷物を抱える。

 

「待て、親父! まだ話が──」

 

 熊猫は待たなかった。

 乱馬を引きずったまま走り出す。

 女たちが追おうとしたが、シャンプーは手を上げて止めた。

 

「追わなくていい」

 

「しかし、シャンプー」

 

「あれは私の敗北だ」

 

 自分で決着をつけなければならない。

 他人の手を借りれば、掟を果たしたことにはならない。

 遠ざかる乱馬の赤い髪を見つめる。

 

 先ほどまで空腹を満たしただけの、名も知らない異邦人だった。

 

 いまは違う。

 

 地の果てまで追ってでも、倒さなければならない相手だ。

 

 その顔を忘れはしない。

 その動きを忘れはしない。

 その名を忘れはしない。

 

 早乙女乱馬。

 

 シャンプーが初めて敗北した、赤い髪の女。

 


 

 三日後。

 

 山間の古い街道に、激しい金属音が響いた。

 崖と崖の間を渡す石橋。

 その中央で、ひとりの少年が大きく身を反らしていた。

 少年の鼻先を、巨大な錘が通過する。

 黒い三つ編みが、その風圧で跳ね上がった。

 

「いきなり何しやがる!」

 

 少年──早乙女乱馬は、石橋の欄干へ片足を乗せる。

 その正面で、シャンプーは両手の錘を構えていた。

 三日間、追い続けた。

 足跡。

 野営の跡。

 通りかかった商人の証言。

 山中で不自然に減っていた竹。

 そして、巨大な熊猫を見たという子どもの話。

 

 追跡は難しくなかった。

 ようやく見つけたと思った。

 しかし、赤毛の女はいない。

 いたのは、黒髪の少年と熊猫だけだった。

 服装は似ている。

 赤い上着。

 黒いズボン。

 けれど顔も体格も違う。

 

 シャンプーは乱馬へ錘を向けた。

 

「あの女はどこだ」

 

「あの女?」

 

「赤い髪の女だ。おまえと同じ服を着ている」

 

 乱馬の頬が引きつった。

 少し離れた場所では、熊猫が口笛を吹くような仕草をしながら空を眺めている。

 

「知らねえな」

 

「嘘だ」

 

「知らねえもんは知らねえ」

 

「では、熊猫に聞く」

 

 熊猫が飛び上がった。

 後ずさりしながら、「無関係」と書かれた木札を掲げる。

 シャンプーは眉をひそめた。

 

「その熊猫は、おまえたちの言葉が分かるのか」

 

「気にすんな。あれはどうでもいい」

 

 熊猫が乱馬の後頭部を殴った。

 

「いてえ! 何すんだ、クソ親父!」

 

 やはり親子らしい。

 

 シャンプーは錘を下ろさない。

 

「赤い髪の女を出せ。そうすれば、おまえには用はない」

 

「だから、いねえって言ってんだろ」

 

 乱馬は首の後ろをかいた。

 

「それに、あいつだっておまえに殺される理由なんかねえよ」

 

「理由ならある。あの女は私を倒した」

 

「勝負して負けたくらいで殺すって方がおかしいだろ」

 

「村の掟だ」

 

「知るか。そんなもん」

 

 シャンプーの目が鋭くなった。

 

 掟を侮辱された。

 

 女傑族が長い年月をかけて守ってきたものを、何も知らない異邦人が切り捨てた。

 

「もう一度だけ聞く」

 

「何度聞かれても同じだ」

 

 乱馬も腰を落とした。

 先ほどまでとは空気が変わる。

 

 少女とは違う。

 背が高い。

 肩幅も広い。

 構えた腕も長い。

 だが、その立ち方に奇妙な既視感があった。

 力を抜き、どこへでも動けるようにしている。

 

 あの赤毛の女と同じだ。

 

「ならば、おまえを倒して聞き出す」

 

 シャンプーが踏み込む。

 今度は初めから全力だった。

 

 右の錘を正面へ突き出す。

 乱馬は左へかわす。

 

 そこへ左の錘を横から振るう。

 身を沈めて避ける。

 

 シャンプーは右膝を跳ね上げた。

 乱馬が掌で受ける。

 受けた掌を支点に、シャンプーは身体を回転させた。

 左足の踵が乱馬の側頭部へ向かう。

 乱馬は空いていた腕を上げて防いだ。

 蹴りの衝撃で、乱馬が欄干まで押し下げられる。

 背後は崖だった。

 一歩でも下がれば落ちる。

 

 シャンプーは二つの錘を同時に振り下ろした。

 乱馬が欄干へ飛び乗る。

 幅は足の半分もない。

 その細い石の上で、乱馬は身体を横へひねった。

 錘が左右を通過し、欄干へ激突する。

 石が砕けた。

 足場が崩れる。

 乱馬の身体が崖側へ傾く。

 

 熊猫が「乱馬!」と書かれた木札を掲げ、両手を上げた。

 だが、乱馬は落ちなかった。

 崩れた欄干を蹴り、シャンプーの肩を飛び越える。

 空中で身体を反転。

 背後へ着地する。

 振り向きざまに、シャンプーは右の錘を投げた。

 乱馬が首を傾けて避ける。

 その三つ編みを、錘がかすめた。

 

「危ねえだろ!」

 

「戦っているのだから当然だ!」

 

 錘につながった紐を引く。

 戻ってきた錘を受け取り、そのまま連撃へつなげる。

 乱馬は左右に身体を揺らし、最小限の動きで避け続けた。

 その動きを見た瞬間、シャンプーの胸に小さな違和感が生まれた。

 

 似ている。

 赤毛の女と。

 

 顔は違う。

 身体も違う。

 それなのに、攻撃を避けるときの癖が同じだった。

 右からの攻撃を避けるとき、左足の踵をわずかに浮かせる。

 高い攻撃の直後には、相手の軸足を見る。

 武器そのものではなく、肩と腰から攻撃を読む。

 

「おまえ」

 

 シャンプーは攻撃を続けながら尋ねた。

 

「あの女と、同じ流派か」

 

「だったら何だよ」

 

 乱馬が答える。

 否定しない。

 シャンプーは錘の軌道を変えた。

 右を大きく振り、乱馬を左へ追い込む。

 乱馬は予想どおり左へ避けた。

 そこへ、左の錘ではなく蹴りを放つ。

 乱馬の腹へ足裏が入った。

 

「ぐっ!」

 

 乱馬が後ろへ飛ぶ。

 石橋の上を転がり、片膝をついた。

 シャンプーは一気に距離を詰める。

 

 錘を振り上げる。

 

 乱馬が顔を上げた。

 その口元が、笑っていた。

 

「同じ手を使うと思ったぜ」

 

 乱馬が地面へ片手をつく。

 腕を軸に、両足を回転させた。

 低い足払い。

 シャンプーは跳んで避ける。

 だが、それが狙いだった。

 

 乱馬は回転の勢いを保ったまま立ち上がる。

 跳び上がったシャンプーの着地点へ、身体ごと入り込んだ。

 肩が腹へ当たる。

 着地する前に持ち上げられた。

 

「しまっ──」

 

 乱馬が前へ走る。

 シャンプーを肩に乗せたまま、石橋の中央まで運ぶ。

 そのまま投げるかと思った。

 しかし、シャンプーは乱馬の背中へ肘を落とした。

 

 一撃。

 二撃。

 

 乱馬が顔をしかめる。

 シャンプーは身体をひねり、肩から抜け出した。

 地面へ着地すると同時に、右の錘を振るう。

 

 乱馬は左腕で受けた。

 重い音。

 腕を伝わった衝撃で、乱馬の身体が傾く。

 

 シャンプーはさらに左の錘を打ち込む。

 乱馬は右腕で受ける。

 両腕を塞いだ。

 

 シャンプーは錘を押し込み、そのまま乱馬を石橋の床へ押し潰そうとする。

 乱馬の膝が曲がった。

 

「どうした。口ほどでもないな」

 

「こんな重てえもん、振り回してるだけあって……馬鹿力だな」

 

「負け惜しみか」

 

「いや」

 

 乱馬の足が、シャンプーの足の間へ滑り込む。

 

「褒めてんだよ!」

 

 乱馬が両腕を外側へ開いた。

 二つの錘を受け止めていた腕が、そのままシャンプーの腕を押し広げる。

 胸元が無防備になる。

 乱馬の額が、シャンプーの額へぶつかった。

 

「っ!」

 

 視界が揺れる。

 乱馬は頭突きの反動で後ろへ下がり、自由になった両腕でシャンプーの手首をつかんだ。

 そのまま左右を交差させる。

 二つの錘がぶつかる。

 

 武器同士の衝突で、シャンプーの手がしびれた。

 

 握力が緩む。

 乱馬が右の錘を蹴り上げた。

 

 錘がシャンプーの手を離れ、橋の外へ飛ぶ。

 革紐が手首を引く前に、乱馬は紐をつかんだ。

 身体を回転させる。

 紐に引かれ、シャンプーの右腕が伸びきった。

 

 乱馬はその脇をくぐり抜け、背後へ回る。

 右腕をひねり上げられる。

 

 シャンプーは左の錘で背後を狙った。

 乱馬が腕を離す。

 同時に、シャンプーの背中を軽く押した。

 踏み出した先には、自分が振った左の錘が戻ってくる。

 シャンプーは慌てて首を傾けた。

 

 自分の錘が髪をかすめる。

 その一瞬。

 

 乱馬が懐へ入った。

 拳が腹へ触れた。

 

 まだ打ち込まれてはいない。

 しかし、乱馬の腰は沈み、肩と拳が一直線につながっている。

 この距離で放たれれば、避けられない。

 シャンプーは反射的に錘を振り上げた。

 

 乱馬の拳が動く。

 衝撃が腹を突き抜けた。

 

「──っ!」

 

 身体が浮いた。

 息が消える。

 足が石橋から離れ、背中から地面へ落ちた。

 手から錘が転がる。

 

 立たなければ。

 

 そう思う。

 だが腹に力が入らない。

 乱馬は追撃しなかった。

 倒れたシャンプーの前で拳を下ろし、呼吸を整えている。

 

「これで分かったろ」

 

 乱馬は言った。

 

「女の居場所なんか、俺は知らねえ」

 

 嘘だ。

 

 シャンプーには分かった。

 この男は何かを隠している。

 あの赤毛の女と、あまりにも動きが似ている。

 同じ流派というだけではない。

 攻撃を受けたときの表情。

 勝負が決まったあと、追撃せずに待つ癖。

 そして、最後の拳。

 あの女がシャンプーの胸元へ止めた拳と、まったく同じ軌道だった。

 

 それでも。

 

 いま優先すべきことは、赤毛の女ではない。

 シャンプーは敗北した。

 女傑族の女が、村の外から来た男に敗れた。

 そのとき果たすべき掟は、ひとつしかない。

 腹を押さえながら立ち上がる。

 乱馬が眉をひそめた。

 

「まだやる気か?」

 

「いや」

 

 シャンプーは乱馬の正面へ立つ。

 乱馬の上着をつかむ。

 

「お、おい」

 

 引き寄せる。

 今度は頬ではなかった。

 乱馬の唇へ、自分の唇を重ねた。

 

 ほんの一瞬。

 

 触れるだけの接吻。

 離れたとき、乱馬の顔は真っ赤になっていた。

 

「な、ななな、何しやがる!」

 

 シャンプーも胸の奥が妙に騒いでいた。

 死の接吻とは違う。

 こちらは儀礼だ。

 掟を果たしただけ。

 そう理解しているはずなのに、唇に残った感触が消えない。

 

 シャンプーは動揺を押し隠し、宣言する。

 

「求婚の接吻だ」

 

「求婚?」

 

「女傑族の女が、村の外から来た男に負けたとき、その男を夫として迎える」

 

 乱馬の顔から、赤みが消えた。

 

「はあああああっ!?」

 

「おまえは私に勝った。だからおまえは、私の夫になる」

 

「なるか!」

 

 乱馬は即答した。

 シャンプーの目が細くなる。

 

「これは掟だ」

 

「さっきから掟、掟って、知ったことか!」

 

「敗者が勝者に従うのは当然だ」

 

「だったら負けたおまえが、俺の言うこと聞け! 俺は結婚しねえ!」

 

「その命令には従えない」

 

「都合よすぎんだろ!」

 

 乱馬の後ろで、熊猫が腹を抱えて笑っていた。

 乱馬が振り返る。

 

「笑ってんじゃねえ、親父!」

 

 熊猫は真顔に戻り、「良縁」と書かれた木札を掲げた。

 

「てめえ!」

 

 乱馬が熊猫へ飛びかかる。

 親子が石橋の上で取っ組み合いを始める。

 シャンプーは呆然とそれを見た。

 

 自分の夫になる男。

 強い。

 確かに強い。

 外見も悪くない。

 態度は最悪だが、戦いの最中に卑怯なことはしなかった。

 自分を傷つける機会がありながら、必要以上の攻撃もしなかった。

 夫として迎えることに、不満はない。

 

 むしろ。

 そこまで考えたときだった。

 

 遠くで雷鳴が鳴った。

 山の天気は変わりやすい。

 先ほどまで晴れていた空を、黒い雲が覆っている。

 冷たい風が吹き抜けた。

 乱馬が空を見上げる。

 

「やべ」

 

 その声には、先ほどまでとは違う焦りがあった。

 大粒の雨が落ちてくる。

 

 一滴。

 二滴。

 直後、空から滝のような雨が降り始めた。

 

 シャンプーは腕で顔を覆う。

 

「急に何だ!」

 

 乱馬が熊猫を蹴り飛ばし、荷物へ走る。

 

「親父、湯は!」

 

 熊猫が首を振る。

 

「くそっ!」

 

 乱馬の身体が白い湯気に包まれた。

 輪郭が縮む。

 肩幅が狭くなる。

 背が低くなる。

 濡れた黒髪が、赤へ変わる。

 

 次の瞬間。

 そこに立っていたのは、三日前にシャンプーを倒した少女だった。

 

 赤い髪。

 赤い上着。

 女の身体。

 そして右肩には、三日前にシャンプーの拳がかすめた痣が残っている。

 

 シャンプーの呼吸が止まった。

 

 赤毛の少女──乱馬も、動けずにいた。

 雨音だけが石橋を叩く。

 シャンプーは一歩後ろへ下がる。

 

「おまえ……」

 

 喉がうまく動かなかった。

 

「あの女……」

 

 乱馬が顔を背ける。

 

「見りゃ分かるだろ」

 

「なぜ」

 

「呪泉郷だよ」

 

 乱馬は苛立たしそうに濡れた前髪をかき上げた。

 

「娘溺泉に落ちた。水をかぶると女になって、湯をかぶると男に戻る」

 

「そんな」

 

 シャンプーは首を振った。

 そんなことがあるはずがない。

 だが、目の前で起きている。

 あの女と、この男は、同じ人間だった。

 動きが似ているのではない。

 同じだったのだ。

 

 三日前、自分を倒した女。

 死の接吻を与えた相手。

 

 先ほど、自分を倒した男。

 求婚の接吻を与えた相手。

 

 殺さなければならない女。

 夫にしなければならない男。

 

 どちらも、早乙女乱馬。

 

 シャンプーの右手が、腰の武器へ伸びる。

 乱馬も構えた。

 

「やるのか」

 

 女の姿。

 掟に従えば、この女は殺さなければならない。

 

 しかし。

 いま目の前にいる女は、先ほど唇を重ねた男でもある。

 

 夫として迎えなければならない。

 右手が震えた。

 武器を握れない。

 

「どうすれば」

 

 言葉が、無意識に漏れた。

 シャンプーはこれまで、掟に迷ったことがなかった。

 

 勝者には敬意を払う。

 敗者は結果を受け入れる。

 

 村の外の女に負ければ、死の接吻。

 村の外の男に負ければ、求婚の接吻。

 

 すべてに答えがあった。

 だから迷う必要などなかった。

 だが、二つの答えが、同じ人間へ向けられている。

 片方を選べば、もう片方の掟を破る。

 

「女のおまえを殺せば、男のおまえを夫にできない」

 

 シャンプーは呟く。

 

「男のおまえと結婚すれば、女のおまえを殺せない」

 

「だからどっちもしなくていいだろ」

 

 乱馬が言った。

 

「俺は結婚する気もねえし、殺される気もねえ」

 

「おまえの意思は関係ない」

 

 反射的にそう答えた。

 乱馬の目つきが変わる。

 

「関係あるに決まってんだろ」

 

 雨に濡れながら、乱馬はシャンプーを睨んだ。

 

「男でも女でも、どっちも俺だ」

 

 強い声だった。

 

「勝手に殺すとか、勝手に結婚するとか、ふざけんな。俺のことは俺が決める」

 

 シャンプーは言い返せなかった。

 男でも女でも、どちらも乱馬。

 その言葉を認めれば、掟の矛盾は解けない。

 否定しようにも、目の前の事実がそれを許さない。

 

 そのとき。

 硬いものが石橋を叩く音がした。

 

 こつん。

 こつん。

 雨音に混じって、杖の音が近づいてくる。

 シャンプーが振り返る。

 崖沿いの街道を、小さな老婆が歩いていた。

 杖をついているのではない。

 杖の先に立ち、跳ねるように進んでくる。

 

 コロンだった。

 その後ろには、村の女たちが十人以上続いている。

 

「ひいばあちゃん」

 

「まったく」

 

 コロンは濡れた石橋へ降り立った。

 

「ずいぶんと面倒な婿を見つけたものだね、シャンプー」

 

「婿じゃねえ!」

 

 乱馬が叫ぶ。

 

 コロンの細い目が、乱馬へ向けられる。

 女の姿。

 足の置き方。

 呼吸。

 腕に残る戦いの痕。

 老女は一目見ただけで、多くを理解したらしい。

 

「なるほど。娘溺泉か」

 

「知ってんのか!」

 

「呪泉郷の近くに住む者が、知らぬはずもない」

 

 乱馬がコロンへ詰め寄る。

 

「だったら治し方も知ってんだろ!」

 

「知っているかもしれんし、知らんかもしれん」

 

「どっちだよ!」

 

「少なくとも、お前たちよりは詳しい」

 

 熊猫が乱馬を押しのけ、コロンの前へ進み出た。

 両手を合わせ、何度も頭を下げる。

 

「親父、てめえ……」

 

 熊猫は「ぜひ村へ」と書かれた木札を出した。

 

「勝手に決めんな!」

 

 コロンは熊猫を無視して、シャンプーを見る。

 

「二つとも与えたのかい」

 

 シャンプーはゆっくりとうなずいた。

 

「女の姿の乱馬に、死の接吻を」

 

「男の姿の乱馬に、求婚の接吻を」

 

「そうか」

 

 コロンは笑わなかった。

 その声を聞いた村の女たちも、互いに顔を見合わせている。

 

 誰も答えを知らない。

 長い歴史を持つ女傑族にも、同じ人間へ二つの接吻が与えられた記録など存在しなかった。

 コロンが杖を石橋へ突く。

 

「村へ戻るよ」

 

「待てよ」

 

 乱馬が一歩前へ出た。

 

「俺たちは日本へ帰るんだ。村の掟なんかに付き合ってられっか」

 

「お前には二つの接吻が与えられている」

 

「そっちが勝手にやったんだろ!」

 

「だからといって、なかったことにはできん」

 

「俺には関係ねえ!」

 

 乱馬が地面を蹴った。

 一気にコロンへ接近する。

 老婆を人質にするつもりではない。

 進路を塞ぐ者を飛び越え、そのまま逃げるつもりだった。

 乱馬の足がコロンの頭上を越える。

 はずだった。

 コロンの杖が動いた。

 乱馬の脇腹へ、先端が触れる。

 ほんの軽い一突き。

 それだけで、空中にいた乱馬の身体から力が抜けた。

 

「なっ──」

 

 石橋へ落ちる。

 受け身も取れず、乱馬はうつ伏せに倒れた。

 起き上がろうとする。

 腕が動かない。

 脚も動かない。

 

「何しやがった」

 

「少し休んでもらっただけだよ」

 

 コロンが乱馬の背中へ杖を置く。

 

「お前が男か女か。それによって、シャンプーが果たすべき掟も変わる」

 

「だから、どっちも俺だって言ってんだろ」

 

「それこそが問題なのさ」

 

 コロンは村の女たちへ命じた。

 

「連れて帰りな」

 

「ふざけんな! 離せ!」

 

 乱馬の両腕を、二人の女がつかむ。

 身体が動かないため、抵抗できない。

 熊猫は助けようとしなかった。

 むしろ自分から村の女たちへ荷物を渡している。

 

「親父! 裏切ったな!」

 

 熊猫は「呪いを治すため」と書かれた木札を掲げた。

 

「絶対それだけじゃねえだろ!」

 

 乱馬の叫びが山間に響く。

 シャンプーは、その後ろを歩いた。

 三日前は、逃げていく乱馬を追った。

 今度は、連れ戻される乱馬を見ている。

 

 けれど胸の中にある感情は、勝利ではなかった。

 

 女の乱馬を殺したいのか。

 男の乱馬と結婚したいのか。

 

 分からない。

 

 ただひとつ分かるのは、乱馬がどちらも望んでいないということだった。

 

 それを無視するのが、掟なのだろうか。

 


 

 村へ戻った一行を待っていたのは、祝宴ではなかった。

 

 円形の石室。

 女傑族の重要な裁定が行われる議場。

 壁際には、村の長老たちが座っている。

 その中央に、乱馬と熊猫──湯をかぶって人間へ戻った早乙女玄馬が立たされていた。

 乱馬も湯をかぶり、男の姿へ戻っている。

 両腕は自由になっていたが、出口の前には武装した女たちが並んでいた。

 逃げようと思えば戦いになる。

 乱馬は不満を隠そうともせず、腕を組んでいる。

 玄馬は床へ正座し、愛想笑いを浮かべていた。

 

「いやはや、このたびは息子が大変な御迷惑を」

 

「親父」

 

「わしは平和的な解決を望んでおる」

 

「俺を売る気だろ」

 

「人聞きの悪いことを言うな。呪いを治すためには、地元の有識者との友好的な関係が必要でな」

 

「だったら自分が結婚しろ」

 

「シャンプー殿が倒したのはお前だ」

 

「嬉しそうに言うな!」

 

 長老のひとりが杖で床を叩いた。

 親子の言い争いが止まる。

 シャンプーは議場の端に座っていた。

 自分に関わる裁定でありながら、発言を求められるまで口を挟むことはできない。

 もっとも、何を言えばよいのかも分からなかった。

 

「確認する」

 

 もっとも年長の老婆が口を開いた。

 

「外来の女、早乙女乱馬は、シャンプーを戦いで倒した」

 

「女じゃねえ」

 

 乱馬が訂正する。

 

「そのときは女の姿だった」

 

「姿だけだ」

 

「続いて、外来の男、早乙女乱馬もシャンプーを戦いで倒した」

 

「だから同じ俺だって」

 

「静かにしな」

 

 コロンが杖で乱馬の頭を叩いた。

 

「いてえ!」

 

 長老たちは、外来者である乱馬にも通じる共通語で議論を進めていた。

 掟や裁定に関わる言葉には聞き慣れないものもあったが、自分が殺されるのか、結婚させられるのかという争点は十分に理解できる。

 議場には、二つの考えがあった。

 

 ひとつ。

 呪泉郷の変身体質は、姿を変えるだけの呪いである。

 魂も記憶も人格も一つならば、乱馬は一人の人間として扱うべきだという考え。

 

 もうひとつ。

 掟が適用されるのは、勝負が行われた瞬間の姿である。

 女の姿で勝ったときは女。

 男の姿で勝ったときは男。

 したがって、二つの接吻はどちらも有効だという考え。

 

 だが、どちらの考えを採っても矛盾は消えない。

 

 一人として扱えば、殺すべき相手と結婚すべき相手が同一になる。

 

 姿ごとに別人として扱えば、ひとつの身体へ異なる運命を与えることになる。

 

「男の姿を本来の姿とすべきではないか」

 

 ひとりの長老が言う。

 

「生まれたときは男だったという。ならば男として扱い、求婚の接吻のみを有効とする」

 

「それでは、女の姿でシャンプーを倒した事実を無視することになる」

 

 別の長老が反論した。

 

「外来の女に敗れたという結果は残っている」

 

「ならば先に死の接吻を果たし、その後に──」

 

「殺した後で、どうやって夫にする」

 

 議場がざわめく。

 乱馬が額を押さえた。

 

「馬鹿じゃねえのか、こいつら」

 

「声が大きいよ」

 

 コロンが再び杖を上げる。

 乱馬は頭を守った。

 やがて、長老たちの視線がシャンプーへ集まった。

 

「シャンプー」

 

 呼ばれる。

 シャンプーは立ち上がった。

 

「お前はどう望む」

 

 簡単な問いのはずだった。

 

 女乱馬を殺したい。

 男乱馬を夫にしたい。

 本来なら、そう答えればよい。

 それが掟なのだから。

 

 しかし、目の前にいるのは一人だった。

 

 男の乱馬も、女の乱馬も。

 同じ目でシャンプーを見ている。

 同じ声で拒絶する。

 同じ技で自分を倒した。

 

「私は」

 

 言葉が続かない。

 自分は何を望んでいるのか。

 三日前まで、乱馬の存在すら知らなかった。

 女の乱馬への感情は、敗北の屈辱だった。

 男の乱馬への感情は、掟が示した婚姻だった。

 

 それだけのはずだった。

 

「分からない」

 

 シャンプーは答えた。

 議場が静まり返る。

 自分がこの言葉を口にしたことに、シャンプー自身がもっとも驚いていた。

 

 女傑族の掟は、いつも答えを与えてくれた。

 勝った者。

 負けた者。

 守るべき者。

 倒すべき者。

 迷う必要はなかった。

 

 それなのに、いまは分からない。

 

 コロンが目を閉じた。

 

 しばらくして、杖を床へ打ちつける。

 

「裁定を下す」

 

 議場の視線が集まった。

 

「早乙女乱馬に与えられた死の接吻、求婚の接吻は、どちらも現時点では有効とする」

 

「おい!」

 

 乱馬が声を上げる。

 

「ただし、両方の執行を禁じる」

 

 乱馬が口を閉じた。

 シャンプーもコロンを見る。

 

「前例なき事態である以上、軽々にどちらかを選ぶことはできん。呪泉郷の呪いと過去の記録を調べ、乱馬を一人として扱うか、変身時の姿を重んじるか、改めて裁定する」

 

「それまで、早乙女乱馬と早乙女玄馬の村外への移動を禁じる」

 

「待て!」

 

 乱馬が机を叩いた。

 

「なんで俺がここに残らなきゃならねえんだ!」

 

「お前が逃げれば、シャンプーは追わなければならない」

 

「追わなきゃいいだろ!」

 

「死の接吻を与えた以上、追わなければシャンプーが掟を破ったことになる」

 

「そんなもん、勝手に──」

 

「それに」

 

 コロンが乱馬の言葉を遮った。

 

「呪いを治したいのだろう?」

 

 乱馬の動きが止まる。

 

「娘溺泉の呪いについて調べるには、村に残るのがいちばん早い」

 

「本当に治せるのか」

 

「少なくとも、手掛かりはある」

 

 コロンは玄馬を見る。

 玄馬は何度もうなずいていた。

 

「乱馬、ここはひとつ、先人の知恵に従ってだな」

 

「自分が楽したいだけだろ!」

 

「長旅で疲れておるのだ。少しくらい腰を落ち着けても罰は当たるまい」

 

「俺は日本に帰るんだ!」

 

「帰ってどうする」

 

 コロンが尋ねた。

 乱馬は答えに詰まった。

 日本に帰る。

 それは決めている。

 だが、帰った先に何があるのか。

 玄馬からは、修行の旅を終えた後のことを詳しく聞かされていない。

 

 家へ戻るのか。

 また別の場所へ行くのか。

 そもそも自分たちの家が、いまどうなっているのか。

 乱馬は知らなかった。

 

 コロンは、その沈黙を見逃さなかった。

 

「裁定が出るまでの間、客人として扱う。食事も寝床も用意しよう」

 

 玄馬の目が輝く。

 

「ぜひ!」

 

「親父!」

 

「呪いを治すためだ、乱馬!」

 

「今、食事で決めただろ!」

 

 議場に、かすかな笑いが広がった。

 乱馬だけが笑っていない。

 コロンが最後にシャンプーへ向き直る。

 

「シャンプー」

 

「はい」

 

「乱馬はお前に関わる客人だ。村にいる間、お前が責任を持って監督しな」

 

 乱馬とシャンプーの声が重なった。

 

「はあ!?」

 

「なぜ私が!」

 

「二つの接吻を与えたのはお前だからだよ」

 

 コロンは杖の上へ飛び乗った。

 

「殺すべき相手か、夫にすべき相手か。裁定が出るまで、よく見極めることだね」

 

 乱馬は即座に反論した。

 

「どっちでもねえ!」

 

 コロンは楽しそうに笑った。

 

「それを決めるのは、いまのお前ではない」

 

「いや、俺だろ!」

 

 乱馬の叫びを残し、長老たちは次々に議場を出ていく。

 裁定は終わった。

 乱馬と玄馬は、女傑族の村に留め置かれることになった。

 

 シャンプーはその場から動けなかった。

 

 よく見極めろ。

 何を見ればいい。

 男の姿か。

 女の姿か。

 殺すべき敵か。

 迎えるべき夫か。

 

 乱馬が苛立たしそうにシャンプーを見る。

 

「先に言っとくぞ」

 

「何だ」

 

「俺はおまえと結婚しねえ」

 

 その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。

 なぜ痛んだのか、自分でも分からない。

 

「それから」

 

 乱馬は続ける。

 

「殺されるつもりもねえ」

 

「それは分かっている」

 

「本当に分かってんのか?」

 

「おまえは私に二度勝った」

 

 認めたくはない。

 だが事実だった。

 

「簡単には殺せない」

 

「簡単じゃなきゃ殺すのかよ」

 

「掟が決まれば」

 

 そう答えたとき、乱馬の目が冷たくなった。

 先ほどまでの怒鳴り声よりも、その視線の方が痛かった。

 

「結局、おまえが決めるんじゃねえんだな」

 

「何?」

 

「俺を殺すのも、俺と結婚するのも」

 

 乱馬は議場の出口へ歩き出す。

 

「全部、掟が決めんだろ」

 

「当然だ」

 

 シャンプーは答えた。

 答えたはずだった。

 だが、乱馬は振り返らない。

 

「だったら俺は、おまえのことなんか知らねえよ」

 

 胸の奥が、もう一度痛んだ。

 先ほどより深く。

 シャンプーは何も言えなかった。

 

 乱馬が議場を出ていく。

 

 玄馬も頭を下げながら、その後を追った。

 

 ひとり残された石室で、シャンプーは自分の唇へ指を当てた。

 

 死を誓った接吻。

 婚姻を誓った接吻。

 どちらも自分の意思で与えた。

 けれど、その意味を決めたのは自分ではない。

 掟だった。

 では。

 掟がなければ、自分はあの男をどうしたいのか。

 

 殺したいのか。

 夫にしたいのか。

 それとも。

 どちらでもないのか。

 

 シャンプーには分からなかった。

 

 ただ、その日。

 生まれて初めて。

 彼女は守るべき掟の中に、自分の答えがないことを知った。

 

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