シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
「勝った。それで終わりだ」
シャンプーが言った。
乱馬は、しばらく何も答えなかった。
白い境界線の内側に立つシャンプー。
その足元を見る。
右足は外へ出た。
左足だけが残った。
自分は両足とも外。
勝敗はもう決まっている。
「……あとちょっとだったんだけどな」
乱馬が言った。
「そうだな」
「俺が最後に袖つかんだとき、おまえの左足浮いたよな」
「浮いた」
「もう少し引けてたら?」
「私も出ていたかもしれない」
「だよなあ」
乱馬は悔しそうに頭をかいた。
だが。
それだけだった。
シャンプーは乱馬を見る。
乱馬は負けた。
初めて。
自分に。
それなのに。
乱馬は頭を下げない。
シャンプーへ従おうともしない。
夫になるとも言わない。
何かを差し出そうともしない。
ただ、さっきの勝負を考えている。
「右肩は分かったんだよ」
乱馬が言う。
「何がだ」
「おまえが、俺が肩見るの知ってるってこと」
「試合の前にも気づいていただろう」
「だから逆に、そこまで露骨に右肩見せてくるなら何かあるって思った」
「それでも左へ動いた」
「そうなんだよ!」
乱馬が悔しそうに自分の腿を叩いた。
「分かってたのに身体が先に反応しやがった」
「なら、次は?」
シャンプーが聞いた。
乱馬は止まる。
「何?」
「さっき、おまえが言った」
「何を」
「負けたら、何が悪かったか考える」
「ああ」
「次はそこを直す」
乱馬がシャンプーを見る。
「……よく覚えてんな」
「昨日から何度も聞いた」
「じゃあ次は、肩見ても先に動かねえ」
「それだけか?」
「いや」
乱馬は白い線を見る。
「最後もだ」
「最後?」
「おまえが錘を置いた位置」
しゃがみ込む。
石床へ指を向ける。
「俺が戻ろうとする場所、最初から読んでたんだろ」
「そうだ」
「じゃあ、次は同じ場所に戻らねえ」
「どこへ戻る」
「その場で決める」
「決めていないではないか」
「相手が同じことするって決まってねえだろ!」
乱馬は立ち上がった。
「おまえだって次は変えるだろ」
「変える」
「なら俺も変える」
「そうか」
「何だよ」
「いや」
シャンプーは乱馬を見る。
負けた。
それでも乱馬は、もう次の話をしている。
悔しがっている。
だが、自分の価値が下がったとは思っていない。
自分よりシャンプーの方が上だから従わなければならないとも思っていない。
負けた。
どこが悪かった。
次はどうする。
本当に。
それだけだった。
シャンプーは昨日、乱馬の言葉を聞いた。
だが。
今、初めて見た。
乱馬が負けた後に、どう立っているのかを。
「何だよ」
乱馬が言う。
「何が」
「さっきから見てるだろ」
「見ている」
「何を」
「おまえの負け方」
「何だそれ」
「昨日まで知らなかった」
「俺だって、おまえに負けたことなかったからな」
「今は負けた」
「うるせえ!」
シャンプーの口元が少しだけ動いた。
「笑うな!」
「笑っていない」
「絶対笑った!」
そのときだった。
「待つんじゃ!」
修練場の外から大きな声が飛んできた。
乱馬とシャンプーが同時に振り返る。
「……来た」
乱馬が言った。
「何がだ」
「面倒なの」
「誰のことじゃ!」
ムースだった。
人の間を抜けようとして。
一度、反対側へ走り。
村人に肩をつかまれて向きを直され。
ようやく乱馬とシャンプーのいる場所へたどり着く。
「シャンプー!」
「近い」
ムースはシャンプーではなく、乱馬の正面で止まった。
「俺だよ!」
「分かっておる!」
「分かってねえだろ!」
ムースは眼鏡を直す。
今度こそシャンプーへ向き直った。
「シャンプー!」
「何だ」
「見事な勝利じゃ!」
「ありがとう」
「これで、この男との婚姻も──」
「関係ない」
ムースの口が止まった。
「……何?」
「今日の勝負に婚姻は関係ない」
「だが、シャンプーは勝った!」
「勝った」
「ならば!」
「勝った。それだけだ」
ムースが固まる。
乱馬が横から言う。
「試合の前にみんなの前で決めただろ」
「聞いておった!」
「じゃあ何で言うんだよ」
「勝負が終われば事情も変わるかもしれんじゃろう!」
「変わらねえよ!」
「シャンプーが勝ったんじゃぞ!」
「だから何だよ!」
「なら次は、おらが乱馬を倒す!」
乱馬の眉が跳ねる。
「何でそうなる」
「おらがこいつを倒せば、シャンプーも──」
「嫌だ」
シャンプーが言った。
「まだ最後まで言っておらん!」
「言わなくても分かる」
「なら話が早い!」
「断っている」
「なぜじゃ!」
ムースが両手を広げる。
「おらが乱馬より強いと証明すれば──」
「ムース」
シャンプーの声が少し低くなった。
「何じゃ」
「勝負で相手の答えを決めるな」
ムースが止まった。
乱馬もシャンプーを見る。
「……おまえ」
「何だ」
「いや」
乱馬は鼻の下を指でこする。
「ちゃんと覚えてたんだな」
「何を」
「山羊のときの話」
ムースの眉が寄る。
「山羊?」
「おまえには関係ねえ」
「関係ある!」
「どっちだよ!」
シャンプーはムースを見る。
「おまえが私を好きでも、私の答えを聞かなくてよいことにはならない」
「聞いておる!」
「聞いていない」
「毎回聞いておる!」
「答えが嫌だと、聞かなかったことにする」
「それは──」
「同じだ」
ムースが言葉を失う。
「勝負に勝っても、相手の答えまで勝手に決めるな」
シャンプーは言った。
「私は今日、それをしなかった」
ムースの視線が乱馬へ向く。
乱馬は腕を組んでいる。
「何だよ」
「納得できん!」
「俺に言うな!」
「ならば、おらが勝ってから改めて話を聞く!」
「最初から話を聞けよ!」
乱馬の手がムースの頭へ飛んだ。
「痛い!」
「話聞いてたか!」
「きさまに殴られる筋合いはない!」
ムースの袖が大きく動いた。
「おい」
「何じゃ!」
「暗器出すなよ」
「出しておらん!」
「袖に手入れただろ!」
「眼鏡を直そうとしただけじゃ!」
「眼鏡は顔だ!」
「ならばこれじゃ!」
「結局出すのかよ!」
袖から鎖が飛んだ。
乱馬が横へ避ける。
鎖は乱馬の横を通過し。
修練場の端へ置かれていた水桶へ巻きついた。
「あ」
乱馬が言う。
ムースも振り返る。
「何じゃ?」
「おまえ、それ」
「何を──」
鎖が張った。
桶が傾く。
「危ない!」
誰かの声。
次の瞬間。
大量の冷水が乱馬の頭から降ってきた。
「うわあっ!」
白い湯気。
身体が縮む。
肩幅が狭くなる。
濡れた黒髪が赤へ変わる。
服の中で身体の形が変わった。
そこに立っていたのは。
女の乱馬だった。
修練場が一瞬静かになる。
「女乱馬!」
ムースが叫んだ。
「誰のせいだ!」
乱馬の拳が飛ぶ。
「ぐはっ!」
ムースの顔面へ入った。
身体が後ろへ飛ぶ。
白い境界線を越え。
さらにその向こうまで転がっていった。
「場外」
コロンが言う。
「今のは勝負じゃねえ!」
乱馬が怒鳴る。
村人たちの間から笑いが起きた。
「笑うな!」
乱馬は濡れた髪を絞る。
「ちくしょう……」
服まで完全に濡れている。
シャンプーが近づいた。
「勝負の後でよかったな」
「途中でも同じだったんだろ?」
「何が」
「条件」
乱馬は自分の身体を見る。
「途中でこうなってても」
「ああ」
「本当に?」
「何度確認する」
「だってよ」
乱馬は自分の胸元を見て、それからシャンプーを見る。
「最初におまえと戦ったときは、この姿だったろ」
「そうだ」
「そのときは死の接吻」
「そうだ」
「二回目は男だったから求婚の接吻」
「そうだ」
「今日、途中で変わったら?」
「何も変わらない」
シャンプーはすぐに答えた。
「男でも女でも?」
「関係ない」
「何で」
シャンプーは乱馬を見る。
赤い髪。
小さくなった身体。
最初に自分が死の接吻を与えた姿。
以前なら。
その姿を見れば、最初の敗北を思い出した。
追うべき相手。
倒すべき女。
今は違う。
さっきまで自分と戦っていた乱馬。
白い線の外へ落ちても、すぐ次の手を考えていた乱馬。
目の前の女乱馬も。
同じ。
「おまえは一人だ」
シャンプーが言った。
乱馬が少し止まる。
「……そっか」
「何だ」
「いや」
乱馬は濡れた前髪をかき上げた。
「そこはもう聞かなくてもよかったかもな」
「なら聞くな」
「確認だよ」
「便利な言葉だな」
「おまえらの村で覚えたんだよ!」
周囲から、また笑い声が上がった。
「寒い」
乱馬が言った。
「だから湯を使え」
「そのつもりだよ」
「離れにある」
玄馬が観客の後ろから言った。
乱馬が嫌そうな顔で振り返る。
「親父」
「何だ」
「ちゃんと沸いてんだろうな」
「もちろんだ」
「本当に?」
「父を信用しろ」
「一番信用できねえ答えだな」
「朝、火はつけた」
「火は?」
「……」
「そのあと見た?」
「試合が始まったからな」
「親父!」
乱馬が離れへ走り出す。
「待て!」
玄馬も追う。
「湯は時間をかけて温まるものだ!」
「沸いてねえってことじゃねえか!」
「いま戻れば、ちょうどよい頃合いかもしれん!」
「かもしれんじゃねえ!」
親子の声が遠ざかっていく。
修練場には笑いが残った。
シャンプーはその背中を見る。
乱馬は負けた。
だが。
負けたからといって、シャンプーへ従わない。
夫にもならない。
何かを奪われたわけでもない。
水をかぶれば怒鳴る。
玄馬を追いかける。
ムースを殴る。
そして。
勝負が終わった直後から、自分がどこで負けたかを考えていた。
シャンプーはそれを初めて見た。
負けた後に。
次がある人間を。
昼食のころには、乱馬は男へ戻っていた。
服はまだ少し湿っていたが、替えの上着を着ている。
宗家の卓へ座ると、玄馬が肉へ手を伸ばした。
乱馬の箸が、その手を止める。
「それ俺の」
「敗者はもっと寛大になれ」
「勝負と飯は関係ねえ!」
「負けた日は父へ肉を譲るという修行を」
「今作んな!」
乱馬が肉を奪い返す。
向かいに座ったシャンプーがそれを見る。
「よく食べるな」
「何だよ」
「負けても食欲は変わらないのか」
「負けたら飯抜くの?」
「抜かない」
「じゃあ食うだろ」
「そうか」
「変なこと聞くな」
シャンプーは自分の椀へ戻った。
乱馬は一口食べる。
そして。
「でも最後のあれ、やっぱ左へ身体回したのが遅かったかな」
箸を持ったまま言った。
シャンプーが顔を上げる。
「まだ考えているのか」
「当たり前だろ」
「食事中だ」
「思いついたんだから仕方ねえ」
「朝、私へ同じことを言ったな」
「何を」
「勝負の後だけでなく、昼になっても考えるのか」
「負けたんだから考えるだろ」
「いつまで」
「次に勝つまで」
「……そうか」
乱馬が顔を上げる。
「何だよ」
「何でもない」
「それ多いな、おまえ」
玄馬が口を挟んだ。
「負けた技を飯の最中まで考えるのは、昔からだぞ」
「親父」
「何だ」
「たまにはまともなこと言うんだな」
「父を何だと思っている」
「飯を盗る奴」
「ひどい評価だ」
「事実だろ」
玄馬は乱馬の皿へまた箸を伸ばした。
「だから取んな!」
午後。
乱馬とシャンプーは薬草小屋の屋根へ上がっていた。
午前中、本来するはずだった仕事を二人とも勝負で外れていたためだった。
傷んだ板を外す。
新しい板を載せる。
釘を打つ。
乱馬は屋根の上へ腰を下ろし、金槌を振った。
こん。
こん。
こん。
「もう少し右」
下からシャンプーが言う。
「板?」
「そうだ」
「これくらい?」
「もう少し」
「最初から位置言えよ」
「見れば分かるだろ」
「昨日の倉庫でもそれ言ってたな!」
「まだ覚えているのか」
「昨日だぞ!」
シャンプーが屋根へ上がる。
二人で板の位置を直す。
「ここ」
「分かった」
乱馬が釘を打つ。
一枚。
二枚。
作業は進む。
しばらくすると。
「なあ」
乱馬が言った。
「何だ」
「最後」
「また勝負か」
「悪いかよ」
「悪いとは言っていない」
乱馬は釘を一本指先でつまむ。
「俺が片手ついたとき、おまえが手首ずらしただろ」
「そうだ」
「あれ、逆におまえの腕引けばよかった」
「引いた」
「袖はな」
「同じではないのか」
「違う」
乱馬は屋根板の上へ手をついた。
「こっちで支えたまま、反対の手でおまえの腕を取る」
「届くか?」
「次は届かせる」
「次」
シャンプーの手が止まった。
乱馬は気づかず続ける。
「錘も最初から床にあると思っときゃいいし」
「毎回置くとは限らない」
「だから、おまえが次何するかも見る」
「……」
「右肩も、今度は肩だけじゃなく腰と足まで──」
「乱馬」
「何だよ」
「さっきから次と言っている」
乱馬が止まった。
「言ってるな」
「次があると思っているのか」
「あるだろ」
「私は申し込まないぞ」
「分かってる」
「勝負の前に決めた」
「再戦を強制しない」
「そうだ」
「覚えてるよ」
乱馬は金槌を置いた。
少し考える。
屋根の向こうには村が見える。
水路。
共同倉庫。
昨日戦った修練場の屋根。
東門。
その先には。
自分が帰る道がある。
青河。
その先。
港。
日本。
まだ裁定は終わっていない。
ここへ残るとも決めていない。
だが。
それとは別に。
さっきの勝負は終わった。
そして乱馬は負けた。
「じゃあ」
乱馬が言う。
「次は俺から申し込む」
シャンプーが乱馬を見る。
「何?」
「次の勝負」
「分かっている」
「おまえからは申し込まねえんだろ」
「今回の条件では、再戦を求めないと決めた」
「だったら俺からやる」
「なぜ」
乱馬が眉を寄せる。
「何でって」
当たり前のように言いかけ。
少し考える。
「負けたから」
「それだけか」
「十分だろ」
「私に勝ちたい?」
「ああ」
乱馬は即答した。
「今度は俺が勝つ」
シャンプーは何も言わなかった。
乱馬が続ける。
「今日すぐじゃねえぞ」
「分かっている」
「同じことやっても意味ねえし」
「そうだな」
「肩の見方も考える。最後の戻り方も考える。あと、おまえが次何持ってくるかも分かんねえ」
「錘とは限らない」
「ほらな!」
乱馬の目が少し明るくなる。
「じゃあ、なおさらだ」
「何が」
「面白そうじゃん」
シャンプーの胸が少しだけ動いた。
乱馬が。
自分との次の勝負を。
面白そうだと言った。
死の接吻から逃げるためではない。
求婚の接吻を拒むためでもない。
裁定を変えるためでもない。
ただ。
負けたから。
次は勝ちたいから。
「いつだ」
シャンプーが聞いた。
「何が」
「次」
「まだ決めてねえ」
「そうか」
「急かすなよ」
「急かしていない」
「今いつって聞いただろ」
「確認しただけだ」
「便利に使うな!」
シャンプーの口元が少しだけ上がる。
「待っている」
「だから急かすなって」
「待つと言っただけだ」
「同じようなもんだろ」
「違う」
「細けえな」
乱馬は金槌を取り直した。
「次の板」
「そっちだ」
「右?」
「左」
「最初に言え!」
シャンプーが板を差し出す。
乱馬が受け取る。
勝った者。
負けた者。
それでも、午後の仕事は二人分残っていた。
乱馬は負けた。
だから従うのではない。
負けたから、次を選んだ。
今度は誰かに追われるのではなく。
自分から、もう一度戦うために。