シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
水路の仕事を終えて宗家へ戻った乱馬は、まだ女の姿だった。
身につけているのは、シャンプーから借りた淡い青色の仕事着と、濃紺のズボン。
赤い上着と黒いズボンは、水路の泥を落としたあとで籠へ入れてある。泥水はかなり抜けたが、布はまだ重く湿っていた。
中庭には、朝のうちに用意された湯の壺が置かれていた。
水路へ入った乱馬を男へ戻すためのものだ。
「湯はあるのに戻れねえのかよ」
乱馬は壺の蓋を開けた。
白い湯気が上がる。
指を入れると、まだ十分に熱い。
「戻っても着る服がない」
シャンプーが答えた。
「俺の服があるだろ」
「濡れている」
「着てりゃ乾く」
「いま着れば、身体が冷える」
「じゃあ、このまま男へ戻って、こっちを着てりゃいい」
乱馬は借りた青い上着の袖をつまんだ。
「男へ戻れば、その服は着られない」
「少しくらい平気だろ」
「肩が入らない。胸と背中も引かれる」
「伸ばせば──」
「破れる」
シャンプーは即座に言った。
乱馬は口を閉じ、自分の身体を見る。
女姿のいまでも、青い仕事着は少し丈が長い程度だった。
だが、男姿へ戻れば肩幅が広がる。
胸や背中も厚くなる。
このまま湯をかぶれば、布が裂けるか、留め具が飛ぶかもしれない。
「先に脱げばいいだろ」
「そのあと、何を着る」
「……濡れた俺の服」
「同じだ」
「布でも巻いときゃいい」
「その姿で朝食を食べるのか」
「食えりゃ何でもいいだろ」
「よくない」
「何でだよ」
「食事を運ぶ者が困る」
「困るのは俺じゃねえのかよ!」
乱馬の声が中庭へ響いた。
シャンプーは乱馬が持っていた籠を受け取り、物干しの方へ向かう。
「自分の服が乾くまで待て」
「身体は戻せても、服までは戻らねえってか」
「服に呪いはない」
「便利なんだか不便なんだか分かんねえな、この身体」
乱馬は不満そうに湯の壺へ蓋を戻した。
湯を使えば男へ戻れる。
だが、元の姿へ戻るだけでは、濡れた服も、泥のついた道具も、終わっていない仕事も消えない。
旅の途中では、変身すること自体に腹を立てることが多かった。
今日は、それよりも変身したあとに着るものがないことの方が問題だった。
「これ、どこへ干す」
シャンプーが赤い上着を持ち上げる。
「日が当たるところ」
「当たり前だ」
「だったら聞くなよ」
「物干しのどこかを聞いた」
「端でいいだろ。ほかの服と離せ」
「なぜ」
「泥が残ってるかもしれねえ」
「分かっているではないか」
「俺の服だからな」
二人は赤い上着と黒いズボンを広げた。
水が落ちやすいように皺を伸ばし、物干しへ掛ける。
袖口や裾から、まだ小さな水滴が落ちた。
「これで昼には乾くか?」
「風があればな」
「風、吹け」
「私に言うな」
「おまえの村だろ」
「風は村のものではない」
「昨日、何でも村のものみたいに言ってただろ」
「壺と湯の話だ」
「細けえな」
「おまえが聞いた」
シャンプーは濡れた服の下へ空の桶を置いた。
「先に手を洗う」
「水路でずっと水に入ってたぞ」
「泥を触った」
「また洗うのかよ」
「食事をする」
乱馬は自分の手を見る。
爪の隙間に、まだ薄く泥が残っていた。
「……石鹸は?」
「水甕の横だ」
「言われる前に聞いたぞ」
「少しは覚えたな」
「馬鹿にすんな」
乱馬は文句を言いながら、水甕へ向かった。
朝食は、いつもの宗家の長い卓で始まっていた。
大朝市の日とは違い、料理は順番よく並んでいる。
粥。
蒸した饅頭。
焼いた肉。
青菜の漬物。
温かい汁物。
水路の仕事へ出た者たちの分は、少し多めに残されていた。
「乱馬、こっちへ座って」
リンファが椀を置く。
女姿の乱馬を見ても、呼び方は変わらなかった。
女乱馬とも。
男乱馬とも。
死の接吻を与えられた相手とも。
求婚の接吻を受けた相手とも呼ばない。
ただ、乱馬だった。
乱馬は空いていた席へ座る。
目の前へ置かれた粥の量を見て、眉を上げた。
「この身体でも同じ量かよ」
「足りない?」
リンファが尋ねる。
「そうじゃねえ。男のときと同じだろ、これ」
「水路で働いた量は変わらないでしょう」
「身体は小さくなってるぞ」
「お腹も小さくなったの?」
「たぶん同じくらい減ってる」
「なら、食べられるわね」
リンファは饅頭を三つ置いた。
肉も男姿のときと同じ量だった。
乱馬は饅頭を一つ持ち上げる。
「村じゃ、姿が変わっても飯は減らねえのか」
「姿が変われば、朝の仕事がなくなるのかい」
卓の端で茶を飲んでいたコロンが尋ねた。
「なくならねえけど」
「水路へ入ったのも、石を外したのも、お前だろう」
「まあな」
「なら、働いた者へ出す食事も同じだよ」
「女になった分、半分にされなくてよかったぜ」
「半分にしたら、厨房へ入り込んで残りを探すだろう?」
「しねえよ」
「玄馬ならするね」
コロンの視線が、卓の反対側へ向く。
玄馬はすでに二つ目の饅頭を食べ終え、三つ目へ手を伸ばしていた。
「親父、今日も食ってるだけじゃねえだろうな」
「失礼な。わしも朝から働いておった」
「水路にはいなかったぞ」
「家畜小屋の掃除と、朝市で使った荷車の片づけを任されてな」
「饅頭三つ盗み食いした分か?」
「盗んではおらん。報酬から正式に代金を支払った」
「勝手に引かれたんだろ」
「結果として支払ったことに変わりはない」
玄馬は乱馬を見る。
青い仕事着。
濃紺のズボン。
整え直した赤い三つ編み。
玄馬の口元が緩んだ。
「なかなか似合っているぞ、乱馬」
次の瞬間。
乱馬の足が卓の下から伸びた。
「誰が似合うと言えっつった!」
蹴られた玄馬が椅子ごと後ろへ倒れる。
饅頭は手から離れ、宙を飛んだ。
コロンの杖がそれを受け止める。
「食べ物を粗末にするんじゃないよ」
「蹴った乱馬へ言え!」
「からかったお前が悪い」
「家族として感想を述べただけだ!」
「その家族の服じゃねえ!」
乱馬は顔を赤くして席へ座り直した。
周囲の者は少し笑ったが、それ以上、仕事着については何も言わなかった。
リンファは倒れた椅子を起こす。
「乱馬、肉も食べて」
「ああ」
乱馬は返事をし、箸を伸ばした。
女姿だから少なくする者はいない。
逆に、珍しいから特別扱いする者もいない。
水路で働いて帰ってきた乱馬へ、働いた分だけ腹を満たす食事が出されていた。
乱馬自身は、そのことを深く考えなかった。
ただ粥をすすり、饅頭を食べ、肉を取り。
男姿のときと変わらない速さで、朝食を平らげた。
食後。
乱馬は物干しの前へ立っていた。
赤い上着の袖をつまむ。
まだ冷たい。
「乾いてねえ」
「干してから、あまり時間がたっていない」
後ろからシャンプーが答える。
「もう少し日が当たるところへ移す」
「そこが一番当たる」
「じゃあ裏返す」
「まだ早い」
「内側まで乾かすんだろ」
「表の水が落ちてからだ。何度見ても、早くは乾かない」
シャンプーが言った。
「分かってるよ」
「さっきから四回見た」
「乾いたところだけ先に着るわけにいかねえだろ」
「上着だけ乾けば、下は濡れたままでよいのか」
「よくねえから両方見てんだよ」
乱馬は黒いズボンの裾を触る。
こちらもまだ湿っていた。
物干しから離れ、三歩進む。
すぐに振り返る。
「見ても変わらない」
「分かってるっつってんだろ」
乱馬は中庭の壁へ背を預けた。
何もしなくてよい。
昨日も同じことを言われた。
だが昨日は、村の中を見て回ることができた。
今日は事情が違う。
女姿。
借り物の服。
右肩も休めろと言われている。
自分の服が乾くまで男へ戻ることもできない。
「修練してくる」
「右肩を使うな」
「足だけだ」
「汗をかけば、その仕事着も濡れる」
「なら歩いてくる」
「村を一周したら汗をかく」
「ゆっくり歩く」
「女姿を見た者から、また服が似合うと言われる」
乱馬の足が止まった。
「……ここにいる」
「そうしろ」
シャンプーは軒下へ腰を下ろした。
朝市で使った木札と、水路番から受け取った作業道具の札を分け始める。
乱馬は再び壁へ寄りかかる。
「おまえ、まだ仕事すんのか」
「確認だけだ」
「それも仕事だろ」
「水路で使った道具を返す」
「俺が使った鉈も?」
「刃に欠けがないか見る」
「泥は落としたぞ」
「泥が落ちても、欠けは残る」
「面倒だな」
「欠けた鉈を次の者へ渡す方が面倒だ」
「理由を言うの、少し早くなったな」
シャンプーの手が止まる。
「おまえが言えと言った」
「本当に言うとは思わなかった」
「聞くのだろう」
「意味が分かればな」
「なら聞け」
「命令すんな」
「では頼む」
「素直すぎると調子狂うな」
乱馬は視線をそらした。
その拍子に、青い仕事着の袖口が目へ入る。
薄い泥の跡が残っていた。
裾にも。
膝にも。
水路で作業をしたときについたものだ。
「これも洗わねえとな」
乱馬が言った。
「仕事着だから、その程度はよい」
シャンプーは木札を重ねたまま答える。
「よくねえよ」
「水路へ入れば汚れる」
「借りたときより汚して返すのは嫌だ」
「洗えばよい」
「だから俺が洗う」
「女姿のままでは洗えない」
「何でだよ」
「着ている」
乱馬は自分の身体を見る。
「……そりゃそうか」
「先に自分の服を乾かせ」
「早く乾け」
「服に言っても変わらない」
「分かってる!」
乱馬はまた物干しへ向かった。
五度目だった。
昼が近づくころ、赤い上着の表面はかなり乾いていた。
乱馬は物干しから外し、裏返す。
「もういいだろ」
襟へ指を入れる。
外側は乾いている。
だが、縫い目にはまだ湿り気が残っていた。
「着てりゃ乾く」
「まだ少し湿っている」
シャンプーが隣から襟へ触れる。
「このくらい平気だ」
「身体へ張りつく」
「朝から泥水かぶったんだぞ。これくらい何でもねえ」
「風邪をひけば、また仕事が増える」
「誰の」
「看病する者。薬を作る者。おまえの代わりに働く者」
「前にも聞いた」
「なら覚えているだろう」
「でも、これ以上待ってられねえ」
乱馬は黒いズボンも確かめる。
腰の縫い目が少し冷たい。
それでも、着られないほどではない。
「本当に着るのか」
「着る」
「そのあと寒いと言っても知らない」
「言わねえよ」
「くしゃみをしても?」
「しねえ」
「昨日も同じことを言った」
「あれは泥のせいだ!」
乱馬は赤い上着と黒いズボンを抱えた。
中庭の隅には、着替えに使う小さな部屋がある。
衝立の内側へ、朝から保温していた湯の壺を運ぶ。
「外にいろよ」
乱馬が言う。
「入らない」
「絶対だぞ!」
「服の着方を間違えても入らない」
「俺の服だぞ!」
乱馬は部屋へ入り、戸を閉めた。
内側で衣擦れの音がする。
まず、青い上着と濃紺のズボンを脱ぐ。
借りた仕事着を、濡れた床へ置かないよう籠へ入れる。
次に湯の壺の蓋を開けた。
「熱っ!」
戸の外へ乱馬の声が漏れた。
「冷めていないのか」
シャンプーが尋ねる。
「十分熱い!」
「ならよい」
「少しくらい冷ましておけ!」
「男へ戻れないよりよい」
湯をかぶる音がした。
白い湯気が戸の隙間から漏れる。
女姿だった身体が伸び、男姿へ戻る。
乱馬は少し湿った黒いズボンをはき、赤い上着へ腕を通した。
襟と袖口はまだ冷たい。
だが、自分の服だった。
しばらくして戸が開く。
男姿へ戻った乱馬が出てきた。
「やっと戻った」
両腕を上げようとして、右肩の途中で止める。
シャンプーがすぐに見る。
「肩はきつくないのか」
「男に戻ったら少しましになった気がする」
「気がするだけだ」
「分かってるよ」
「なら上げるな」
「服が引っかかってねえか確かめただけだ」
「左だけでよい」
「動きづらいんだよ」
「治るまで我慢しろ」
「細けえな」
「理由を言えば聞くのだろう」
「……聞くけどよ」
乱馬は赤い袖を引いた。
まだ少し湿っている。
それでも、男姿へ戻り、自分の服を着たことで落ち着いたらしい。
次に、籠へ入れた青い仕事着を見る。
「洗い場、どこだ」
「中庭の裏だ」
「行くぞ」
「私も?」
「洗い方、違うんだろ」
「見れば分かるのではなかったか」
「この村の服、面倒なんだよ!」
乱馬は籠を左手で持ち、洗い場へ向かった。
洗い場には、浅い水槽がいくつか並んでいた。
食器を洗う場所。
野菜の泥を落とす場所。
仕事着や布を洗う場所。
それぞれ使う水が分けられている。
「こっちだ」
シャンプーは一番下流の水槽を示した。
「飲み水には使わない?」
「上から流れてきた最後の水だ」
「泥の服を洗うからか」
「そうだ」
乱馬は青い上着を水へ沈めた。
袖口の泥が、水へ薄く広がる。
すぐに布を両手でつかみ、強くこすろうとする。
「強くこするな」
シャンプーが止めた。
「泥くらい、こすらなきゃ落ちねえだろ」
「布の中へ入る」
「表についてんだから、表から落とすんだろ」
「先に水の中で押し出す」
「また細けえな」
「理由を言えば聞くのだろう」
「……聞くけどよ」
乱馬は上着を水へ戻した。
「どうすんだ」
「沈める。持ち上げる。水を落とす」
「絞らねえのか」
「最初は絞らない」
「何回やる」
「水が濁らなくなるまでだ」
「時間かかるな」
「おまえが泥をつけた」
「水路の仕事をしたんだから仕方ねえだろ」
「仕事着だから、泥くらいつく」
「つく。だが、借りたまま返す気か」
シャンプーが乱馬を見る。
乱馬も見返した。
「だから洗うって言ってんだよ」
乱馬は上着を沈める。
持ち上げる。
泥を含んだ水が落ちるのを待つ。
もう一度沈める。
言われた手順を、そのまま繰り返した。
最初は茶色く濁っていた水が、少しずつ薄くなる。
「裾は?」
乱馬が尋ねる。
「泥が残っていれば、布を当てて軽く叩く」
「こするんじゃなく?」
「叩けば、泥が下の布へ移る」
「面倒だけど、理屈は分かる」
「ならやれ」
「すぐ命令に戻るな!」
乱馬は古い布を下へ敷いた。
上着の裾を載せ、別の濡らした布で軽く叩く。
泥の跡が、下の布へ移っていく。
「本当に落ちるな」
「だから言った」
「最初から全部説明しろ」
「説明している」
「やる前にだよ」
「おまえが先にこすった」
「見てから言うな!」
乱馬は声を上げたが、手は止めなかった。
上着。
ズボン。
髪を結ぶために借りた細い布紐。
水路で借りたものを、一つずつ洗う。
女姿の乱馬へ貸した服を、男姿へ戻った乱馬が洗っている。
身体の大きさも。
声の高さも。
手の形も変わっている。
それでも、借りた本人が返すために洗っていることを、シャンプーは不自然には感じなかった。
女姿の乱馬が着て。
男姿の乱馬が洗う。
その間に、別の誰かへ入れ替わったわけではない。
朝から続いている一人分の行動だった。
「これでいいか」
乱馬が青い上着を持ち上げる。
泥の跡は消えている。
「袖の裏を見る」
「まだあんのかよ」
乱馬は裏返す。
袖口の内側に、細い泥の線が残っていた。
「本当だ」
「もう一度洗う」
「分かってるよ」
乱馬は自分から水へ戻した。
洗い終えた仕事着を物干しへ掛けると、すでに日は高くなっていた。
風が少し出ている。
薄い青色の布が、風に揺れた。
「乾くまで、また待つのか」
乱馬が尋ねる。
「返すならな」
「濡れたまま返しても、棚には入れられねえか」
「入れれば、ほかの服まで湿る」
「分かってるよ」
乱馬は物干しの近くへ座った。
壁へ背を預け、左膝を立てる。
シャンプーは少し離れた軒下で、水路の道具を確認していた。
鉈。
熊手。
泥をすくう籠。
木槌。
使った数と戻った数を、木札へ印をつける。
二人は同じ中庭にいる。
だが、話し続けることはなかった。
乱馬は乾いていく青い仕事着を見る。
シャンプーは道具を見る。
中庭を村人が通るたび、短く挨拶だけを交わす。
しばらくすると、乱馬の目が細くなった。
「眠いのか」
シャンプーが尋ねる。
「眠くねえ」
「目が閉じている」
「少し休めてるだけだ」
「寝るなら離れへ行け」
「服が乾くまでいる」
「私が見ている」
「俺が返すんだろ」
「乾いたら呼ぶ」
「それじゃ借りた服を、おまえに片づけさせることになる」
「棚へ戻すのは私だ」
「返すところまでは俺だ」
シャンプーは乱馬を見る。
「違うのか」
「違う」
「何が」
「俺には違う」
大朝市の日に、乱馬は似たようなことを言っていた。
裁定が出ていないから村を出なかったことと。
自分で今日は出ないと決めたことは違う。
結果だけを見れば同じでも、乱馬にとっては、自分がどう決めたかが重要だった。
「なら、そこで待て」
「最初からそうしてる」
「寝ても知らない」
「寝ねえよ」
乱馬は答えた。
その直後、頭が少し傾いた。
壁へ後頭部が当たる。
「寝ている」
「寝てねえ」
「返事が遅い」
「考えてた」
「何を」
「明日のこと」
乱馬は薄く目を開ける。
「明日は何するんだ」
「まだ決まっていない」
「また夜明け前に起こすなよ」
「仕事があれば起こす」
「先に内容を言え」
「起きていなければ聞けない」
「またそれかよ」
「昨日も同じことを言った」
「だから覚えてんだよ」
乱馬はあくびをした。
「起きたあとで説明しろ」
「起きるためには、先に起こす必要がある」
「分かった。もういい」
目を閉じる。
今度は、本当に少し眠ったらしい。
シャンプーは起こさなかった。
膝を貸すことも。
布を掛けることもしない。
乱馬が壁へ寄りかかり、仕事着が乾くのを待ちながら眠っている。
それだけだった。
シャンプーは木札へ最後の印をつけ、道具を倉へ戻すためにまとめた。
乱馬が目を覚ましたのは、青い仕事着の袖から湿り気がほとんど消えたころだった。
夕方。
乱馬は物干しから青い上着と濃紺のズボンを外した。
「乾いたな」
袖を触る。
襟。
腰の紐。
背中の留め具。
どこにも湿り気は残っていない。
乱馬はその場で服を畳み始めた。
上着を半分に折る。
袖を内側へ入れる。
片方の袖が途中でずれた。
乱馬は気にせず、その上へズボンを重ねる。
「返す」
軒下にいたシャンプーへ差し出す。
「乾いたのか」
「見りゃ分かるだろ」
シャンプーは受け取り、すぐに広げた。
「何で開くんだよ」
「確かめる」
「洗っただろ」
「泥が落ちているか。破れていないか。留め具が外れていないか」
「全部見た」
「袖が内側へ入っている」
「服は畳まれてりゃ同じだろ」
「違う」
「細けえな」
「借りたときより汚して返したくないと言ったのは、おまえだ」
「畳み方まで言ってねえ!」
シャンプーは上着をもう一度畳む。
左右の袖をそろえる。
襟を整える。
その上へ、同じ幅に畳んだズボンを重ねた。
「こうだ」
「棚に入れば同じだろ」
「取り出すときに違う」
「明日また使うなら、畳まなくてもいいんじゃねえか」
「明日使うとは決まっていない」
「服まで先のこと分からねえのか」
「仕事着だからな」
シャンプーは畳み直した服を持つ。
乱馬は少しだけ頭をかいた。
「助かった。ありがとな」
「朝にも聞いた」
「あれは借りたときの分だ」
「いまは?」
「汚した服まで返せた分だよ」
「同じではないのか」
「俺には違う」
乱馬は言い切った。
シャンプーは、手の中の仕事着を見る。
朝。
泥水をかぶった乱馬へ貸した。
昼。
男姿へ戻った乱馬が自分で洗った。
夕方。
少し乱れた畳み方で、それでも自分の手から返した。
「受け取った」
シャンプーが言う。
「それだけかよ」
「ほかに何を言う」
「別にねえけど」
「なら終わりだ」
「本当に細けえな」
「返すまでが借りたうちなのだろう」
乱馬は一瞬、言葉に詰まる。
「そうだけどよ」
「なら、終わった」
シャンプーは仕事着を宗家の棚へ戻すため、母屋へ入った。
乱馬はその後ろ姿を見送り。
右肩を一度だけ、ゆっくり回した。
夕食の途中、水路番の女が宗家へ報告に来た。
「西の家も、果樹畑も、いつもの量へ戻ったよ」
「水漏れは?」
コロンが尋ねる。
「ない。夕方まで見たが、水位も落ちていない」
「なら大丈夫だね」
女はうなずき、夕食を取るため自分の家へ戻った。
乱馬は肉を口へ入れる。
「なら、朝早く起きた意味はあったな」
「太い枝を勝手に抜かなければ、もっと早く終わった」
隣のシャンプーが答える。
「最後は直しただろ」
「泥水をかぶった」
「それも仕事のうちだ」
「着替えを借りた」
「返した」
「服を洗う時間も増えた」
「俺が洗った!」
「おまえの時間も増えた」
「でも、水は戻っただろ」
「手順を守れば、同じ結果でも早かった」
「次は守るよ」
乱馬は答えてから、箸を止めた。
「次も俺がやるのか?」
「水路が詰まればな」
「すぐ詰まるのか」
「詰まらないように見る」
「じゃあ、次はねえかもしれねえだろ」
「おまえが村にいる間には、ないかもしれない」
シャンプーは普通の調子で言った。
乱馬も、
「そうか」
とだけ答えた。
裁定が出れば、日本へ帰る。
それまでに、また水路へ入ることがあるかは分からない。
シャンプーの仕事着を借りることも、もうないかもしれない。
「親父は、荷車片づけ終わったのか」
乱馬が話を変える。
玄馬は卓の端で、疲れた顔をして粥をすすっていた。
「聞くな」
「朝は元気だったろ」
「荷車の車輪へ絡んだ藁を取り、泥を落とし、車軸へ油を差し、倉へ運んだのだぞ」
「饅頭三つ分にしては多いな」
「だから不当だと言っている!」
「途中でまた食ったんじゃねえのか」
玄馬の動きが止まる。
卓の全員が玄馬を見る。
「……作業を続けるための栄養補給を少々」
「また食ったのかよ!」
「今回は報告した!」
「食ったあとでだろ!」
「正直に申告したことは評価されるべきだ!」
玄馬と乱馬の言い争いが始まる。
シャンプーは自分の椀へ視線を戻した。
水路の流れは戻った。
仕事着も返ってきた。
朝から続いていた仕事は、ようやくすべて終わった。
夜。
離れへ戻った乱馬は、自分の荷物を開いていた。
男姿。
赤い上着。
黒いズボン。
朝と同じ、見慣れた姿へ戻っている。
新しく買った荷紐も、荷物をしっかりまとめていた。
乱馬は結び目へ指を掛け、一度強く引く。
「まだ確かめておるのか」
玄馬が寝台へ寝転びながら尋ねた。
「旅の途中で切れたら困るからな」
「丈夫な方を買ったのだろう」
「紐じゃなく、俺の結び方を見てんだよ」
「今日一日、荷物へ触れておらんのだから緩むはずがなかろう」
「分かってる」
乱馬は荷物を開く。
中にある衣服を取り出した。
替えの下着。
小さな布。
使い古した帯。
だが、赤い上着と黒いズボンの予備はない。
「着替え、一組しかねえな」
「いまさら何を言っておる」
「今日みたいに濡れたら困るだろ」
「そのときは、また借りればよい」
「誰に」
「シャンプーに決まっておろう」
乱馬の眉が動く。
「毎回借りられるか!」
「よく似合っていたぞ」
枕が玄馬の顔へ飛んだ。
「二度と言うな!」
「褒めているのだ!」
「褒めなくていい!」
玄馬は枕を顔から外す。
「なら、次の町で買えばよかろう」
「そうする」
「金はあるのか」
乱馬の手が止まる。
朝市で得た報酬。
荷紐を買い。
肉餅を買い。
残ったのは二文だけだった。
「……親父が出せ」
「親を頼るな。自分で働け」
「おまえにだけは言われたくねえ!」
「村でまた稼げばよいではないか」
「裁定が出たら帰るんだよ」
「出るまでは働くのだろう?」
「泊まって飯食う条件だからな」
「なら、服を買えるまで稼ぐのも一つの手だ」
「勝手に長くいることにすんな」
乱馬は荷物を閉じた。
新しい荷紐を結び直す。
「次の町で買う」
「いつの次の町だ」
「日本へ帰る途中だ」
「それまで濡れたら?」
乱馬は少し考える。
「そのとき考える」
「行き当たりばったりだな」
「親父に言われたくねえ」
乱馬は寝台へ横になる。
右肩には、朝から水路で身体を使った張りが残っている。
男へ戻ったからといって、痛みまで消えたわけではない。
乱馬は右腕を身体の横へ置き、左腕を枕代わりにした。
「明日も起こされるのかのう」
玄馬が尋ねる。
「知らねえ」
「シャンプーは何と言っておった」
「まだ決まってない」
「なら、ゆっくり眠れそうだな」
「仕事があれば夜明け前に起こすってよ」
「理不尽な村だ」
「飯食って寝てるだけのおまえが言うな」
「今日は働いた!」
「饅頭食った分だろ」
二人はしばらく言い合った。
だが、水路仕事の疲れもあったのだろう。
乱馬の返事は少しずつ遅くなる。
やがて離れから声が消えた。
宗家の母屋。
シャンプーは、返された青い仕事着を棚へ戻していた。
淡い青色の上着。
濃紺のズボン。
髪を結ぶための細い布紐。
洗われ。
乾き。
畳まれ。
朝まで置かれていた場所へ戻る。
乱馬が着たから、特別な服になったわけではない。
村の仕事で使う、予備の仕事着だった。
明日は自分が着るかもしれない。
ほかの誰かへ貸すこともあるかもしれない。
仕事で汚れれば、また洗う。
傷めば、直す。
使えなくなれば、布として別の用途へ回す。
それだけのものだった。
シャンプーは上着の袖を棚の内側へ収める。
朝には、その服を着て水路へ入った女姿の乱馬がいた。
昼には、その服を洗って返そうとする男姿の乱馬がいた。
姿は違った。
声も。
身体の大きさも。
布を洗う手の形も違っていた。
けれど、シャンプーの中で、その二人は別々には残らなかった。
勝手に太い枝を抜いたのも。
理由を聞いて、次から手順を守ったのも。
借りたものを汚したまま返したくないと言ったのも。
乾くまで壁にもたれて待ったのも。
最後に、もう一度礼を言ったのも。
どちらも、今日一日を過ごした乱馬だった。
シャンプーは棚の戸を閉めた。
離れでは、乱馬がいつもの赤い服を枕元へ置き、眠りについている。
宗家の棚には、洗われた青い仕事着が元の場所へ戻っていた。
村の西では、戻った水がいつもの太さで流れていた。
その音を聞きながら、女傑族の村の一日が終わった。