シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
村の家々を抜けると、提灯の光だけでは足元のすべてを照らせなくなった。
道の片側には低い石壁が続き、その向こうは暗い山の斜面へ落ちている。昼間なら遠くまで見える岩肌も、今は月明かりの中に輪郭だけを残していた。
シャンプーは提灯を低く持ち、地面へ光を落としながら歩く。
乱馬はその横を進んだ。
「昼と全然違うな」
「何がだ」
「見える範囲」
乱馬は前方を見る。
提灯の外側は、すぐに暗闇だった。
「昼なら、あの先まで一気に見えるだろ」
「夜は近くを見る」
「遠くから何か来たら?」
「そのために、ところどころで灯りを消す」
「消すのかよ」
「暗い方が、遠くの火は見える」
「なるほどな」
少し歩くと、西の水路が見えてきた。
数日前に乱馬も入った場所だった。
夜の水路は、昼より音が大きく聞こえる。
水面へ提灯の光が揺れていた。
シャンプーは流れの脇へしゃがむ。
「また詰まってんのか?」
「見るだけだ」
「今日、そればっかりだな」
「確認だからな」
シャンプーは水位の跡を見る。
流れの音を聞き、上流へ目を向ける。
乱馬も隣から水路をのぞいた。
「昨日より多い?」
「昨日とほぼ同じだ」
「分かるのか」
「ここへ水が当たっている」
シャンプーが石の側面を指した。
うっすら濡れた線がある。
「これが下がっていたら?」
「流れが減っている」
「じゃあ、今日は平気か」
「今のところは」
シャンプーは立ち上がった。
二人は水路沿いを少し歩く。
乱馬は右腕をだらりと下げたままにしていた。歩くだけなら肩は痛まない。
そのかわり、シャンプーが何度か横目で確認してくる。
「何だよ」
「肩」
「使ってねえって」
「ならいい」
「見回りより俺の肩見てる方が多くねえ?」
「それはない」
「あるだろ」
「水路も見た」
「比べるもんじゃねえよ」
シャンプーは答えず、先へ進んだ。
水路を離れると、外周の石壁が低くなった。
壁の外には、畑を避けるように細い山道が続いている。
シャンプーが足を止めた。
「ここ」
「何だ?」
乱馬も止まる。
提灯が地面へ向けられた。
湿った土の上に、小さな足跡が残っている。
「人じゃねえな」
「山狐だ」
「狐?」
乱馬がしゃがんだ。
細い足跡は石壁へ近づき、そこで向きを変えて山側へ戻っている。
「村に入ったのか?」
「入っていない」
「何で分かる」
「壁の内側に跡がない」
「鶏でも狙って来たのか」
「そうかもしれない」
「捕まえたら食える?」
シャンプーが乱馬を見る。
「最初に聞くのがそれか」
「山で暮らしてりゃ食うんだろ」
「食べることもある」
「やっぱり食うのかよ」
「おまえも食べたいのだろう」
「味による」
シャンプーの口元が少し動いた。
「玄馬と同じだな」
「一緒にすんな!」
乱馬が声を上げる。
暗い山の方から、鳥が一羽飛び立つ音がした。
「大声を出すな」
「おまえが親父と一緒にするからだろ」
「狐は戻っている。問題ない」
「話そらしたな」
シャンプーはすでに歩き出していた。
乱馬も立ち上がり、その横へ追いつく。
少し先には、石で作られた小さな台があった。
台の中には灰が残っている。
「これ何だ?」
「合図用の火を置く」
「誰に?」
「外から来た者がいれば、門へ知らせる」
「夜中でも?」
「必要ならな」
シャンプーが灰へ手を近づける。
熱は残っていない。
「消えてる?」
「完全に」
「ここまで見るのか」
「火が残っていたら困る」
「山だもんな」
乱馬も灰を見る。
昼間ならただの石台にしか見えなかっただろう。
夜になると、村の中とは違う仕事がある。
「この村、本当にずっと誰かが何か見てんな」
「そうしないと困ることがある」
「誰も見てなくても平気な日もあるだろ」
「平気だったかどうかは、見なければ分からない」
「……また確認か」
「そうだ」
「今日、それで一日終わりそうだな」
外周を北へ進むにつれ、道は少しずつ高くなった。
下を見ると、村の屋根が重なっている。
昼間に歩いた道。
朝市が開かれた広場。
宗家のある辺り。
ところどころに灯りが残っていた。
乱馬は歩きながら、その向こう側へ目を向ける。
さらに東。
山を越えた先。
「青河って、あっちだよな」
乱馬が言った。
「東だ」
「下の分かれ道を行って、石塔があって、川の音が聞こえてくる」
「覚えているな」
「一回聞いたからな」
「今日、釘の数は間違えた」
「道と釘を一緒にすんなよ」
乱馬は暗い東の山を見る。
「青河までは分かる」
「その先は?」
「知らねえ」
シャンプーは歩きながら聞く。
「玄馬は?」
「知ってるって言う」
「なら聞けばいい」
「聞いたことはある」
「何と言った」
「東へ行けって言ったり、川沿いに下れって言ったり、大きな町まで行けば分かるって言ったり」
「毎回違うのか」
「だから怪しいんだよ」
「では、自分で聞いた方がいい」
「俺もそう思ってる」
乱馬は少し間を置いた。
「青河の先って、本当に道いっぱいあるのか?」
「ある」
「港へ行くなら?」
「どの港かによる」
「日本へ戻るのに使える港」
「それも一つではない」
「今日もそれ言ってたな」
「答えは変わらない」
乱馬が頭をかく。
「じゃあ、日本のどこへ行くか決めればいいんだろ」
「どこへ帰る」
「家だよ」
シャンプーの足は止まらなかった。
「どこの家」
乱馬の返事が少し遅れた。
「親父が知ってる」
「おまえは?」
「……小さいころに出たんだよ」
「場所は覚えていないのか」
「町の名前まではな」
「家の近くに何がある」
「知らねえ」
「目印は?」
「覚えてねえ」
乱馬の声が少しずつ小さくなる。
シャンプーは前を見たまま言った。
「おまえは知らないのだな」
「親父が知ってれば着くだろ」
「玄馬が道を知っていればな」
「そこが問題なんだよ!」
乱馬は思わず声を上げた。
少しして、自分でも気づいたように黙る。
「……俺、日本へ帰るってずっと言ってるけどさ」
「言っている」
「日本までは帰れると思うんだよ。港までの道も聞けば分かる」
「そうだな」
「でも、そのあとどこへ行くんだろうな」
シャンプーが乱馬を見る。
乱馬自身が、一番よく分かっていない顔をしていた。
「家へ帰るのではないのか」
「だから、その家が分かんねえんだって」
「母親は?」
「いる」
乱馬は答えたあと、少し言い直した。
「……いるはずだ」
「会っていないのか」
「小さいころに親父と修行へ出てから、ずっとな」
「長いな」
「まあな」
「手紙は?」
「書いてねえ」
「なぜ」
「親父が、立派な男になって帰るとか何とか決めてたから」
シャンプーが乱馬を見る。
「玄馬が決めたのか」
「そう」
「おまえではなく?」
「小さいころの俺に聞いてどうすんだよ」
乱馬は少し苛立ったように答えた。
だが、すぐに前へ向き直る。
「母ちゃんの顔も、あんまり覚えてねえんだよな」
「会えば分かる」
「向こうが俺を覚えてるかも分かんねえぞ」
「覚えていると思う」
「何で」
「母親だからだ」
「おまえ、会ったことねえだろ」
「それでもだ」
乱馬は何か言い返そうとした。
やめた。
二人の足音だけが続く。
少しして、乱馬が言った。
「……会いには行きてえな」
シャンプーが横を見る。
「母親に?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
「顔も覚えてねえ相手に、会ったらどうするとか分かんねえだろ」
「それでも会いたい」
「……まあ」
乱馬は頭をかいた。
「そうなんだろうな」
自分で言葉にしてから、納得したようだった。
北側の外周には、小さな見張り台があった。
石を積み上げただけの簡素な高台だ。
二人はそこへ上る。
シャンプーは提灯の火を小さくした。
「消すのか?」
「遠くを見る」
周囲が暗くなる。
代わりに、遠い山の稜線が月明かりの中へ浮かんできた。
火は見えない。
人の灯りもない。
風だけが山の間を抜けていく。
「何もないな」
「ないことを見る」
「今日の朝から、そればっかりだな」
「嫌か」
「嫌っていうか」
乱馬は石壁へ腰を下ろした。
「こういう仕事もあんだなって思ってる」
シャンプーは予備の薪と縄を確認する。
乱馬は下に広がる村を見た。
灯りの場所が分かれている。
その一つ一つに誰かが住んでいる。
「おまえは、あれ全部分かるのか」
「何がだ」
「どの家に誰が住んでるとか」
「全部ではないが、だいたいは分かる」
「宗家は?」
「あそこだ」
「分かりやすいな」
「薬草を扱う家は、あの辺り」
「昨日の放牧地の人は?」
「北側の家だ」
「朝市で迷子になった子どもは?」
シャンプーは少し離れた灯りを指した。
「あそこ」
「本当に覚えてんのかよ」
「村の人間だからな」
「明日、誰が何してるかも?」
「全部ではない。だが、朝になれば分かる」
「おまえは?」
「午前は薬草の確認。午後はまだ決まっていない」
「また仕事か」
「村にいるからな」
乱馬は下の灯りを見たまま言う。
「俺には、こういうのねえな」
「何が」
「戻ったら誰がいて、明日何するか分かる場所」
シャンプーは何も言わなかった。
「親父についてりゃ、どこかには着く」
「それでは、おまえが帰る場所ではないのか」
「分かんねえ」
乱馬は素直に答えた。
「日本は俺の国だし、母ちゃんもいる。たぶん家もある」
「だが、場所は知らない」
「そうなんだよ」
乱馬は苦笑した。
「帰る道を調べ始めたら、その先が分かんねえって気づいた」
シャンプーは村の灯りへ視線を戻す。
「知らないなら、知ればいい」
「簡単に言うな」
「道を聞いたときも、最初は知らなかった」
「……そうだけどよ」
「青河までは知った」
「その先も聞けば分かるって?」
「道ならな」
「じゃあ、家は?」
「それは玄馬へ聞くしかない」
「一番信用できねえところじゃねえか」
シャンプーの口元がわずかに動いた。
「笑うな」
「笑っていない」
「今笑っただろ」
「風だ」
「口元に風関係ねえよ!」
乱馬の声が夜の見張り台へ響いた。
「大声を出すな」
「おまえが変なごまかし方するからだろ!」
見張り台を下りると、二人は外周を西寄りへ回った。
その先には、小さな墓地があった。
石を積んだ簡素な墓が並び、月明かりの下に白く浮かんでいる。
乱馬の足が少し遅くなった。
「ここ通るのか?」
「見回りの道だ」
「夜に?」
「夜だから通らない理由があるのか」
「別に怖くねえけどな」
「まだ何も聞いていない」
「先に言っといただけだ!」
シャンプーが墓の間を歩く。
乱馬も少し間を空けて続いた。
「猫が怖いとは聞いた」
乱馬の足が止まる。
「誰から聞いた」
「玄馬」
「親父……!」
乱馬が離れのある方向を睨む。
「帰ったら覚えてろよ」
「猫はいない」
「分かってる!」
乱馬も墓地へ入った。
墓の前には、小さな花や木の実が供えられている。
「ここにも、おまえの家族いるのか」
「いる」
シャンプーが一つの墓を示した。
「父方の祖父母だ」
「そうなのか」
乱馬は墓を見る。
「おまえ、どこに誰が眠ってるかも分かるんだな」
「家族だからな」
「ほかの奴も?」
「知っている者なら」
乱馬は周囲を見る。
昼間に見た家々だけではない。
この村で生まれ、暮らし、すでにいなくなった者もここにいる。
「帰る場所って、こういうのも入るのか」
シャンプーが乱馬を見る。
「どういう意味だ」
「死んだ奴がいる場所」
シャンプーは少し考えた。
「入ると思う」
「もういねえのに?」
「いなくなったから、なかったことにはならない」
乱馬は返事をしなかった。
自分の祖父母がどこにいるのか。
生きているのか。
どこへ墓参りへ行けばよいのか。
乱馬は何も知らなかった。
「俺、本当に何も知らねえな」
ぽつりとこぼれる。
「知らないことが分かった」
「それ、慰めてんの?」
「違う」
シャンプーは正面から答えた。
「知らないと分かれば、聞ける」
「簡単に言うなあ」
「今日も文字を聞いていた」
「それと家族は違うだろ」
「違う。だが、知らないままにする必要はない」
乱馬は墓の向こうに見える月を見上げた。
「……そうだな」
しばらく二人は黙って歩いた。
墓地を抜けるころ、乱馬が口を開いた。
「おまえさ」
「何だ」
「俺が帰るって言ったら、止めると思ってた」
シャンプーの足が止まる。
「なぜ」
「最初は婿にするって言ってたから」
シャンプーはすぐには答えなかった。
「裁定が出る前に出ようとすれば止める」
「そこは止めるのかよ」
「今はまだ決まっていない」
「じゃあ裁定が終わったら?」
シャンプーの返事は少し遅れた。
「まだ分からない」
「またそれかよ」
「まだ決まっていないからだ」
「おまえなら、掟だから残れって言うと思ってた」
「そうなるかもしれない」
「かもしれない?」
「裁定が何になるかも分からない」
シャンプーは少し考える。
「私がそのとき何を考えるかも、今は分からない」
乱馬は横からその顔を見る。
「でも、帰る道を聞くのは止めねえんだな」
「道を知ることまで止める理由はない」
乱馬は少し黙った。
朝市の日にも、似たことを聞いた。
決まっていないことを、決まったようには言えない。
だが、道を知ることまで止める必要はない。
シャンプーの答えは、そこからまだ大きくは変わっていない。
「そっか」
「何だ」
「いや」
乱馬は前を向いた。
「それならいい」
シャンプーも、それ以上は聞かなかった。
見回りを終えるころには、村の灯りもかなり少なくなっていた。
門番へ水路と山狐の足跡を報告する。
「狐は中へ入っていない」
「分かった。朝も見る」
門番が答える。
乱馬は横から聞いていた。
「朝も見るのかよ」
「夜と朝では違う」
シャンプーが言う。
「もう驚かねえぞ」
「そうか」
「ちょっとだけな」
二人は村の中へ戻った。
外周の暗闇から家々の間へ入ると、提灯がなくても足元が少し見える。
宗家へ近づいたところで、乱馬が言った。
「明日、ばあさんに聞く」
「何を」
「青河から先」
乱馬は東の方角を見る。
「親父に任せてたら、本当に日本へ着くか怪しいからな」
「覚えるのか」
「俺が帰る道だろ。俺が覚える」
「そうか」
「何だよ」
「何でもない」
「また笑ってねえだろうな」
「笑っていない」
「本当か?」
「提灯を見るな。私を見ろ」
「見えてるよ!」
二人は宗家の前で分かれた。
「肩は?」
「最後までそれかよ」
「痛むのか」
「歩いただけだから平気」
「ならいい」
「おう。おやすみ」
乱馬は離れへ向かった。
「乱馬」
後ろから呼ばれる。
「何だ?」
「青河の字は、明日まで覚えておけ」
乱馬の顔が引きつった。
「道より先に字かよ!」
「荷札を読めなければ、途中で困る」
「……それは分かるけどよ!」
シャンプーはそのまま母屋へ戻っていった。
離れへ入ると、玄馬は布団の中にいた。
「遅かったな」
「見回り一周してきた」
「夜道は修行になる」
「来なかった奴が言うな」
乱馬は寝台へ腰を下ろした。
「親父」
「何だ」
「日本へ戻ったあと、どこ行くんだ?」
「家だ」
「だから、どこの家だよ」
玄馬が少し黙る。
「日本へ着けば思い出す」
「おまえ、本当に知らねえだろ!」
「忘れたわけではない。少し記憶が曖昧なだけだ」
「それを知らねえって言うんだよ!」
乱馬が立ち上がりかける。
右肩がわずかに張った。
「っ……」
「肩を使うな」
「誰のせいで立ったと思ってんだ!」
「わしは座って話している」
「そういう問題じゃねえ!」
乱馬は右肩を押さえながら、もう一度寝台へ座った。
「明日、ばあさんに青河から先を聞く」
「わしが知っている」
「信用できねえ!」
「親を信用せんとは何事だ」
「昨日も今日も信用と確認は別だって言われたんだよ!」
玄馬が黙った。
「……村に染まってきたな」
「そこじゃねえ!」
乱馬は布団を引き寄せた。
「俺が覚える。親父に任せねえ」
「好きにしろ」
「最初からそうすりゃよかったんだ」
乱馬は横になる。
右肩へ負担がかからないよう、身体の向きを少し変えた。
灯りを消す。
暗闇の中で、さっき見た村の景色を思い出した。
シャンプーは、どの辺りに誰が住んでいるか知っていた。
明日、自分が何をするかも知っていた。
死んだ家族がどこに眠っているのかも知っていた。
乱馬には、日本という国がある。
母親もいる。
家も、どこかにはある。
だが、その場所をまだ自分は知らない。
帰る道は、少しずつ分かってきた。
青河までなら、自分で行ける。
その先も、聞けば覚えられる。
だが、その道の終わりにあるはずの「帰る場所」がどこなのかは、まだよく分からなかった。
乱馬は明日、それも自分で確かめると決めた。
誰かの後ろを歩いて帰るのではなく、自分で帰るために。