シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
コロンの杖が振り下ろされた。
「始め!」
最初に動いたのは、シャンプーだった。
右足で石床を蹴る。
一気に間合いを詰めながら、右の錘を横へ振った。
錘が空気を裂く。
乱馬は後ろへ下がらない。
「おっと!」
身体を低くする。
錘が髪の上を通り過ぎる。
その下へ潜り、そのままシャンプーの懐へ入った。
遠くでは錘が強い。
だが、一度内側へ入れば振り回せる範囲は狭くなる。
乱馬はそれを知っている。
二度戦っている。
シャンプーも知っていた。
乱馬が、そこへ来ることを。
乱馬の右掌が脇腹へ向かう。
シャンプーは左手の錘を放した。
金属が石床へ落ちる。
「ん?」
乱馬の視線が一瞬だけ下へ落ちた。
その間に、空いた左手が乱馬の手首を払う。
右の錘を短く持ち直す。
柄が乱馬の肩へ走った。
乱馬は首を傾ける。
柄が頬の横を通過し、髪だけを揺らした。
「武器、捨てんのか?」
「必要なら」
シャンプーは答える。
次の瞬間。
石床へ落とした錘を足先で蹴った。
「うおっ?」
錘が回転しながら跳ね上がる。
乱馬の背中側へ回る。
乱馬は振り返らなかった。
金属が空気を切る音。
それだけを聞く。
背中へ手を回した。
錘が手の中へ収まる。
「これ、返すぞ!」
乱馬が投げた。
一直線にシャンプーへ戻ってくる。
シャンプーが柄へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
乱馬も走っている。
投げた錘のすぐ後ろ。
「やっぱり来た」
シャンプーが呟く。
「何?」
錘をつかまない。
指先で柄へ触れるだけ。
軌道を変える。
錘が再び石床へ落ちた。
両手が空く。
そこへ乱馬の拳。
シャンプーは外へ流した。
そのまま乱馬の肩へ片手を置く。
腰を落とし、崩す。
だが。
乱馬の足は動かなかった。
「それは知ってる」
乱馬が言う。
シャンプーの力を正面から止めていない。
肩を少し沈める。
腰を落とす。
押される方向へ、ほんの少し身体を預ける。
力を受けて。
流して。
足元まで通す。
村へ来て間もないころ。
乱馬は四つの水桶を担いだ。
最初は揺れる水を力で押さえようとした。
だが、それでは余計に桶が暴れた。
途中から変えた。
揺れを止めるのではない。
揺れる方向へ身体を合わせる。
戻るときだけ支える。
シャンプーが今かけている力も同じだった。
「こっちだ!」
乱馬が逆にシャンプーの腕を取った。
「!」
シャンプーの身体が浮く。
乱馬が投げる。
シャンプーは空中で膝を畳んだ。
乱馬の肩へ足をかける。
「何っ!」
そのまま身体を回した。
乱馬の腕まで引かれる。
二人の身体が同時に落ちる。
乱馬は片手を石床につき、身体を支えた。
足がつく。
シャンプーも反対側へ転がる。
すぐに立つ。
二人の間に距離ができた。
修練場の外から声が上がる。
乱馬は口元を上げた。
「前と違うな」
「おまえもだ」
シャンプーは落ちた錘を拾った。
「村で仕事ばかりしていたから、鈍ったと思った」
「誰の村の仕事だと思ってんだ!」
乱馬が飛び出す。
今度は自分から距離を詰めた。
シャンプーの右の錘。
横薙ぎ。
乱馬は半歩だけ外へずれる。
すぐに左。
下から錘が跳ね上がる。
「よっ!」
乱馬は避けなかった。
錘の柄へ足を乗せる。
「なっ──」
そのまま踏み台にした。
乱馬の身体が高く浮く。
上から蹴り。
シャンプーは両腕を交差し、蹴りを受ける。
重い衝撃。
足元の石板が鳴った。
「くっ……!」
乱馬はまだ空中にいる。
身体をひねる。
二撃目。
シャンプーは横へ転がった。
乱馬の踵が石床を叩く。
白い粉が舞い上がった。
昨日。
子どもたちのために引いた線。
今日。
勝負のために引かれた境界線。
その白が、乱馬の足元で散った。
シャンプーは立ち上がりながら錘を放つ。
乱馬の顔へ。
乱馬は首を振った。
錘が横を通過する。
「外れ!」
だが、錘には縄がつながっている。
シャンプーはその端を握ったまま、手首を返した。
通り過ぎた錘が、乱馬の背後から戻ってくる。
乱馬は振り返らずに腕を伸ばした。
「それもさっき──」
取る。
そのはずだった。
シャンプーが、引いていた縄を一瞬だけ緩める。
「あ?」
戻っていた錘が乱馬の手前で勢いを失い、石床へ落ちた。
乱馬の手が空をつかむ。
シャンプーはもう正面にいる。
一歩。
肩。
二歩。
肘。
三歩目。
掌。
乱馬が一発目を受ける。
二発目も払う。
三発目。
間に合わない。
掌底が胸へ入った。
「ぐっ!」
乱馬の足が一歩下がった。
シャンプーは止まらない。
乱馬は息を吐く。
それでも口元は上がっていた。
「一発」
「まだだ」
シャンプーの蹴り。
乱馬が腕で受ける。
横へ流した。
そのまま足首をつかむ。
「捕まえた!」
シャンプーは片足のまま地面を蹴った。
身体を横へ回す。
自由な足が乱馬の側頭部へ向かう。
「危なっ!」
乱馬は足首を放した。
両腕で受ける。
衝撃。
足が石床を滑る。
一歩。
二歩。
そこで乱馬の目が、一瞬だけ横へ動いた。
白い境界線。
あと数歩。
シャンプーは見た。
乱馬が線を確認した。
「場外狙ってんのか?」
「勝てるなら」
「分かりやすいな」
「そう思うか?」
シャンプーが踏み込んだ。
右肩が下がった。
乱馬の視線がそこへ向く。
昨日。
乱馬は子どもへ言った。
顔は嘘をつく。
手も動かせる。
目も違うところを見られる。
だから、最初は肩を見る。
大きな動きほど、肩から始まる。
シャンプーは聞いていた。
夜には、それを何度も試した。
右肩を下げる。
右から錘が来る。
そう読ませる。
乱馬の左足が動いた。
避ける方向まで分かる。
だが。
右の錘は来なかった。
「なっ──」
シャンプーは右肩だけを見せていた。
踏み込むのは左。
身体を低くする。
足払い。
「ちっ!」
乱馬は跳んだ。
足払いの上を越える。
そこまで。
シャンプーは読んでいる。
錘を振らない。
石床へ叩きつける。
金属音。
白い粉と細かな石片が跳ね上がった。
「うわっ!」
乱馬が腕で顔を守る。
視界が一瞬消える。
シャンプーが懐へ入った。
掌底。
乱馬の腹へ入る。
「ぐっ!」
乱馬の身体が折れる。
だが。
シャンプーの手首がつかまれた。
「読んでたのは、おまえだけじゃねえ!」
「!」
乱馬は掌底を受けながら、シャンプーを引いた。
体勢が崩れる。
膝が上がる。
シャンプーは錘の柄を差し込んだ。
膝と金属がぶつかる。
鈍い音。
乱馬のもう一方の拳。
近い。
避けきれない。
拳がシャンプーの頬をかすめた。
「っ!」
顔が横へ振られる。
一瞬だけ足が止まった。
乱馬は逃さない。
拳。
シャンプーが受ける。
肘。
流す。
蹴り。
両腕で防ぐ。
だが、衝撃までは消せない。
一歩。
また一歩。
今度はシャンプーが下がる。
乱馬の連撃は止まらない。
呼吸する場所を与えない。
拳を受けるたび。
蹴りを流すたび。
シャンプーの足は外へ追われていった。
白い線が近い。
踵が触れた。
周囲から声が消える。
乱馬も見ている。
「今度はそっちだ!」
さらに踏み込む。
シャンプーは二本の錘を交差させた。
乱馬の拳を正面から受ける。
金属へ拳がぶつかった。
衝撃。
「くっ……!」
シャンプーの身体が押される。
右足が線の外へ出た。
片足。
左足はまだ中。
あと半歩。
乱馬が押す。
「これで終わりだ!」
その瞬間。
シャンプーは二本の錘を手放した。
「!」
抵抗が消えた。
乱馬は押していた。
前へ向けて力を出していた。
そこに、急に相手がいなくなる。
身体が前へ流れる。
水桶。
揺れる水に逆らえば、余計に大きく動く。
力を止めようとせず。
流れる方へ流す。
シャンプーは線の外に出た右足へ体重を預けなかった。
内側に残っている左足だけを支点にする。
身体を低くした。
乱馬の腕を取る。
そのまま肩へ載せる。
「しまっ──」
投げる。
乱馬の身体が宙へ浮いた。
白い境界線の外へ向かう。
だが。
シャンプーは知っている。
これだけでは足りない。
乱馬は空中で身体をひねった。
腰が回る。
足が内側へ向く。
狭い場所ほど。
落ちそうな場所ほど。
乱馬は足場を探す。
石橋でもそうだった。
村の水路でも。
山羊の柵でも。
落ちると思った瞬間ほど、乱馬の身体は正確になる。
だから。
シャンプーは最初から、ただ外へ投げてはいなかった。
境界線と平行。
乱馬が内側へ戻ろうと身体をひねったとき。
そこへ足を置きたくなる角度。
その先。
石床には、さっきシャンプー自身が落とした錘がある。
乱馬の足が伸びる。
「戻る!」
足先が石床へ向かう。
その直前。
錘の柄へ触れた。
「っ!」
ほんのわずか。
ほんの指一本ほど。
足の位置がずれた。
普通なら、それでも立てる。
乱馬なら、なおさらだった。
片手を石床へつく。
腕だけで身体を支える。
足を振る。
内側へ戻す。
間に合う。
シャンプーが踏み込んだ。
蹴らない。
殴らない。
乱馬が石床についている手。
その手首を両手でつかむ。
「何──」
引かない。
押さない。
横へ。
ほんの少しだけ支点をずらす。
二人で石板を運んだ日。
重い石だった。
乱馬とシャンプーの力が正面から合っている間は、石は水平だった。
速い方が歩幅を合わせる。
曲がるときは内側が狭く歩く。
そうすれば、重いものでも安定する。
逆に。
片方が半歩ずれれば。
支えていた場所が少しずれれば。
均衡は簡単に崩れる。
「うおっ!」
乱馬の腕が傾いた。
支点が消える。
身体が外へ落ちる。
それでも。
乱馬は諦めなかった。
足を伸ばす。
白い線の内側へ。
片足だけでも戻す。
あと少し。
シャンプー自身も危ない。
右足は外。
左足だけが線の内側。
左の踵は、白い粉のすぐ横。
乱馬の指が伸びた。
シャンプーの袖をつかむ。
「おまえも来い!」
「!」
強く引かれた。
シャンプーの身体が前へ傾く。
左の踵が浮いた。
周囲から息をのむ音がした。
あと一歩。
いや。
半歩もない。
その左足まで出れば。
二人とも外。
あるいは。
シャンプーが先に出る。
乱馬はまだ諦めていない。
袖を引く。
シャンプーは、その手を振りほどかなかった。
引かれる。
なら。
逆らわない。
身体を乱馬の腕へ近づける。
「何?」
乱馬が一瞬だけ戸惑う。
シャンプーは引かれる方向へ踏み出さない。
線の内側に残った左足を軸にする。
腰を回す。
肩を回す。
袖が乱馬の指の中を滑る。
水桶の重さへ身体を合わせたように。
乱馬の力を止めず。
その横へ抜ける。
乱馬の指が外れた。
「くそっ──!」
足がつく。
右。
左。
乱馬の両足が石床を踏んだ。
白い線の外側。
シャンプーも片膝をついた。
右足は外。
だが。
左足だけは。
まだ白い線の内側に残っている。
誰も声を出さなかった。
乱馬も。
シャンプーも。
動かない。
乱馬が自分の足元を見る。
両足。
外。
次にシャンプーを見る。
右足。
外。
左足。
内。
「……まじかよ」
乱馬が呟いた。
コロンの杖が石床を叩いた。
乾いた音が、修練場へ響く。
「場外」
短い間。
「勝者、シャンプー」
静寂。
それから。
修練場が一気に沸いた。
「シャンプー!」
「勝った!」
「乱馬に勝った!」
声が重なる。
だが、シャンプーには少し遠く聞こえた。
息が苦しい。
腕が痺れている。
頬が熱い。
乱馬の拳がかすめた場所だ。
足も震えている。
あと半歩。
本当に、それだけだった。
乱馬が袖を離さなかったら。
自分が左足を少しでも動かしていたら。
乱馬の足が錘の柄に触れなかったら。
最後に乱馬が足先をあと少し内側へ入れていたら。
結果は違った。
圧倒したわけではない。
追いつめられた。
何度も攻撃を受けた。
自分も場外寸前だった。
それでも。
勝った。
乱馬に。
初めて。
勝った。
シャンプーはゆっくり立ち上がった。
乱馬はまだ線の外側にいる。
自分の足元を見ていた。
やがて顔を上げる。
「やられた」
悔しそうだった。
だが。
怒ってはいない。
むしろ、その目には別のものがあった。
何が起きたのか。
どこで崩されたのか。
もう考え始めている。
「最後の錘」
乱馬が言った。
「何だ」
「わざと置いたのか?」
「そうだ」
「俺があそこへ足戻すのも?」
「おまえは落ちそうになったときほど、足場を探す」
乱馬の眉が動く。
「……そこまで見てたのかよ」
「見ていた」
「肩も?」
「昨日、おまえが自分で教えた」
乱馬が額を押さえた。
「子どもに教えたのを、そのまま俺に使ったのかよ」
「そのままではない」
「分かってるよ!」
乱馬は悔しそうに白い線を見る。
「右肩見せて、左から来やがって」
「肩を見ると言ったのはおまえだ」
「肩も嘘つくって言ったのも俺だ!」
「だから使った」
「くそっ!」
乱馬は頭をかき回した。
「しかも最後」
シャンプーを見る。
「俺の手、何で横へずらした?」
「石床」
「……石?」
「前に二人で運んだ」
乱馬が少し考える。
「あ」
「正面から支えれば安定する。支点をずらせば崩れる」
「仕事じゃねえか!」
「役に立った」
「おまえ、仕事は修行じゃねえって言ってただろ!」
「仕事は仕事だ」
「じゃあ何で勝負に使ってんだ!」
「覚えていたからだ」
「都合がいいな!」
シャンプーは答えなかった。
ただ、息を整える。
乱馬も少しして黙った。
修練場の声はまだ続いている。
村人たちはシャンプーの勝利を見ている。
長老たちもいる。
玄馬もいる。
昨日、子どもたちの稽古を見ていた者たちもいる。
全員が見た。
シャンプーが乱馬に勝った。
そして。
今度は。
別の意味で静かになっていく。
乱馬も気づいた。
周囲が待っている。
勝ったシャンプーが。
次に何をするのか。
勝者が。
敗者へ。
何を求めるのか。
乱馬が白い線をまたいだ。
円の中へ戻る。
シャンプーの前まで来た。
「それで」
乱馬が言う。
「何だ」
「どうする」
「何が」
「勝ったんだろ」
「勝った」
「……本当に、何もなし?」
シャンプーは乱馬を見る。
昨日までなら。
勝敗のあとには、別のものがあった。
女に負けた。
なら殺す。
男に負けた。
なら夫にする。
だが。
今日は違う。
乱馬へ勝った。
ただ、それだけだ。
胸の奥には、はっきりと喜びがあった。
二度負けた相手に勝った。
自分で考えた動きが通じた。
乱馬が教えたものを。
村で一緒に働いて覚えたものを。
自分の中で組み直した。
それで。
勝った。
嬉しい。
もう一度やれば、同じように勝てるかは分からない。
あと半歩違えば、負けていた。
それでも今日は。
自分が勝者だった。
だからこそ。
その勝利へ、別のものを足したくなかった。
「最初に言った」
シャンプーは答える。
「私はおまえに勝ちたかった」
乱馬は黙って聞く。
シャンプーは、乱馬をまっすぐ見た。
「おまえに勝った。それで終わりだ」