シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
大朝市の翌朝。
日が昇るよりも早く、乱馬は宗家の離れから連れ出されていた。
「眠い」
「昨日、自分で起きると言った」
前を歩くシャンプーが答える。
「起きただろ」
「私が戸を三度叩いた」
「起きる前に叩いただけだ」
「それを起こしたと言う」
「細けえな」
「水路の仕事では必要だ」
「朝市が終わっても、それ使うのかよ」
乱馬はあくびをかみ殺した。
右肩には、まだわずかな張りが残っている。
石床を直したときに痛めたものだ。
腕を動かせないほどではない。
だが、重いものを持とうとすれば、シャンプーがすぐに止める程度には治りきっていなかった。
二人が向かっているのは、昨日流れが細くなっていた村の西側の水路だった。
水路番の女が二人、先に道具を運んでいる。
細長い熊手。
泥をすくう籠。
分岐板を固定する木槌。
枝を切るための小さな鉈。
そのほかに、蓋つきの壺が一つあった。
「それ、湯か?」
乱馬が尋ねる。
「そうだ」
シャンプーが答える。
「水路へ入れば、おまえは女になる」
「分かってるよ」
「仕事が終わったあとで戻す」
「途中で戻してくれねえのか」
「また水へ入れば同じだ」
「だったら、最初から女で来ても同じじゃねえか」
「冷たい水をかぶりたいのか」
「かぶりたくねえよ!」
乱馬は水路番が運ぶ壺を見る。
「ちゃんと熱いんだろうな」
「布と藁で包んである。昼までは冷めない」
「昼までかかるのか?」
「詰まりの場所による」
「昨日のうちに見とけばよかっただろ」
「夕食前に水を止めれば、西側の家が困る」
「それも聞いた」
「朝市のあとで、動ける者も少なかった」
「それも聞いた」
「暗くなれば水路の中は見えない」
「それも──」
乱馬が途中で口を閉じる。
「何だ」
「理由はもう分かったって言ってんだよ」
「なら、文句を言うな」
「分かってても面倒なもんは面倒なんだ」
水路番の女たちが前で笑った。
乱馬は不満そうに鼻を鳴らす。
「笑うなよ」
「朝から元気だね」
「眠いって言っただろ」
「それだけ喋れれば十分だよ」
一行は村の西端へ着いた。
水路の流れは、昨日よりさらに細くなっていた。
石の縁には、本来の水位を示す濡れた跡が残っている。
いま流れている水は、その半分にも届いていなかった。
「水を止めるよ」
水路番の一人が上流へ向かう。
もう一人は、各家へ続く分岐板を確認した。
「下の家は、朝の分を甕へ取った」
「果樹畑も?」
シャンプーが尋ねる。
「昨日のうちに伝えてある」
「なら始められる」
しばらくすると、水路を流れる水がさらに細くなった。
完全には止まらない。
石の底を、薄い水が流れている。
「上流の堰を閉じても、少し残るんだな」
乱馬が言った。
「脇の水路から入る分がある」
「全部止めねえのか」
「水がなくなれば、泥が固まって詰まりの場所が分かりにくい」
「流れを見ながら探す?」
「そうだ」
乱馬は水路をのぞき込む。
「で、何からやる」
シャンプーは水路の縁に残った跡を指した。
「流れが落ち始める場所を探す」
「上から順に?」
「昨日言っただろう」
「順番は聞いた。理由は聞いてねえ」
シャンプーは少し考える。
「詰まりより下では流れが弱くなる。水位の跡と、いまの流れを比べれば場所を絞れる」
「それなら分かる」
「なら、昨日も理由を聞けばよかった」
「昨日のうちに、そこまで説明しろ」
二人は言い合いながら上流へ歩いた。
詰まりは、堰から少し下った場所にあった。
水路が二枚の大きな石の間を通り、急に細くなる場所だった。
上流側には水がたまっている。
下流側は、底が見えるほど浅い。
「ここだな」
乱馬がしゃがみ込む。
石の隙間には、枝と枯れ草が絡まっていた。
その奥へ泥が詰まり、小さな堰のようになっている。
「山の上で降った雨が流したんだろう」
水路番の女が言った。
「枝だけなら流れるが、細い草が絡むと泥を止める」
「全部引っこ抜けば終わりじゃねえか」
乱馬が最も太い枝へ手を伸ばす。
「待て」
シャンプーが止めた。
「またかよ」
「先に外側の草と細い枝を取る」
「太いのが真ん中で止めてるんだろ」
「太い枝を抜けば、後ろの水が一度に出る」
「水は止めたじゃねえか」
「上にたまっている」
乱馬は石の隙間を見る。
確かに、詰まりの向こう側には水が残っている。
だが深さは大したことがないように見えた。
「このくらいなら平気だ」
「見えている水だけではない。泥の中にもたまっている」
「じゃあ、いつ太いのを抜くんだ」
「細い枝を減らして、水の抜け道を作ってからだ」
「時間かかるな」
「そのために朝早く来た」
乱馬は不満そうだったが、細い枝へ手を移した。
「右肩を使うな」
「使ってねえよ」
「いま上げた」
「左で届かねえところを見ただけだ!」
乱馬は水路へ片足を入れた。
冷たい山水が靴へ入る。
「冷てっ!」
次の瞬間、白い湯気が身体を包んだ。
男姿だった乱馬の背が縮む。
赤い髪の女姿へ変わった。
「分かってても気分悪いな、これ」
女乱馬が濡れた袖を振る。
「狭い場所へは入りやすくなった」
「そのために俺を呼んだんだろ」
「それもある」
「最初から言ってたな」
乱馬は水路の中へ降りた。
男姿より小柄になったため、二枚の石の間へ肩まで入ることができる。
右肩をかばい、左手で絡まった草をつかむ。
水路番が鉈で長い枝を切る。
シャンプーは上から受け取り、籠へ入れた。
一つ。
二つ。
三つ。
細い枝を取り除くたび、詰まりの隙間から水が流れ始める。
「確かに、少しずつ抜けてるな」
乱馬が言った。
「だから先に取る」
「分かったって」
乱馬は枯れ草をひとまとまり引き出した。
泥が崩れる。
濁った水が細い筋になって下流へ流れた。
「次は、この枝だろ」
乱馬は中央に挟まった太い枝を見る。
「まだだ」
「もう水の道はできた」
「枝の下に泥が残っている」
「でも、さっきよりは抜けるだろ」
「乱馬!」
「慎重すぎんだよ」
乱馬は太い枝を左手でつかんだ。
軽く引く。
枝は動かなかった。
「ほら、簡単には抜けねえ」
「だから待て」
「少し向きを変えるだけだ」
乱馬は足を石の底へ踏ん張った。
枝を横へねじる。
最初は動かなかった。
もう一度力を加える。
枝の先が、泥の中で外れた。
「あ」
枝が突然抜けた。
同時に、枝へ押さえられていた古い分岐板まで浮き上がる。
「乱馬、離せ!」
シャンプーが手を伸ばす。
だが、遅かった。
板の向こうへたまっていた水と泥が、一度に押し出された。
「うわっ!」
乱馬の身体へ正面から濁った水がぶつかる。
足元が滑る。
シャンプーが腕をつかもうとしたが、乱馬は先に水路の壁へ左手をついた。
転びはしなかった。
代わりに、頭から足まで泥水をかぶった。
赤い上着も黒いズボンも、水を吸って身体へ張りついている。
太い枝は下流へ流れかけ、水路番の女が熊手で止めた。
浮いた分岐板を、シャンプーともう一人が押さえる。
「板を戻す!」
シャンプーが叫ぶ。
「分かってる!」
乱馬は泥水の中から起き上がった。
女姿の小さな身体で板の端へ肩を当てようとする。
「右肩を使うな!」
「じゃあ、どこ持つんだよ!」
「下の石を押さえろ!」
乱馬は言われた場所へ足を入れた。
浮き上がった石を左手と膝で固定する。
シャンプーたちが分岐板を元の溝へ差し込む。
水路番が木槌を振り下ろした。
一度。
二度。
三度。
板が固定される。
暴れていた水が、ようやく落ち着いた。
その場に残ったのは、濁った水と、泥まみれの乱馬だった。
「最悪だ……」
乱馬は額から垂れる泥水を拭った。
「だから待てと言った」
シャンプーが答える。
「今それ言うか?」
「いま言わなければ、また抜く」
「もう抜く枝ねえだろ」
「別の仕事でも同じことをする」
「しねえよ!」
乱馬は言い返した。
その直後、身体が小さく震える。
早朝の山水は冷たい。
濡れた服へ風が当たり、身体から熱を奪っていた。
シャンプーが乱馬を見る。
「着替える」
「湯をかぶれば戻る」
「服は濡れたままだ」
「火の近くで乾かせばいい」
「その間、水路の仕事は終わらない」
「ほかの奴らで──」
乱馬は途中で口を閉じた。
昨日、自分で言ったことを思い出したらしい。
意味が分かれば従う。
仕事へ加わると決めた。
そして、詰まりを崩したのは自分だった。
「……着替え、あるのか」
「ある」
「誰のだ」
「私のだ」
乱馬の顔が引きつった。
「女物じゃねえか」
「いまのおまえには合う」
「中身は男だ!」
「濡れたままよりよい」
「ほかの服は?」
「水路番の服は、おまえには大きい」
「子どものは?」
「借りるのか」
「借りねえよ!」
シャンプーは水路の近くにある小さな作業小屋を示した。
「そこへ置いてある」
「最初から俺が濡れると思ってたのか」
「水路へ入る仕事では着替えを用意する」
「俺だけじゃなく?」
「全員だ」
水路番の女の一人も、自分の荷物を軽く持ち上げた。
「水路の仕事で濡れない方が珍しいよ」
「先に言えよ」
「言えば、来なかったのか」
「……来たよ」
「なら同じだ」
「同じじゃねえ!」
乱馬は濡れた服を身体から離しながら、作業小屋へ向かった。
作業小屋の中には、道具棚と小さな腰掛けしかなかった。
着替え用に、壁へ一枚の布が張られている。
シャンプーは布の向こうへ、畳んだ衣服を置いた。
淡い青色の上着。
濃紺のズボン。
派手な飾りはない。
村の畑仕事や水路作業に使う、丈夫な服だった。
「これ、おまえのか」
布の向こうから乱馬の声がする。
「そうだ」
「何で持ってきた」
「昨日、ひいばあちゃんに言われた」
「ばあさん、俺がこうなるって分かってたな」
「水路へ入れば濡れる可能性がある」
「絶対、面白がってただろ」
「それもある」
「否定しろよ!」
濡れた服を脱ぐ音がする。
しばらくして、乱馬がまた声を上げた。
「この上着、前はどっちだ」
「襟の重なる方が右だ」
「右?」
「おまえから見て左を上にする」
「分かりづらい!」
「見れば分かる」
「俺は初めて着るんだよ!」
シャンプーは作業小屋の外に立っていた。
水路番の女たちは、乱馬が抜いた枝と泥を片づけている。
「腰の紐は?」
乱馬が尋ねる。
「内側を先に結ぶ」
「どれが内側だ」
「短い方だ」
「両方同じくらいだぞ!」
「片方が少し短い」
「少しすぎる!」
シャンプーは小さく息を吐いた。
「入るぞ」
「待て!」
布の向こうで慌ただしい音がした。
しばらくして、
「……いいぞ」
と返事が来る。
シャンプーが布をめくる。
乱馬は青い上着と濃紺のズボンを身につけていた。
上着の前は留まっている。
だが、内側の紐を結ばず、外側だけを強く締めていた。
背中側の留め具も外れたままだ。
「違う」
「どこがだよ」
「内側を結んでいない」
「外が締まってりゃ同じだろ」
「動けばずれる」
「じゃあ、どこだ」
シャンプーは上着の端を指した。
「ここ」
乱馬が内側を探す。
だが、濡れた髪が襟へ入り込み、布が引っかかっている。
「先に髪を出せ」
「分かってる」
乱馬は赤い三つ編みを引き出そうとした。
髪を結んでいた紐まで濡れ、ほどけかけている。
「その紐は使えない」
「乾けば使える」
「いまは使えない」
シャンプーは持ってきた荷物から、細い布紐を一本取り出した。
「使え」
「これもおまえのか」
「仕事用の予備だ」
乱馬は受け取った。
自分で濡れた髪を絞り、三つに分ける。
乱雑ではあるが、手慣れた動きで編み直した。
シャンプーは手を出さずに待つ。
「一人でできる」
乱馬が言った。
「見ている」
「見なくていい」
「背中の留め具が外れている」
乱馬が手を後ろへ回した。
指先は届く。
だが位置が分からない。
「これか?」
「違う」
「じゃあ、どれだよ」
「下だ」
「見えねえんだよ!」
乱馬はしばらく背中へ手を回していたが、やがて諦めた。
「……そこだけやれ」
「分かった」
シャンプーは乱馬の後ろへ回った。
上着の背中を寄せ、留め具を一つ掛ける。
それだけで手を離した。
「終わった」
「これだけなら、前につけとけよ」
「背中が開けば動きやすい」
「なら開いたままでもいいだろ」
「水路の石へ引っかかる」
「面倒な服だな」
「着方を知れば面倒ではない」
乱馬は腕を回した。
脚を上げる。
腰をひねる。
青い上着は少し丈が長い。
だが、女姿の乱馬が動くには問題なかった。
「思ったより動けるな」
「仕事着だからな」
「襟の形だけ変えれば、男でも着られそうだ」
「男の身体では肩が入らない」
「今は入ってる」
「今は女だ」
「中身は男だって言ってんだろ」
「服は中身を見ない」
乱馬は言葉に詰まった。
「変な理屈だな」
「身体へ合うかどうかだ」
「似合うかじゃなく?」
「仕事着に必要なのは、動けることだ」
乱馬は少しだけ安心したように袖を引いた。
そのとき、作業小屋の外から水路番の女が声をかけた。
「着替えは終わったかい?」
「いま行く!」
乱馬は濡れた赤い服を抱えようとする。
「それは置け」
シャンプーが止めた。
「何で」
「濡れた服を持って水路へ入るのか」
「誰かに取られたら困る」
「誰も取らない」
「親父なら取る」
「ここにはいない」
「どこから出てくるか分かんねえぞ」
「作業小屋の棚へ置く。戸も閉める」
乱馬は少し迷ったあと、濡れた服を籠へ入れた。
「あとで自分で洗う」
「分かった」
「勝手に洗うなよ」
「なぜだ」
「俺の服だからだ」
「なら、自分で洗え」
「最初からそう言ってる!」
乱馬は青い仕事着の裾を整え、作業小屋から出た。
水路番の女たちが乱馬を見る。
一人が少し笑った。
「よく合っているね」
「合わなくていい!」
「大きさの話だよ」
「本当か?」
「色も悪くない」
「やっぱり見た目の話じゃねえか!」
乱馬の顔が赤くなる。
シャンプーは作業小屋の戸を閉めた。
「動ければよい」
「おまえは何とも思わねえのか」
「私の仕事着だ」
「だから聞いてんだよ」
「大きさは合っている」
「それだけか?」
「ほかに何がある」
「……もういい」
乱馬は水路へ戻った。
先ほどとは違い、今度は太い枝へすぐ手を出さない。
詰まりの外側へ残った枯れ草を、左手で一つずつ抜く。
水路番が泥をすくう。
シャンプーが上から枝を受け取る。
「次は?」
乱馬が尋ねる。
「奥の草を先に切る」
「太い枝の下にあるやつか」
「そうだ」
「それを取れば、水が脇へ抜ける」
「分かっているではないか」
「一回泥水かぶったからな」
乱馬は鉈を受け取る。
狭い石の間へ身体を入れ、絡まった草の根元を切った。
女姿でなければ、肩がつかえて奥まで入れなかっただろう。
「もう少し右だ」
シャンプーが上から言う。
「見えてんのか?」
「水の動きが変わった」
乱馬も足元を見る。
切った場所から、細い泡が流れている。
「ここか」
泥へ手を入れる。
指先へ、硬いものが触れた。
「石がある」
「大きいか」
「手のひらより少し大きい」
「持ち上げるな。手前へ転がせ」
「右肩を使うから?」
「泥の中では、重さが分からない」
「分かったよ」
乱馬は石の下へ左手を入れた。
持ち上げず、少しずつ回す。
石が泥から外れる。
その瞬間、水が強く流れ始めた。
「抜けるぞ!」
水路番が下流へ合図する。
乱馬は石を身体の横へ避けた。
シャンプーが上から腕を伸ばす。
「渡せ」
「重いぞ」
「二人で持つ」
乱馬が左手で石を押し上げる。
シャンプーが両手で受け取る。
片方だけで持ち上げようとはしない。
水路番も加わり、石を岸へ下ろした。
石が外れた穴から、水が勢いよく抜ける。
残っていた泥と細い枝が流れた。
「板を開けるよ!」
上流から声が聞こえる。
少しずつ、水路へ水が戻ってくる。
乱馬たちはいったん外へ出た。
水位が上がる。
昨日よりも強い流れが、西側の家々へ向かって進んでいった。
水路番が石の縁に残った古い跡と比べる。
「戻ったね」
「果樹畑の方も見る」
シャンプーが言った。
一人が下流へ走る。
しばらくして、遠くから声が返ってきた。
「流れている! いつもの量だ!」
水路番たちの表情が緩んだ。
乱馬は青い袖へついた泥を見下ろす。
「終わりか?」
「道具を片づける」
シャンプーが答える。
「それがあったな」
「覚えたのか」
「朝市で散々やっただろ」
乱馬は自分から鉈を拾った。
刃へついた泥を水で落とし、柄の方を持って水路番へ渡す。
「刃を相手へ向けない」
シャンプーが言う。
「旅でもそれくらい知ってる」
「ならよい」
「いちいち確認すんな」
「昨日、太い枝を勝手に抜いた」
「今日だ!」
「どちらでも同じだ」
「違う!」
流れの戻った水路へ、乱馬の声が響いた。
作業が終わったころには、朝日が村の屋根まで届いていた。
乱馬は作業小屋から濡れた服を取り出した。
赤い上着も、黒いズボンも、泥水をたっぷり吸っている。
「このまま離れへ持って帰るのか」
シャンプーが尋ねる。
「洗ってからだ」
「洗い場はこっちだ」
水路の下流に、道具や仕事着を洗うための浅い場所がある。
飲み水へ使う場所とは分けられていた。
乱馬は赤い上着を水へ入れた。
泥が広がる。
「強くこするな」
「俺の服だぞ」
「泥を布の中へ押し込む」
「じゃあどうすんだ」
「先に水を替えながら、押し出す」
シャンプーは自分の服ではなく、近くにあった古い布を使って手本を見せた。
水へ沈める。
持ち上げる。
泥水を絞らず、自然に落とす。
「何回もやるのか」
「水が濁らなくなるまでだ」
「時間かかるな」
「太い枝を抜かなければ、ここまで汚れなかった」
「また言うか」
「忘れないためだ」
乱馬は言われたとおり、赤い上着を水へ沈めた。
持ち上げる。
泥水を落とす。
もう一度沈める。
「これでいいか」
「まだ濁っている」
「細けえな」
「泥を残したまま乾かせば、布の中へ固まる」
「……それなら分かる」
「理由を言えば聞くのだろう」
「聞くけど、先に言え!」
乱馬は文句を言いながらも、洗い方は変えなかった。
やがて水の濁りが薄くなる。
上着とズボンを軽く押して水を切り、持ってきた籠へ入れた。
「宗家で干す」
「湯は?」
「作業小屋にある」
「やっと男へ戻れるな」
乱馬は立ち上がった。
だが、自分が着ている青い仕事着を見る。
「戻ったら、これ入らねえんだよな」
「肩がきつい」
「俺の服は濡れてる」
「乾くまで女でいろ」
「簡単に言うな!」
「男へ戻って、服が破れてもよいのか」
「よくねえ」
「なら同じだ」
「同じじゃねえけど……」
乱馬はしばらく湯の壺を見た。
やがて、諦めたように息を吐く。
「離れへ戻ってから考える」
「湯は宗家へ持ち帰る」
「勝手に使うなよ」
「おまえのために用意した」
「なら俺のだろ」
「壺は村のものだ」
「中の湯は?」
「村が沸かした」
「何でも村のものだな」
「使うのはおまえだ」
「ややこしい!」
二人は道具と濡れた服を持ち、宗家へ戻ることになった。
村の道へ入ると、朝の仕事へ出る者たちとすれ違った。
女姿の乱馬。
淡い青色の仕事着。
濃紺のズボン。
普段の赤い服ではないため、すぐに視線が集まる。
「あら、乱馬」
井戸へ向かっていた女が足を止めた。
「シャンプーの服?」
「借りただけだ」
「大きさが合うのね」
「仕事するためだからな」
「色もよく似合っているよ」
「似合わなくていい!」
別の女が乱馬の髪を見る。
「髪の紐もシャンプーの?」
「これは予備を借りただけだ!」
「何でも借りているね」
「濡れたんだから仕方ねえだろ!」
女たちは笑いながら通り過ぎた。
乱馬は顔を赤くし、歩く速度を上げる。
「走るな」
シャンプーが言った。
「走ってねえ」
「速くなった」
「誰のせいだと思ってんだ」
「太い枝を抜いたおまえだ」
「服を貸したのはおまえだろ!」
「濡れたままよりよい」
「だからって、何で皆に似合うって言われなきゃならねえんだよ」
「見た者がそう思ったからだろう」
「おまえは?」
乱馬が尋ねた。
「何が」
「似合ってると思うのか」
シャンプーは乱馬の仕事着を見る。
丈。
袖。
腰の紐。
水路の中で動いたときにも、邪魔にはなっていなかった。
「大きさは合っている」
「それだけかよ」
「仕事には使えた」
「……もういい」
乱馬は不満そうに前を向いた。
「女物を着て喜ぶ男がいるかよ」
「いまは女だ」
「中身は男だって言ってんだろ」
「分かっている」
シャンプーはすぐに答えた。
乱馬の足が、わずかに遅くなる。
「本当に?」
「おまえは朝から乱馬だった」
「女になっても?」
「水路へ入ったのも、枝を勝手に抜いたのも、理由を聞けば手順を守ったのも、おまえだ」
「最後だけ褒めてるように聞こえねえな」
「事実を言った」
「死の接吻をした相手でもあるぞ」
シャンプーの歩みが少しだけ止まりかける。
女姿の乱馬。
最初に自分を倒した相手。
掟の上では、追って殺さなければならない女。
同時に。
男姿で自分を倒し、求婚の接吻を受けた相手。
今朝、自分たちと水路を直した相手。
「それも、まだ消えていない」
シャンプーは答えた。
「でも?」
「今日は、水路で濡れたおまえへ仕事着を貸した」
「女の俺へ、じゃなく?」
「濡れた乱馬へだ」
乱馬は少し黙った。
「少しは分かってきたじゃねえか」
「全部分かったとは言っていない」
「だったら早く慣れろ」
「命令するな」
「頼んでんだよ」
「それなら考える」
「すぐ決めろよ」
「昨日、おまえは自分で決める時間が必要だと言った」
「俺の話を俺に使うな!」
シャンプーはわずかに口元を緩めた。
乱馬はそれに気づいたが、何も言わなかった。
宗家へ戻ると、コロンが中庭にいた。
水路番から先に報告を受けていたらしい。
「流れは戻ったそうだね」
「詰まりの奥に石があった」
シャンプーが答える。
「枝と草が絡み、その後ろへ泥がたまっていました」
「乱馬は役に立ったかい」
「狭い場所へ入り、石を外した」
「その前に太い枝を抜いて、泥水かぶったけどな」
乱馬が自分から付け加えた。
「隠さないのかい」
「こいつが絶対言うだろ」
「言う」
シャンプーが即答する。
「ほらな」
コロンは青い仕事着姿の乱馬を見る。
「それで、シャンプーの服を借りたのかい」
「ほかに合う服がなかったんだよ」
「女姿の乱馬へ、自分の服を貸したのかい」
コロンは今度はシャンプーを見る。
シャンプーは一度、乱馬へ目を向けた。
「水路で濡れた乱馬へ、仕事着を貸しました」
「ほう」
「何だよ」
乱馬が尋ねる。
「少し言い方が変わったと思ってね」
「何がですか」
「以前なら、死の接吻を与えた女と言っただろう」
シャンプーは答えなかった。
その言葉が間違いになったわけではない。
掟も。
接吻も。
長老たちの裁定も。
何一つ終わっていない。
けれど、今朝の仕事で濡れた乱馬を見たとき。
シャンプーが最初に考えたのは、死の接吻ではなかった。
このままでは身体が冷える。
仕事が続けられない。
着替えが必要だ。
それだけだった。
「服、干してくる」
乱馬が濡れた赤い服の入った籠を持ち上げる。
「右肩を使うな」
「左で持ってるだろ」
「高い場所へ掛けるときは呼べ」
「このくらい一人でできる」
「右肩を上げる」
「じゃあ低いところへ干す!」
乱馬は中庭の洗い場へ向かう。
数歩進み、振り返った。
「シャンプー」
「何だ」
乱馬は自分が着ている青い仕事着の袖をつまむ。
「助かった。ありがとな」
「仕事のためだ」
「それでもだ」
乱馬はそれ以上待たず、洗い場へ向かった。
シャンプーは、青い仕事着で歩く後ろ姿を見る。
男姿の乱馬とは、背の高さも。
肩幅も。
歩幅も違う。
だが、文句を言いながら仕事をするところは同じだった。
理由を尋ねるところも。
納得すれば手順を守るところも。
失敗を隠さないところも。
濡れた服を自分で洗うと言うところも。
青い服を着たから、別の人間になったわけではない。
女の姿になったから、今朝までいた乱馬が消えたわけでもない。
だが、その一人を、女と男で別々に扱う掟の中でどう受け止めればよいのか、シャンプーにはまだ分からなかった。
自分の中でも、答えはまだ形になっていない。
ただ今日。
シャンプーが服を貸した相手は、死の接吻を与えた女だけではなかった。
水路で一緒に働き。
勝手に枝を抜いて失敗し。
それでも最後まで詰まりを取り除いた乱馬だった。