シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
乱馬が目を覚ましたとき、離れの窓から差し込む光は、寝る前よりも少し高い位置へ移っていた。
どれほど眠ったのか。
寝台の上で身体を起こし、右肩をゆっくり回す。
石床を直したときに痛めた場所には、まだ少し張りが残っていた。
だが、腕を上げても強い痛みはない。
「一刻も寝てねえか」
乱馬は頭をかいた。
遅い朝食を腹いっぱい食べたあと、少し横になるだけのつもりだった。
旅の途中なら、日が高いうちに眠ることはほとんどない。
先へ進む。
食べ物を探す。
野宿する場所を決める。
玄馬が勝手に決めた修練へつき合わされる。
何かをしているのが当たり前だった。
だが今日は、もう仕事はないと言われた。
好きにしろ。
そう言われて寝台へ横になったら、そのまま眠ってしまった。
乱馬は寝台から降りる。
その脇には、旅の荷物が置かれていた。
大朝市で買った新しい荷紐が、荷物をまとめている。
麻へ山羊の毛を撚り込み、油を染み込ませた細い紐。
朝に買ったばかりのものだ。
乱馬は荷物を持ち上げ、紐を引いた。
緩んでいない。
旅人の結び方も崩れていない。
「これなら大丈夫だな」
裁定が終われば、日本へ戻る。
東へ向かう道も聞いた。
谷沿いに進み、分かれ道では下へ行く。
古い石塔を二つ越え、川の音が近い方へ進めば青河の町へ出る。
荷物も直した。
帰るための準備は、少しずつ整っている。
乱馬は荷物を元の場所へ戻し、離れの戸を開けた。
軒下にシャンプーがいた。
柱へ背を預け、細い木札を何枚か重ねている。
「何してんだ、おまえ」
「起きたのか」
「見りゃ分かるだろ」
「木札を分けていた」
「ずっとここにいたのか?」
「監督だからな」
「本当に寝てる間まで見張ってたのかよ」
「中には入っていない」
「そういう問題じゃねえ」
乱馬は外へ出る。
中庭の方から、まだ人の声が聞こえていた。
朝市で使った道具や食器を片づけているらしい。
「で、次は何だ」
乱馬が尋ねる。
「何もない」
「本当か?」
「朝食のあとにも聞いただろう」
「急に仕事が増える村だからな」
「今日は、予定している仕事はない」
「じゃあ、おまえは何で木札分けてんだよ」
「私は宗家の仕事をしている」
「俺にはない?」
「ない」
乱馬は腕を組んだ。
離れで寝直す気はない。
腹もいっぱいで、すぐに何かを食べたいわけでもない。
修練をすれば、また右肩を使うなと言われる。
「好きにしろって言われてもな」
「好きにすればよい」
「村のどこへ行っていいのか分かんねえんだよ」
「村の外へ出なければよい」
「どこから外だ?」
「門の先」
「山の斜面は?」
「北の薬草畑までは村の管理地だ。その先は外だ」
「西は?」
「水路の上流にある堰まで」
「南は?」
「果樹畑の端までだ」
「東は?」
「交易路へ出る門まで」
「面倒だな」
「出なければ覚える必要はない」
「それじゃ何も見られねえだろ」
乱馬は母屋の屋根越しに、村の中央を見る。
大朝市の店はかなり片づけられていた。
それでも、いつもの村へ戻ったわけではないらしい。
通りにはまだ荷車が行き来し、家々の前には朝市で買った品が積まれている。
遠くから来た商人の声も残っていた。
「村、まだ騒がしいな」
「大朝市のあとだからだ」
「少し見てくる」
「分かった」
シャンプーは木札をまとめ、軒下の箱へ入れた。
そのまま乱馬の後ろへつく。
「おまえも来るのか」
「監督だからな」
「好きにしろって言っただろ」
「おまえが好きにするところを見る」
「やりづらいな」
「村の外へ出なければ、止めない」
「本当だな?」
「本当だ」
乱馬は少し考え、中央通りの方へ歩き出した。
シャンプーも一定の距離を空けてついていく。
「別に、そんな後ろ歩かなくてもいいぞ」
「見失わないためだ」
「なら隣歩けよ。後ろから見られてる方が落ち着かねえ」
シャンプーは乱馬を見る。
「隣でよいのか」
「見張るだけだろ」
「そうだ」
シャンプーは歩調を少し速めた。
二人は並んで、大朝市の終わった村へ向かった。
中央通りの入口では、一軒の家族が新しい鍋を洗っていた。
大きさの違う鍋が三つ。
朝市で見た、外来商人の店に並んでいたものだった。
母親が灰をつけた布で内側を磨き、父親が井戸から水を運んでいる。
子どもは小さな鍋を棒で叩こうとして、母親に手をつかまれた。
「使う前に洗うのか」
乱馬が尋ねる。
「鉄の粉や油が残っている」
「火にかけりゃ同じじゃねえか」
「最初に洗わなければ、料理へ匂いが移る」
「おまえ、朝から洗えしか言わねえな」
「必要だからだ」
乱馬は鍋を見る。
「朝市で買ったやつだよな」
「宗家の店の近くにあった」
「古い鍋、穴が開いてた家か」
「見たのか」
「朝、持ってきた鍋と見比べてた」
乱馬は家の軒下を見る。
黒く焦げた古い鍋が、壁へ立てかけられている。
底には小さな穴が開いていた。
新しい鍋は、それと入れ替わるものらしい。
「祭りだから買ったんじゃねえんだな」
「鍋が壊れたから買った」
「大朝市まで待ってた?」
「村の鍛冶場でも直せるが、底が薄くなりすぎていた」
「じゃあ、次の朝市まで使うのか」
「壊れなければな」
家の前を通り過ぎる。
少し先では、母親が買ったばかりの布を娘の身体へ当てていた。
深い赤色の布。
少女は両腕を上げ、母親が肩から腰までの長さを測るのを待っている。
その横では、祖母らしい女が古い上着の袖をほどいていた。
「新しい服を作るのか」
「冬用だろう」
「まだ暑いぞ」
「いま買って、縫う」
「冬になってからじゃ遅いのか」
「大朝市は毎月あるわけではない」
「そういや、交易隊が戻る時期に合わせるって言ってたな」
「厚い布は村では多く作れない。外から来るものを待つ」
少女は乱馬とシャンプーに気づき、少し恥ずかしそうに母親の後ろへ隠れた。
母親が笑う。
「朝市を手伝ってくれた外の子だよ」
「外の子って、俺のことか?」
「おまえ以外に誰がいる」
「子ども扱いすんな」
乱馬が不満そうに言う。
少女は母親の陰から顔を出し、乱馬の服を見る。
「お兄ちゃんの服、破れてる」
「これは修行で破れたんだよ」
「直さないの?」
「このくらいなら動くのに困らねえ」
少女の母親が乱馬の袖を見る。
「布が余ったら、当て布をあげようか」
「いいよ。俺、もう村を出るんだから」
乱馬は何気なく答えた。
母親も深くは聞かなかった。
「なら、旅の途中で裂けないようにしなさい」
「分かってる」
二人はその家を離れた。
シャンプーは何も言わない。
乱馬も、村を出るという言葉を言い直さなかった。
共同倉庫の前では、塩の袋が小分けにされていた。
朝市で買い入れた大袋を開き、量を測り、各家や作業場へ分けている。
袋の横には木札が置かれていた。
「また帳面か」
乱馬が言う。
「木札だ」
「同じようなもんだろ」
「持っていく家と量を書く」
「塩くらい、欲しい奴に持ってかせればいいんじゃねえか」
「先に取った者が多く持てば、後の者の分がなくなる」
「買った分、全部村のものなのか?」
「一部は共同倉庫のものだ。各家が自分で買った分もある」
「混ぜたら分からなくなるな」
「だから分ける」
乱馬は朝市で何度も見た印を思い出す。
宗家。
共同倉庫。
東の家。
西の家。
同じ塩でも、代金を出した者や使う場所が違っていた。
「朝に数合わせしてたの、これのためか」
「それもある」
「一袋足りなかったら、どこへ回す分がないか分からなくなる」
「そうだ」
塩を分けていた女が、乱馬へ小さな袋を差し出した。
「持ってみるかい」
「何で」
「朝に運んだ袋が、どれだけの家へ分かれるか分かるよ」
乱馬は受け取る。
掌に載るほどの小袋だった。
「一軒でこれだけ?」
「料理と保存食へ使う分だよ。冬はもう少し多い」
「朝の袋一つで、何軒分だ?」
「十五か、使い方によっては二十」
「そんなにか」
乱馬は小袋を返した。
朝、重いと思いながら運んだ塩袋。
あれ一つが、村のいくつもの家へ分かれていく。
荷物として見ていたときとは、少し違って見えた。
中央広場では、市場の片づけが続いていた。
敷物を丸める者。
折れた木箱を分解する者。
落ちた藁や野菜の葉を集める者。
割れた器の欠片を、ほうきで一か所へ寄せる者。
朝には品物で埋まっていた場所が、少しずつ元の広場へ戻っていく。
「ごみまで分けるのか」
乱馬が尋ねた。
「燃やせるもの。家畜へ与えるもの。堆肥へするもの。使い直すもの」
「割れた木箱も?」
「板が使える」
「旅なら、その辺で燃やしてたな」
「村では、次に使う者がいる」
乱馬は作業を見ながら歩く。
外来商人の荷車も、村の東門へ向かい始めていた。
朝まで高く積まれていた荷は減っている。
代わりに、村から買い入れた薬草や乾燥肉、細工物が載せられていた。
子どもたちが道の端に並び、荷車へ手を振っている。
商人も手を上げて応える。
その中に、乱馬へ東へ向かう道を教えた男がいた。
男は乱馬に気づき、荷台から声をかけた。
「荷紐はつけられたか?」
「ああ。前より背負いやすくなった」
「油を切らすなよ」
「分かってる」
「青河へ行くなら、石塔の先で下だぞ」
「それも覚えてる」
荷車が進んでいく。
乱馬は、東門から出ていく車列を目で追った。
あの道が、青河の町へ続く。
さらに東へ進めば、日本へ戻る道へつながる。
「いまなら、荷車のあとをついていけるな」
乱馬が言う。
シャンプーの表情が少し硬くなる。
「裁定は出ていない」
「分かってるよ。行くとは言ってねえ」
「ならよい」
「道を確認しただけだ」
「そうか」
荷車が門の向こうへ消える。
乱馬は追わなかった。
シャンプーも、それ以上は何も言わなかった。
子どもたちは、最後の一台が見えなくなるまで手を振っている。
大朝市は、外から品が入る日であると同時に、村の品が外へ出ていく日でもあった。
「村だけで、全部作ってるわけじゃねえんだな」
「作れないものもある」
「外の奴がいなきゃ困る?」
「困る」
「女傑族の村って、もっと全部自分たちでやるのかと思ってた」
「なぜだ」
「強い奴ばっかだろ」
「強さだけで塩や鉄は作れない」
「そりゃそうか」
乱馬は頭をかいた。
広場の反対側から、小さな子どもが歩いてきた。
母親の手を強く握っている。
朝市で迷子になっていた男の子だった。
「あ」
乱馬が足を止める。
子どもも乱馬へ気づいた。
母親の陰へ隠れかける。
だが、すぐに顔を出した。
「朝の兄ちゃん」
「もう迷うなよ」
「迷ってない」
「朝は迷ってただろ」
「人が多かっただけ」
「それを迷ったって言うんだよ」
子どもは母親の手を、さらに強く握った。
母親が乱馬へ頭を下げる。
「朝は助けてくれてありがとう」
「俺だけじゃねえよ。こいつが家を知ってた」
乱馬はシャンプーを示す。
「おまえが抱えてきた」
「道が分からなかったからな」
「それでも、あの人混みで見つけたのはおまえだ」
母親は二人へもう一度礼を言った。
子どもは母親の手を離さないまま、乱馬を見る。
「兄ちゃん、まだ村にいるの?」
「裁定が終わるまではな」
「いつ終わる?」
「俺が知りてえよ」
「終わったら帰る?」
「ああ」
「どこへ?」
「日本」
子どもは日本がどこか分からないらしい。
首を傾げる。
「遠い?」
「たぶんな」
「じゃあ、また迷う?」
「俺は迷わねえ!」
乱馬は即座に言い返した。
母親が笑う。
「道を知らないのなら、気をつけて」
「もう聞いた。東門から谷沿いだ」
「なら大丈夫ね」
子どもは母親に手を引かれながら、何度か振り返った。
朝とは違い、今度は自分の帰る場所を知っている。
「今度は、ちゃんと手を握ってるな」
乱馬が言った。
「母親も離していない」
「朝は人が多すぎたからな」
大朝市が終われば、村の道は少しずつ元の広さへ戻っていく。
それでも、朝に起きたことまで消えるわけではない。
村の西側へ向かう途中で、金属を打つ音が聞こえてきた。
規則的な音だった。
鋭く。
少し間を空け。
また同じ場所を打つ。
「何の音だ」
「分家の修理場だ」
「ムースのところか」
「ムースの母方の家が管理している」
広い軒下へ、朝市で買った鉄の部品が並べられていた。
輪。
留め具。
短い鎖。
荷車の車軸へ使う金具。
扉の蝶番。
ムースは眼鏡を正しい位置へ掛け、種類ごとに分けている。
普段のように柱へ抱きつくこともない。
シャンプーの姿へ気づいても、すぐに駆け寄ってこなかった。
「その留め具は荷車用だ。農具の箱へ入れるな」
ムースが年下の男へ指示する。
「大きさが同じだけど」
「穴の位置が違う。荷車用は振動で外れないよう、内側へ返しがある」
男は二つの金具を見比べ、別の箱へ入れ直した。
修理場の端では、村人が壊れた鎌を持って待っている。
「刃は直るかい」
ムースは鎌を受け取り、刃先と柄の付け根を見る。
「刃は研げる。だが柄の中までひびが入っている。いま直しても、強く振れば抜けるぞ」
「新しい柄はある?」
「朝市で買った木材を乾かしてからだ。今日は応急のものをつける。畑の草刈りだけに使え」
「木を切るのは?」
「絶対に使うな」
ムースは鎌へ印をつけ、修理待ちの台へ置いた。
その横には、自分の暗器も並んでいる。
護衛の途中で傷んだ鎖。
先端がわずかに曲がった刃。
布の内側へ仕込むための細い金具。
ムースは村の道具と自分の武器を混ぜず、別々の布へ置いていた。
乱馬は少し離れた場所から、それを見ている。
「あいつ、ああいう仕事はまともなんだな」
「聞こえているぞ、乱馬!」
ムースの手が止まった。
乱馬は肩をすくめる。
「まともだって褒めたんだろ」
「普段はまともではないと言っているのと同じじゃ!」
「柱をシャンプーと間違える奴をどう言えばいいんだよ」
「今日は間違えていない!」
「自慢するところか?」
ムースは言い返そうとした。
だが、修理を待っていた村人が声をかける。
「ムース、この鍋の取っ手も見てくれないかい」
「いま行く」
ムースは乱馬から視線を外し、すぐに仕事へ戻った。
鍋の取っ手を動かし、留め具の緩みを確かめる。
ふざけた様子はない。
村人も安心して任せている。
「仕事ができないとは言っていない」
シャンプーが言った。
「俺へ突っかかってくるときだけ変なのか」
「私がいると、余計なことを考える」
「おまえがいなくても柱と話してただろ」
「眼鏡がずれていた」
「原因が多すぎるな」
乱馬は修理場へ並ぶ金具を見る。
朝市で買われた鉄が、ここで道具の一部になる。
壊れた鎌。
鍋の取っ手。
荷車。
ムースの武器。
同じ鉄でも、使う場所が違う。
だから朝に種類と数を確認していた。
乱馬は、荷車用の金具と農具用の金具を手に取る。
「本当に返しが違うな」
ムースが横から言う。
「間違えて使えば、荷車の振動で抜ける。山道で車輪が外れれば、荷だけでなく人も落ちる」
「だから分けるのか」
「当然じゃ」
「朝の帳面にも、金具の種類まで書いてあったな」
「外から買ったものが、全部正しく届いたか確認するためじゃ」
「数だけじゃ駄目なのか」
「数が合っていても、必要なものがなければ意味がない」
ムースは金具を乱馬の手から取り、正しい箱へ戻した。
「分かったなら、勝手に混ぜるな」
「混ぜてねえよ。見ただけだ」
「おまえが触ると不安なのだ」
「何だと!」
「二人とも、仕事の邪魔をするな」
シャンプーが言った。
ムースは口を閉じる。
乱馬も金具から手を離した。
「じゃあな、まともなムース」
「次に会ったら覚えていろ!」
ムースは叫んだが、追ってはこなかった。
すぐに鍋の取っ手を直す作業へ戻る。
「本当に来ねえ」
「仕事中だからだ」
「いつもそうしてりゃいいのにな」
「おまえも、仕事中は余計なことをするな」
「俺まで一緒にすんな!」
修理場を離れると、乱馬は少し黙って歩いた。
共同倉庫の塩。
家々の鍋。
子どもの冬服。
分家の修理場へ運ばれた鉄。
朝に見た品が、それぞれ違う場所へ入っていく。
「朝の帳面が面倒だった理由、少し分かった」
乱馬が言った。
シャンプーは横を見る。
「全部分かったのか」
「全部じゃねえ」
乱馬は道端へ積まれた空の木箱を見る。
「でも、誰の物か分からなくなったら困るってのは分かった」
「それだけか」
「塩が一袋なくなったら、どの家の分が足りねえか分からなくなる。金具も、数だけ合ってても種類が違えば使えねえ」
「そうだ」
「売れ残りも、買った物も、朝市が終わったらそれぞれ行く場所がある」
「そうだ」
「だから何回も数えた」
「ようやく分かったか」
「最初に全部説明しろよ」
「説明しても、朝のおまえは聞かなかっただろう」
乱馬は反論しかけた。
夜明け前に起こされ。
重い荷物を運ばされ。
人混みの中で店を手伝い。
同じ品を何度も数えろと言われた。
あのとき詳しく説明されても、面倒だとしか思わなかった気がする。
「……見た方が早いこともあるな」
「それも分かったのか」
「全部おまえが教えたみたいに言うな」
「私は案内しただけだ」
「最後に決めたのは俺って言いたいのか?」
「それは荷紐の話だ」
「細かいな」
「朝市では必要だ」
「まだそれ使うのかよ!」
乱馬の声が、西側の道へ響いた。
村の西へ近づくにつれ、水の流れる音が聞こえてきた。
山から引いた水路が、家々の間を通っている。
飲み水。
洗い物。
畑。
家畜。
用途ごとに枝分かれしながら、村の下側へ流れていく。
水路のそばで、一人の女が待っていた。
シャンプーを見ると、手を上げる。
「ちょうどよかった。宗家へ伝えに行こうと思っていた」
「何があった」
「西の水路の流れが少し悪い」
女は水路を指す。
「朝市の前から少し細かったが、昼になってさらに落ちた」
乱馬も水路を見る。
水は流れている。
完全に止まってはいない。
だが、石の縁に残った濡れた跡を見ると、普段はもう少し高い位置まで水があったらしい。
「どこか漏れてるのか」
乱馬が尋ねる。
「下流では漏れは見つからない」
女が答える。
「なら上で詰まってる?」
「その可能性がある」
シャンプーは水路へしゃがみ込んだ。
指先を水へ入れる。
流れの強さを確かめる。
次に、枝分かれした細い溝を見る。
「この家だけではないな」
「西側の三軒と、果樹畑へ行く水が少ない」
「今日の夕方までは?」
「貯水甕の分で持つ。だが、明日の朝には見た方がいい」
シャンプーは上流の方を見る。
「いま水を止めれば、夕食前の家が困る」
「そうなんだよ」
「朝市のあとで、動ける者も少ない」
「みんな、まだ荷を片づけている」
日が傾き始めている。
上流へ行き、詰まりの場所を探し、水を止め、石や枝を取り除く。
いまから始めれば、終わるころには暗くなる可能性がある。
「夜に水路へ入るのは危ない」
シャンプーが言った。
「明日の朝、水を使う家が少ない時間に一度止める」
「そうしてくれると助かる」
「ひいばあちゃんへ伝える。水路を使う家にも、朝の分を甕へ取っておくように言え」
「分かった」
女はうなずき、家々へ知らせに向かった。
乱馬は細くなった水を見ている。
「詰まってる場所、すぐ分かるのか」
「上から順に見る」
「長い?」
「堰からここまでなら、それほど長くない」
「石でも落ちたか」
「枝か、朝の雨で流れた土かもしれない」
「朝、雨降ってねえぞ」
「山の上では降ったことがある」
シャンプーは立ち上がる。
「明日の朝に見る」
「俺も行くのか」
「まだ決めていない」
「おまえが決めるんじゃねえのか」
「水路は共同の仕事だ。ひいばあちゃんと担当の者が決める」
「俺が行く必要はねえ?」
「まだ分からない」
「それなら最初から、分からないって言えよ」
「言った」
「まだ決めてないって言っただろ」
「同じだ」
「違う!」
乱馬は声を上げた。
水路の流れは、二人の会話に関係なく細い音を立てている。
宗家へ戻るころには、日が少し西へ傾いていた。
朝市の片づけも、ほとんど終わっている。
中央広場には店の跡だけが残り、村人が最後の敷物を運んでいた。
乱馬とシャンプーは母屋の中庭へ入る。
コロンは軒下で、朝市の帳面を読んでいた。
「戻ったかい」
「西の水路の流れが落ちている」
シャンプーがすぐに報告する。
「どの辺りだい」
「西の三軒と果樹畑へ行く枝だ。下流に漏れはない。上で詰まっている可能性がある」
「今日の水は?」
「夕方までは持つ。明日の朝、水の使用が少ない時間に止めた方がよい」
コロンは帳面を閉じた。
「水路番には?」
「使う家へ朝の分を取っておくよう、伝えに行った」
「分かった。明朝、上流から見るよ」
乱馬が横から尋ねる。
「誰が行くんだ」
「シャンプー。水路番から二人。お前もだ」
「俺も?」
「身軽な者が一人いた方がよい」
「今日はもう仕事ないって言っただろ!」
「今日はない。明日の話だよ」
「そういうことかよ!」
「肩はどうだい」
「ほとんど治ってる」
「ほとんどは全部ではない」
シャンプーが言った。
「おまえは黙ってろ!」
コロンが乱馬の右肩を見る。
「重い石を持たせるつもりはない。狭い場所を見る役なら、片腕でもできる」
「水路の中へ入るのか?」
「詰まりの場所によるね」
「冷たい水じゃねえだろうな」
乱馬の顔が警戒へ変わる。
「山水だから冷たいよ」
「男で行っても、途中で女になんじゃねえか」
「湯を用意しておく」
「だったら最初から俺を入れるな!」
「変わっても身体の大きさが少し変わるだけだろう」
「それが嫌なんだよ!」
「女でも仕事はできる」
「そういう問題じゃねえ!」
シャンプーは二人の会話を聞きながら、水路の幅を思い出す。
「男の姿では、狭い場所へ入れないかもしれない」
「おまえまで何考えてんだ!」
「女の姿なら入れる」
「わざと水かける気じゃねえだろうな」
「必要なら」
「やめろ!」
コロンは笑いながら杖を取った。
「詳しくは明日の朝だ。今日は休みな」
「明日は休みじゃねえのかよ」
「村へ泊まる条件を忘れたのかい」
「忘れてねえよ」
乱馬は不満そうに離れへ向かった。
数歩進んでから、振り返る。
「朝、何時だ」
「水を使う前だ」
「だから何時だよ」
「夜明け前」
「またか!」
乱馬の声が中庭へ響く。
離れへ戻ると、乱馬は最初に旅の荷物を見た。
新しい荷紐は、眠る前と同じ位置にある。
結び目も緩んでいない。
乱馬は指をかけ、もう一度だけ強く引いた。
「何度も確かめるのか」
戸口に立ったシャンプーが尋ねる。
「旅の途中で切れたら困るからな」
「店で確かめた」
「荷物につけたあとも見るんだよ」
「信用していないのか」
「紐じゃなく、俺の結び方を確かめてる」
乱馬は荷物を少し持ち上げる。
肩へ当たる位置。
左右の長さ。
荷物の傾き。
問題はない。
「これなら、いつでも出られる」
乱馬が言った。
「裁定が出たあとだ」
「分かってる」
乱馬は荷物を下ろした。
「今日は村の外へ出なかった」
「裁定が出ていない」
「だから出なかったんじゃねえよ」
シャンプーが乱馬を見る。
「東門から出る荷車を追えば、道案内になった。でも、裁定の前に勝手に行くって決めてねえ」
「同じではないか」
「捕まってるから出られなかったのと、自分で今日は出ないって決めたのは違うだろ」
シャンプーは少し考えた。
「違うのか」
「俺には違う」
「そうか」
乱馬は寝台へ腰を下ろす。
「それに、見て回るって自分で決めた」
「私は監督した」
「見たい場所は止めなかっただろ」
「村の外ではなかった」
「だからだよ」
乱馬は窓の外を見る。
大朝市が終わった村。
新しい鍋を洗う家。
冬服の布を身体へ当てられていた子ども。
共同倉庫で分けられた塩。
修理場へ運ばれた鉄。
東門から出ていった外来商人。
母親の手を離さなかった迷子。
どれも、朝に運んだ品や、朝市で会った人々の続きだった。
大朝市は、店が閉まれば終わる祭りではなかった。
村が次の季節まで暮らすために、足りないものを入れ、余ったものを外へ渡す日だった。
「明日は水路か」
乱馬が言う。
「そうなる」
「朝市とは関係ねえ仕事だな」
「村の仕事だ」
「また面倒そうだ」
「嫌なら、食事と寝床を自分で用意しろ」
「やるって言ってんだろ」
「まだ言っていない」
「夜明け前に起きりゃいいんだろ!」
「寝坊するな」
「今日も起きただろ」
「私が起こした」
「明日は自分で起きる!」
「では、見ている」
「見張んな!」
乱馬は寝台へ横になった。
眠るつもりはないらしい。
両手を頭の後ろへ入れ、天井を見る。
シャンプーは離れの外へ出る。
戸を閉める前に、乱馬が言った。
「シャンプー」
「何だ」
「朝の帳面」
「それがどうした」
「明日、水路で何か数えろって言われたら、先に理由を言え」
「言えば聞くのか」
「意味が分かればな」
シャンプーは少しだけ乱馬を見る。
「分かった」
戸を閉める。
乱馬には、帰るための紐がある。
東へ続く道も知っている。
それでも今日の残りは、女傑族の村で過ごす。
自分で選んだ滞在ではない。
裁定を待つための、期限も分からない滞在だった。
だが、ただ閉じ込められているだけでもなくなり始めていた。
乱馬は自分で離れを出た。
自分で村を歩くと決めた。
朝に働いたものの行き先を、自分の目で見た。
そして明日は、また村の仕事をする。
村の西では、水路の水がいつもより細い音を立てて流れていた。