シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
第1話 シャンプーは、同じ乱馬に二度敗れる
その日、シャンプーは百人近い同胞の前で、今年いちばん強い女になった。
女傑族の村、その中央に設けられた石造りの闘技場。
円形に敷き詰められた白い石板には、これまで戦った女たちの靴跡が幾重にも刻まれている。朝から続いた武術大会も、いましがた決着したばかりだった。
最後まで立っていたのは、紫色の長い髪を揺らす少女だった。
両手に持った一対の錘を肩へ担ぎ、荒い呼吸を整える。
正面では、決勝の相手が片膝をついていた。
相手の手から長槍が落ちる。
乾いた音が石床に響いた瞬間、見守っていた女たちから歓声が上がった。
「勝者、シャンプー!」
審判を務めていた老女が、杖を高く掲げる。
シャンプーは錘を下ろし、胸を張った。
当然の結果だった。
自分はこの村でもっとも若く、もっとも速く、そして誰より強くなる女だ。
いずれ村を背負う。
そのために毎日、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで鍛えてきた。
負ける理由などない。
敗者となった女が立ち上がり、悔しそうに唇を噛みながらも拳を胸に当てる。
シャンプーも同じように拳を胸へ当て、相手の健闘に応えた。
戦いが終われば遺恨は残さない。
それもまた、村の掟だった。
「シャンプー!」
観客席から何人もの声が飛んでくる。
その中央で、小さな老婆が杖の上に腰を下ろし、細い目をさらに細めていた。
シャンプーの曾祖母、コロンである。
褒める言葉はない。
けれど、わずかに口元が持ち上がっている。
それだけで十分だった。
今年の大会も、自分が勝った。
その証しとして、闘技場の外には豪華な料理が並べられている。
焼いた豚肉、香草を詰めた鶏、川魚の蒸し物、山菜の炒め物、大皿に積み上げられた饅頭。
すべて優勝者のために用意されたものだ。
戦いを終えたシャンプーの腹も、先ほどから盛大に空腹を訴えていた。
ところが。
闘技場を出たシャンプーは、足を止めた。
料理がない。
正確には、料理を置いていた大皿はある。
しかし、その大半が空になっていた。
積み上げられていた饅頭は消え、骨だけになった鶏が転がり、豚肉の皿には脂の跡しか残っていない。
その惨状の中央に、二つの影があった。
ひとりは、赤い髪を三つ編みにした少女。
赤い上着を着て、椅子に片足を乗せ、両手で饅頭を抱えている。
もう一頭は、巨大な白黒の熊猫だった。
熊猫は器用に箸を使い、最後に残った麺をすすっていた。
少女が饅頭を飲み込み、満足そうに息を吐く。
「いやあ、助かったぜ。ここ二日まともなもん食ってなかったからな」
熊猫が何度もうなずく。
その手には、どこから持ってきたのか、大陸の旅人にも通じる簡単な文字で「御馳走様」と書かれた木札が握られていた。
シャンプーのこめかみが引きつった。
「それは、私の料理だ」
赤毛の少女が振り返る。
「ん?」
少女はシャンプーを上から下まで眺めた。
肩に担いだ錘。
大会用の衣装。
周囲を取り囲み始めた女たち。
そこでようやく、まずい状況だと気づいたらしい。
「これ、おまえのだったのか?」
「今年の優勝者に与えられる祝いの膳だ」
「そりゃ悪かった」
少女は素直に謝った。
しかし、その直後。
手に残っていた最後の饅頭を口に入れた。
シャンプーの眉が跳ね上がった。
「悪いと思うなら、なぜ食べる」
「もう手に持ってたしよ」
少女は口を動かしながら答えた。
周囲の女たちが一斉に武器を構える。
熊猫は身の危険を察したらしく、そっと椅子から降りた。
そして赤毛の少女を前へ押し出し、自分は後ろへ下がった。
「親父!」
熊猫は視線を逸らし、別の木札を出す。
そこには、「若者同士で解決」と書かれていた。
「てめえ、あとで覚えてろよ!」
シャンプーは熊猫の奇妙な行動よりも、少女の言葉に反応した。
「父親?」
「まあ、いろいろあんだよ」
赤毛の少女が頭をかく。
乱馬が使っているのは、大陸の各地で通じる共通語だった。
発音には旅人らしい癖がある。
それでも、玄馬と大陸を渡り歩いてきただけあって、日常の会話や武術の話には困らない。
ただし、女傑族の村で使われる文字や土地固有の言い回し、掟に関わる古い言葉までは身についていないらしい。
シャンプーは錘を両手に持ち直した。
「食べた分を返してもらう」
「金ならねえぞ」
「金などいらない」
錘の先端を、少女へ向ける。
「戦え」
赤毛の少女が目を瞬いた。
「は?」
「それは勝者の料理だ。食べたければ、勝者になればいい」
周囲の女たちから、賛同の声が上がった。
無断で祝いの膳を食べた異邦人を、そのまま帰すわけにはいかない。
しかし、女傑族は強者を尊ぶ。
戦いに勝てば、料理を食べたことも正当な権利として認められる。
少女は面倒そうに肩を落とした。
「食った後に言われてもなあ」
「怖いなら、今すぐ膝をつけ」
その言葉で、少女の目つきが変わった。
先ほどまで気の抜けていた背筋が、わずかに伸びる。
「誰が怖いって?」
「おまえだ」
「言ったな」
少女が椅子から足を下ろした。
両手を軽く開く。
武器は持たない。
構えらしい構えも取らない。
それなのに、シャンプーは笑みを消した。
目の前に立つ少女の重心が、音もなく沈んだからだ。
つま先。
膝。
腰。
肩。
どこにも余計な力がない。
風が吹けば、そのまま流されてしまいそうに見える。
だが、逆だった。
どの方向から攻撃しても、その風に乗って動ける姿勢。
この少女は、戦える。
「名前は?」
シャンプーが尋ねる。
少女は右手の拳を左の掌で包んだ。
「早乙女乱馬。無差別格闘早乙女流二代目だ」
聞いたことのない流派だった。
だが、その名を覚える価値はありそうだった。
シャンプーも名乗りを返す。
「女傑族、シャンプー」
周囲の女たちが、二人を囲むように距離を取った。
先ほどまで大会が行われていた闘技場へ戻る必要もない。
ここがそのまま、新たな戦場になる。
祝いの膳が置かれた広場。
長机と椅子。
無数の皿。
足元には食べ残された骨や、こぼれた汁が残っている。
平坦な闘技場よりも、はるかに足場が悪い。
それでもシャンプーは気にしなかった。
どのような場所であろうと、戦場は戦場だ。
「始めるぞ」
返事を待たず、シャンプーは踏み込んだ。
右手の錘を横薙ぎに振るう。
空気を押し潰すような音が鳴った。
乱馬は上体を後ろへ倒し、鼻先すれすれでかわした。
赤い前髪が風圧にあおられる。
そこへ、左の錘を下から跳ね上げた。
乱馬が右足で机の縁を蹴る。
身体が水平に近い角度で宙へ浮き、二撃目も空を切った。
軽い。
シャンプーはそう感じた。
乱馬の身体は、体重というものを持っていないかのように動く。
机の上へ片手をつき、その腕一本を軸に回転する。
少女の踵が、シャンプーの側頭部へ飛んできた。
シャンプーは左腕の錘で受ける。
硬い音が響いた。
蹴りを受けた腕が、わずかに沈む。
見た目より重い。
乱馬は蹴りの反動を利用して回転し、離れた机の上へ着地した。
「へえ」
口元に笑みを浮かべている。
「けっこうやるじゃねえか」
「それはこちらの台詞だ」
シャンプーは錘を回した。
左右の錘が、紫色の髪の両側で円を描く。
一歩目で距離を詰める。
右を見せる。
乱馬の視線がそちらへ動いた瞬間、左の錘を手放す。
投げたのではない。
短い革紐で手首につながれた錘が、大きな円弧を描いて乱馬の背後へ回り込む。
前から右の錘。
後ろから左の錘。
挟み込む。
乱馬は机の上で跳んだ。
右の錘が机を叩き割り、後ろから迫った左の錘が空中の乱馬へ襲いかかる。
空中では足場がない。
逃げられない。
そう思った瞬間だった。
乱馬は飛んできた錘の上へ、右足を乗せた。
「なっ──」
錘は止まらない。
乱馬を乗せたまま円弧を描く。
乱馬はその勢いを利用し、錘の上からさらに跳んだ。
一気にシャンプーの頭上を越える。
シャンプーは振り向きざまに右の錘を突き出した。
乱馬の掌と、錘の丸い先端がぶつかる。
普通なら、掌の骨が砕ける。
だが乱馬は受け止めなかった。
触れた瞬間に腕を引き、力の方向を横へずらした。
錘が逸れる。
シャンプーの身体も、わずかに前へ流れた。
その脇腹へ、乱馬の膝が迫る。
シャンプーは錘の柄を地面へ突き立て、強引に身体を止めた。
膝蹴りが衣服をかすめる。
そのまま柄を支点に身体を持ち上げ、両足で乱馬の胸を蹴った。
今度は乱馬も避けきれない。
腕を交差させて受けたが、身体が後方へ飛ぶ。
背中から長机へ激突する。
机が真ん中から折れた。
熊猫が心配そうに立ち上がり、「乱馬!」と書かれた木札を高く掲げた。
しかし、壊れた机の向こうから乱馬の手が上がった。
「騒ぐな、親父」
木片を払い、乱馬が立ち上がる。
交差させた腕が赤くなっていた。
「効いたぜ」
言葉とは裏腹に、その顔は楽しそうだった。
シャンプーも胸の奥が熱くなるのを感じた。
大会の決勝の相手よりも強い。
目の前の異邦人は、間違いなく今日戦った誰よりも強い。
ならば。
この女を倒してこそ、今日の勝利は完成する。
シャンプーは錘を下げた。
乱馬の視線が、左右の武器へ向けられる。
次の攻撃に備えている。
だからこそ、武器を捨てた。
錘が地面へ落ちる。
乱馬の目がわずかに見開かれた。
シャンプーはその瞬間、低く踏み込んだ。
右の拳を顔面へ。
乱馬が首をひねってかわす。
左の掌底を腹へ。
肘で防がれる。
さらに右足を軸に回転し、後ろ回し蹴り。
乱馬は両腕で受けるが、その上から蹴り抜いた。
乱馬の靴が地面を滑る。
一歩。
二歩。
だが倒れない。
シャンプーは追撃する。
拳。
肘。
膝。
蹴り。
一息の間に四つの攻撃を重ねる。
乱馬はすべてを完全には避けられなかった。
拳が肩をかすめ、肘が脇腹に触れ、膝が太腿へ入る。
しかし、決定打にならない。
攻撃を受けながら、乱馬の動きが変わっていた。
最初は見てから避けていた。
いまはシャンプーが動き始める前に、すでに身体をずらしている。
肩の向き。
腰の沈み。
踏み込む足の指。
それらすべてから、次の攻撃を読んでいる。
「そろそろ分かったぜ」
乱馬が言った。
「おまえ、右の蹴りを出す前に、ほんのちょっと左肩が下がるな」
シャンプーの呼吸が止まった。
直後、無意識に左肩が下がる。
右の蹴りを放つための予備動作。
気づいたときには、もう蹴り始めていた。
乱馬が前へ出る。
通常なら、蹴りから離れるために後ろへ下がる。
だが乱馬は、蹴りがもっとも威力を持つ距離の内側へ潜り込んだ。
シャンプーの右腿に肩を当てる。
腰を落とす。
次の瞬間、天地が逆転した。
「くっ!」
投げられる。
シャンプーは空中で身をひねり、両手を地面についた。
腕の力で身体を跳ね上げ、着地する。
だが、乱馬は目の前にいた。
掌底が迫る。
シャンプーは顔を逸らす。
掌底は頬の横を通り過ぎた。
避けた。
そう思った。
乱馬の腕が、そのままシャンプーの首の後ろへ回る。
引き寄せられる。
額と額がぶつかりそうな距離。
乱馬の右足が、シャンプーの軸足を内側から払った。
身体が傾く。
シャンプーは乱馬の上着をつかもうとした。
だが指が届くより先に、乱馬が手を離す。
背中が石畳へ落ちた。
強い衝撃。
肺から空気が漏れる。
それでもシャンプーは、すぐに起き上がろうとした。
胸元へ、乱馬の拳が突きつけられる。
触れてはいない。
拳一つ分の距離で止まっている。
だが、このまま打ち下ろされれば、自分は防げない。
広場が静まり返った。
乱馬が息を吐く。
「これで俺の勝ちだろ」
シャンプーは拳を見つめた。
次に乱馬の顔を見る。
乱馬の頬にも、腕にも、細かな傷がある。
一方的に負けたわけではない。
それでも最後に立っているのは乱馬だった。
シャンプーは目を閉じる。
敗北を認めた。
「私の負けだ」
乱馬が拳を引き、後ろへ下がった。
すぐに熊猫が料理の残骸をまとめ始める。
この隙に逃げるつもりなのだろう。
しかし、まだ終わっていない。
シャンプーは立ち上がった。
唇を手の甲で拭う。
そして乱馬へ歩み寄る。
「なんだよ」
警戒する乱馬の肩をつかむ。
顔を引き寄せた。
乱馬の頬へ、唇を触れさせる。
周囲の女たちがどよめいた。
乱馬は硬直した。
「な──」
シャンプーは乱馬から離れた。
胸の奥にあるのは屈辱だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
女傑族の女が、外から来た女に負けた。
ならば敗北した者は、相手へ死の接吻を与える。
どれほど遠くへ逃げようとも追いかけ、必ず命を奪うという誓い。
村の誇りを守るための掟。
シャンプーは乱馬をまっすぐ見据えた。
「早乙女乱馬」
「な、なんだよ」
「死の接吻だ」
乱馬の顔から血の気が引いた。
「死?」
「女傑族の女が、よそ者の女に負けたときの掟だ。おまえがどこへ逃げても、私は追う」
シャンプーは地面に落としていた錘を拾った。
「そして必ず殺す」
「なんだそりゃあ!」
乱馬の叫びが、村中へ響き渡った。
熊猫が乱馬の首根っこをつかむ。
もう片方の手で荷物を抱える。
「待て、親父! まだ話が──」
熊猫は待たなかった。
乱馬を引きずったまま走り出す。
女たちが追おうとしたが、シャンプーは手を上げて止めた。
「追わなくていい」
「しかし、シャンプー」
「あれは私の敗北だ」
自分で決着をつけなければならない。
他人の手を借りれば、掟を果たしたことにはならない。
遠ざかる乱馬の赤い髪を見つめる。
先ほどまで空腹を満たしただけの、名も知らない異邦人だった。
いまは違う。
地の果てまで追ってでも、倒さなければならない相手だ。
その顔を忘れはしない。
その動きを忘れはしない。
その名を忘れはしない。
早乙女乱馬。
シャンプーが初めて敗北した、赤い髪の女。
三日後。
山間の古い街道に、激しい金属音が響いた。
崖と崖の間を渡す石橋。
その中央で、ひとりの少年が大きく身を反らしていた。
少年の鼻先を、巨大な錘が通過する。
黒い三つ編みが、その風圧で跳ね上がった。
「いきなり何しやがる!」
少年──早乙女乱馬は、石橋の欄干へ片足を乗せる。
その正面で、シャンプーは両手の錘を構えていた。
三日間、追い続けた。
足跡。
野営の跡。
通りかかった商人の証言。
山中で不自然に減っていた竹。
そして、巨大な熊猫を見たという子どもの話。
追跡は難しくなかった。
ようやく見つけたと思った。
しかし、赤毛の女はいない。
いたのは、黒髪の少年と熊猫だけだった。
服装は似ている。
赤い上着。
黒いズボン。
けれど顔も体格も違う。
シャンプーは乱馬へ錘を向けた。
「あの女はどこだ」
「あの女?」
「赤い髪の女だ。おまえと同じ服を着ている」
乱馬の頬が引きつった。
少し離れた場所では、熊猫が口笛を吹くような仕草をしながら空を眺めている。
「知らねえな」
「嘘だ」
「知らねえもんは知らねえ」
「では、熊猫に聞く」
熊猫が飛び上がった。
後ずさりしながら、「無関係」と書かれた木札を掲げる。
シャンプーは眉をひそめた。
「その熊猫は、おまえたちの言葉が分かるのか」
「気にすんな。あれはどうでもいい」
熊猫が乱馬の後頭部を殴った。
「いてえ! 何すんだ、クソ親父!」
やはり親子らしい。
シャンプーは錘を下ろさない。
「赤い髪の女を出せ。そうすれば、おまえには用はない」
「だから、いねえって言ってんだろ」
乱馬は首の後ろをかいた。
「それに、あいつだっておまえに殺される理由なんかねえよ」
「理由ならある。あの女は私を倒した」
「勝負して負けたくらいで殺すって方がおかしいだろ」
「村の掟だ」
「知るか。そんなもん」
シャンプーの目が鋭くなった。
掟を侮辱された。
女傑族が長い年月をかけて守ってきたものを、何も知らない異邦人が切り捨てた。
「もう一度だけ聞く」
「何度聞かれても同じだ」
乱馬も腰を落とした。
先ほどまでとは空気が変わる。
少女とは違う。
背が高い。
肩幅も広い。
構えた腕も長い。
だが、その立ち方に奇妙な既視感があった。
力を抜き、どこへでも動けるようにしている。
あの赤毛の女と同じだ。
「ならば、おまえを倒して聞き出す」
シャンプーが踏み込む。
今度は初めから全力だった。
右の錘を正面へ突き出す。
乱馬は左へかわす。
そこへ左の錘を横から振るう。
身を沈めて避ける。
シャンプーは右膝を跳ね上げた。
乱馬が掌で受ける。
受けた掌を支点に、シャンプーは身体を回転させた。
左足の踵が乱馬の側頭部へ向かう。
乱馬は空いていた腕を上げて防いだ。
蹴りの衝撃で、乱馬が欄干まで押し下げられる。
背後は崖だった。
一歩でも下がれば落ちる。
シャンプーは二つの錘を同時に振り下ろした。
乱馬が欄干へ飛び乗る。
幅は足の半分もない。
その細い石の上で、乱馬は身体を横へひねった。
錘が左右を通過し、欄干へ激突する。
石が砕けた。
足場が崩れる。
乱馬の身体が崖側へ傾く。
熊猫が「乱馬!」と書かれた木札を掲げ、両手を上げた。
だが、乱馬は落ちなかった。
崩れた欄干を蹴り、シャンプーの肩を飛び越える。
空中で身体を反転。
背後へ着地する。
振り向きざまに、シャンプーは右の錘を投げた。
乱馬が首を傾けて避ける。
その三つ編みを、錘がかすめた。
「危ねえだろ!」
「戦っているのだから当然だ!」
錘につながった紐を引く。
戻ってきた錘を受け取り、そのまま連撃へつなげる。
乱馬は左右に身体を揺らし、最小限の動きで避け続けた。
その動きを見た瞬間、シャンプーの胸に小さな違和感が生まれた。
似ている。
赤毛の女と。
顔は違う。
身体も違う。
それなのに、攻撃を避けるときの癖が同じだった。
右からの攻撃を避けるとき、左足の踵をわずかに浮かせる。
高い攻撃の直後には、相手の軸足を見る。
武器そのものではなく、肩と腰から攻撃を読む。
「おまえ」
シャンプーは攻撃を続けながら尋ねた。
「あの女と、同じ流派か」
「だったら何だよ」
乱馬が答える。
否定しない。
シャンプーは錘の軌道を変えた。
右を大きく振り、乱馬を左へ追い込む。
乱馬は予想どおり左へ避けた。
そこへ、左の錘ではなく蹴りを放つ。
乱馬の腹へ足裏が入った。
「ぐっ!」
乱馬が後ろへ飛ぶ。
石橋の上を転がり、片膝をついた。
シャンプーは一気に距離を詰める。
錘を振り上げる。
乱馬が顔を上げた。
その口元が、笑っていた。
「同じ手を使うと思ったぜ」
乱馬が地面へ片手をつく。
腕を軸に、両足を回転させた。
低い足払い。
シャンプーは跳んで避ける。
だが、それが狙いだった。
乱馬は回転の勢いを保ったまま立ち上がる。
跳び上がったシャンプーの着地点へ、身体ごと入り込んだ。
肩が腹へ当たる。
着地する前に持ち上げられた。
「しまっ──」
乱馬が前へ走る。
シャンプーを肩に乗せたまま、石橋の中央まで運ぶ。
そのまま投げるかと思った。
しかし、シャンプーは乱馬の背中へ肘を落とした。
一撃。
二撃。
乱馬が顔をしかめる。
シャンプーは身体をひねり、肩から抜け出した。
地面へ着地すると同時に、右の錘を振るう。
乱馬は左腕で受けた。
重い音。
腕を伝わった衝撃で、乱馬の身体が傾く。
シャンプーはさらに左の錘を打ち込む。
乱馬は右腕で受ける。
両腕を塞いだ。
シャンプーは錘を押し込み、そのまま乱馬を石橋の床へ押し潰そうとする。
乱馬の膝が曲がった。
「どうした。口ほどでもないな」
「こんな重てえもん、振り回してるだけあって……馬鹿力だな」
「負け惜しみか」
「いや」
乱馬の足が、シャンプーの足の間へ滑り込む。
「褒めてんだよ!」
乱馬が両腕を外側へ開いた。
二つの錘を受け止めていた腕が、そのままシャンプーの腕を押し広げる。
胸元が無防備になる。
乱馬の額が、シャンプーの額へぶつかった。
「っ!」
視界が揺れる。
乱馬は頭突きの反動で後ろへ下がり、自由になった両腕でシャンプーの手首をつかんだ。
そのまま左右を交差させる。
二つの錘がぶつかる。
武器同士の衝突で、シャンプーの手がしびれた。
握力が緩む。
乱馬が右の錘を蹴り上げた。
錘がシャンプーの手を離れ、橋の外へ飛ぶ。
革紐が手首を引く前に、乱馬は紐をつかんだ。
身体を回転させる。
紐に引かれ、シャンプーの右腕が伸びきった。
乱馬はその脇をくぐり抜け、背後へ回る。
右腕をひねり上げられる。
シャンプーは左の錘で背後を狙った。
乱馬が腕を離す。
同時に、シャンプーの背中を軽く押した。
踏み出した先には、自分が振った左の錘が戻ってくる。
シャンプーは慌てて首を傾けた。
自分の錘が髪をかすめる。
その一瞬。
乱馬が懐へ入った。
拳が腹へ触れた。
まだ打ち込まれてはいない。
しかし、乱馬の腰は沈み、肩と拳が一直線につながっている。
この距離で放たれれば、避けられない。
シャンプーは反射的に錘を振り上げた。
乱馬の拳が動く。
衝撃が腹を突き抜けた。
「──っ!」
身体が浮いた。
息が消える。
足が石橋から離れ、背中から地面へ落ちた。
手から錘が転がる。
立たなければ。
そう思う。
だが腹に力が入らない。
乱馬は追撃しなかった。
倒れたシャンプーの前で拳を下ろし、呼吸を整えている。
「これで分かったろ」
乱馬は言った。
「女の居場所なんか、俺は知らねえ」
嘘だ。
シャンプーには分かった。
この男は何かを隠している。
あの赤毛の女と、あまりにも動きが似ている。
同じ流派というだけではない。
攻撃を受けたときの表情。
勝負が決まったあと、追撃せずに待つ癖。
そして、最後の拳。
あの女がシャンプーの胸元へ止めた拳と、まったく同じ軌道だった。
それでも。
いま優先すべきことは、赤毛の女ではない。
シャンプーは敗北した。
女傑族の女が、村の外から来た男に敗れた。
そのとき果たすべき掟は、ひとつしかない。
腹を押さえながら立ち上がる。
乱馬が眉をひそめた。
「まだやる気か?」
「いや」
シャンプーは乱馬の正面へ立つ。
乱馬の上着をつかむ。
「お、おい」
引き寄せる。
今度は頬ではなかった。
乱馬の唇へ、自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬。
触れるだけの接吻。
離れたとき、乱馬の顔は真っ赤になっていた。
「な、ななな、何しやがる!」
シャンプーも胸の奥が妙に騒いでいた。
死の接吻とは違う。
こちらは儀礼だ。
掟を果たしただけ。
そう理解しているはずなのに、唇に残った感触が消えない。
シャンプーは動揺を押し隠し、宣言する。
「求婚の接吻だ」
「求婚?」
「女傑族の女が、村の外から来た男に負けたとき、その男を夫として迎える」
乱馬の顔から、赤みが消えた。
「はあああああっ!?」
「おまえは私に勝った。だからおまえは、私の夫になる」
「なるか!」
乱馬は即答した。
シャンプーの目が細くなる。
「これは掟だ」
「さっきから掟、掟って、知ったことか!」
「敗者が勝者に従うのは当然だ」
「だったら負けたおまえが、俺の言うこと聞け! 俺は結婚しねえ!」
「その命令には従えない」
「都合よすぎんだろ!」
乱馬の後ろで、熊猫が腹を抱えて笑っていた。
乱馬が振り返る。
「笑ってんじゃねえ、親父!」
熊猫は真顔に戻り、「良縁」と書かれた木札を掲げた。
「てめえ!」
乱馬が熊猫へ飛びかかる。
親子が石橋の上で取っ組み合いを始める。
シャンプーは呆然とそれを見た。
自分の夫になる男。
強い。
確かに強い。
外見も悪くない。
態度は最悪だが、戦いの最中に卑怯なことはしなかった。
自分を傷つける機会がありながら、必要以上の攻撃もしなかった。
夫として迎えることに、不満はない。
むしろ。
そこまで考えたときだった。
遠くで雷鳴が鳴った。
山の天気は変わりやすい。
先ほどまで晴れていた空を、黒い雲が覆っている。
冷たい風が吹き抜けた。
乱馬が空を見上げる。
「やべ」
その声には、先ほどまでとは違う焦りがあった。
大粒の雨が落ちてくる。
一滴。
二滴。
直後、空から滝のような雨が降り始めた。
シャンプーは腕で顔を覆う。
「急に何だ!」
乱馬が熊猫を蹴り飛ばし、荷物へ走る。
「親父、湯は!」
熊猫が首を振る。
「くそっ!」
乱馬の身体が白い湯気に包まれた。
輪郭が縮む。
肩幅が狭くなる。
背が低くなる。
濡れた黒髪が、赤へ変わる。
次の瞬間。
そこに立っていたのは、三日前にシャンプーを倒した少女だった。
赤い髪。
赤い上着。
女の身体。
そして右肩には、三日前にシャンプーの拳がかすめた痣が残っている。
シャンプーの呼吸が止まった。
赤毛の少女──乱馬も、動けずにいた。
雨音だけが石橋を叩く。
シャンプーは一歩後ろへ下がる。
「おまえ……」
喉がうまく動かなかった。
「あの女……」
乱馬が顔を背ける。
「見りゃ分かるだろ」
「なぜ」
「呪泉郷だよ」
乱馬は苛立たしそうに濡れた前髪をかき上げた。
「娘溺泉に落ちた。水をかぶると女になって、湯をかぶると男に戻る」
「そんな」
シャンプーは首を振った。
そんなことがあるはずがない。
だが、目の前で起きている。
あの女と、この男は、同じ人間だった。
動きが似ているのではない。
同じだったのだ。
三日前、自分を倒した女。
死の接吻を与えた相手。
先ほど、自分を倒した男。
求婚の接吻を与えた相手。
殺さなければならない女。
夫にしなければならない男。
どちらも、早乙女乱馬。
シャンプーの右手が、腰の武器へ伸びる。
乱馬も構えた。
「やるのか」
女の姿。
掟に従えば、この女は殺さなければならない。
しかし。
いま目の前にいる女は、先ほど唇を重ねた男でもある。
夫として迎えなければならない。
右手が震えた。
武器を握れない。
「どうすれば」
言葉が、無意識に漏れた。
シャンプーはこれまで、掟に迷ったことがなかった。
勝者には敬意を払う。
敗者は結果を受け入れる。
村の外の女に負ければ、死の接吻。
村の外の男に負ければ、求婚の接吻。
すべてに答えがあった。
だから迷う必要などなかった。
だが、二つの答えが、同じ人間へ向けられている。
片方を選べば、もう片方の掟を破る。
「女のおまえを殺せば、男のおまえを夫にできない」
シャンプーは呟く。
「男のおまえと結婚すれば、女のおまえを殺せない」
「だからどっちもしなくていいだろ」
乱馬が言った。
「俺は結婚する気もねえし、殺される気もねえ」
「おまえの意思は関係ない」
反射的にそう答えた。
乱馬の目つきが変わる。
「関係あるに決まってんだろ」
雨に濡れながら、乱馬はシャンプーを睨んだ。
「男でも女でも、どっちも俺だ」
強い声だった。
「勝手に殺すとか、勝手に結婚するとか、ふざけんな。俺のことは俺が決める」
シャンプーは言い返せなかった。
男でも女でも、どちらも乱馬。
その言葉を認めれば、掟の矛盾は解けない。
否定しようにも、目の前の事実がそれを許さない。
そのとき。
硬いものが石橋を叩く音がした。
こつん。
こつん。
雨音に混じって、杖の音が近づいてくる。
シャンプーが振り返る。
崖沿いの街道を、小さな老婆が歩いていた。
杖をついているのではない。
杖の先に立ち、跳ねるように進んでくる。
コロンだった。
その後ろには、村の女たちが十人以上続いている。
「ひいばあちゃん」
「まったく」
コロンは濡れた石橋へ降り立った。
「ずいぶんと面倒な婿を見つけたものだね、シャンプー」
「婿じゃねえ!」
乱馬が叫ぶ。
コロンの細い目が、乱馬へ向けられる。
女の姿。
足の置き方。
呼吸。
腕に残る戦いの痕。
老女は一目見ただけで、多くを理解したらしい。
「なるほど。娘溺泉か」
「知ってんのか!」
「呪泉郷の近くに住む者が、知らぬはずもない」
乱馬がコロンへ詰め寄る。
「だったら治し方も知ってんだろ!」
「知っているかもしれんし、知らんかもしれん」
「どっちだよ!」
「少なくとも、お前たちよりは詳しい」
熊猫が乱馬を押しのけ、コロンの前へ進み出た。
両手を合わせ、何度も頭を下げる。
「親父、てめえ……」
熊猫は「ぜひ村へ」と書かれた木札を出した。
「勝手に決めんな!」
コロンは熊猫を無視して、シャンプーを見る。
「二つとも与えたのかい」
シャンプーはゆっくりとうなずいた。
「女の姿の乱馬に、死の接吻を」
「男の姿の乱馬に、求婚の接吻を」
「そうか」
コロンは笑わなかった。
その声を聞いた村の女たちも、互いに顔を見合わせている。
誰も答えを知らない。
長い歴史を持つ女傑族にも、同じ人間へ二つの接吻が与えられた記録など存在しなかった。
コロンが杖を石橋へ突く。
「村へ戻るよ」
「待てよ」
乱馬が一歩前へ出た。
「俺たちは日本へ帰るんだ。村の掟なんかに付き合ってられっか」
「お前には二つの接吻が与えられている」
「そっちが勝手にやったんだろ!」
「だからといって、なかったことにはできん」
「俺には関係ねえ!」
乱馬が地面を蹴った。
一気にコロンへ接近する。
老婆を人質にするつもりではない。
進路を塞ぐ者を飛び越え、そのまま逃げるつもりだった。
乱馬の足がコロンの頭上を越える。
はずだった。
コロンの杖が動いた。
乱馬の脇腹へ、先端が触れる。
ほんの軽い一突き。
それだけで、空中にいた乱馬の身体から力が抜けた。
「なっ──」
石橋へ落ちる。
受け身も取れず、乱馬はうつ伏せに倒れた。
起き上がろうとする。
腕が動かない。
脚も動かない。
「何しやがった」
「少し休んでもらっただけだよ」
コロンが乱馬の背中へ杖を置く。
「お前が男か女か。それによって、シャンプーが果たすべき掟も変わる」
「だから、どっちも俺だって言ってんだろ」
「それこそが問題なのさ」
コロンは村の女たちへ命じた。
「連れて帰りな」
「ふざけんな! 離せ!」
乱馬の両腕を、二人の女がつかむ。
身体が動かないため、抵抗できない。
熊猫は助けようとしなかった。
むしろ自分から村の女たちへ荷物を渡している。
「親父! 裏切ったな!」
熊猫は「呪いを治すため」と書かれた木札を掲げた。
「絶対それだけじゃねえだろ!」
乱馬の叫びが山間に響く。
シャンプーは、その後ろを歩いた。
三日前は、逃げていく乱馬を追った。
今度は、連れ戻される乱馬を見ている。
けれど胸の中にある感情は、勝利ではなかった。
女の乱馬を殺したいのか。
男の乱馬と結婚したいのか。
分からない。
ただひとつ分かるのは、乱馬がどちらも望んでいないということだった。
それを無視するのが、掟なのだろうか。
村へ戻った一行を待っていたのは、祝宴ではなかった。
円形の石室。
女傑族の重要な裁定が行われる議場。
壁際には、村の長老たちが座っている。
その中央に、乱馬と熊猫──湯をかぶって人間へ戻った早乙女玄馬が立たされていた。
乱馬も湯をかぶり、男の姿へ戻っている。
両腕は自由になっていたが、出口の前には武装した女たちが並んでいた。
逃げようと思えば戦いになる。
乱馬は不満を隠そうともせず、腕を組んでいる。
玄馬は床へ正座し、愛想笑いを浮かべていた。
「いやはや、このたびは息子が大変な御迷惑を」
「親父」
「わしは平和的な解決を望んでおる」
「俺を売る気だろ」
「人聞きの悪いことを言うな。呪いを治すためには、地元の有識者との友好的な関係が必要でな」
「だったら自分が結婚しろ」
「シャンプー殿が倒したのはお前だ」
「嬉しそうに言うな!」
長老のひとりが杖で床を叩いた。
親子の言い争いが止まる。
シャンプーは議場の端に座っていた。
自分に関わる裁定でありながら、発言を求められるまで口を挟むことはできない。
もっとも、何を言えばよいのかも分からなかった。
「確認する」
もっとも年長の老婆が口を開いた。
「外来の女、早乙女乱馬は、シャンプーを戦いで倒した」
「女じゃねえ」
乱馬が訂正する。
「そのときは女の姿だった」
「姿だけだ」
「続いて、外来の男、早乙女乱馬もシャンプーを戦いで倒した」
「だから同じ俺だって」
「静かにしな」
コロンが杖で乱馬の頭を叩いた。
「いてえ!」
長老たちは、外来者である乱馬にも通じる共通語で議論を進めていた。
掟や裁定に関わる言葉には聞き慣れないものもあったが、自分が殺されるのか、結婚させられるのかという争点は十分に理解できる。
議場には、二つの考えがあった。
ひとつ。
呪泉郷の変身体質は、姿を変えるだけの呪いである。
魂も記憶も人格も一つならば、乱馬は一人の人間として扱うべきだという考え。
もうひとつ。
掟が適用されるのは、勝負が行われた瞬間の姿である。
女の姿で勝ったときは女。
男の姿で勝ったときは男。
したがって、二つの接吻はどちらも有効だという考え。
だが、どちらの考えを採っても矛盾は消えない。
一人として扱えば、殺すべき相手と結婚すべき相手が同一になる。
姿ごとに別人として扱えば、ひとつの身体へ異なる運命を与えることになる。
「男の姿を本来の姿とすべきではないか」
ひとりの長老が言う。
「生まれたときは男だったという。ならば男として扱い、求婚の接吻のみを有効とする」
「それでは、女の姿でシャンプーを倒した事実を無視することになる」
別の長老が反論した。
「外来の女に敗れたという結果は残っている」
「ならば先に死の接吻を果たし、その後に──」
「殺した後で、どうやって夫にする」
議場がざわめく。
乱馬が額を押さえた。
「馬鹿じゃねえのか、こいつら」
「声が大きいよ」
コロンが再び杖を上げる。
乱馬は頭を守った。
やがて、長老たちの視線がシャンプーへ集まった。
「シャンプー」
呼ばれる。
シャンプーは立ち上がった。
「お前はどう望む」
簡単な問いのはずだった。
女乱馬を殺したい。
男乱馬を夫にしたい。
本来なら、そう答えればよい。
それが掟なのだから。
しかし、目の前にいるのは一人だった。
男の乱馬も、女の乱馬も。
同じ目でシャンプーを見ている。
同じ声で拒絶する。
同じ技で自分を倒した。
「私は」
言葉が続かない。
自分は何を望んでいるのか。
三日前まで、乱馬の存在すら知らなかった。
女の乱馬への感情は、敗北の屈辱だった。
男の乱馬への感情は、掟が示した婚姻だった。
それだけのはずだった。
「分からない」
シャンプーは答えた。
議場が静まり返る。
自分がこの言葉を口にしたことに、シャンプー自身がもっとも驚いていた。
女傑族の掟は、いつも答えを与えてくれた。
勝った者。
負けた者。
守るべき者。
倒すべき者。
迷う必要はなかった。
それなのに、いまは分からない。
コロンが目を閉じた。
しばらくして、杖を床へ打ちつける。
「裁定を下す」
議場の視線が集まった。
「早乙女乱馬に与えられた死の接吻、求婚の接吻は、どちらも現時点では有効とする」
「おい!」
乱馬が声を上げる。
「ただし、両方の執行を禁じる」
乱馬が口を閉じた。
シャンプーもコロンを見る。
「前例なき事態である以上、軽々にどちらかを選ぶことはできん。呪泉郷の呪いと過去の記録を調べ、乱馬を一人として扱うか、変身時の姿を重んじるか、改めて裁定する」
「それまで、早乙女乱馬と早乙女玄馬の村外への移動を禁じる」
「待て!」
乱馬が机を叩いた。
「なんで俺がここに残らなきゃならねえんだ!」
「お前が逃げれば、シャンプーは追わなければならない」
「追わなきゃいいだろ!」
「死の接吻を与えた以上、追わなければシャンプーが掟を破ったことになる」
「そんなもん、勝手に──」
「それに」
コロンが乱馬の言葉を遮った。
「呪いを治したいのだろう?」
乱馬の動きが止まる。
「娘溺泉の呪いについて調べるには、村に残るのがいちばん早い」
「本当に治せるのか」
「少なくとも、手掛かりはある」
コロンは玄馬を見る。
玄馬は何度もうなずいていた。
「乱馬、ここはひとつ、先人の知恵に従ってだな」
「自分が楽したいだけだろ!」
「長旅で疲れておるのだ。少しくらい腰を落ち着けても罰は当たるまい」
「俺は日本に帰るんだ!」
「帰ってどうする」
コロンが尋ねた。
乱馬は答えに詰まった。
日本に帰る。
それは決めている。
だが、帰った先に何があるのか。
玄馬からは、修行の旅を終えた後のことを詳しく聞かされていない。
家へ戻るのか。
また別の場所へ行くのか。
そもそも自分たちの家が、いまどうなっているのか。
乱馬は知らなかった。
コロンは、その沈黙を見逃さなかった。
「裁定が出るまでの間、客人として扱う。食事も寝床も用意しよう」
玄馬の目が輝く。
「ぜひ!」
「親父!」
「呪いを治すためだ、乱馬!」
「今、食事で決めただろ!」
議場に、かすかな笑いが広がった。
乱馬だけが笑っていない。
コロンが最後にシャンプーへ向き直る。
「シャンプー」
「はい」
「乱馬はお前に関わる客人だ。村にいる間、お前が責任を持って監督しな」
乱馬とシャンプーの声が重なった。
「はあ!?」
「なぜ私が!」
「二つの接吻を与えたのはお前だからだよ」
コロンは杖の上へ飛び乗った。
「殺すべき相手か、夫にすべき相手か。裁定が出るまで、よく見極めることだね」
乱馬は即座に反論した。
「どっちでもねえ!」
コロンは楽しそうに笑った。
「それを決めるのは、いまのお前ではない」
「いや、俺だろ!」
乱馬の叫びを残し、長老たちは次々に議場を出ていく。
裁定は終わった。
乱馬と玄馬は、女傑族の村に留め置かれることになった。
シャンプーはその場から動けなかった。
よく見極めろ。
何を見ればいい。
男の姿か。
女の姿か。
殺すべき敵か。
迎えるべき夫か。
乱馬が苛立たしそうにシャンプーを見る。
「先に言っとくぞ」
「何だ」
「俺はおまえと結婚しねえ」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
なぜ痛んだのか、自分でも分からない。
「それから」
乱馬は続ける。
「殺されるつもりもねえ」
「それは分かっている」
「本当に分かってんのか?」
「おまえは私に二度勝った」
認めたくはない。
だが事実だった。
「簡単には殺せない」
「簡単じゃなきゃ殺すのかよ」
「掟が決まれば」
そう答えたとき、乱馬の目が冷たくなった。
先ほどまでの怒鳴り声よりも、その視線の方が痛かった。
「結局、おまえが決めるんじゃねえんだな」
「何?」
「俺を殺すのも、俺と結婚するのも」
乱馬は議場の出口へ歩き出す。
「全部、掟が決めんだろ」
「当然だ」
シャンプーは答えた。
答えたはずだった。
だが、乱馬は振り返らない。
「だったら俺は、おまえのことなんか知らねえよ」
胸の奥が、もう一度痛んだ。
先ほどより深く。
シャンプーは何も言えなかった。
乱馬が議場を出ていく。
玄馬も頭を下げながら、その後を追った。
ひとり残された石室で、シャンプーは自分の唇へ指を当てた。
死を誓った接吻。
婚姻を誓った接吻。
どちらも自分の意思で与えた。
けれど、その意味を決めたのは自分ではない。
掟だった。
では。
掟がなければ、自分はあの男をどうしたいのか。
殺したいのか。
夫にしたいのか。
それとも。
どちらでもないのか。
シャンプーには分からなかった。
ただ、その日。
生まれて初めて。
彼女は守るべき掟の中に、自分の答えがないことを知った。