シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF―   作:エーアイ

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第22話 シャンプーは、負けた後の次を考える

「勝った後を」

 

 シャンプーが言った。

 その言葉のあと、乱馬はすぐには何も返さなかった。

 朝、自分たちで引き直した白い線の上を、風が通っていく。

 少しだけ粉が舞った。

 

「……そっか」

 

 乱馬がようやく言う。

 シャンプーが顔を上げる。

 

「何だ」

 

「いや」

 

 乱馬は頭の後ろへ手をやった。

 

「分かんねえなら、今はそれでいいんじゃねえの」

 

「さっきは決めろと言った」

 

「決めろとは言ったけど、今ここで適当に決めろとは言ってねえよ」

 

「同じではないのか」

 

「違うだろ」

 

 乱馬は白線をまたいだ。

 

「分かんねえのに、分かったふりして決める方が面倒だ」

 

「おまえに面倒と言われたくない」

 

「何でだよ」

 

「おまえは何でも途中で口を出す」

 

「今日の稽古のことまだ言ってんのか?」

 

「今日だけではない」

 

「結構根に持つな!」

 

 シャンプーは返事をせず、修練場の隅に置いてあった白い粉の器を持った。

 

「戻るぞ」

 

「昼飯?」

 

「その前に、これを戻す」

 

「俺も行く」

 

「もう片づけは終わった」

 

「同じとこ戻るんだろ」

 

「なら勝手に来い」

 

「最初からそうするよ」

 

 二人は修練場を出た。

 さっきまであれだけ言い合っていた。

 それでも歩く方向は同じだった。

 乱馬はそれを特に不思議とは思わなかった。

 シャンプーも何も言わなかった。

 


 

 宗家へ戻るころには、昼食の準備が始まっていた。

 厨房から湯気が上がっている。

 卓には大皿が並び、リンファが椀を置いていた。

 乱馬が入ってくると、リンファが顔を上げる。

 

「ちょうどよかったわ。手を洗ってきて。今日は麺よ」

 

「肉ある?」

 

「あるけれど、全員へ行き渡ってから」

 

「分かってるよ」

 

「ずいぶん覚えたわね」

 

「毎回言われりゃな」

 

 乱馬は洗い場へ向かう。

 その後ろからシャンプーも入ってきた。

 リンファはいつものように、

 

「お疲れさま」

 

 と声をかけた。

 

「うん」

 

 返事はそれだけだった。

 リンファの手が止まる。

 シャンプーは気づかず、使った器を棚へ戻している。

 乱馬が手を洗って戻ってきた。

 

「親父は?」

 

「さっきまでいたわよ」

 

 リンファが答える。

 

「さっきまで?」

 

「厨房の肉を味見しようとして追い出された」

 

「何やってんだ、あいつ」

 

「味見ではない。調理の確認だ」

 

 入口から玄馬の声がした。

 乱馬が振り返る。

 

「戻ってきたのかよ」

 

「昼食の時間だからな」

 

「仕事は?」

 

「午前の仕事なら立派に終えた」

 

「何したんだ」

 

「薪を運んだ」

 

 リンファが横から言う。

 

「三束のうち二束は、別の人が運んだけど」

 

「指示を出すのも仕事のうちだ」

 

「運べよ!」

 

 玄馬は気にせず席についた。

 

「それより乱馬。修練場で子ども相手に師範の真似事をしたそうだな」

 

「何で知ってんだよ!」

 

「村では話が早い」

 

「早すぎんだよ!」

 

「子どもに教えるのは、自らの技を見直すよい修行だ」

 

「親父に教えられた覚えはあんまりねえぞ」

 

「わしは実地教育を重んじる」

 

「崖から落としたり虎の穴に入れたりするのを教育って言うな!」

 

「生きておるではないか」

 

「結果だけで正当化すんな!」

 

 乱馬が怒鳴る。

 玄馬は麺の器へ手を伸ばした。

 

「話している間に伸びるぞ」

 

「誰のせいだ!」

 

 リンファが笑いながら、乱馬の前にも器を置いた。

 

「はい」

 

「おう」

 

 乱馬は座る。

 シャンプーも向かいへ座った。

 普段なら配膳の残りや卓全体を一度確認するところだが、今日は椀を見たまま少し動かなかった。

 

 リンファがその様子を見る。

 それから乱馬へ視線を移した。

 

「乱馬」

 

「ん?」

 

 乱馬はすでに麺をすすっている。

 

「シャンプーと何かあったの?」

 

「ぶっ!」

 

 乱馬がむせた。

 

「何で俺に聞くんだよ!」

 

「二人で修練場へ行ったでしょう」

 

「仕事だよ!」

 

「それは知ってるわ」

 

 リンファはシャンプーを見る。

 

「帰ってきてから、シャンプーがいつもより静かだから」

 

「私はいつも通りだ」

 

「そう?」

 

「そうだ」

 

「ならいいけれど」

 

 リンファはそれ以上追及しなかった。

 空いた器へ汁を足す。

 乱馬はシャンプーをちらりと見る。

 

「ほら」

 

「何がだ」

 

「リンファにも分かるくらいじゃねえか」

 

「何も変わっていない」

 

「返事短えし」

 

「食事中だ」

 

「俺にはさっきまで普通に言い返してただろ」

 

「おまえがうるさいからだ」

 

「やっぱりいつも通りじゃねえか!」

 

 リンファが小さく笑った。

 

「それなら安心したわ」

 

「何が?」

 

「ちゃんと話はしてるみたいだから」

 

 シャンプーがリンファを見る。

 

「話した」

 

「そう」

 

 それだけ聞くと、リンファは別の卓へ料理を運んでいった。

 乱馬は少し呆れた顔でその背中を見る。

 

「聞いといて、それだけかよ」

 

「リンファは必要以上には聞かない」

 

「おまえが話したくなったら聞くってこと?」

 

「たぶん」

 

「へえ」

 

 乱馬は麺へ戻った。

 玄馬が肉へ箸を伸ばす。

 乱馬の箸が先に押さえた。

 

「それ俺の」

 

「卓の中央にあるものは皆のものだ」

 

「まだ全員取ってねえだろ!」

 

「早い者勝ちも修行だ」

 

「昨日まで何見てたんだよ!」

 

「お前が村の規則へ染まりすぎなのではないか?」

 

 乱馬の手が止まった。

 

「染まってねえ!」

 

「では、その肉を父へ」

 

「それとこれとは別だ!」

 

 乱馬は自分の皿へ肉を取った。

 シャンプーが初めて少しだけ口元を緩めた。

 乱馬が気づく。

 

「今笑っただろ」

 

「笑っていない」

 

「絶対笑った!」

 

「麺が伸びるぞ」

 

「おまえまで親父と同じこと言うな!」

 


 

 昼食後。

 乱馬とシャンプーに割り振られた午後の仕事は、薬草倉庫だった。

 朝の修練場とは村の反対側に近い。

 屋根の低い細長い倉庫で、壁の上部には風を通すための隙間がある。

 中には乾燥させた薬草の束が、種類ごとに棚へ吊るされていた。

 乱馬は入口で鼻をひくつかせる。

 

「すげえ匂い」

 

「薬草だからな」

 

「前に採ったやつもある?」

 

「ある」

 

 シャンプーが棚の一角を示す。

 葉の裏へ白い筋があった草。

 村で手伝いを始めたころ、乱馬が毒草と間違えたものだ。

 

「もう間違えねえぞ」

 

「今日は採らない」

 

「分かってるよ」

 

 倉庫の奥には、すでに乾いた束と、まだ水分の残っている束が分けられている。

 今日の仕事は、その整理だった。

 

「乾いたものは右の棚」

 

「右?」

 

「そっちではない」

 

「こっち?」

 

「それは左だ」

 

「俺から見てだろ?」

 

「入口から見て右」

 

「最初に言え!」

 

「今言った」

 

「持ってから言うなよ!」

 

 乱馬は抱えた束を持ち替えた。

 重くはない。

 右肩も問題なく動く。

 それでも、まだ頭上の棚へ無理に放り込もうとはせず、踏み台を使った。

 シャンプーがそれを見る。

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

「またそれか」

 

「肩を使いすぎていないか見ただけだ」

 

「もうほとんど治ってるって」

 

「ほとんど」

 

「そこだけ拾うな!」

 

 シャンプーは次の束を取った。

 

「これはまだ湿っている」

 

「どこで分かる?」

 

「茎」

 

 乱馬が触る。

 

「ちょっと柔らけえな」

 

「そのまま棚へ入れると黴びる」

 

「じゃあ外?」

 

「乾燥棚へ戻す」

 

「こっち?」

 

「そうだ」

 

 二人は黙って作業を続けた。

 

 朝、修練場で交わした話については触れない。

 死の接吻。

 求婚の接吻。

 勝った後。

 負けた後。

 

 どれも、この倉庫で薬草を分けるには必要のない話だった。

 

「そっち持て」

 

 シャンプーが言う。

 

「右?」

 

「左」

 

「最初に言え」

 

「見れば分かる」

 

「さっき説明しろって言ってたのおまえだろ」

 

「これは子どもの稽古ではない」

 

「都合いいな!」

 

 二人で大きめの籠を持つ。

 

 中には乾燥した束がまとめて入っていた。

 

「一、二、三」

 

 乱馬が数える。

 同時に持ち上げる。

 以前なら、どちらかが半歩先へ出た。

 今は言わなくても、ほぼ同じ歩幅になった。

 倉庫の奥まで運ぶ。

 

「ここ?」

 

「そこ」

 

「下ろすぞ」

 

「三で」

 

「分かってる」

 

「一、二、三」

 

 籠が床へ置かれる。

 乱馬が腰を伸ばした。

 

「普通に仕事できんじゃん」

 

 シャンプーが振り返る。

 

「何が」

 

「朝あれだけ喧嘩したのに」

 

「仕事だからな」

 

「それだけ?」

 

「仕事をしない理由になるのか」

 

「ならねえけど」

 

 乱馬は鼻をこする。

 

「何か変な感じするかなと思った」

 

「何が」

 

「知らねえよ。気まずいとか」

 

「気まずいなら、仕事をしないのか」

 

「しねえとは言ってねえだろ」

 

「なら同じだ」

 

「……まあ、そうか」

 

 乱馬は次の束を取った。

 

「これ乾いてる?」

 

 シャンプーも茎を触る。

 

「乾いている」

 

「じゃあ右」

 

「そうだ」

 

 それ以上、朝の話は出なかった。

 それでも乱馬には、それでよかった。

 シャンプーが何を考えているかまでは分からない。

 だが、考えているからといって、突然別の人間になるわけではない。

 仕事をすれば文句を言う。

 間違えれば直す。

 重いものなら二人で持つ。

 午前中までと、そこは何も変わらなかった。

 


 

 しばらくして、倉庫の入口に人影が立った。

 

「シャンプー」

 

 朝、修練場で話していた若い女だった。

 乱馬が棚から顔を出す。

 

「あ」

 

 女も乱馬に気づいた。

 

「おまえもいるのか」

 

「仕事だからな」

 

「そうか」

 

 女は小さな包みを持っていた。

 

「これを乾燥棚へ戻してほしいと言われた」

 

 シャンプーが受け取る。

 

「分かった」

 

 女はその場から離れなかった。

 乱馬が見る。

 

「まだ何かあんの?」

 

「ある」

 

 女はシャンプーへ向き直った。

 

「朝は、少し言いすぎた」

 

「そうか」

 

「……それだけか」

 

「何を言えばいい」

 

 女が少し困った顔をする。

 

「おまえが乱馬へ二度負けたことばかり見ていた」

 

 シャンプーは黙っている。

 

「今日、子どもたちへ教えているところを見て、少し考えた」

 

「何を」

 

「負けた後のおまえを、私は見ていなかった」

 

 シャンプーの目がわずかに動く。

 

「大会で優勝したことも、二度負けたことも知っている。だが、その後もおまえが稽古を続け、子どもへ教え、村の仕事をしているのも同じ事実だ」

 

「……」

 

「朝、子どもたちが勝った者だけを見るのは違うと言った」

 

 女は少し息を吐いた。

 

「私も、負けた方だけを見ていた」

 

 シャンプーはしばらく何も言わなかった。

 

「そうか」

 

 やはり返事は短かった。

 女はそれ以上を求めなかった。

 

「それだけ言いに来た」

 

「分かった」

 

「仕事を邪魔したな」

 

「もう終わる」

 

 女はうなずき、倉庫を出ていった。

 足音が遠ざかる。

 乱馬は乾いた束を棚へ置いた。

 

「謝りに来たんだろ」

 

「分かっている」

 

「分かってんなら、もうちょっと何か言えばいいのに」

 

「何を」

 

「知らねえけど。ありがとうとか?」

 

「間違っていたところを訂正しに来ただけだ」

 

「それ、謝りに来たって言うんじゃねえの?」

 

「違う」

 

「違わねえだろ」

 

 シャンプーは包みを開いた。

 

「湿っている」

 

「話そらしたな」

 

「乾燥棚へ戻す」

 

「はいはい」

 

 乱馬は籠を取った。

 シャンプーが一度だけ、女が出ていった入口を見る。

 乱馬はそれに気づいたが、何も言わなかった。

 


 

 夕方。

 

 倉庫の作業を終えると、乱馬は先に外へ出た。

 肩を大きく回す。

 

「お」

 

 今度は頭上まで動かしても、ほとんど張らない。

 

「治った」

 

「明日の朝もう一度見る」

 

「まだやんのかよ!」

 

「今日一日使った後が大事だ」

 

「朝から肩、肩、肩って……」

 

「痛めたのはおまえだ」

 

「好きで痛めたわけじゃねえよ」

 

「山羊を追って使った」

 

「放っとけなかっただろ!」

 

「だから責めていない」

 

「じゃあ言うな!」

 

 シャンプーが倉庫の戸を閉める。

 

「夕食まで時間がある」

 

「俺は、離れに戻る」

 

「そうか」

 

「おまえは?」

 

「宗家の仕事を見る」

 

「まだ働くのか?」

 

「必要なら」

 

「働きすぎじゃねえ?」

 

「いつもだ」

 

 シャンプーは宗家の方へ歩き出した。

 乱馬も数歩、同じ方向へ進む。

 途中で離れへの道が分かれる。

 

「じゃあな」

 

「うん」

 

 それだけだった。

 

 朝には、声をぶつけ合った。

 昼には、同じ籠を持った。

 夕方には、いつものように別れた。

 乱馬は少しだけ振り返る。

 シャンプーはもう宗家へ向かって歩いていた。

 

「勝った後、か」

 

 乱馬は小さく呟いた。

 自分で言わせた言葉だった。

 だが、その答えを乱馬が考えてやるつもりはなかった。

 

「自分で決めろって言ったしな」

 

 乱馬は離れへ戻った。

 


 

 夕食では、玄馬が朝より元気だった。

 

「乱馬。肉を取れ」

 

「自分で取れよ」

 

「遠い」

 

「腕あんだろ」

 

「昼の薪運びで疲れている」

 

「二束、人に持たせたって聞いたぞ」

 

「監督も労働だ」

 

「じゃあ俺も明日から監督やる」

 

「若者は身体を動かせ」

 

「またそれかよ!」

 

 乱馬は肉を一切れ取る。

 自分の皿へ置く。

 玄馬がじっと見る。

 

「何だよ」

 

「父の分は?」

 

「ねえよ!」

 

「親孝行というものを知らんのか」

 

「自分の飯くらい自分で取れ!」

 

 シャンプーは向かいで黙って食べている。

 リンファが汁物を運んでくる。

 

「午後はどうだった?」

 

「薬草倉庫」

 

 乱馬が答える。

 

「ちゃんと働いた?」

 

「何で俺にだけ聞くんだよ」

 

「シャンプーは働くから」

 

「俺も働いてる!」

 

「そうね」

 

「軽い!」

 

 リンファがシャンプーを見る。

 

「シャンプーは?」

 

「普通だった」

 

「そう」

 

 昼と同じように、それ以上は聞かない。

 シャンプーは少しだけリンファを見る。

 

「何だ」

 

「何も」

 

「本当に?」

 

「聞いてほしいの?」

 

「違う」

 

「なら聞かないわ」

 

 リンファは笑って厨房へ戻っていった。

 乱馬が言う。

 

「強えな、リンファ」

 

「何が」

 

「おまえの扱い」

 

「昔から一緒にいるからな」

 

「なるほど」

 

 玄馬が口を挟む。

 

「長く暮らせば、扱いも分かるものだ」

 

「親父は俺の扱い分かってねえだろ」

 

「分かっているとも」

 

「じゃあ俺の肉取ろうとすんな!」

 

「取られる前に守るのも修行だ」

 

「結局それか!」

 

 卓にいつもの声が戻った。

 シャンプーは食事をしながら、ときどき乱馬を見る。

 

 乱馬は玄馬と肉を取り合っている。

 朝、自分へ言った男と同じ人間にはあまり見えない。

 だが、同じ乱馬だった。

 

 負けたら。

 何が悪かったか考える。

 次はそこを直す。

 勝つつもりで戦う。

 だが、勝つつもりと結果は違う。

 乱馬にとっては、それが当たり前だった。

 

 シャンプーは箸を止める。

 

「食べないの?」

 

 リンファの声で顔を上げる。

 

「食べる」

 

 シャンプーは再び箸を動かした。

 


 

 夜。

 

 宗家の灯りが一つずつ消えていった。

 シャンプーは自室にいた。

 寝台へ横になる。

 目を閉じる。

 だが、眠くならない。

 朝の言葉が何度も戻ってくる。

 

 ──負けたら、何で負けたか考える。

 ──次はそこ直す。

 

 乱馬は簡単に言った。

 簡単に聞こえた。

 けれど、シャンプーには簡単ではなかった。

 

 負けたら、死の接吻。

 負けたら、求婚の接吻。

 敗北のあとに考えることは、その掟をどう果たすかだった。

 自分の動きの何が悪かったか。

 

 次にどう勝つか。

 そんなことを考える前に、勝負の外側が人生へ入り込んできた。

 

 シャンプーは目を開ける。

 起き上がった。

 

 壁際に立ててある稽古用の棒を見る。

 手に取る。

 部屋を出た。

 


 

 中庭には誰もいなかった。

 月明かりが石床へ落ちている。

 シャンプーは棒を構えた。

 

 第一の型。

 踏み込む。

 振る。

 戻す。

 もう一度。

 

 同じ型。

 同じ足。

 同じ肩。

 棒が空気を切る。

 

 朝、子どもたちへ何度も教えた動きだった。

 

 基本。

 正しく立つ。

 正しく踏み込む。

 正しく振る。

 

 シャンプーは三度目で止まった。

 

 乱馬なら。

 そう考える。

 

 目の前に乱馬がいると想像する。

 

 乱馬は顔だけを見ない。

 手だけも見ない。

 

 朝、子どもへ言っていた。

 ──最初は肩見ろ。

 大きな動きなら、肩が先に動く。

 

 肩。

 肘。

 拳。

 棒でも同じだ。

 

 シャンプーは右肩をわずかに下げた。

 そのまま右から棒を振る。

 

「違う」

 

 誰もいない庭で呟く。

 乱馬は読む。

 右肩を見れば、右から来ると判断する。

 

 なら。

 シャンプーはもう一度構えた。

 

 右肩を下げる。

 右から振るように見せる。

 だが、右足へ全部の重心を移さない。

 左へ残す。

 肩だけを先に見せる。

 踏み込みは反対。

 棒の軌道も変える。

 

 振る。

 最初より鋭い音がした。

 シャンプーは止まらない。

 

 もう一度。

 今度は肩を見せる時間を短くする。

 

 乱馬なら気づく。

 なら、気づかせる。

 気づかせたうえで、違うものを出す。

 

「なるほど」

 

 頭上から声がした。

 シャンプーの棒が止まる。

 屋根の端にコロンがいた。

 

「ひいばあちゃん」

 

「夜中に棒を振れば、起きている者には聞こえるよ」

 

「すみません」

 

「謝るくらいなら、もう少し静かに振りな」

 

「それでは稽古になりません」

 

「なら謝る必要もないね」

 

 コロンは杖の先へ立ち、そのまま中庭へ降りた。

 シャンプーの前へ来る。

 

「乱馬を想定しているのかい」

 

 シャンプーは一瞬黙る。

 

「はい」

 

「朝の稽古で、面白いものを教わったそうだね」

 

「子どもへ教えたのは乱馬です」

 

「おまえも見ていたんだろう」

 

「見ていました」

 

「なら、おまえも教わったようなものさ」

 

 シャンプーは棒を見る。

 

「顔ではなく、肩を見る」

 

「それだけかい」

 

「違います」

 

 右肩を少し動かす。

 

「乱馬自身が、肩も使って相手を誘えると言いました」

 

「なら?」

 

「肩を見ることを知っている相手には、肩を見せます」

 

 コロンの目が細くなる。

 

「読ませるのかい」

 

「はい」

 

「昨日までのおまえなら、より速く振ろうとしただろうね」

 

「それでは乱馬に読まれます」

 

「一度読まれたからかい」

 

 シャンプーは答えない。

 乱馬との二度の勝負を思い出す。

 

 速さ。

 力。

 間合い。

 

 自分の得意なものだけで押し切ろうとした。

 二度とも、乱馬はその途中で対応した。

 

「再戦するのかい」

 

 コロンが尋ねた。

 

「まだしません」

 

「なぜだい」

 

 シャンプーの手が、棒を握り直す。

 

「勝った後を決めていません」

 

「朝の話かい」

 

「聞いていたのですか」

 

「村の修練場で、あれだけ大きな声を出せばね」

 

 シャンプーの眉が動く。

 

「乱馬の声の方が大きかったです」

 

「競うところかい」

 

「違います」

 

 コロンは小さく笑った。

 

「それで?」

 

「何がですか」

 

「勝った後は決めていない。なら、負けた後は?」

 

 シャンプーが黙る。

 

 以前なら。

 そんな問いは必要なかった。

 

 乱馬に負ける。

 女の乱馬なら、死の接吻。

 男の乱馬なら、求婚の接吻。

 

 だが、今は違う。

 目の前にいる乱馬は一人だ。

 次に戦うなら、男か女かで勝負の意味を変えたくない。

 

「負けたくありません」

 

「それは知っているよ」

 

「勝ちます」

 

「それも答えじゃないね」

 

 コロンの声は穏やかだった。

 

「乱馬に負けたら、どうする」

 

 シャンプーは棒を見る。

 

 朝の乱馬の声が戻る。

 ──負けたら、何で負けたか考える。

 ──次はそこ直す。

 

 簡単な言葉。

 今までの自分にはなかった答え。

 シャンプーは少し時間をかけた。

 

「何が足りなかったか考えます」

 

 自分で口にする。

 奇妙だった。

 だが、嫌ではなかった。

 

「それから?」

 

 コロンが聞く。

 

「直します」

 

「何のために」

 

 シャンプーは顔を上げた。

 

「次に勝つために」

 

 コロンはしばらく何も言わなかった。

 シャンプーは自分の言葉を、自分でもう一度確かめる。

 

 負ける。

 終わる。

 ではない。

 

 負ける。

 考える。

 直す。

 次に勝つ。

 

 そこには、次がある。

 

「乱馬の言葉だね」

 

 コロンが言った。

 

「最初は」

 

「今は?」

 

 シャンプーは棒を握ったまま答える。

 

「私も、そうしたいと思っています」

 

「なら、それはもう乱馬だけの言葉ではないね」

 

 シャンプーは黙った。

 コロンが続ける。

 

「それで、勝ったら?」

 

 答えが止まる。

 やはり、そこだけはまだ分からない。

 

 勝ちたい。

 乱馬に勝ちたい。

 

 二度負けたままではいたくない。

 今日考えた動きが通じるか確かめたい。

 乱馬が今の自分をどう崩すのかも見たい。

 

 だが。

 勝ったから。

 乱馬を夫にする。

 そのために戦いたいのか。

 

 シャンプーはゆっくり首を振った。

 

「違います」

 

「何がだい」

 

「乱馬を夫にするために、勝ちたいのではありません」

 

 声に出してから、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 コロンの目がわずかに細くなる。

 

「では、勝ったら何をする」

 

「まだ分かりません」

 

「何も求めないのかい?」

 

 シャンプーは答えようとして止まる。

 

「……そこまでは、まだ決めていません」

 

「そうかい」

 

「ですが」

 

 シャンプーは乱馬を想定していた場所を見る。

 

「勝ったから夫にする、という答えだけではありません」

 

「掟はそう言うよ」

 

「知っています」

 

「裁定もまだ出ていない」

 

「知っています」

 

「なら、今のおまえはまだ掟の外へ出たわけじゃない」

 

「はい」

 

 シャンプーは否定しなかった。

 自分でも分かっている。

 掟を捨てると決めたわけではない。

 乱馬を自由にすると決めたわけでもない。

 

 ただ。

 次に勝負をする理由の中から、一つだけ消えた。

 

 夫にするため。

 それだけを理由にはしない。

 

「少しは進んだようだね」

 

 コロンが言う。

 

「少しですか」

 

「一晩で全部答えを出されたら、こちらが困るよ」

 

「なぜです」

 

「長老の仕事がなくなる」

 

「それは困りません」

 

「ひどい娘だね」

 

 コロンが笑った。

 シャンプーは棒を構え直した。

 

「もう少しやります」

 

「肩を見せる方かい」

 

「はい」

 

「乱馬は二度目には読むかもしれないよ」

 

「なら、三度目を作ります」

 

「それでも読まれたら?」

 

「四度目」

 

「負けず嫌いだね」

 

「知っているでしょう」

 

「よく知っているよ」

 

 コロンは屋根へ戻ろうとした。

 

「ひいばあちゃん」

 

「何だい」

 

 シャンプーは少し迷う。

 それでも口にした。

 

「明日」

 

 コロンが振り返る。

 

「乱馬に話します」

 

 何を話すのか。

 勝負を申し込むのか。

 まず条件を話すのか。

 

 そこまでは、まだ言葉になっていない。

 それでも。

 

 負けた後には、次がある。

 勝ちたい理由は、夫にするためだけではない。

 

 そこまでは、自分で決めた。

 シャンプーはもう一度、右肩をわずかに下げた。

 

 乱馬なら、きっとそこを見る。

 

 なら。

 見せた上で、その先を変える。

 

 棒が夜気を切った。

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