シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
議場から、最後の足音が消えた。
円形の石室には、シャンプーだけが残っている。
先ほどまで長老たちが座っていた場所には、低い椅子が並んでいた。
「だったら俺は、おまえのことなんか知らねえよ」
乱馬の声が、まだ耳の奥に残っている。
怒鳴ったわけではなかった。
だからこそ、消えなかった。
シャンプーは自分の錘を拾い上げた。
石橋から戻って、そのまま議場へ連れてこられたため、泥も雨水も拭っていない。
丸い表面には、白い石の粉がついている。
三日前。
村の大会で優勝した日。
赤い髪の女と、祝いの料理をめぐって戦った。
小柄で、軽く、素早かった。
空中で錘へ足を乗せ、その勢いまで自分のものにした。
最後には、シャンプーの軸足を払い、胸元へ拳を止めた。
今日。
石橋で会った黒髪の男は、赤い髪の女より背が高かった。
腕が長く、踏み込みも深かった。
こちらの錘を正面から受け、力で押し返すこともできた。
体格も、間合いも違う。
使った技も同じではない。
それでも。
最後に腹へ入った拳は、三日前の拳と同じだった。
腰が沈む。
肩と拳が一直線につながる。
勝負が決まれば、それ以上は打たない。
二人ではない。
同じ一人に、二度負けた。
シャンプーは錘を布で拭った。
強い相手だった。
もう一度戦いたい。
そう思うことに迷いはない。
けれど、その相手を何と呼べばよいのかが分からなかった。
女の乱馬。
男の乱馬。
殺すべき相手。
迎えるべき夫。
どれも掟の中にはある。
けれど、乱馬が言った一つの言葉だけは、どの記録にもなかった。
男でも女でも、どちらも自分だ。
シャンプーは布を止めた。
右手を、自分の頬へ当てる。
三日前。
赤い髪の乱馬に与えたのは、頬への接吻だった。
死の接吻。
地の果てまで追い、命を奪うという誓い。
あのとき胸にあったのは、敗北の屈辱だけだった。
負けた。
だから追う。
追いついて殺す。
それで終わるはずだった。
次に、指先を唇へ移す。
今日。
黒髪の乱馬へ与えたのは、唇への接吻だった。
求婚の接吻。
自分を倒した強い男を、夫として迎えるための儀礼。
こちらも掟に従っただけだ。
そのはずだった。
けれど、頬へ触れたときの感触は、もうほとんど残っていない。
唇へ触れた感触だけが、雨に濡れた後も消えなかった。
シャンプーはすぐに手を離した。
夫として迎えることに不満はない。
石橋では、そう考えた。
強い。
卑怯な攻撃はしない。
勝負が終われば、追撃しない。
態度は悪い。
口も悪い。
掟を尊重しない。
それでも強い男だ。
だが、乱馬は望んでいない。
結婚も。
死ぬことも。
シャンプーに知られることさえ、いまは拒んでいる。
「おまえは私に二度勝った」
そう言った。
だから簡単には殺せない。
自分では、事実を答えたつもりだった。
しかし乱馬は、さらに冷たい目をした。
シャンプーは錘を強く握った。
何が間違っていた。
勝った者は強い。
負けた者は従う。
外の女に負ければ追う。
外の男に負ければ迎える。
すべて、決まっている。
決まっているから、迷う必要はない。
そのはずなのに。
「まだいたのかい」
背後から声がした。
シャンプーが振り返る。
入口にコロンが立っていた。
杖の上ではなく、床へ降りている。
「ひいばあちゃん」
「客人を放って、何をしている」
「客人?」
「乱馬と玄馬だよ」
シャンプーは眉を寄せた。
「村から出ることを禁じられた者は、客人ではありません」
「囚人にした覚えもないよ」
「逃げれば止めるのでしょう」
「止めるさ」
コロンは平然と答えた。
「だが、食事も寝床も与えると決めた。ならば今夜は客人だ」
「明日は?」
「明日になってから決めればいい」
コロンが杖の先で、シャンプーの錘を軽く叩く。
「掟に答えがないからといって、今夜の寝床までなくなるわけではない」
シャンプーは何も答えなかった。
「宗家の離れを使わせな」
「私の家ですか」
「お前が監督するのだからね」
「なぜ私が」
「議場でも聞いたよ」
コロンの細い目が、わずかに笑う。
「二つの接吻を与えたのは、お前だ」
シャンプーは反論しようとした。
だが、言葉が出る前に、コロンは石室を出ていった。
「寝台は二つ。湯も用意しておきな。あの親子は雨の中を歩いてきた」
「ひいばあちゃん」
「それから食事は多めに」
コロンは振り返らない。
「二人とも、よく食べるからね」
足音が遠ざかる。
シャンプーは、まだ湿っている錘を見下ろした。
殺すべき相手か。
夫にすべき相手か。
それを見極めろと言われた。
けれど、その前に。
今夜、乱馬は食事をする。
身体を洗う。
服を乾かす。
寝台で眠る。
明日の朝も、村にいる。
その事実だけは、裁定を待つ必要がなかった。
シャンプーの家と呼ばれている屋敷は、コロンの血筋に連なる女たちが暮らす宗家だった。
古い母屋を中心に、倉、竈小屋、薬草庫、客人用の離れが並んでいる。
そこではシャンプーだけでなく、母方の叔母や従姉妹たちが世代をまたいで共同生活をしていた。
家の仕事は当番制だった。
炊事、湯沸かし、水汲み、家畜の世話、薬草の整理。
叔母も従姉も、シャンプーも、日ごとに決められた役目を受け持つ。
本来ならシャンプーにも仕事を割り当てられていたが死の接吻で女乱馬を追うことになった。
今日やっと村に戻ってきたが仕事は割り当てられていなかったのでシャンプーは客人を迎える離れの整備へ回ることになった。
宗家の離れは、長く使われていなかった。
扉を開けると、乾いた埃の匂いがした。
窓を開ける。
湿った風が入り、床の埃がわずかに舞った。
シャンプーは箒を取り、床を掃いた。
寝台は二つ。
片方へ新しい敷布を広げ、もう片方にも同じものを敷く。
乱馬と玄馬。
二人分。
女姿の乱馬と男姿の乱馬のために、別々の寝台を用意する必要はない。
どちらも、同じ寝台で眠る。
その当然のことに、シャンプーは手を止めた。
一人。
乱馬は一人だ。
議場で何度も聞いた。
石橋でも、本人から言われた。
頭では理解している。
だが、三日前の赤い髪と、今日の黒い髪を同じ寝台へ結びつけると、ようやくその言葉が生活の形を持った。
シャンプーは敷布の皺を伸ばした。
棚へ替えの布を入れる。
水壺は空にしておいた。
冷たい水を不用意に置けば、乱馬は女姿へ変わる。
だからといって、湯だけで生活することはできない。
入口の近くへ蓋つきの水差しを置き、その横に印をつける。
乱馬にも読める、簡単な共通語で書く。
冷水。
少し考え、その下へもう一つ書いた。
注意。
書き終えたところで、自分が何をしているのか分からなくなった。
殺すかもしれない相手へ、水に気をつけろと注意する。
夫にするかもしれない相手のために、寝台を整える。
どちらも間違っているようで、どちらも必要だった。
離れの掃除を終え、シャンプーは母屋へ戻った。
竈では、年長の従姉であるリンファが夕食の支度を始めていた。
二十八歳になるリンファは、宗家で暮らす女たちの中では若い者と年長者の中間にいる。
声を荒らげることはほとんどなく、誰がどの仕事を抱えているか、何が足りなくなりそうかをよく見ている女だった。
武術も一通り修めているが、家の中では炊事や物資の管理を任されることが多い。
今日の炊事と竈の当番も、リンファだった。
大鍋から立つ湯気の向こうで、リンファがシャンプーへ顔を向ける。
「離れは使えそう?」
「掃除は終わりました。寝台も二つ用意しました」
「では、あとは湯と食事ね」
シャンプーはうなずいた。
「離れの裏で使う大きな桶を出してください」
「古い洗い場を使うの?」
「はい。村の共同浴場は女たちが使う場所です。男姿の乱馬や玄馬を入れるわけにはいきません」
離れの裏には、以前、村外から来た客人が使っていた古い洗い場がある。
長く使われていないため、実際に使う前には整える必要があるだろう。
リンファは少し考えてから、竈の横へ積んである薪を見た。
「夕食の後なら、二人分の湯を沸かせるわ。桶は従妹たちに運んでもらいましょう」
「私が運びます」
「あなたは客人を迎えに行くのでしょう?」
穏やかな口調だったが、リンファはすでにシャンプーの次の仕事まで把握していた。
「桶くらいは任せなさい。宗家の仕事は、ひとりで全部抱えるものではないわ」
シャンプーは一瞬だけ黙り、うなずいた。
「お願いします」
リンファは鍋をかき混ぜながら尋ねた。
「男の客人が二人と聞いたけれど」
「二人です」
「赤い髪の女もいるのではないの?」
シャンプーは答えに詰まった。
村ではすでに噂が広がっている。
女姿と男姿が同じ人間。
けれど、それをどう数えるのか、誰も分かっていない。
「寝台は二つで足ります」
シャンプーはそれだけ答えた。
リンファはおかしそうに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「食事はどうする?」
「今夜の膳に、乱馬と玄馬の分を増やしてください」
「二人分で足りる?」
三日前、優勝者のために用意された料理が、ほとんどなくなっていた光景を思い出す。
「二人で、六人分ほど食べます」
「六人分」
リンファは驚く代わりに、鍋の中身と調理台の食材を見比べた。
「では八人分増やしておくわ。足りないよりはいいでしょう」
「八人分?」
「あなたも、いつもより食べるでしょう?」
シャンプーは眉を寄せた。
「なぜですか」
「今日は朝から追跡、勝負、長老会議、その後に離れの掃除までしたのでしょう」
リンファは何でもないことのように答えた。
「乱馬という客人のことばかり考えて、自分の腹が減っているのを忘れないようにね」
「乱馬のことばかり考えてはいません」
「そう」
リンファは笑わなかった。
ただ、鍋へ香草を加えた。
「では、あなたの分も含めて八人分ね」
言い返しても訂正されない気がした。
シャンプーは、それ以上何も言わなかった。
自分の祝いの料理を勝手に食べた女。
石橋で自分を倒した男。
同じ乱馬が、今夜は宗家の食卓で食事をする。
三日前には、地の果てまで追って殺すつもりだった。
今日、石橋では、夫として村へ迎えるつもりだった。
夕方には、どちらも禁じられた。
それでも腹は減る。
乱馬も。
自分も。
掟が決まらなくても、夕食の時刻は来る。
離れの準備を終えるころには、雨は上がっていた。
濡れた石畳が、夕日に照らされている。
シャンプーは、議場に近い控えの間の前へ戻った。
長老会議が終わった後、乱馬と玄馬はここで待つよう命じられている。
監禁ではないとコロンは言ったが、扉の外には村の女が二人立っていた。
中から、乱馬と玄馬の声が聞こえる。
「だから、何で勝手に残ることを決めてんだ!」
「呪いを治すためには、現地の協力が必要なのだ」
「食事と寝床につられただけだろ!」
「長旅には休息も必要だ。これも修行の一環でな」
「だったら親父だけ残れ!」
「父を置いていくとは何事だ!」
「置いてかれそうになったのは俺の方だ!」
何かが床へ落ちた。
続いて、玄馬のうめき声。
議場を出たときの、冷たい目とは違う。
石橋で戦っていたときの声とも違う。
父親と言い争う、ただの少年の声だった。
この男が、今夜は自分の家の離れで眠る。
明日の朝もいる。
裁定が出るまで。
それが何日になるかは分からない。
シャンプーには、乱馬をどうしたいのか分からない。
乱馬を何と呼べばよいのかも分からない。
けれど、今夜眠る場所だけは用意した。
シャンプーは戸へ手をかけた。
一度だけ息を整える。
そして、扉を開いた。
「寝床の用意ができた。ついてこい」