シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF―   作:エーアイ

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第14話 乱馬は、借りた仕事着を洗って返す

 水路の仕事を終えて宗家へ戻った乱馬は、まだ女の姿だった。

 身につけているのは、シャンプーから借りた淡い青色の仕事着と、濃紺のズボン。

 赤い上着と黒いズボンは、水路の泥を落としたあとで籠へ入れてある。泥水はかなり抜けたが、布はまだ重く湿っていた。

 中庭には、朝のうちに用意された湯の壺が置かれていた。

 水路へ入った乱馬を男へ戻すためのものだ。

 

「湯はあるのに戻れねえのかよ」

 

 乱馬は壺の蓋を開けた。

 白い湯気が上がる。

 指を入れると、まだ十分に熱い。

 

「戻っても着る服がない」

 

 シャンプーが答えた。

 

「俺の服があるだろ」

 

「濡れている」

 

「着てりゃ乾く」

 

「いま着れば、身体が冷える」

 

「じゃあ、このまま男へ戻って、こっちを着てりゃいい」

 

 乱馬は借りた青い上着の袖をつまんだ。

 

「男へ戻れば、その服は着られない」

 

「少しくらい平気だろ」

 

「肩が入らない。胸と背中も引かれる」

 

「伸ばせば──」

 

「破れる」

 

 シャンプーは即座に言った。

 乱馬は口を閉じ、自分の身体を見る。

 女姿のいまでも、青い仕事着は少し丈が長い程度だった。

 だが、男姿へ戻れば肩幅が広がる。

 胸や背中も厚くなる。

 このまま湯をかぶれば、布が裂けるか、留め具が飛ぶかもしれない。

 

「先に脱げばいいだろ」

 

「そのあと、何を着る」

 

「……濡れた俺の服」

 

「同じだ」

 

「布でも巻いときゃいい」

 

「その姿で朝食を食べるのか」

 

「食えりゃ何でもいいだろ」

 

「よくない」

 

「何でだよ」

 

「食事を運ぶ者が困る」

 

「困るのは俺じゃねえのかよ!」

 

 乱馬の声が中庭へ響いた。

 シャンプーは乱馬が持っていた籠を受け取り、物干しの方へ向かう。

 

「自分の服が乾くまで待て」

 

「身体は戻せても、服までは戻らねえってか」

 

「服に呪いはない」

 

「便利なんだか不便なんだか分かんねえな、この身体」

 

 乱馬は不満そうに湯の壺へ蓋を戻した。

 湯を使えば男へ戻れる。

 だが、元の姿へ戻るだけでは、濡れた服も、泥のついた道具も、終わっていない仕事も消えない。

 旅の途中では、変身すること自体に腹を立てることが多かった。

 今日は、それよりも変身したあとに着るものがないことの方が問題だった。

 

「これ、どこへ干す」

 

 シャンプーが赤い上着を持ち上げる。

 

「日が当たるところ」

 

「当たり前だ」

 

「だったら聞くなよ」

 

「物干しのどこかを聞いた」

 

「端でいいだろ。ほかの服と離せ」

 

「なぜ」

 

「泥が残ってるかもしれねえ」

 

「分かっているではないか」

 

「俺の服だからな」

 

 二人は赤い上着と黒いズボンを広げた。

 水が落ちやすいように皺を伸ばし、物干しへ掛ける。

 袖口や裾から、まだ小さな水滴が落ちた。

 

「これで昼には乾くか?」

 

「風があればな」

 

「風、吹け」

 

「私に言うな」

 

「おまえの村だろ」

 

「風は村のものではない」

 

「昨日、何でも村のものみたいに言ってただろ」

 

「壺と湯の話だ」

 

「細けえな」

 

「おまえが聞いた」

 

 シャンプーは濡れた服の下へ空の桶を置いた。

 

「先に手を洗う」

 

「水路でずっと水に入ってたぞ」

 

「泥を触った」

 

「また洗うのかよ」

 

「食事をする」

 

 乱馬は自分の手を見る。

 爪の隙間に、まだ薄く泥が残っていた。

 

「……石鹸は?」

 

「水甕の横だ」

 

「言われる前に聞いたぞ」

 

「少しは覚えたな」

 

「馬鹿にすんな」

 

 乱馬は文句を言いながら、水甕へ向かった。

 


 

 朝食は、いつもの宗家の長い卓で始まっていた。

 大朝市の日とは違い、料理は順番よく並んでいる。

 

 粥。

 蒸した饅頭。

 焼いた肉。

 青菜の漬物。

 温かい汁物。

 

 水路の仕事へ出た者たちの分は、少し多めに残されていた。

 

「乱馬、こっちへ座って」

 

 リンファが椀を置く。

 女姿の乱馬を見ても、呼び方は変わらなかった。

 

 女乱馬とも。

 男乱馬とも。

 死の接吻を与えられた相手とも。

 求婚の接吻を受けた相手とも呼ばない。

 ただ、乱馬だった。

 乱馬は空いていた席へ座る。

 

 目の前へ置かれた粥の量を見て、眉を上げた。

 

「この身体でも同じ量かよ」

 

「足りない?」

 

 リンファが尋ねる。

 

「そうじゃねえ。男のときと同じだろ、これ」

 

「水路で働いた量は変わらないでしょう」

 

「身体は小さくなってるぞ」

 

「お腹も小さくなったの?」

 

「たぶん同じくらい減ってる」

 

「なら、食べられるわね」

 

 リンファは饅頭を三つ置いた。

 肉も男姿のときと同じ量だった。

 乱馬は饅頭を一つ持ち上げる。

 

「村じゃ、姿が変わっても飯は減らねえのか」

 

「姿が変われば、朝の仕事がなくなるのかい」

 

 卓の端で茶を飲んでいたコロンが尋ねた。

 

「なくならねえけど」

 

「水路へ入ったのも、石を外したのも、お前だろう」

 

「まあな」

 

「なら、働いた者へ出す食事も同じだよ」

 

「女になった分、半分にされなくてよかったぜ」

 

「半分にしたら、厨房へ入り込んで残りを探すだろう?」

 

「しねえよ」

 

「玄馬ならするね」

 

 コロンの視線が、卓の反対側へ向く。

 玄馬はすでに二つ目の饅頭を食べ終え、三つ目へ手を伸ばしていた。

 

「親父、今日も食ってるだけじゃねえだろうな」

 

「失礼な。わしも朝から働いておった」

 

「水路にはいなかったぞ」

 

「家畜小屋の掃除と、朝市で使った荷車の片づけを任されてな」

 

「饅頭三つ盗み食いした分か?」

 

「盗んではおらん。報酬から正式に代金を支払った」

 

「勝手に引かれたんだろ」

 

「結果として支払ったことに変わりはない」

 

 玄馬は乱馬を見る。

 青い仕事着。

 濃紺のズボン。

 整え直した赤い三つ編み。

 玄馬の口元が緩んだ。

 

「なかなか似合っているぞ、乱馬」

 

 次の瞬間。

 乱馬の足が卓の下から伸びた。

 

「誰が似合うと言えっつった!」

 

 蹴られた玄馬が椅子ごと後ろへ倒れる。

 饅頭は手から離れ、宙を飛んだ。

 コロンの杖がそれを受け止める。

 

「食べ物を粗末にするんじゃないよ」

 

「蹴った乱馬へ言え!」

 

「からかったお前が悪い」

 

「家族として感想を述べただけだ!」

 

「その家族の服じゃねえ!」

 

 乱馬は顔を赤くして席へ座り直した。

 周囲の者は少し笑ったが、それ以上、仕事着については何も言わなかった。

 リンファは倒れた椅子を起こす。

 

「乱馬、肉も食べて」

 

「ああ」

 

 乱馬は返事をし、箸を伸ばした。

 女姿だから少なくする者はいない。

 逆に、珍しいから特別扱いする者もいない。

 水路で働いて帰ってきた乱馬へ、働いた分だけ腹を満たす食事が出されていた。

 

 乱馬自身は、そのことを深く考えなかった。

 

 ただ粥をすすり、饅頭を食べ、肉を取り。

 男姿のときと変わらない速さで、朝食を平らげた。

 


 

 食後。

 

 乱馬は物干しの前へ立っていた。

 赤い上着の袖をつまむ。

 まだ冷たい。

 

「乾いてねえ」

 

「干してから、あまり時間がたっていない」

 

 後ろからシャンプーが答える。

 

「もう少し日が当たるところへ移す」

 

「そこが一番当たる」

 

「じゃあ裏返す」

 

「まだ早い」

 

「内側まで乾かすんだろ」

 

「表の水が落ちてからだ。何度見ても、早くは乾かない」

 

 シャンプーが言った。

 

「分かってるよ」

 

「さっきから四回見た」

 

「乾いたところだけ先に着るわけにいかねえだろ」

 

「上着だけ乾けば、下は濡れたままでよいのか」

 

「よくねえから両方見てんだよ」

 

 乱馬は黒いズボンの裾を触る。

 こちらもまだ湿っていた。

 物干しから離れ、三歩進む。

 すぐに振り返る。

 

「見ても変わらない」

 

「分かってるっつってんだろ」

 

 乱馬は中庭の壁へ背を預けた。

 

 何もしなくてよい。

 昨日も同じことを言われた。

 だが昨日は、村の中を見て回ることができた。

 今日は事情が違う。

 

 女姿。

 借り物の服。

 右肩も休めろと言われている。

 自分の服が乾くまで男へ戻ることもできない。

 

「修練してくる」

 

「右肩を使うな」

 

「足だけだ」

 

「汗をかけば、その仕事着も濡れる」

 

「なら歩いてくる」

 

「村を一周したら汗をかく」

 

「ゆっくり歩く」

 

「女姿を見た者から、また服が似合うと言われる」

 

 乱馬の足が止まった。

 

「……ここにいる」

 

「そうしろ」

 

 シャンプーは軒下へ腰を下ろした。

 朝市で使った木札と、水路番から受け取った作業道具の札を分け始める。

 乱馬は再び壁へ寄りかかる。

 

「おまえ、まだ仕事すんのか」

 

「確認だけだ」

 

「それも仕事だろ」

 

「水路で使った道具を返す」

 

「俺が使った鉈も?」

 

「刃に欠けがないか見る」

 

「泥は落としたぞ」

 

「泥が落ちても、欠けは残る」

 

「面倒だな」

 

「欠けた鉈を次の者へ渡す方が面倒だ」

 

「理由を言うの、少し早くなったな」

 

 シャンプーの手が止まる。

 

「おまえが言えと言った」

 

「本当に言うとは思わなかった」

 

「聞くのだろう」

 

「意味が分かればな」

 

「なら聞け」

 

「命令すんな」

 

「では頼む」

 

「素直すぎると調子狂うな」

 

 乱馬は視線をそらした。

 その拍子に、青い仕事着の袖口が目へ入る。

 薄い泥の跡が残っていた。

 

 裾にも。

 膝にも。

 水路で作業をしたときについたものだ。

 

「これも洗わねえとな」

 

 乱馬が言った。

 

「仕事着だから、その程度はよい」

 

 シャンプーは木札を重ねたまま答える。

 

「よくねえよ」

 

「水路へ入れば汚れる」

 

「借りたときより汚して返すのは嫌だ」

 

「洗えばよい」

 

「だから俺が洗う」

 

「女姿のままでは洗えない」

 

「何でだよ」

 

「着ている」

 

 乱馬は自分の身体を見る。

 

「……そりゃそうか」

 

「先に自分の服を乾かせ」

 

「早く乾け」

 

「服に言っても変わらない」

 

「分かってる!」

 

 乱馬はまた物干しへ向かった。

 五度目だった。

 


 

 昼が近づくころ、赤い上着の表面はかなり乾いていた。

 乱馬は物干しから外し、裏返す。

 

「もういいだろ」

 

 襟へ指を入れる。

 外側は乾いている。

 だが、縫い目にはまだ湿り気が残っていた。

 

「着てりゃ乾く」

 

「まだ少し湿っている」

 

 シャンプーが隣から襟へ触れる。

 

「このくらい平気だ」

 

「身体へ張りつく」

 

「朝から泥水かぶったんだぞ。これくらい何でもねえ」

 

「風邪をひけば、また仕事が増える」

 

「誰の」

 

「看病する者。薬を作る者。おまえの代わりに働く者」

 

「前にも聞いた」

 

「なら覚えているだろう」

 

「でも、これ以上待ってられねえ」

 

 乱馬は黒いズボンも確かめる。

 腰の縫い目が少し冷たい。

 それでも、着られないほどではない。

 

「本当に着るのか」

 

「着る」

 

「そのあと寒いと言っても知らない」

 

「言わねえよ」

 

「くしゃみをしても?」

 

「しねえ」

 

「昨日も同じことを言った」

 

「あれは泥のせいだ!」

 

 乱馬は赤い上着と黒いズボンを抱えた。

 中庭の隅には、着替えに使う小さな部屋がある。

 衝立の内側へ、朝から保温していた湯の壺を運ぶ。

 

「外にいろよ」

 

 乱馬が言う。

 

「入らない」

 

「絶対だぞ!」

 

「服の着方を間違えても入らない」

 

「俺の服だぞ!」

 

 乱馬は部屋へ入り、戸を閉めた。

 内側で衣擦れの音がする。

 まず、青い上着と濃紺のズボンを脱ぐ。

 借りた仕事着を、濡れた床へ置かないよう籠へ入れる。

 次に湯の壺の蓋を開けた。

 

「熱っ!」

 

 戸の外へ乱馬の声が漏れた。

 

「冷めていないのか」

 

 シャンプーが尋ねる。

 

「十分熱い!」

 

「ならよい」

 

「少しくらい冷ましておけ!」

 

「男へ戻れないよりよい」

 

 湯をかぶる音がした。

 白い湯気が戸の隙間から漏れる。

 女姿だった身体が伸び、男姿へ戻る。

 

 乱馬は少し湿った黒いズボンをはき、赤い上着へ腕を通した。

 襟と袖口はまだ冷たい。

 だが、自分の服だった。

 

 しばらくして戸が開く。

 男姿へ戻った乱馬が出てきた。

 

「やっと戻った」

 

 両腕を上げようとして、右肩の途中で止める。

 シャンプーがすぐに見る。

 

「肩はきつくないのか」

 

「男に戻ったら少しましになった気がする」

 

「気がするだけだ」

 

「分かってるよ」

 

「なら上げるな」

 

「服が引っかかってねえか確かめただけだ」

 

「左だけでよい」

 

「動きづらいんだよ」

 

「治るまで我慢しろ」

 

「細けえな」

 

「理由を言えば聞くのだろう」

 

「……聞くけどよ」

 

 乱馬は赤い袖を引いた。

 まだ少し湿っている。

 それでも、男姿へ戻り、自分の服を着たことで落ち着いたらしい。

 次に、籠へ入れた青い仕事着を見る。

 

「洗い場、どこだ」

 

「中庭の裏だ」

 

「行くぞ」

 

「私も?」

 

「洗い方、違うんだろ」

 

「見れば分かるのではなかったか」

 

「この村の服、面倒なんだよ!」

 

 乱馬は籠を左手で持ち、洗い場へ向かった。

 


 

 洗い場には、浅い水槽がいくつか並んでいた。

 食器を洗う場所。

 野菜の泥を落とす場所。

 仕事着や布を洗う場所。

 それぞれ使う水が分けられている。

 

「こっちだ」

 

 シャンプーは一番下流の水槽を示した。

 

「飲み水には使わない?」

 

「上から流れてきた最後の水だ」

 

「泥の服を洗うからか」

 

「そうだ」

 

 乱馬は青い上着を水へ沈めた。

 袖口の泥が、水へ薄く広がる。

 すぐに布を両手でつかみ、強くこすろうとする。

 

「強くこするな」

 

 シャンプーが止めた。

 

「泥くらい、こすらなきゃ落ちねえだろ」

 

「布の中へ入る」

 

「表についてんだから、表から落とすんだろ」

 

「先に水の中で押し出す」

 

「また細けえな」

 

「理由を言えば聞くのだろう」

 

「……聞くけどよ」

 

 乱馬は上着を水へ戻した。

 

「どうすんだ」

 

「沈める。持ち上げる。水を落とす」

 

「絞らねえのか」

 

「最初は絞らない」

 

「何回やる」

 

「水が濁らなくなるまでだ」

 

「時間かかるな」

 

「おまえが泥をつけた」

 

「水路の仕事をしたんだから仕方ねえだろ」

 

「仕事着だから、泥くらいつく」

 

「つく。だが、借りたまま返す気か」

 

 シャンプーが乱馬を見る。

 乱馬も見返した。

 

「だから洗うって言ってんだよ」

 

 乱馬は上着を沈める。

 持ち上げる。

 泥を含んだ水が落ちるのを待つ。

 もう一度沈める。

 言われた手順を、そのまま繰り返した。

 最初は茶色く濁っていた水が、少しずつ薄くなる。

 

「裾は?」

 

 乱馬が尋ねる。

 

「泥が残っていれば、布を当てて軽く叩く」

 

「こするんじゃなく?」

 

「叩けば、泥が下の布へ移る」

 

「面倒だけど、理屈は分かる」

 

「ならやれ」

 

「すぐ命令に戻るな!」

 

 乱馬は古い布を下へ敷いた。

 上着の裾を載せ、別の濡らした布で軽く叩く。

 泥の跡が、下の布へ移っていく。

 

「本当に落ちるな」

 

「だから言った」

 

「最初から全部説明しろ」

 

「説明している」

 

「やる前にだよ」

 

「おまえが先にこすった」

 

「見てから言うな!」

 

 乱馬は声を上げたが、手は止めなかった。

 

 上着。

 ズボン。

 髪を結ぶために借りた細い布紐。

 水路で借りたものを、一つずつ洗う。

 

 女姿の乱馬へ貸した服を、男姿へ戻った乱馬が洗っている。

 身体の大きさも。

 声の高さも。

 手の形も変わっている。

 それでも、借りた本人が返すために洗っていることを、シャンプーは不自然には感じなかった。

 

 女姿の乱馬が着て。

 男姿の乱馬が洗う。

 その間に、別の誰かへ入れ替わったわけではない。

 朝から続いている一人分の行動だった。

 

「これでいいか」

 

 乱馬が青い上着を持ち上げる。

 泥の跡は消えている。

 

「袖の裏を見る」

 

「まだあんのかよ」

 

 乱馬は裏返す。

 袖口の内側に、細い泥の線が残っていた。

 

「本当だ」

 

「もう一度洗う」

 

「分かってるよ」

 

 乱馬は自分から水へ戻した。

 


 

 洗い終えた仕事着を物干しへ掛けると、すでに日は高くなっていた。

 風が少し出ている。

 薄い青色の布が、風に揺れた。

 

「乾くまで、また待つのか」

 

 乱馬が尋ねる。

 

「返すならな」

 

「濡れたまま返しても、棚には入れられねえか」

 

「入れれば、ほかの服まで湿る」

 

「分かってるよ」

 

 乱馬は物干しの近くへ座った。

 壁へ背を預け、左膝を立てる。

 シャンプーは少し離れた軒下で、水路の道具を確認していた。

 

 鉈。

 熊手。

 泥をすくう籠。

 木槌。

 使った数と戻った数を、木札へ印をつける。

 

 二人は同じ中庭にいる。

 だが、話し続けることはなかった。

 乱馬は乾いていく青い仕事着を見る。

 

 シャンプーは道具を見る。

 中庭を村人が通るたび、短く挨拶だけを交わす。

 しばらくすると、乱馬の目が細くなった。

 

「眠いのか」

 

 シャンプーが尋ねる。

 

「眠くねえ」

 

「目が閉じている」

 

「少し休めてるだけだ」

 

「寝るなら離れへ行け」

 

「服が乾くまでいる」

 

「私が見ている」

 

「俺が返すんだろ」

 

「乾いたら呼ぶ」

 

「それじゃ借りた服を、おまえに片づけさせることになる」

 

「棚へ戻すのは私だ」

 

「返すところまでは俺だ」

 

 シャンプーは乱馬を見る。

 

「違うのか」

 

「違う」

 

「何が」

 

「俺には違う」

 

 大朝市の日に、乱馬は似たようなことを言っていた。

 

 裁定が出ていないから村を出なかったことと。

 自分で今日は出ないと決めたことは違う。

 結果だけを見れば同じでも、乱馬にとっては、自分がどう決めたかが重要だった。

 

「なら、そこで待て」

 

「最初からそうしてる」

 

「寝ても知らない」

 

「寝ねえよ」

 

 乱馬は答えた。

 その直後、頭が少し傾いた。

 壁へ後頭部が当たる。

 

「寝ている」

 

「寝てねえ」

 

「返事が遅い」

 

「考えてた」

 

「何を」

 

「明日のこと」

 

 乱馬は薄く目を開ける。

 

「明日は何するんだ」

 

「まだ決まっていない」

 

「また夜明け前に起こすなよ」

 

「仕事があれば起こす」

 

「先に内容を言え」

 

「起きていなければ聞けない」

 

「またそれかよ」

 

「昨日も同じことを言った」

 

「だから覚えてんだよ」

 

 乱馬はあくびをした。

 

「起きたあとで説明しろ」

 

「起きるためには、先に起こす必要がある」

 

「分かった。もういい」

 

 目を閉じる。

 今度は、本当に少し眠ったらしい。

 

 シャンプーは起こさなかった。

 膝を貸すことも。

 布を掛けることもしない。

 乱馬が壁へ寄りかかり、仕事着が乾くのを待ちながら眠っている。

 

 それだけだった。

 

 シャンプーは木札へ最後の印をつけ、道具を倉へ戻すためにまとめた。

 乱馬が目を覚ましたのは、青い仕事着の袖から湿り気がほとんど消えたころだった。

 


 

 夕方。

 

 乱馬は物干しから青い上着と濃紺のズボンを外した。

 

「乾いたな」

 

 袖を触る。

 襟。

 腰の紐。

 背中の留め具。

 どこにも湿り気は残っていない。

 

 乱馬はその場で服を畳み始めた。

 

 上着を半分に折る。

 袖を内側へ入れる。

 片方の袖が途中でずれた。

 乱馬は気にせず、その上へズボンを重ねる。

 

「返す」

 

 軒下にいたシャンプーへ差し出す。

 

「乾いたのか」

 

「見りゃ分かるだろ」

 

 シャンプーは受け取り、すぐに広げた。

 

「何で開くんだよ」

 

「確かめる」

 

「洗っただろ」

 

「泥が落ちているか。破れていないか。留め具が外れていないか」

 

「全部見た」

 

「袖が内側へ入っている」

 

「服は畳まれてりゃ同じだろ」

 

「違う」

 

「細けえな」

 

「借りたときより汚して返したくないと言ったのは、おまえだ」

 

「畳み方まで言ってねえ!」

 

 シャンプーは上着をもう一度畳む。

 左右の袖をそろえる。

 襟を整える。

 その上へ、同じ幅に畳んだズボンを重ねた。

 

「こうだ」

 

「棚に入れば同じだろ」

 

「取り出すときに違う」

 

「明日また使うなら、畳まなくてもいいんじゃねえか」

 

「明日使うとは決まっていない」

 

「服まで先のこと分からねえのか」

 

「仕事着だからな」

 

 シャンプーは畳み直した服を持つ。

 乱馬は少しだけ頭をかいた。

 

「助かった。ありがとな」

 

「朝にも聞いた」

 

「あれは借りたときの分だ」

 

「いまは?」

 

「汚した服まで返せた分だよ」

 

「同じではないのか」

 

「俺には違う」

 

 乱馬は言い切った。

 シャンプーは、手の中の仕事着を見る。

 

 朝。

 

 泥水をかぶった乱馬へ貸した。

 

 昼。

 

 男姿へ戻った乱馬が自分で洗った。

 

 夕方。

 

 少し乱れた畳み方で、それでも自分の手から返した。

 

「受け取った」

 

 シャンプーが言う。

 

「それだけかよ」

 

「ほかに何を言う」

 

「別にねえけど」

 

「なら終わりだ」

 

「本当に細けえな」

 

「返すまでが借りたうちなのだろう」

 

 乱馬は一瞬、言葉に詰まる。

 

「そうだけどよ」

 

「なら、終わった」

 

 シャンプーは仕事着を宗家の棚へ戻すため、母屋へ入った。

 乱馬はその後ろ姿を見送り。

 右肩を一度だけ、ゆっくり回した。

 


 

 夕食の途中、水路番の女が宗家へ報告に来た。

 

「西の家も、果樹畑も、いつもの量へ戻ったよ」

 

「水漏れは?」

 

 コロンが尋ねる。

 

「ない。夕方まで見たが、水位も落ちていない」

 

「なら大丈夫だね」

 

 女はうなずき、夕食を取るため自分の家へ戻った。

 乱馬は肉を口へ入れる。

 

「なら、朝早く起きた意味はあったな」

 

「太い枝を勝手に抜かなければ、もっと早く終わった」

 

 隣のシャンプーが答える。

 

「最後は直しただろ」

 

「泥水をかぶった」

 

「それも仕事のうちだ」

 

「着替えを借りた」

 

「返した」

 

「服を洗う時間も増えた」

 

「俺が洗った!」

 

「おまえの時間も増えた」

 

「でも、水は戻っただろ」

 

「手順を守れば、同じ結果でも早かった」

 

「次は守るよ」

 

 乱馬は答えてから、箸を止めた。

 

「次も俺がやるのか?」

 

「水路が詰まればな」

 

「すぐ詰まるのか」

 

「詰まらないように見る」

 

「じゃあ、次はねえかもしれねえだろ」

 

「おまえが村にいる間には、ないかもしれない」

 

 シャンプーは普通の調子で言った。

 乱馬も、

 

「そうか」

 

 とだけ答えた。

 裁定が出れば、日本へ帰る。

 それまでに、また水路へ入ることがあるかは分からない。

 シャンプーの仕事着を借りることも、もうないかもしれない。

 

「親父は、荷車片づけ終わったのか」

 

 乱馬が話を変える。

 玄馬は卓の端で、疲れた顔をして粥をすすっていた。

 

「聞くな」

 

「朝は元気だったろ」

 

「荷車の車輪へ絡んだ藁を取り、泥を落とし、車軸へ油を差し、倉へ運んだのだぞ」

 

「饅頭三つ分にしては多いな」

 

「だから不当だと言っている!」

 

「途中でまた食ったんじゃねえのか」

 

 玄馬の動きが止まる。

 卓の全員が玄馬を見る。

 

「……作業を続けるための栄養補給を少々」

 

「また食ったのかよ!」

 

「今回は報告した!」

 

「食ったあとでだろ!」

 

「正直に申告したことは評価されるべきだ!」

 

 玄馬と乱馬の言い争いが始まる。

 シャンプーは自分の椀へ視線を戻した。

 水路の流れは戻った。

 仕事着も返ってきた。

 朝から続いていた仕事は、ようやくすべて終わった。

 


 

 夜。

 

 離れへ戻った乱馬は、自分の荷物を開いていた。

 

 男姿。

 赤い上着。

 黒いズボン。

 朝と同じ、見慣れた姿へ戻っている。

 

 新しく買った荷紐も、荷物をしっかりまとめていた。

 乱馬は結び目へ指を掛け、一度強く引く。

 

「まだ確かめておるのか」

 

 玄馬が寝台へ寝転びながら尋ねた。

 

「旅の途中で切れたら困るからな」

 

「丈夫な方を買ったのだろう」

 

「紐じゃなく、俺の結び方を見てんだよ」

 

「今日一日、荷物へ触れておらんのだから緩むはずがなかろう」

 

「分かってる」

 

 乱馬は荷物を開く。

 中にある衣服を取り出した。

 

 替えの下着。

 小さな布。

 使い古した帯。

 だが、赤い上着と黒いズボンの予備はない。

 

「着替え、一組しかねえな」

 

「いまさら何を言っておる」

 

「今日みたいに濡れたら困るだろ」

 

「そのときは、また借りればよい」

 

「誰に」

 

「シャンプーに決まっておろう」

 

 乱馬の眉が動く。

 

「毎回借りられるか!」

 

「よく似合っていたぞ」

 

 枕が玄馬の顔へ飛んだ。

 

「二度と言うな!」

 

「褒めているのだ!」

 

「褒めなくていい!」

 

 玄馬は枕を顔から外す。

 

「なら、次の町で買えばよかろう」

 

「そうする」

 

「金はあるのか」

 

 乱馬の手が止まる。

 

 朝市で得た報酬。

 荷紐を買い。

 肉餅を買い。

 残ったのは二文だけだった。

 

「……親父が出せ」

 

「親を頼るな。自分で働け」

 

「おまえにだけは言われたくねえ!」

 

「村でまた稼げばよいではないか」

 

「裁定が出たら帰るんだよ」

 

「出るまでは働くのだろう?」

 

「泊まって飯食う条件だからな」

 

「なら、服を買えるまで稼ぐのも一つの手だ」

 

「勝手に長くいることにすんな」

 

 乱馬は荷物を閉じた。

 新しい荷紐を結び直す。

 

「次の町で買う」

 

「いつの次の町だ」

 

「日本へ帰る途中だ」

 

「それまで濡れたら?」

 

 乱馬は少し考える。

 

「そのとき考える」

 

「行き当たりばったりだな」

 

「親父に言われたくねえ」

 

 乱馬は寝台へ横になる。

 右肩には、朝から水路で身体を使った張りが残っている。

 男へ戻ったからといって、痛みまで消えたわけではない。

 乱馬は右腕を身体の横へ置き、左腕を枕代わりにした。

 

「明日も起こされるのかのう」

 

 玄馬が尋ねる。

 

「知らねえ」

 

「シャンプーは何と言っておった」

 

「まだ決まってない」

 

「なら、ゆっくり眠れそうだな」

 

「仕事があれば夜明け前に起こすってよ」

 

「理不尽な村だ」

 

「飯食って寝てるだけのおまえが言うな」

 

「今日は働いた!」

 

「饅頭食った分だろ」

 

 二人はしばらく言い合った。

 だが、水路仕事の疲れもあったのだろう。

 乱馬の返事は少しずつ遅くなる。

 やがて離れから声が消えた。

 


 

 宗家の母屋。

 

 シャンプーは、返された青い仕事着を棚へ戻していた。

 

 淡い青色の上着。

 濃紺のズボン。

 髪を結ぶための細い布紐。

 

 洗われ。

 乾き。

 畳まれ。

 朝まで置かれていた場所へ戻る。

 

 乱馬が着たから、特別な服になったわけではない。

 村の仕事で使う、予備の仕事着だった。

 明日は自分が着るかもしれない。

 ほかの誰かへ貸すこともあるかもしれない。

 

 仕事で汚れれば、また洗う。

 傷めば、直す。

 使えなくなれば、布として別の用途へ回す。

 それだけのものだった。

 シャンプーは上着の袖を棚の内側へ収める。

 

 朝には、その服を着て水路へ入った女姿の乱馬がいた。

 昼には、その服を洗って返そうとする男姿の乱馬がいた。

 姿は違った。

 声も。

 身体の大きさも。

 布を洗う手の形も違っていた。

 けれど、シャンプーの中で、その二人は別々には残らなかった。

 

 勝手に太い枝を抜いたのも。

 理由を聞いて、次から手順を守ったのも。

 借りたものを汚したまま返したくないと言ったのも。

 乾くまで壁にもたれて待ったのも。

 最後に、もう一度礼を言ったのも。

 どちらも、今日一日を過ごした乱馬だった。

 

 シャンプーは棚の戸を閉めた。

 

 離れでは、乱馬がいつもの赤い服を枕元へ置き、眠りについている。

 宗家の棚には、洗われた青い仕事着が元の場所へ戻っていた。

 

 村の西では、戻った水がいつもの太さで流れていた。

 

 その音を聞きながら、女傑族の村の一日が終わった。

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