シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
三人は、修理を終えた柵のそばで昼食を始めた。
シャンプーが持ってきた籠には、蒸した饅頭と鶏肉、それに水筒が入っている。
乱馬は饅頭を一つ取ると、すぐに口へ運んだ。
「やっと飯だ」
朝から材木を運び、鋸を使い、支柱を押さえていた。
右肩をかばいながらの作業だったこともあり、いつも以上に腹が減っている。
「終わってなかったら、本当に食わせない気だったのか?」
「ひいばあちゃんは、そう言った」
シャンプーも饅頭を取る。
「途中で腹減ったら、余計に仕事が遅くなるだろ」
「途中で帰ろうとしなければよい」
「帰ろうとしてねえよ」
「朝は、ムースと同じ仕事をしたくないと言った」
「言ったのはこいつだろ」
乱馬が隣を指す。
ムースは鶏肉を取ろうとしていた手を止めた。
「おらは、いまでも貴様と同じ仕事をしたいとは思っておらんのじゃ」
「じゃあ、さっき直した柵は何なんだよ」
「仕方なく同じ場所へいただけじゃ」
「一緒に支柱直しただろ」
「おらが加工した補強材を、貴様が押さえただけじゃ」
「それを一緒にやったって言うんだよ」
「言わん!」
「二人でやった」
シャンプーが言った。
ムースは何か言い返そうとしたが、饅頭を一口かじり、そのまま黙る。
乱馬も鶏肉へ箸を伸ばした。
しばらくは、山羊が草を食べる音と、三人が食事をする音だけが続いた。
やがて乱馬が、ムースを横目で見る。
「おまえ、シャンプーに何回断られてんだ?」
ムースの顔が上がった。
「回数など問題ではないんじゃ。愛とは、諦めないことじゃ!」
「相手が嫌だって言ってんのが問題なんだよ」
「貴様に、おらの愛の何が分かる!」
「嫌がってる相手に結婚しろって言われる面倒さなら分かる」
シャンプーの手が止まった。
ムースも口を閉じる。
「俺は、女の俺がおまえに勝ったから殺されることになって、男の俺がおまえに勝ったから結婚させられそうになってる」
乱馬は饅頭を持ったまま続ける。
「勝手に決められる方は、どっちも面倒なんだよ」
「おらと村の掟を一緒にするな!」
「シャンプーが嫌だって言ってんのに、聞かねえところは同じだろ」
「おらの愛は、掟などとは関係ないんじゃ!」
「もっと止めにくいじゃねえか」
「何じゃと!」
ムースが立ち上がりかける。
「食事中だ」
シャンプーが言った。
ムースは袖へ入れかけた手を止め、座り直した。
「いま、暗器出そうとしただろ」
乱馬が言う。
「出しておらん!」
「袖に手ぇ入れてただろ」
「鶏肉を入れて持って帰ろうとしただけじゃ!」
「袖に食い物入れんなよ!」
ムースは鶏肉から手を離した。
シャンプーは二人を見比べる。
「乱馬は、村の掟だから嫌なのではないのか」
「掟だから嫌なんじゃねえ」
乱馬は答えた。
「俺のことを、俺に聞かずに決めるから嫌なんだ」
「誰が決めても?」
「誰が決めてもだ」
ムースが眼鏡を押し上げる。
「では、本当にシャンプーを望んでおらんのか」
「今の俺は、誰とも結婚する気はねえよ」
「シャンプーでもか?」
「誰でもだって言ってんだろ」
ムースは眼鏡越しに乱馬の顔を見る。
「なら、貴様はおらの恋敵ではないんじゃな」
「最初からそう言ってる」
「だが、シャンプーの近くにいる男であることは変わらん」
「結局、敵扱いかよ」
「当然じゃ!」
乱馬は肩を落とした。
シャンプーはムースを見る。
「乱馬が結婚を望んでいないことは、前から言っていた」
「いま、改めて本人の口から聞いたんじゃ」
「私も本人だ」
「ならば、シャンプー。乱馬を諦めて、おらを──」
「嫌だ」
「なぜじゃ!」
「私の話を聞かないからだ」
乱馬が吹き出した。
ムースは乱馬を睨んだが、今度は袖へ手を入れなかった。
昼食を終えると、シャンプーは食器を籠へ戻した。
「私は村へ戻る」
「もう戻るのか?」
乱馬が尋ねる。
「薬草の乾燥場が残っている」
「柵は終わったぞ」
「頼まれた場所はな」
シャンプーは放牧地を囲む柵へ目を向けた。
「午後は、もう一度全体を見ろ。古い場所がほかにもある」
「まだ仕事あるじゃねえか!」
「修理ではない。点検だ」
「同じようなもんだろ」
「壊れていなければ、見るだけだ」
シャンプーは、残った釘の入った小さな袋を持ち上げた。
「これは、おまえが持て」
乱馬へ差し出す。
「何で俺が」
「ムースへ持たせると、袖の中で分からなくなる」
「分からなくならん!」
ムースが反論する。
「朝、干し魚がどちらの袖に入っていたか分からなかった」
「あれは非常食じゃ!」
「釘は食べられない」
「当たり前じゃ!」
乱馬は袋を腰へ結んだ。
「使わなかった釘まで全部入ってるのか?」
「数えた。二十四本だ」
「一応覚えとく」
「なくすな」
「おまえら、俺を子ども扱いしてねえか?」
「ムースよりは信用している」
ムースの表情が固まった。
「シャンプー……」
「釘についてだけだ」
「それでもおらより乱馬を!」
「大声を出すな。山羊が驚く」
シャンプーは籠を背負った。
「夕方にもう一度来る」
「シャンプー! 安心して待っておるんじゃ。おら一人で──」
「二人で点検しろ」
「……分かったんじゃ」
シャンプーは山道を下りていった。
ムースは、その背中をしばらく見送る。
乱馬は腰の釘袋を軽く叩いた。
「さっさと終わらせようぜ」
「貴様と同じ仕事をするつもりはないと言ったじゃろう」
「また最初に戻るのかよ!」
「点検は、おらがする。貴様は余計なことをするな」
「俺は何すんだ」
「山羊でも見張っておれ」
乱馬は放牧地を見る。
二十頭ほどの山羊が、穏やかに草を食べている。
「何を見張るんだよ」
「おらの道具へ近づかんようにじゃ」
「山羊より信用ねえぞ、おまえ」
「何じゃと!」
二人がまた言い争おうとした、そのときだった。
柵の向こうから、木の裂ける音がした。
午前中に修理した場所とは反対側。
斜面の下へ近い、古い柵だった。
一頭の大きな山羊が、横木へ身体をこすりつけている。
湿った支柱が外側へ傾く。
古い横木が折れた。
隙間が開く。
「まずい!」
乱馬が走った。
大きな山羊が外へ出る。
その後ろを二頭。
三頭。
さらに小さな山羊が続く。
斜面の下には、村の畑が広がっている。
山羊がそこまで下りれば、育てている作物を荒らす。
「止まれ!」
乱馬が先頭の山羊へ追いついた。
背後から角の根元をつかむ。
山羊は首を大きく振った。
乱馬の身体が左右へ引かれる。
右肩へ鋭い張りが走った。
「ぐっ……!」
「乱馬、離せ!」
ムースの鎖が飛んだ。
山羊へではない。
乱馬の腰へ巻きつく。
ムースが強く引く。
乱馬の身体が横へずれた。
直後、別の山羊の角が、乱馬のいた場所を通り過ぎる。
「何しやがる!」
「助けたんじゃ!」
「俺じゃなく山羊を止めろ!」
「分かっておる!」
ムースは両腕を広げた。
袖から複数の鎖が飛び出す。
左右の支柱へ巻きつく。
その間へ、折り畳まれていた太い網が広がった。
斜面を下ろうとしていた山羊の前へ、即席の壁ができる。
先頭の大きな山羊が網へ突っ込んだ。
網が大きくたわむ。
鎖が軋む。
ムースの足が草の上を滑った。
「長くは持たんのじゃ!」
「十分だ!」
乱馬は網の脇から回り込んだ。
一頭目の進行方向へ身体を入れる。
山羊が頭を下げた。
乱馬は角へ正面から力をかけず、首の向きを横へ変える。
突進の勢いを、そのまま柵の内側へ流した。
一頭。
二頭。
三頭目は小さな子山羊だった。
乱馬は左腕で抱え上げる。
「おまえは大人しくしてろ」
子山羊が乱馬の頬をなめた。
「くすぐってえ!」
乱馬は子山羊を柵の中へ戻す。
残った大きな山羊は、網を押し破ろうとしていた。
ムースの腕が震えている。
「乱馬、早くするんじゃ!」
「今行く!」
乱馬は山羊の正面へ立った。
大きな角。
太い首。
山羊が地面を蹴る。
乱馬へ向かって突進した。
乱馬は直前まで動かない。
角が届く寸前、身体を沈める。
左右の手で角の根元をつかんだ。
右肩へ再び痛みが走る。
それでも手を離さない。
山羊の勢いを止めず、身体ごと横へ回る。
投げるのではない。
進む向きだけを変える。
大きな山羊は網の横を抜け、そのまま放牧地の中へ戻った。
「網を柵の前へ寄せろ!」
「命令するな!」
「いまはいいだろ!」
「分かっておる!」
ムースが鎖を引く。
網が壊れた柵の前へ移動した。
乱馬は折れた横木を持ち上げる。
片側の支柱は根元から割れ、横木を差し込んでも固定できない。
「釘!」
ムースが袖へ手を入れる。
一度。
もう一度。
「どこへ入れたんじゃ」
「釘なら俺が持ってる!」
乱馬は腰の袋を外した。
「シャンプーに言われたからな!」
「早く渡すんじゃ!」
「二十四本、全部あるぞ!」
「数えておる場合か!」
乱馬が袋を投げる。
ムースは受け取り、必要な釘と金属板を取り出した。
乱馬が折れた横木を押さえる。
ムースが金属板を当て、釘を打つ。
一本。
二本。
三本。
だが、割れた支柱はまだ動いている。
「これだけでは持たん!」
「どうする?」
ムースは、網を支えている鎖の一本を見る。
次に、壊れた支柱を見る。
一瞬だけ迷い、袖から工具を取り出した。
「この鎖を切る」
「おまえの暗器だろ」
「村の山羊を逃がすよりましじゃ」
ムースは鎖の一部を切断した。
短くなった鎖を、横木と支柱へ巻きつける。
乱馬が左手で横木を押さえ、身体で支柱を支える。
ムースが鎖を締めた。
「引け!」
「肩へ来る!」
「右ではなく左で引くんじゃ!」
「分かってる!」
乱馬は左腕と腰を使い、鎖へ張りを与えた。
ムースが留め具を固定する。
「もういい!」
乱馬が手を離す。
仮止めされた横木は、網を外しても倒れなかった。
山羊たちは、柵の内側で何事もなかったように草を食べている。
乱馬とムースは、その場へ座り込んだ。
「おまえの網、役に立ったな」
乱馬が息を整えながら言う。
「当然じゃ」
「でも、あれ暗器なのか?」
「鳥や獣を捕らえるための武器じゃ」
「山羊にも使えたな」
「山羊へ使ったのは初めてじゃ」
ムースは切断した鎖の端を見る。
「今夜、つなぎ直さなければならん」
「俺も手伝う」
ムースが顔を上げた。
「貴様が?」
「鎖を切ったのは、俺が山羊を戻す時間を作るためだろ」
「おらは、この村の山羊を守ったんじゃ」
「同じだろ」
「同じではないんじゃ」
ムースは反論した。
だが、乱馬の申し出を断りはしなかった。
午後は、壊れた古い柵を直すことに使った。
午前中のように、どちらが仕事を命じるかで長く言い争うことはなかった。
ムースが必要な長さを測る。
乱馬が材木を運ぶ。
乱馬が鋸を入れる前に、印の位置をムースへ確かめる。
ムースは長さを写した縄を使った。
「ここじゃ」
「外側を残すんだな」
「分かっておるではないか」
「一回失敗したからな」
「二度するなよ」
「しねえよ」
乱馬が材木を切る。
ムースが接合面を削る。
乱馬が横木を左手と身体で押さえる。
ムースが下穴を開け、釘を打つ。
「少し右じゃ」
「俺から見て?」
「おらから見てじゃ」
「先に言え!」
「いま言ったじゃろう!」
言い争いはする。
それでも手は止まらなかった。
支柱の割れた根元には、午前中に残った端材を当てた。
湿った土へ直接触れないよう石を敷き、その上へ補強材を固定する。
ムースが金具を打ち込む。
乱馬が支柱を揺らす。
「動かねえ」
「もう少し強く押せ」
「壊れたらどうすんだ」
「その程度で壊れるなら、直っておらんのじゃ」
乱馬は少し力を加えた。
柵は動かなかった。
「今度こそ終わりか」
「周りを見る」
「また点検かよ」
「見なかった場所が壊れたんじゃろう!」
「それもそうか」
二人は放牧地を一周した。
横木を押す。
支柱を揺らす。
縄の緩みを見る。
山羊が身体をこすりつけている場所は、特に注意して確かめる。
今度は、ほかに危険な場所は見つからなかった。
曲がった釘。
木屑。
切り落とした端材。
道具。
すべてを集める。
ムースは切った鎖も布へ包んだ。
「その鎖、本当に直せるのか」
乱馬が尋ねる。
「新しい輪を入れてつなぐ。少し重くなるが、使えるんじゃ」
「俺が引っ張っても切れねえ?」
「貴様は何を試すつもりじゃ!」
「強度の話だよ」
「修理したあとで確かめる。だが、右肩は使うな」
「おまえまで肩の話かよ」
「さっき山羊を戻したとき、痛んだじゃろう」
「見てたのか?」
「動きが一瞬止まった」
乱馬は右肩を軽く押さえた。
「少し張るだけだ」
「使ったからじゃ」
「あの場で使わねえわけにいかなかっただろ」
「それは分かっておる」
ムースは短く答えた。
乱馬は少し意外そうに見る。
「怒らねえのか」
「おらでも使った」
「それもそうか」
二人は修理した柵の前へ腰を下ろした。
夕方までは、まだ少し時間がある。
山羊たちは、新しく直した横木の近くでも気にせず草を食べていた。
「おまえ、本当にこの村が大事なんだな」
乱馬が言った。
「当然じゃ」
「シャンプーがいるから?」
「それだけではない」
ムースは、斜面の下に見える村の屋根へ顔を向けた。
「おらは修行で、長く村の外へ出ておった」
「帰ってきたのか」
「シャンプーがいる。ひいばあさまもいる。母方の家もある」
ムースは、拾った曲がった釘を袋へ入れた。
「戻れば叱られる。仕事もある。面倒なことも多いんじゃ」
「最後の方、帰りたくなくならねえか?」
「それでも、ここはおらの戻る場所なんじゃ」
「戻る場所、か」
乱馬も斜面の下を見る。
石造りの家々が、山の間へ固まっている。
朝になれば人が起きる。
仕事へ向かう。
食事をし、夜になれば同じ家へ帰る。
「俺には、そういうのはよく分かんねえな」
「貴様は、ずっと旅をしておるからじゃろう」
「……かもな」
乱馬はそれ以上、何も言わなかった。
ムースも聞かなかった。
山羊の鳴き声が一度だけ響いた。
夕方。
シャンプーが放牧地へ戻ってきた。
乱馬の赤い服には、木屑と泥がついている。
ムースの袖からは、切断した鎖の端がのぞいていた。
「何があった」
シャンプーが尋ねる。
「古い柵が壊れた」
乱馬が答えた。
「山羊が逃げた。ムースが網で止めて、俺が戻した」
「その鎖は?」
「仮止めに使ったんじゃ」
ムースが胸を張る。
「おらの暗器がなければ、山羊は村の畑まで逃げておったんじゃ!」
「俺が戻さなきゃ、網が破られてただろ」
「おらが貴様を鎖で引かなければ、山羊に突かれておった!」
「それは助かったけどよ」
シャンプーは二人の間を通り、修理した柵へ向かった。
新しい横木を引く。
動かない。
補強した支柱を押す。
根元にも隙間はない。
鎖で仮止めした場所も確認する。
「今夜は持つ」
「明日また直すのか?」
乱馬が尋ねる。
「朝に放牧地の担当へ見せる。問題なければ、そのまま使う」
「俺たちが直したんじゃ足りねえのか」
「別の者も見る」
「何で」
「直した者は、自分の失敗を見落とすことがある」
「俺たち、全部見たぞ」
「だから、別の者も見る」
乱馬は少し考えた。
「……それなら分かる」
シャンプーは乱馬の右肩を見る。
「肩は?」
「少し痛む」
「使ったからだ」
「あの場で使わねえわけにいかなかっただろ」
「分かっている」
「だったら責めるなよ」
「責めていない。戻ったら薬を塗る」
「そのくらい平気だ」
「痛むと言った」
「少しだ」
「少しでも塗る」
「命令すんな」
「では頼む」
「すぐ言い直すな!」
ムースが二人の間へ入る。
正確には、二人とは違う方向へ胸を張った。
「シャンプー! おらの働きを見てくれたか!」
「こちらだ」
シャンプーはムースの背後にいた。
ムースは何も言わず、ゆっくり向きを変える。
「夕日がまぶしかったんじゃ」
「山、反対側だぞ」
乱馬が笑う。
「黙れ!」
シャンプーは余った道具を持ち上げた。
乱馬が端材の束を左肩へ担ぐ。
ムースは切断した鎖と工具をまとめた。
三人は、村へ続く山道を下り始めた。
乱馬とムースは、すぐにまた言い争いを始める。
相手を好きになったわけではない。
認めたとも言わない。
それでも、相手が何を守ろうとしているかは、朝より少しだけ分かっていた。
シャンプーは振り返らず、二人の声を聞きながら山道を下りた。
夕食の席で、乱馬はコロンへ午後の出来事を話した。
古い柵が壊れたこと。
山羊が逃げたこと。
ムースが網で止めたこと。
乱馬が山羊を戻したこと。
切断した鎖で、支柱を仮止めしたこと。
「点検を頼んで正解だったね」
コロンが言う。
「壊れたあとだったけどな」
「山羊が村へ入る前に止めただろう」
「まあな」
「明朝、放牧地の担当へ確認させるよ」
「俺たちの修理じゃ信用ねえのか?」
「信用することと、確かめることは別さ」
「今日、シャンプーにも同じこと言われた」
「なら、二度聞けば覚えるだろう」
「俺は一回で覚える!」
シャンプーは、乱馬の右肩へ使う薬の壺を卓の脇へ置いた。
「食べ終わったら使え」
「自分で塗る」
「届くのか」
「左手で届くだろ」
乱馬は右肩の後ろへ左手を回す。
途中で止まった。
「……塗りにくいところだけ頼む」
「分かった」
玄馬が隣から肉へ手を伸ばす。
「ムースは、なかなか役に立ったようだな」
「仕事はできる」
乱馬は答えた。
「あいつの網がなかったら、山羊をまとめて止められなかったしな」
「ほう」
玄馬が少しだけ意外そうに乱馬を見る。
「朝は、同じ仕事などしたくないと言っていた相手を、ずいぶん評価するではないか」
「仕事の話だよ!」
「わしは何も言っておらんぞ」
「その顔が何か言ってんだよ!」
「どんな顔だ」
「にやにやすんな!」
乱馬の声が食卓へ響く。
シャンプーは薬の壺を開けながら、そのやり取りを聞いていた。
夕食後。
乱馬は宗家を出て、ムースの分家にある修理場へ向かった。
右肩には薬が塗られ、薄い布が巻かれている。
分家の作業場では、ムースが切断した鎖を台の上へ広げていた。
「何をしに来たんじゃ」
「手伝うって言っただろ」
「貴様の手など借りん」
「一人で鎖を張りながら、金具つけられんのか?」
ムースの動きが止まった。
「できるんじゃ」
「じゃあ見てる」
「見られると邪魔じゃ!」
「だったら手伝わせろよ」
「仕方がないんじゃ」
ムースは作業台の端へ、小さな金属の輪を置いた。
「切った場所へ、この輪を入れる。両側の鎖を張れ」
「右肩は使うなって言われてる」
「左手と身体で引くんじゃ」
「注文が多いな」
「暗器じゃぞ。緩くつなげば、おらの腕へ戻ってくる」
「それは困るな」
「おらが困るんじゃ!」
乱馬は鎖の端を左手で持った。
もう片方を腰へ回し、身体の重さで張る。
「このくらいか」
「引きすぎじゃ」
乱馬が少し緩める。
「これか?」
「あと半分じゃ」
「半分って何だよ」
「いま緩めた分の半分じゃ!」
「最初からそう言え!」
「言っておる!」
張りが合う。
ムースは新しい輪を鎖へ通した。
金具の端を合わせる。
小さな金槌と金属棒を使い、少しずつ閉じていく。
乱馬は鎖が動かないよう、左手と腰で支えた。
「まだか?」
「動くな」
「右肩が張る」
「右で持っておらんじゃろう」
「身体ひねってるから来るんだよ」
「あと少しじゃ」
ムースが最後の一打を加える。
金属の輪が閉じた。
「離してよい」
乱馬が鎖から手を離す。
ムースはつないだ箇所を指で確かめた。
次に両手で引く。
輪は開かない。
「直ったのか」
「確かめる」
ムースは作業場の外へ出た。
鎖を袖へ収める。
腕を振る。
分銅のついた先端が、夜の空気を切って飛んだ。
木の支柱へ巻きつく。
ムースが引く。
鎖は途中で引っかからず、まっすぐ戻ってきた。
「朝よりまっすぐ飛んでるな」
乱馬が言う。
「もともとまっすぐじゃ!」
「つないだところも平気そうだな」
「当然じゃ」
ムースは鎖をもう一度確かめ、丁寧に袖へ戻した。
「これで借りは返したぞ」
乱馬が言う。
「おらは借りなど作っておらん」
「俺が手伝わなきゃ、一人じゃやりにくかっただろ」
「時間をかければ一人でもできたんじゃ」
「じゃあ何で手伝わせた」
「貴様がうるさかったからじゃ!」
「素直じゃねえな」
「貴様にだけは言われたくないんじゃ!」
二人はまた言い合う。
だが、今度は暗器も拳も飛ばなかった。
離れへ戻ると、玄馬はすでに寝台へ横になっていた。
「遅かったな」
「ムースの鎖を直してた」
「ムースはどうだった?」
「面倒な奴だ」
「お前と似ているな」
「どこがだ!」
玄馬は布団をかぶった。
「声の大きいところだ」
「親父に言われたくねえ!」
乱馬は文句を言いながら寝台へ座った。
右肩をかばうように、ゆっくり横になる。
朝から柵を直し。
山羊を追い。
午後も材木を運び。
夜には鎖を支えた。
目を閉じると、眠りはすぐに訪れた。
宗家の離れでは、乱馬が右肩をかばいながら眠りについていた。
分家の作業場では、つなぎ直された鎖が壁へ掛けられていた。
朝には、同じ仕事などしたくないとムースは言った。
昼までには、乱馬と同じ柵を直した。
午後には、二人で逃げた山羊を柵へ戻した。
夜には、乱馬に端を持たせて、自分の鎖をつなぎ直した。
相手を好きになったわけではない。
認めたとも、まだ言わない。
それでも、村の北では、直された柵の内側で山羊たちが眠っていた。