シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF―   作:エーアイ

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第19話 乱馬は、日本へ帰る道を自分で覚える

 翌朝。

 

 乱馬は目を覚ますと、最初に右肩を動かした。

 前へ。

 横へ。

 最後に、ゆっくり頭の上まで。

 

「……お」

 

 昨日まであった引っかかりは、かなり薄くなっている。

 完全に何も感じないわけではない。腕を一番上まで持ち上げると、肩の奥にわずかな張りが残った。

 それでも、水路で濡れた翌朝や、山羊を追った夜よりはずっとましだった。

 

「もう治ったな」

 

 乱馬が言うと、隣の寝台から玄馬が顔だけを出した。

 

「そういうことを自分で言う者ほど、まだ治っておらんものだ」

 

「朝からばあさんみてえなこと言うな」

 

「年長者の知恵というものだ」

 

「昨日は見回りにも来なかったくせに」

 

「夜は身体を休める時間だからな」

 

「俺は歩かされたぞ」

 

「若者は歩け」

 

「便利だな、年寄り」

 

「わしはまだ若い」

 

「どっちなんだよ!」

 

 乱馬は布団を跳ねのけた。

 上着へ腕を通す。

 右肩を動かしても、痛みはない。

 だが、昨夜シャンプーから最後まで何度も確認されたせいか、無意識に大きく回すのは避けていた。

 

 離れを出る。

 

 朝の村には、すでに仕事へ向かう人の姿があった。

 荷車の音。

 家畜の鳴き声。

 水路から汲んだ水を運ぶ足音。

 何日か前なら、全部が自分とは関係のない村の音に聞こえていた。

 今は、どこから何の音がしているのか、少しだけ分かる。

 

 北から聞こえる山羊の声に、乱馬は昨日直した柵を思い出した。

 そして東の方角を見る。

 青河。

 昨夜、自分で口にしたことも思い出す。

 

「今日聞くんだったな」

 

 乱馬はそのまま宗家へ向かった。

 


 

 朝食の席では、コロンが湯気の立つ粥を食べていた。

 シャンプーもすでに座っている。

 乱馬はいつものように空いている場所へ腰を下ろした。

 

「ばあさん」

 

「朝から何だい」

 

「昨日の夜の続き、聞きてえんだけど」

 

 コロンの箸が止まった。

 

「何の話だい」

 

「帰る道。青河から先だよ」

 

 シャンプーが乱馬を見る。

 昨夜の見回りで話したことを覚えているらしいが、口は挟まなかった。

 

「青河までは覚えたのかい」

 

「東へ出て、下の分かれ道。石塔を通って、川の音がする方だろ」

 

「そこまではいい」

 

 コロンは粥を一口食べてから、乱馬を見る。

 

「それで、その先を聞いてどうする」

 

「覚えるんだよ」

 

「裁定が出る前に村を出るつもりじゃないだろうね」

 

「出ねえよ」

 

 乱馬はすぐに答えた。

 

「まだ呪泉郷の記録も戻ってねえし、裁定が出るまで勝手に出られねえのも分かってる」

 

「なら、なぜ今聞く」

 

「帰ることになったとき、親父の後ろについてくだけなのが嫌だからだよ」

 

 乱馬は隣で饅頭を食べている玄馬を見る。

 

「こいつ、日本へ着けば家を思い出すとか言ってんだぞ」

 

「長く離れている土地だ。多少記憶が曖昧になることもある」

 

「だから信用できねえんだよ!」

 

 乱馬はコロンへ向き直った。

 

「俺が帰る道なんだから、俺が覚えときてえ」

 

 コロンはしばらく乱馬を見る。

 

「……裁定前に出ることは認めないよ」

 

「分かってるって」

 

「だが、道を知ることまで止める理由はない」

 

 シャンプーがわずかに目を動かした。

 昨夜、自分が乱馬へ言ったのと同じ答えだった。

 

「なら、ちょうどいい」

 

「何が?」

 

「今日は東門へ行きな」

 

「何で帰り道聞いたら仕事になるんだよ!」

 

「青河へ出す荷がある」

 

「……それが何だよ」

 

「道を覚えたいんだろう?」

 

 コロンが杖の先を東へ向ける。

 

「荷がどこへ行くのか、自分の目で見な」

 

「地図だけ見せてくれりゃいいだろ」

 

「地図だけ見て覚えられるのかい」

 

「見てから決める」

 

「その前に働きな」

 

「結局それかよ!」

 

 シャンプーが淡々と言った。

 

「荷札を分ける仕事だ」

 

「重いの運ぶんじゃねえの?」

 

「肩は?」

 

「ほとんど治った」

 

「ほとんど」

 

「……まだ少し張る」

 

「なら重い荷は持つな」

 

「またそれかよ」

 

 コロンがうなずく。

 

「重い物は別の者が運ぶ。おまえは荷札と数を確認しな」

 

「昨日と同じじゃねえか」

 

「昨日は倉庫。今日は外へ出す荷だ」

 

「何が違うんだよ」

 

「間違えたら、物が別の町へ行く」

 

 乱馬が黙った。

 

「……それは困るな」

 

「分かったなら食べな」

 

「俺、帰り道聞いただけなんだけどな」

 

 文句を言いながらも、乱馬は粥の椀を取った。

 


 

 東門の近くには、朝から荷が並べられていた。

 

 布で包んだ薬草。

 細い縄。

 乾燥させた香辛料。

 金具を入れた木箱。

 

 村の中で使うものではなく、外へ出すものだった。

 荷車も二台停まっている。

 乱馬は並べられた荷を見回した。

 

「これ全部、青河?」

 

「全部ではない」

 

 シャンプーが答える。

 彼女の手には、昨日も使っていた木札と記録板がある。

 

「途中までは同じ道を使う」

 

「途中から分かれる?」

 

「そうだ」

 

「昨日言ってたやつか」

 

 乱馬は一番近い荷札を見る。

 文字が並んでいる。

 一番上の二文字には見覚えがあった。

 

「これは青河」

 

「合っている」

 

「覚えたぞ」

 

「昨日見たばかりだ」

 

「覚えたことに変わりねえだろ」

 

「では、これは?」

 

 シャンプーが隣の荷を指した。

 似ている。

 だが、最初の字が違う。

 乱馬は目を細めた。

 

「……青河じゃねえ」

 

「それだけか」

 

「読めねえんだから仕方ねえだろ」

 

「なら聞け」

 

「聞いてる」

 

「柳平」

 

「りゅうへい?」

 

「青河より手前で南へ分かれる」

 

「じゃあ、こっちへ混ぜたら駄目なのか」

 

「途中までは同じ荷車へ載せる」

 

「何だよ。じゃあ同じでいいじゃねえか」

 

「降ろす順番が違う」

 

「そこまであんのかよ」

 

 シャンプーは荷車の奥を指す。

 

「青河まで行く物を奥へ。柳平で降ろす物は手前」

 

「逆にしたら?」

 

「青河の荷を全部降ろさないと、柳平の荷が出せない」

 

「……面倒だな」

 

「だから分ける」

 

 乱馬は荷札をもう一度見る。

 

「じゃあ、これは柳平」

 

「そうだ」

 

「字の形、覚えとく」

 

「間違えるな」

 

「間違えそうなら聞くよ」

 

 シャンプーの手が一瞬止まった。

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

「今、何か言おうとしただろ」

 

「聞くなら問題ないと思っただけだ」

 

「分かんねえ字を勝手に決めて、荷物どっか飛ばしたら困るだろ」

 

「そうだな」

 

 乱馬は次の札へ手を伸ばした。

 

「これ」

 

「青河」

 

「同じじゃん」

 

「では、こっちへ置け」

 

「待て。奥だろ」

 

 乱馬は荷車の奥を指す。

 

「青河まで行くんだから」

 

「覚えているな」

 

「さっき聞いたばっかりだ!」

 

 乱馬は軽い包みを持ち上げた。

 右肩へ負担がかからないよう、左手を中心に抱える。

 荷車の奥へ置く。

 重い木箱へ手を伸ばそうとすると、シャンプーに止められた。

 

「それは持つな」

 

「持てる」

 

「肩」

 

「軽そうだぞ」

 

 近くにいた男が木箱を持ち上げた。

 

「これは鉄だぞ」

 

 ずしりとした音を立てて荷台へ置く。

 乱馬は箱を見る。

 

「……見た目より重いな」

 

「だから札を見ろ」

 

「分かったよ」

 

 乱馬は少し不満そうに荷札へ戻った。

 


 

 仕事は思っていたより細かかった。

 

「十二」

 

 乱馬が言う。

 

「十三」

 

 シャンプーが答える。

 

「どれ数えた?」

 

「そこの一つを飛ばした」

 

「何で分かるんだよ」

 

「印をつけながら数えた」

 

「先に言え」

 

「昨日も数えただろう」

 

「釘と袋は違う!」

 

 乱馬はもう一度、乾燥薬草の包みを数えた。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 今度は指で場所をずらしながら数える。

 

「……十三」

 

「合っている」

 

「最初からこうすりゃよかった」

 

「一度間違えたから分かったのだろう」

 

「俺、最近そればっかりだな」

 

 シャンプーは答えなかった。

 荷は少しずつ荷車へ収まっていく。

 

 青河まで行く物。

 途中で降ろす物。

 別の道へ分ける物。

 

 文字を読めない乱馬でも、荷札の印と行き先を一つずつ聞けば仕分けられる。

 しばらくすると、同じ印が何度も出てきた。

 

「これも青河」

 

「そうだ」

 

「これは柳平」

 

「そうだ」

 

「こっちは……」

 

 乱馬が札を見つめる。

 少し長い名前だった。

 

「分からねえ」

 

「白沙」

 

「はくさ?」

 

「青河の先だ」

 

 乱馬の目が上がる。

 

「先?」

 

「青河を通って、さらに東へ行く」

 

「この荷、日本へ帰る道に近い?」

 

「途中まではな」

 

「どこまで?」

 

「青河から大きな河へ出る道の途中」

 

「大きな河って昨日言ってたやつ?」

 

「そうだ」

 

 乱馬は荷札を見る。

 

「白沙」

 

「そう」

 

「これも覚えとく」

 

「荷を先に分けろ」

 

「分かってる」

 

 乱馬は札を眺めながら、包みを青河行きとは別の場所へ置いた。

 

「青河で降ろさねえなら、もっと奥?」

 

「そうだ」

 

「こういうことか」

 

 荷車の中が、急にただの荷物の山ではなくなってきた。

 手前で降りる。

 途中で分かれる。

 青河を越える。

 それぞれの荷には、その先の道がある。

 

「道って、荷物見てる方が分かりやすいな」

 

 乱馬が言った。

 

「地図を見ていないのに?」

 

「だって、こいつは柳平で降りる。こいつは青河まで。こっちは青河より先だろ」

 

 乱馬は荷を順番に指した。

 

「同じ道走って、途中で消えてくんだな」

 

「消えない。届ける」

 

「分かってるよ」

 

 シャンプーは記録板へ印をつけた。

 

「午前の分はこれで終わりだ」

 

「やっとか」

 

「まだ積み終わっていない」

 

「今終わりって言っただろ!」

 

「仕分けが終わった」

 

「言い方!」

 

 乱馬が怒鳴る。

 近くの村人が笑った。

 


 

 荷車が出るころには、日はかなり高くなっていた。

 門の外へ向かう車輪を、乱馬はしばらく見送った。

 

「本当にあれ、青河行くんだな」

 

「一台はな」

 

「途中までなら、ついてけば青河へ着く?」

 

「荷車の速度でよければ」

 

「俺ならもっと早い」

 

「道を間違えなければな」

 

「それは覚えた」

 

「石塔のところで上へ行くな」

 

「下だろ」

 

「川の音がする方」

 

「分かってる」

 

「なら青河までは行ける」

 

 乱馬は少しだけ得意そうな顔をした。

 朝市で道を聞いたときは、目印を頭に入れただけだった。

 今は、実際に青河へ向かう荷車が東門から出ていくのを見ている。

 そこまでなら、もう玄馬の背中を追わなくても行ける。

 

「で、先は?」

 

 乱馬が聞く。

 シャンプーが門の内側を見る。

 

「ひいばあちゃんに聞くのだろう」

 

「そうだった」

 

「昼食のあとなら時間がある」

 

「ばあさん、逃げねえ?」

 

「なぜ逃げる」

 

「聞いたらまた仕事増やしそうだから」

 

「今日の仕事はまだ終わっていない」

 

「やっぱり増えるじゃねえか!」

 

「増えていない。最初からある」

 

「同じだ!」

 


 

 昼食を終えたあと、乱馬は宗家の一室へ呼ばれた。

 低い卓の上に、一枚の紙が広げられている。

 乱馬は紙を見る。

 

「これ、地図?」

 

「簡単なものだけどね」

 

 コロンが答えた。

 

 線。

 山を示す印。

 川。

 いくつかの地名。

 

 乱馬にも、朝見た二文字が分かった。

 

「青河」

 

「そこは読めるようになったね」

 

「昨日から何回見たと思ってんだ」

 

 シャンプーも卓の反対側に座っていた。

 教えるためというより、午前の荷出しの記録をコロンへ渡すために来ている。

 乱馬は地図へ顔を近づける。

 

「村は?」

 

 コロンが小さな印を指した。

 

「ここ」

 

「近っ」

 

「地図だからね」

 

「青河まで、こんだけ?」

 

「実際の距離とは違う」

 

「じゃあ何のための地図だよ」

 

「道のつながりを見るためさ」

 

「最初に言ってくれ」

 

 乱馬は線を指で追う。

 

 村。

 分岐。

 青河。

 

「ここまでは分かる」

 

「その先は大きな河へ出る」

 

 コロンが線をなぞる。

 

「ここで二つに分かれる。一つは河沿いに東。一つは南東へ下る」

 

「どっちが日本?」

 

「どちらからでも港へは行ける」

 

「どっちが早い?」

 

「どの港を使うかによる」

 

「またそれかよ」

 

「昨日も聞いたのかい」

 

「シャンプーに」

 

「なら答えは同じだ」

 

 乱馬は頭をかく。

 

「じゃあ、港ってどこ」

 

 コロンがさらに先を指した。

 

「この辺りに大きな港町がある。ここからなら船を探しやすい」

 

「日本行き?」

 

「直接出る船とは限らない。別の港で乗り換えることもある」

 

「船まで乗り換えんのかよ」

 

「海を渡るんだからね」

 

「歩くだけの方が簡単だな」

 

「海を歩けるならね」

 

「無茶言うなよ」

 

 コロンは別の線を指した。

 

「こっちは距離は少し長い。ただ、大きな町を通る。道を聞きやすい」

 

「迷いにくい?」

 

「初めてなら、こっちの方がいいかもしれない」

 

「じゃあこっちだな」

 

「今決める必要はないよ」

 

「覚えとくだけ」

 

 乱馬は地図へ顔を寄せる。

 

「この字何て読む」

 

 シャンプーが見た。

 

「白沙」

 

「朝も見た」

 

「荷札にあった」

 

「形までは覚えてねえ」

 

「では覚えろ」

 

「簡単に言うな」

 

「帰る道なのだろう」

 

「……そうだったな」

 

 乱馬はもう一度文字を見る。

 

「白沙」

 

 指で空中へ形を書く。

 少し違う。

 

「そこは横」

 

 シャンプーが言う。

 

「どこ?」

 

「二本目」

 

「これ?」

 

「違う」

 

「分かりにくい!」

 

「紙へ書けばいい」

 

 乱馬が顔を上げた。

 

「紙、一枚もらえるか?」

 

 コロンが眉を上げた。

 

「何に使うんだい」

 

「これ、俺用に写す」

 

 乱馬は卓の地図を指した。

 

「全部持っていく必要はねえだろ。俺が使う道だけ分かればいい」

 

「自分で書くのかい」

 

「その方が覚えるだろ」

 

 コロンの口元が少しだけ上がった。

 

「紙ならやるよ。ただし、仕事が終わってからだ」

 

「まだあんのかよ!」

 

「午前に出した荷の控えを倉庫へ戻す」

 

「地図の途中だろ!」

 

「道は逃げないよ」

 

 乱馬は地図とコロンを交互に見る。

 

「……終わったら戻ってくるからな」

 

「好きにしな」

 

「最初からそのつもりだよ」

 


 

 午後の仕事は、午前より地味だった。

 戻ってきた荷札。

 使わなかった縄。

 積み込みに使った布。

 東門で出した数と倉庫の記録が合っているかを確認する。

 

 乱馬は朝より早く数えた。

 

「十八」

 

「合っている」

 

「次」

 

「これは十二」

 

 シャンプーが言う。

 乱馬が自分でも数える。

 

「十二」

 

「合っている」

 

「最初から信じて十二って書けばいいだろ」

 

「確認」

 

「分かってるよ!」

 

 口では文句を言う。

 だが、もう数え直す理由については聞かなかった。

 荷札の文字も、朝より少し見分けられる。

 

「青河」

 

「そうだ」

 

「柳平」

 

「そう」

 

「これは……白沙」

 

 シャンプーが乱馬を見る。

 

「覚えたな」

 

「何回見たと思ってんだよ」

 

「では、これは?」

 

 別の札が出る。

 

「……知らねえ」

 

「聞くのか」

 

「聞かねえで間違えろって?」

 

「聞けばいい」

 

「だから何て読む」

 

 シャンプーは地名を教えた。

 乱馬は一度だけ復唱する。

 全部覚えるつもりはない。

 自分の帰る道に関係するものから覚えればいい。

 それでも、以前なら形すら気にしなかった文字が、少しずつ意味のあるものに見えてきた。

 

 夕方近く。

 

 最後の荷札を棚へ戻す。

 

「終わり」

 

 シャンプーが言った。

 

「本当に?」

 

「今日の仕事は」

 

「よし」

 

 乱馬はすぐに立ち上がった。

 

「どこへ行く」

 

「地図」

 

「もう仕事は終わったぞ」

 

「分かってる」

 

 乱馬は振り返る。

 

「これは俺の分だ」

 

 シャンプーは少しだけ目を細めた。

 

「そうか」

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

「最近それ多くねえ?」

 

「早く行かないと、ひいばあちゃんが別のことを始める」

 

「それは困る!」

 

 乱馬は先に倉庫を出た。

 


 

 コロンから紙を一枚もらい、乱馬は低い卓へ向かった。

 昼間の地図はまだ広げられている。

 

「全部写すのかい」

 

「必要なのだけ」

 

「何が必要か分かるのか」

 

「今から聞く」

 

「それならいい」

 

 乱馬は炭筆を持った。

 まず村を丸で描く。

 そこから一本の線。

 途中で二つに分ける。

 

「下の方が青河」

 

「地図の上下と実際の方向を混ぜるな」

 

 シャンプーが言った。

 

「俺が分かればいいんだよ」

 

「帰る途中で紙を回したら?」

 

 乱馬の手が止まる。

 

「……矢印つける」

 

 東を示す矢印を大きく描いた。

 

「これでいい」

 

「大きいな」

 

「間違えねえだろ」

 

 次に石塔。

 四角を二つ描く。

 

「それは何だ」

 

「石塔」

 

「箱に見える」

 

「石塔だよ!」

 

「二つあるのか」

 

「目印が二つだって聞いた」

 

「なら書いておけ」

 

 その先へ波線。

 

「川」

 

「川はもっと先まで続く」

 

「音が聞こえりゃいいんだから、ここだけでいい」

 

「地図なのか覚え書きなのか分からないな」

 

「俺が帰るための紙!」

 

 乱馬は青河のところで止まった。

 

「青河の字、もう一回」

 

「自分で書いてみろ」

 

「意地悪すんな」

 

「昨日も今日も見た」

 

「分かったよ」

 

 乱馬は思い出しながら書く。

 

 一文字目。

 二文字目。

 少し形が歪んだ。

 

「これで合ってる?」

 

「読める」

 

「読めるって何だよ」

 

「きれいではない」

 

「読めりゃいい!」

 

 青河から先。

 白沙。

 大きな河。

 そこから港へ向かう道。

 コロンが候補を二つ教える。

 

 乱馬は両方を書いた。

 

「何で二つとも?」

 

 シャンプーが聞く。

 

「片方使えなかったら困るだろ」

 

「道が閉じると?」

 

「雨とかで通れねえことあるだろ」

 

 コロンがうなずく。

 

「悪くない考えだね」

 

「だろ?」

 

「ただし、こっちは冬になると使いにくい」

 

「何で」

 

「山を越える」

 

 乱馬は線の横へ山を三つ描いた。

 

「これで分かる」

 

「その山、猫に見える」

 

 乱馬の手が止まる。

 

「どこが!」

 

「耳がある」

 

「山だよ!」

 

「なら尖りを減らせ」

 

「山は尖ってるだろ!」

 

「では猫と間違えるな」

 

「俺が描いたんだから間違えねえよ!」

 

 コロンは二人のやり取りを聞きながら、何も言わず茶を飲んでいた。

 乱馬は最後に、港のところへ船らしき形を描いた。

 

 長い楕円。

 その上に一本の棒。

 シャンプーが見る。

 

「魚か?」

 

「船!」

 

「魚に棒が刺さっている」

 

「船だって言ってんだろ!」

 

「おまえが分かればいいのだろう」

 

「そうだよ!」

 

 乱馬は紙を持ち上げた。

 

 村。

 分岐。

 石塔。

 川。

 青河。

 白沙。

 大きな河。

 港。

 

 字はきれいではない。

 線も正確ではない。

 だが、乱馬には意味が分かった。

 

「これなら俺でも分かる」

 

 コロンが尋ねる。

 

「途中で分からなくなったら?」

 

「人に聞く」

 

「読めない札があったら?」

 

「聞く」

 

「道が二つあったら?」

 

「目印見る。それでも分かんなきゃ聞く」

 

「玄馬が違う道だと言ったら?」

 

 乱馬は一瞬考えた。

 

「確認する」

 

 コロンの口元が少し上がった。

 

「覚えたね」

 

「この村、何でも確認させやがる」

 

「困るのはおまえだからさ」

 

 乱馬は紙を丁寧に折った。

 


 

 夕食後。

 

 離れへ戻った乱馬は、自分の荷物を開いた。

 まだ多くはない。

 

 普段着。

 小物。

 朝市で買った、油を染み込ませた丈夫な荷紐。

 残してあるわずかな金。

 

 乱馬は折った紙を取り出した。

 

「何だ、それは」

 

 玄馬が横からのぞく。

 

「地図」

 

「わしに任せれば必要ない」

 

「一番必要だよ」

 

「親を信用しろ」

 

「信用と確認は別」

 

「またそれか」

 

「便利だぞ、この言葉」

 

 乱馬は紙を荷物の内側へ入れた。

 濡れにくいよう、布の間へ挟む。

 その上から荷紐を置く。

 

「青河から先も聞いた」

 

「わしも知っている」

 

「港どこ」

 

 玄馬が黙る。

 

「ほら」

 

「港はいくつもある」

 

「それ今日ばあさんにも言われた」

 

「なら同じだ」

 

「具体的に言えよ!」

 

「その時々で最適な港を選ぶのが旅というものだ」

 

「知らねえだけだろ!」

 

 玄馬は布団をかぶった。

 

「明日も早い。寝るぞ」

 

「逃げんな!」

 

 乱馬はしばらく玄馬の布団を睨んでいた。

 やがて諦め、自分の荷物を見る。

 

 青河までは、もう自分で行ける。

 その先にも道がある。

 

 白沙。

 大きな河。

 港へ向かう分岐。

 

 まだ全部を覚えたわけではない。

 読めない字もある。

 自分で描いた地図だって、人が見れば魚や猫にしか見えないかもしれない。

 

 それでも、乱馬には分かる。

 

 分からなくなれば、人に聞けばいい。

 道が二つあれば、確かめればいい。

 乱馬は荷物の中へ入れた紙を、もう一度だけ指先で確かめた。

 

 日本のどこにある家へ帰るのかは、まだ知らない。

 それでも。

 そこへ向かう道の最初くらいは、自分で選べる。

 もう、帰る方向だけは玄馬の背中に預けていなかった。

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