シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
宗家へ戻るころには、朝と呼ぶには少し遅い時間になっていた。
それでも、村の家々からはまだ朝食の匂いが漂っている。
大朝市へ出た者たちは、夜明け前から荷を運び、品を並べ、客を相手にしていた。
普段の時間に食卓へ着くことなどできない。
朝市を終えた者から宗家へ戻り、手の空いた者から食べる。
今日は、そういう朝だった。
母屋の戸は開け放たれている。
中庭にも低い卓が出され、長椅子や木箱が代わりの腰掛けとして並べられていた。
湯気の立つ粥。
蒸したばかりの饅頭。
刻んだ青菜を入れた汁物。
塩漬け肉を薄く切って焼いたもの。
普段の宗家の朝食なら、料理は長い卓へ順番よく並べられる。
座る場所もおおよそ決まっている。
だが今日は違った。
朝市から戻った者が、空いている場所へ座る。
食べ終えた者が立てば、次の者がその椀を片づけて座る。
誰かが母屋から粥を運び、別の誰かが空になった蒸籠へ饅頭を足す。
食事というより、仕事の続きをしながら腹を満たしているような光景だった。
「やっと飯か」
乱馬は中庭へ入るなり、空いていた長椅子へ向かった。
「待て」
後ろからシャンプーに呼び止められる。
「何だよ」
「先に手を洗え」
「朝から何回洗わせる気だ」
「荷紐を触った」
乱馬は腰へ挟んだ新しい荷紐を見る。
「買ったばっかだぞ」
「店に掛けてあった。誰が触ったか分からない」
「紐くらいで腹壊すかよ」
「朝市で硬貨も触った」
「それなら、おまえもだろ」
「私は洗う」
シャンプーは中庭の隅にある水甕へ向かう。
その横には手桶と、小さく切った灰汁石鹸が置かれていた。
乱馬は粥の匂いへ未練を残しながら、そのあとをついていく。
「腹減ってるときに細けえな」
「薬草を触った手で、別の薬草へ触るなと言われただろう」
「言われたけどよ」
「朝市では、食べ物も硬貨も同じ手で扱う者がいる」
「だから洗えって?」
「そうだ」
乱馬は少し考えた。
朝市では、薬草を売ったあとで銅貨を受け取り、そのまま次の袋を持とうとして、シャンプーに一度手を拭かされた。
外来商人がひびの入った器を混ぜたときも、品を一つずつ確かめた。
村の者たちは、細かい。
だが、理由もなく細かいわけではないことは、朝から何度も見ていた。
「分かったよ」
乱馬は手桶で水をすくった。
「石鹸も使え」
「そこまでやるのかよ」
「硬貨を触った」
「はいはい」
乱馬は灰汁石鹸を手へ擦りつける。
シャンプーも隣で手を洗った。
二人の後ろへ、玄馬が戻ってくる。
肩には空になった籠を二つ下げていた。
顔は朝市へ出たときよりも疲れている。
それ以上に、不満そうだった。
「まったく、働く者に対する扱いとは思えん」
「親父、何ぶつぶつ言ってんだ」
「聞け、乱馬」
玄馬は籠を地面へ置いた。
「わしは朝から、村のために身を粉にして働いた」
「饅頭運んでただけだろ」
「食料は人の命を支える大切な荷だ」
「途中で三つ食ったけどな」
「運搬中の品質確認だ」
「包み紙が袖から出たって聞いたぞ」
「それは不幸な偶然だ」
玄馬は懐から小さな布袋を取り出した。
中を逆さにする。
硬貨が数枚、寂しい音を立てて掌へ落ちた。
「見ろ。この少なさを」
「食った分、引かれたんだろ」
「三つでこの額は高すぎる!」
「売り物だったからだ」
シャンプーが手を拭きながら言う。
「宗家で食べる分とは違う」
「同じ饅頭ではないか」
「朝市で売れば金になる」
「腹へ入れば同じだ」
「なら、自分の報酬で買えばよかった」
玄馬が言葉に詰まる。
「売り場の横にあったものを、わざわざ買う必要がどこにある」
「だから代金を引かれたんだろ」
乱馬は笑った。
「自業自得じゃねえか」
「息子が父へ向ける言葉ではない!」
「俺の分まで引かれなくてよかったぜ」
「親子の稼ぎは分け合うものだ」
「絶対やらねえ」
玄馬が乱馬の腰の布袋へ手を伸ばす。
乱馬は腰をひねり、その手をかわした。
「自分の残りで食え」
「もう少し父を敬え!」
「饅頭を盗み食いしない父親ならな!」
言い争いながらも、二人は水甕の前へ並んだ。
「親父も洗えよ」
「わしは籠しか触っておらん」
「饅頭と硬貨も触った」
シャンプーが言う。
「……石鹸はどこかな」
玄馬は素直に手を洗い始めた。
乱馬が中庭へ戻ると、空いていた長椅子にはすでに別の者が座っていた。
「取られた」
「席は他にもある」
シャンプーが母屋の軒下を示す。
壁際に敷物が広げられ、朝市から戻った若い女たちが椀を持って座っている。
その端に、二人分ほどの空きがあった。
「今日は決まった席はないのか」
「戻った者から食べる」
「おまえも?」
「私もだ」
シャンプーは空いている場所へ腰を下ろした。
乱馬も隣へ座る。
普段の食卓のように向かい合う席ではない。
同じ方向を向き、膝の前へ椀を置く。
リンファが大きな盆を持ってやってきた。
「二人とも戻ったのね。粥は大盛りでいい?」
「大盛り」
乱馬が即答する。
「聞くまでもなかったわね」
リンファは笑い、乱馬の前へ大きな椀を置いた。
粥は椀の縁近くまで入っている。
その横へ、饅頭を三つ。
肉を二切れ。
汁物。
シャンプーの前にも、ほぼ同じ量が並べられた。
乱馬が目を止める。
「同じだけ食うのか」
「朝市で同じように働いた」
シャンプーが答える。
「いや、おまえは村の奴だから普通だろ。俺までこの量なのかって話だ」
リンファは盆を持ったまま首を傾げた。
「足りない?」
「そうじゃねえ。むしろ多いくらいだ」
「朝市へ出た者は、いつもの朝食を食べていないからね」
「俺、朝に饅頭食ったぞ」
「一つだけでしょう」
「あれは朝飯に入らねえのか」
「荷を運ぶ前の腹ごしらえね」
「じゃあ、これは?」
「働いたあとの朝食」
「二回食ってるみたいだな」
「乱馬なら食べられるでしょう?」
「食える」
乱馬は胸を張った。
リンファは笑い、シャンプーの皿へ青菜を少し足す。
「朝から走り回っていたものね」
「乱馬の方が荷を多く運んだ」
「肩を痛めていたのに?」
「左手で持った」
リンファは乱馬の右肩を見る。
「まだ痛むの?」
「もうほとんど治ってる」
「ほとんどは、全部ではない」
シャンプーがすぐに言う。
「朝から何回それ言うんだよ」
「使おうとするからだ」
「飯食うのに肩は使わねえよ」
「椀を右手で持つ」
「このくらい平気だ」
乱馬は右手で椀を上げた。
痛みはない。
そう示すように粥をすすった。
熱かったらしく、すぐに椀を離す。
「熱っ!」
「急いで食べるからだ」
「腹減ってんだから仕方ねえだろ」
乱馬は今度は息を吹きかける。
シャンプーも粥へ箸を入れた。
リンファは二人のやり取りを見たあと、乱馬の腰へ目を向けた。
「それ、大朝市で買ったの?」
新しい荷紐だった。
まだ荷物へ取りつけていないため、丸めたまま腰布へ挟まれている。
「ああ」
乱馬は粥を飲み込み、荷紐へ手を伸ばしかけた。
「触るな」
シャンプーが言った。
「見せるだけだろ」
「食事の前に、その紐を触ったから手を洗った」
乱馬の手が止まる。
「……そうだったな」
「食べ終わってから見せればよい」
「そこまでしなくても、見れば分かるわ」
リンファは盆を持ったまま、荷紐をのぞき込んだ。
「荷物の紐?」
「今のが切れそうだったからな」
「旅へ戻るため?」
リンファは、特に声を落とさず尋ねた。
周囲の者も、会話を聞いてはいる。
だが、手を止める者はいなかった。
「裁定が出たら、日本へ帰るつもりだからな」
「そう」
リンファは荷紐の表面を見る。
「油を入れた方を選んだのね」
「安い方は、濡れたらほつれるって言われた」
「なら、丈夫な方を買って正解ね」
それだけだった。
なぜ帰るのか。
村へ残る気はないのか。
裁定で婿と決まったらどうするのか。
リンファは何も尋ねなかった。
乱馬は、昨日村へ来たばかりの外来者だ。
旅をしていた者が、帰るための道具を買う。
宗家の者たちにとっては、それほど不自然なことではなかった。
「少し高かったけどな」
乱馬が言う。
「長く使うなら、その方が安いわ」
「同じこと言われた」
「店の人に?」
「こいつに」
乱馬がシャンプーを顎で示した。
シャンプーの箸が、わずかに止まる。
リンファがこちらを見る。
「シャンプーが勧めたの?」
「品質を見ただけだ」
「最後に決めたのは俺だぞ」
「分かっている」
「安い方だったら、肉餅をもう一枚買えた」
「山道で切れるよりよい」
「またそれかよ」
乱馬は荷紐へ触れず、饅頭へ手を伸ばした。
シャンプーは粥を食べる。
自分が丈夫な方を勧めた。
乱馬が帰るときに使うものだと知りながら。
そのことを、宗家の者へ詳しく説明する気にはならなかった。
隠しているわけではない。
説明するほどのことではないと思った。
それでも、リンファの問いへ自分から付け加えることはしなかった。
「肉餅?」
リンファが尋ねる。
「残った金で買った」
乱馬が答える。
「一枚だけ?」
「八文だったからな」
「半分、シャンプーが食べた」
リンファの目がシャンプーへ向く。
「案内代だ」
シャンプーが先に言った。
「俺が勝手に渡しただけだろ」
「では、なぜ半分にした」
「一人で食うより、案内した奴にもやった方がいいと思っただけだ」
「同じではないか」
「違う」
「何が違う」
「知らねえよ」
乱馬は饅頭へ手を伸ばした。
「腹減ってたから、早く食いたかっただけだ」
リンファは何か言いかけたが、やめた。
代わりに空になった蒸籠を盆へ載せる。
「足りなければ、あとで新しいのを持ってくるわ」
「本当にまだ食っていいのか?」
「朝市で働いた者の分は、別に用意してあるから」
「客だから多いんじゃねえのか」
「客用の食事なら、母屋の奥で出すわ」
リンファは忙しそうに立ち上がる。
「今日は、あなたも朝市へ出た側でしょう」
そう言い残して、次の者の食事を運びに行った。
乱馬は手の中の饅頭を見る。
「朝市へ出た側、か」
「働いたのだから当然だ」
シャンプーが言う。
「でも、飯と寝床の分は、昨日の仕事で返したんだろ」
「昨日の水運びと薬草採りと石床直しだ」
「朝市は別だから、金が出た」
「そうだ」
「その上、飯も同じだけ食わせるのか」
「朝食を取らずに働いた」
「朝に饅頭は食った」
「一つだけだ」
「何でそこまで分けるんだ?」
乱馬は饅頭を置き、周囲を見る。
朝市から戻った者たちが、同じように粥を食べている。
若い者も。
年配の者も。
荷を運んだ者も。
帳面をつけた者も。
宗家の者だけではない。
共同倉庫の整理を手伝った村人も、中庭の端で同じ鍋から粥を受け取っていた。
「手伝ったから金を払う。それは分かる」
乱馬は言った。
「でも、金を払ったら、それで終わりじゃねえのか」
「働いた者が腹を減らしたままでは、次の仕事ができない」
答えたのは、いつの間にか中庭へ戻っていたコロンだった。
杖の上ではなく、今日は普通に地面を歩いている。
コロンは空いていた木箱へ腰を下ろした。
リンファが小さな椀へ粥をよそい、コロンへ渡す。
「食事まで報酬の一部ってことか?」
乱馬が尋ねる。
「少し違うね」
コロンは粥を一口食べる。
「金は、朝市で特別に働いた分だ。食事は、その仕事を終えた者が今日を続けるために必要なものさ」
「同じじゃねえか」
「金だけ渡して、食事を用意しなければどうなる?」
「自分で買う」
「朝市で得た金を、朝市で食事へ使うことになる」
「そうなるな」
「遠くから来た商人なら、それでもよい。だが、村の仕事をした村人が、働いた直後の食事へ報酬を使えば、手元へ何も残らない」
乱馬は、腰の布袋に残った硬貨を思い出した。
荷紐を買い。
肉餅を買い。
残りはわずかだった。
「働いた分へ返さなければ、村の仕事は続かない」
コロンが言う。
「働くたびに腹を減らし、道具を傷め、何も残らないなら、誰も共同の仕事などしなくなる」
「村のためなんだから、ただで働けって言わねえのか」
「言わないわけではない」
「言うのかよ」
「水路が壊れた。火事が出た。山道が崩れた。急ぐときには、報酬を決める前に動くこともある」
コロンは中庭にいる者たちを見る。
「だが、それをいつも当然にすれば、動ける者から先に疲れる。村のためという言葉だけで腹は満たせないよ」
「世知辛い村だな」
「暮らしとはそういうものさ」
「武術なら、強くなるために勝手にやるぞ」
「それで腹が減れば、誰かの作った飯を食べるだろう」
「……まあな」
「畑を耕す者も、薬草を採る者も、鍋を作る者も、自分の仕事をしている。その仕事へ返すものがあるから、お前も食事を取れる」
乱馬は粥を見る。
粥の米。
青菜。
肉。
塩。
朝市で買い入れた品も、いずれ同じように誰かの暮らしへ入る。
「昨日の労働の貸し借りと、同じようなもんか」
「完全に同じではないが、近いね」
「働いた分を、金でも飯でも返す」
「返し方はいくつもある」
「帳面にも書く?」
「必要なものはね」
「何でも帳面だな、この村」
「忘れても困らないことは書かないよ」
コロンは乱馬の腰にある荷紐を見る。
「何を買ったかまでは、共同倉庫の帳面には書かない」
「俺の金だから?」
「そうだ。手当を渡したところまでが村の記録だ。その先はお前が決める」
乱馬は少しだけ黙った。
自分で働いた。
村から金を受け取った。
その金で、帰るための荷紐を買った。
何を買うかまでは、村に命じられなかった。
シャンプーは丈夫な方を勧めたが、最後に決めたのは自分だった。
「飯も同じなのか」
「何がだい」
「客だから食わせるんじゃなくて、働いたから同じだけ出す」
「今日はね」
「明日は?」
「働かなければ、宗家へ泊まる客としての分だ」
「量が減る?」
「お前が腹を空かせて暴れない程度には出すよ」
「基準が俺なのかよ」
「昨日から見ていれば、それくらいは分かる」
コロンは笑った。
「ただし、玄馬の分は盗み食いを引いて考える必要があるね」
「ひどい!」
少し離れた場所で、玄馬が声を上げた。
玄馬の前にも、乱馬と同じ大きさの粥の椀が置かれている。
饅頭も二つある。
「何がひどいんだよ。ちゃんと飯出てんじゃねえか」
「三つ引かれたのだから、三つ返されてしかるべきだ!」
「それじゃ引いた意味がねえだろ!」
「報酬と朝食は別だと言ったではないか!」
「だから朝食は別に出てるだろ!」
「饅頭の個数が足りん!」
玄馬は蒸籠へ手を伸ばす。
リンファが盆でその手を叩いた。
「全員へ回ってから」
「わしも働いた者だぞ」
「だから同じ量を出したでしょう」
「年長者には敬意を」
「盗み食いした者には追加なし」
「村中がわしへ冷たい!」
「自分で冷たくしてんだろ」
乱馬は笑いながら、三つ目の饅頭を食べた。
中庭にも笑いが広がる。
玄馬だけは不満そうに粥をすすった。
食事の途中にも、宗家へ次々と人が戻ってきた。
空いた椀を洗う者。
新しい椀を並べる者。
朝市の売上について話す者。
壊れた荷車を午後に直す相談をする者。
どこかの家へ届ける塩の量を確かめる者。
食卓の周囲には、仕事の話が途切れず飛び交っている。
「西の家の布は三巻で合っている?」
「二巻だ。残り一つは修繕所へ回す」
「鉄の留め具は?」
「共同倉庫の奥。午後にムースが分ける」
「薬草の袋、一つ印が薄いよ」
「中身を見てから書き直す」
乱馬は粥を食べながら、それらを聞いていた。
「飯くらい静かに食えねえのか」
「朝市の日は、いつもこうなる」
シャンプーが答える。
「おまえら、まだ仕事してんじゃねえか」
「確認しているだけだ」
「それも仕事だろ」
「食べながらできる」
「俺は食べながら喋ると親父に取られる」
「今日は離れている」
シャンプーが玄馬の方を見る。
玄馬は、隣の者の皿へ手を伸ばそうとして止められていた。
「どこにいても同じだな」
乱馬が言う。
「旅の間も、ああだったのか」
「飯が少なけりゃ、俺の分まで食う。多くても食う」
「同じではないか」
「だから先に食う癖がついたんだよ」
乱馬は粥を急いですすろうとする。
だが、途中で少し速度を落とした。
自分の前には、まだ饅頭が一つ残っている。
肉もある。
汁物もある。
玄馬がここまで来るには、何人もの間を抜けなければならない。
急いで食べなくても、誰かに取られることはない。
「食べないのか」
シャンプーが尋ねた。
「食うよ」
「なら、なぜ止まった」
「別に」
乱馬は饅頭を割った。
中から湯気が出る。
「熱いから冷ましてるだけだ」
「さっきは熱くても食べた」
「細かいな」
「朝市では必要だ」
「それ、何にでも使う気かよ」
シャンプーは答えず、汁物を飲んだ。
乱馬も少し冷ました饅頭を食べる。
今度は急がなかった。
食事が終わるころ、日差しは中庭の半分まで伸びていた。
朝市へ出た者たちも、ほとんどが戻っている。
雑然としていた食事の場は、少しずつ片づけへ変わった。
空の椀を重ねる。
敷物をはたく。
余った饅頭を蒸籠ごと厨房へ戻す。
乱馬は最後の汁を飲み干した。
「食った」
腹をさする。
「もう食べられない?」
リンファが空いた盆を抱えて尋ねる。
「まだ入る」
「では、残った饅頭を一つ持っていく?」
乱馬は蒸籠を見る。
普段なら迷わず取った。
だが、朝市の仕事を終えた者へ回り切ったあとだと分かっている。
「親父が食ってなければな」
「わしはまだ一つしか追加しておらん!」
玄馬が遠くから叫ぶ。
「食ってんじゃねえか!」
「一つだけだ!」
「なら、俺も一つもらう」
リンファは饅頭を薄い紙へ包み、乱馬へ渡した。
乱馬は包みを受け取り、腰の布袋とは反対側へ入れる。
「あとで食うのか」
シャンプーが尋ねる。
「腹減ったときにな」
「すぐ減るだろう」
「今はさすがに減ってねえよ」
そう答えた直後、乱馬は大きなあくびをした。
口を手で隠すこともなく、目を細める。
「眠そうね」
リンファが笑う。
「夜明け前から起こされたからな」
「起こしたのは私だ」
シャンプーが言う。
「分かってるよ」
「朝市へ行くと言った」
「着替えろとしか言わなかっただろ」
「説明すれば起きたのか」
「説明してから起こせ!」
「起きていなければ説明を聞けない」
「そういう話じゃねえ!」
乱馬は言い返しながら、もう一度あくびをした。
「午後は何するんだ」
「何もしない」
シャンプーが答えた。
乱馬のあくびが途中で止まる。
「何?」
「今日はもう仕事はない」
「本当に?」
「大朝市の手伝いは終わった。共同倉庫の確認も終わった」
「荷運びは?」
「ない」
「薬草採りは?」
「今日はない」
「石床は?」
「昨日直した」
「水汲みとか」
「朝に別の者が終えている」
「本当に、何もないのか」
「ないと言っている」
乱馬は疑うようにシャンプーを見る。
次にコロンを見る。
「あとから急に仕事を出す気じゃねえだろうな」
「頼むことが絶対にないとは言わないよ」
コロンが答える。
「ほら、あるんじゃねえか!」
「家が燃えれば水を運ばせる。誰かが崖から落ちれば助けに行かせる。それまで約束しろと言うのかい」
「そういうのは別だろ」
「なら、予定している仕事はない」
「……本当に?」
「三度も聞くな」
シャンプーが少し呆れたように言う。
「好きにしてよい」
「好きに?」
「離れで寝てもよい。村の中を見るなら、監督はつく」
「結局、おまえも来るのか」
「裁定が出ていない」
「村の外へ出なきゃいいんだろ」
「昨日、村の中から逃げようとした」
「逃げたんじゃねえ。出ようとしたんだ」
「同じだ」
「違う!」
「なら、今日は違うところを見せろ」
乱馬は口を閉じた。
言い返そうとして。
何をするのか、自分でも決めていないことへ気づく。
「修練する」
「右肩を使うな」
「足だけならできる」
「汗をかいたあとで寝ると冷える」
「子どもじゃねえんだぞ」
「なら、自分で考えろ」
シャンプーは空いた椀を盆へ載せる。
「今日はもう、ひいばあちゃんから何も命じられていない」
「おまえは?」
「監督は続ける」
「やっぱり仕事あるじゃねえか」
「私の仕事だ。おまえの仕事ではない」
乱馬はますます困った顔をした。
旅の途中なら、道を進む。
野宿する場所を探す。
食べ物を集める。
玄馬と修練する。
次の町への道を尋ねる。
何もしなくてよい時間など、ほとんどなかった。
この村へ来てからも同じだった。
追われ。
捕まり。
泊まる条件を決められ。
水を運び。
薬草を採り。
石床を直し。
今朝は大朝市で働いた。
次に何をするかは、誰かが決めていた。
それへ文句を言うことはできた。
やるか、やらないかを選ぶこともあった。
だが、何も与えられず、自分で残りの時間を決めろと言われると、かえって落ち着かなかった。
「寝ればよいだろう」
シャンプーが言う。
「眠くねえ」
「さっきあくびをした」
「あれは腹いっぱいになったからだ」
「眠いのではないか」
「違う」
乱馬は立ち上がった。
その直後、もう一度あくびが出る。
シャンプーは何も言わずに見ていた。
「……少しだけ寝る」
「そうしろ」
「起きたら修練する」
「右肩を使うな」
「分かってるよ!」
乱馬は母屋の脇を通り、離れへ向かった。
数歩進んだところで止まる。
振り返る。
「おまえ、本当に来るのか」
「監督だからな」
「寝てるところまで見る気かよ」
「離れの外にいる」
「何で」
「おまえが起きて村へ出るかもしれない」
「だったら起きたら声かける」
「信用できない」
「昨日から一緒に働いたろ!」
「昨日からしか見ていない」
「……それもそうか」
乱馬は頭をかいた。
「じゃあ、勝手にしろ」
「そうする」
二人は離れへ向かう。
シャンプーは少し後ろを歩いた。
乱馬の腰には、新しい荷紐がある。
帰るための品。
それを買った乱馬が、いまは宗家の離れへ戻って寝ようとしている。
帰らないと決めたからではない。
裁定が出ていないからだ。
朝から働き、腹を満たし、眠くなったからだ。
理由は、それだけだった。
大朝市は終わった。
だが、今日が終わったわけではなかった。
仕事のない余った時間で、乱馬はまだこの村でどう過ごせばよいか知らなかった。