シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
朝。
乱馬は、離れの前で右肩を回していた。
前へ。
後ろへ。
腕を上げる。
下ろす。
肩そのものには、もう何も残っていない。
「よし」
今度は片脚で立つ。
右足。
左足。
足首を軽く回し、そのまま膝を曲げる。
身体を沈める。
前へ一歩。
横へ半歩。
止まる。
乱馬は自分の足元を見る。
「肩だけじゃねえ」
小さく呟いた。
前の勝負。
シャンプーが右肩を見せた。
何かあると分かっていた。
それでも、自分の身体が先に反応した。
なら、今度は肩だけでは見ない。
腰、膝、足。
重心がどちらへ移っているか。
肩が嘘をつくなら、その下まで見る。
「朝からずいぶん熱心だな」
背後から声がした。
乱馬は振り返らない。
「親父、起きてたのか」
「今起きたところだ」
「じゃあ見てたみたいに言うなよ」
玄馬が離れの入口から出てくる。
「しかし、ずいぶん気合いが入っておるな」
「ああ」
「今日やるからな」
「仕事を?」
乱馬が振り返った。
「シャンプーとの勝負だよ!」
「仕事もやるのだろう?」
「やるよ!」
玄馬が少し目を丸くする。
「何だよ」
「いや」
「何だよ、その顔」
「以前なら、勝負の日に仕事を入れるなと言いそうなものだと思ってな」
「昨日から決まってただろ」
「勝負が?」
「水路点検も!」
乱馬はもう一度片脚で立つ。
今度は目を閉じる。
「仕事終わったら勝負。それでいいんだよ」
「ほう」
「その『ほう』やめろ!」
「昨日も同じことを言われた気がするな」
「だったら覚えろ!」
乱馬は地面を蹴った。
玄馬の横を抜け、そのまま離れへ戻る。
「飯行くぞ」
「先ほどまで勝負の準備をしていたのではないのか」
「腹減ってんだよ」
「やはり食事の方が優先か」
「仕事も勝負も飯食わなきゃできねえだろ!」
玄馬もその後を追った。
朝食を終えるころには、その日の仕事が決まった。
「乱馬とシャンプーは北東の水路」
コロンが言った。
乱馬が顔を上げる。
「俺も?」
「何か不満かい」
「いや」
乱馬は向かいに座るシャンプーを見る。
「昨日、おまえが水路って言ってたから」
「言った」
「おまえと一緒だったんだな」
「そうらしい」
「なら話が早いね」
コロンが続ける。
「北東の分岐から上流側。水量を見て、詰まりがあれば取る。水門板も確認してきな」
「分かった」
乱馬が答える。
シャンプーも、
「分かった」
と続いた。
「玄馬は?」
乱馬が聞く。
「西の薪置き場」
「一人?」
「三人いるよ」
「よかったな、親父。監督されるぞ」
「なぜわしが監督される前提なのだ」
「昨日も軽い縄ばっか選んでただろ」
「あれは効率だ」
「自分だけのな」
乱馬は最後の一口を食べる。
それからシャンプーを見る。
「終わったら勝負だからな」
「覚えている」
「忘れんなよ」
「申し込んだ本人が何度確認する」
「確認だよ」
「便利な言葉だな」
「おまえも使ってただろ!」
コロンが二人を見る。
「何だい。またやるのかい」
乱馬が答える。
「ああ」
「今度は?」
「俺から申し込んだ」
「そうかい」
それだけだった。
乱馬が少し拍子抜けしたようにコロンを見る。
「それだけ?」
「他に何があるんだい」
「前は長老まで出てきただろ」
「あのときは、初めて条件を決めたからね」
「今回は?」
乱馬はシャンプーを見る。
「前と同じでいいんだよな」
「ああ」
「勝っても何も求めない」
「そうだ」
「負けても、何か増えたりしない」
「しない」
「前の接吻の裁定はそのまま」
「そうだ」
コロンが口を挟む。
「一度成立した求婚の接吻が、同じ相手との再戦のたびに増えたり消えたりするわけじゃないよ」
「分かってる」
「ならいい」
「この前と同じ条件なら、そのままやっていいってこと?」
「二人とも同じ条件で戦うつもりならね」
乱馬が少し口を開ける。
「簡単だな」
「一度きちんと決めたんだ。毎回最初から決め直す方がおかしいだろう」
「そりゃそうか」
シャンプーが乱馬を見る。
「何だ」
「いや」
乱馬は少し笑った。
「本当に普通の勝負になったなって」
「最初からそのために決めた」
「そうだったな」
コロンが杖の先で床を叩く。
「勝負の話は終わりかい」
「ああ」
「なら仕事へ行きな」
「結局そこかよ」
「朝から水は待ってくれないよ」
乱馬は立ち上がった。
「行くぞ、シャンプー」
「おまえに言われなくても行く」
「今日勝つの俺だからな」
「仕事へ行く前から勝負を始めるな」
「先に言っといただけだよ」
「なら私も言う」
「何を」
「次も私が勝つ」
「言ったな?」
「言った」
「覚えてろよ」
「そこまでにして、二人とも仕事へ行きな」
コロンの杖が乱馬の尻を軽く叩いた。
「痛っ!」
北東の水路は、以前乱馬が冷水をかぶった場所とは別の系統だった。
村の外れから緩い斜面を上り、小さな林を抜けた先。
山から引いた水が石組みの細い水路へ入り、途中で三方向に分かれている。
乱馬は分岐の前へしゃがみ込んだ。
「こっち、少なくねえ?」
シャンプーも水面を見る。
「昨日より少ない」
「上?」
「たぶん」
乱馬はもう立ち上がっていた。
「見てくる」
「待て」
「何だよ」
「板も見る」
「ああ」
二人で少し上流へ歩く。
小さな水門板がある。
乱馬は先に水路へ目をやった。
枯葉。
細い枝。
その下に、小石がいくつか溜まっている。
「乱馬、そっち」
「詰まり?」
「そうだ」
乱馬はしゃがむ。
「これくらいなら枝抜けばいいだろ」
「下の石も見る」
「分かってる」
枝だけを無理に引かない。
先に絡んでいる枯葉を外す。
次に小石をどける。
最後に枝を持ち上げる。
水が少し強く流れた。
「お」
「まだ」
「分かってるって」
乱馬は水門板の下を見る。
「こっちも泥詰まってるな」
「ああ」
「先に板上げる?」
「少しだけ」
「全部じゃなく?」
「水圧を見る」
「分かった」
乱馬は板の片側へ手を掛けた。
シャンプーが反対側へ回る。
「上げるぞ」
「ああ」
「一、二」
「三」
二人で持ち上げる。
板が少し浮く。
水が下を抜ける。
泥が動いた。
「もう少し」
シャンプーが言う。
「これくらい?」
「あと少し」
乱馬は板を上げながら、ふとシャンプーを見る。
肩、腕、腰、足。
右肩が少し下がっている。
「何だ」
シャンプーが言った。
「別に」
「今、肩を見ていた」
「見てねえよ」
「見ていた」
「……今日は肩だけ見ねえからな」
シャンプーの口元が少し動いた。
「なら、どこを見る」
「言うわけねえだろ!」
「腰?」
乱馬が止まる。
「言うな!」
「膝?」
「だから!」
「足?」
「全部言うなよ!」
「当たっていたのか」
「仕事しろ!」
「している」
板はきちんと持っている。
乱馬は言い返せなくなった。
「くそ」
「何だ」
「試合前に聞き出そうとすんな」
「聞いただけだ」
「絶対分かってて聞いてんだろ」
「さあな」
乱馬がむっとした顔で板の下を見る。
そのとき。
「おまえも見てんじゃねえか」
シャンプーの目が、乱馬の足元へ向いている。
「見ている」
「認めるの早えな!」
「隠す必要がない」
「俺の何見てんの?」
「言うわけないだろう」
「それ俺が今言ったやつ!」
「役に立つ」
「また使いやがった!」
シャンプーは少し笑った。
乱馬は文句を言いながらも、板を支える手は動かさない。
仕事は仕事だった。
詰まりを取り終えたあと、二人はさらに上流へ進んだ。
水量を見る。
石のずれを確認する。
水路の縁に溜まった落ち葉を外へ出す。
途中、乱馬が大きめの枝を見つけた。
「これ邪魔だな」
「動かす」
「俺こっち持つ」
「待て」
「今度は何」
「下」
乱馬が足元を見る。
枝の先が、水門板の支えへ引っ掛かっていた。
「先に外したら板ずれるか」
「たぶん」
「じゃあ押さえる」
乱馬が水門板の片側へ回る。
シャンプーは枝を少し持ち上げる。
「いくぞ」
「ああ」
「一、二、三」
枝が外れた。
その瞬間、水門板が大きく震えた。
「おい!」
想定より水圧が強かった。
板の片側が浮く。
水が一気に隙間へ入り込む。
乱馬がすぐに手を伸ばした。
「そっち上げろ!」
「分かっている!」
シャンプーも反対側を取る。
板が斜めになる。
水が乱馬の足元へ飛ぶ。
「冷たっ!」
「離すな!」
「離してねえよ!」
二人で押さえる。
乱馬の足が泥の上を半歩滑った。
「くそ!」
シャンプーが腰を落とす。
板の角度が少し戻った。
「三で戻すぞ!」
乱馬が言った。
「ああ!」
「一!」
二人とも足を固める。
「二!」
板を持ち上げる。
「三!」
一気に元の溝へ戻す。
がこん、という音共に板が収まった。
水流が落ち着く。
二人とも、しばらくそのまま押さえていた。
「……入ったか?」
乱馬が聞く。
「入った」
「手離すぞ」
「ゆっくり」
「分かってる」
二人同時に力を抜く。
板は動かなかった。
「よし」
乱馬が立ち上がる。
足元を見る。
片方の足袋が泥だらけだった。
「最悪だ…」
「濡れなかっただけいい」
「ちょっとかかったんだよ」
「変わるほどではないだろう」
「ああ」
乱馬は足を振る。
泥が飛ぶ。
「泥を飛ばすな」
「そっちいってねえだろ」
「今の」
シャンプーが言った。
「何」
「勝負なら、おまえの足が先に滑っていた」
乱馬が顔を上げる。
「それは泥だ!」
「足が滑ったのは同じだ」
「試合場に泥ねえだろ!」
「あるかもしれない」
「ねえよ!」
「石床へ誰かが水をこぼせば」
「そんな勝負いやだよ!」
シャンプーが少し笑う。
乱馬が指をさした。
「おまえだって今、右足浮いてたぞ」
「仕事中だ」
「俺のときだけ勝負にすんな!」
「おまえが先に試合の話をした」
「今言い出したのおまえだろ!」
二人の声が水路へ響く。
だが、乱馬は少し笑っていた。
シャンプーも、もう板が動かないことを確認して立ち上がる。
「次」
「まだあんの?」
「上の分岐」
「分かったよ」
乱馬は先に歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「シャンプー」
「何だ」
「さっきの板」
「何だ」
「俺が言う前に反対側押さえたよな」
「おまえもだ」
「だよな」
「だから何だ」
「いや」
乱馬は前へ向き直る。
「別に」
「何だ、それは」
「仕事だからできただけだよ」
「そうだな」
二人はまた歩いた。
考える前に。
互いに、どこを持てばいいか分かっていた。
水路点検が終わったのは、昼少し前だった。
宗家へ戻ると、すでに食事の用意が始まっている。
「おかえり」
リンファが二人を見る。
「どうだった?」
「一か所、板がずれかけた」
シャンプーが答える。
「直した?」
「ああ」
「乱馬、濡れなかった?」
乱馬が眉を寄せる。
「何で最初にそこ聞くの?」
「前に水路で濡れたから」
「ちょっとしかかかってねえよ」
「ならよかった」
リンファは汁物の器を並べる。
「午後、二人で勝負するんでしょう?」
乱馬が止まった。
「何で知ってんの?」
「シャンプーから聞いたわ」
乱馬がシャンプーを見る。
「言ったの?」
「言った」
「何で」
「予定だからな」
「予定って」
「午後、修練場を使うなら言っておく必要がある」
「ああ」
乱馬は少し考える。
「そりゃそうか」
「何か問題か」
「いや」
乱馬は席へ座る。
「本当に予定みたいだなって」
「予定だ」
「そうだけど」
玄馬が遅れて入ってきた。
「おお、飯か」
「親父、薪終わった?」
「当然だ」
「本当に?」
「何だその疑いは」
「一緒だった人に聞く」
「父を信用しろ」
「だから信用できねえんだよ」
食事が始まる。
乱馬は肉へ箸を伸ばした。
一つ。
二つ。
三つ目へ。
シャンプーの箸が先に入る。
「食べすぎると動けないぞ」
「分かってるよ」
「昨日は三つ食べた」
「今日と昨日は違う!」
「今、三つ目を取ろうとした」
「今日は勝負あるから三つで止めんの!」
「止めるつもりだったのか」
「その予定!」
リンファが笑う。
「勝負も予定。肉の数も予定なのね」
「肉は大事だろ!」
玄馬がうなずく。
「その通りだ」
「親父は四つ取るな!」
「数えておったのか!」
「目の前だからな!」
シャンプーが乱馬を見る。
「食事中も周りを見ているのだな」
「勝負に使おうとすんな!」
「使えるかもしれない」
「じゃあ俺も、おまえが汁物から先に食うの覚えとくからな」
「何に使う」
「知らねえよ!」
また笑い声が起きる。
今日、二人はこれから戦う。
それでも、昼食はいつもの昼食だった。
午後。
共同修練場。
前の勝負ほど、人は集まっていなかった。
子どもが数人。
近くで仕事をしていた村人が何人か。
玄馬。
聞きつけて来たムースも、少し離れた場所に立っている。
「なぜまた戦うんじゃ」
ムースが言った。
「俺が申し込んだから」
乱馬が答える。
「なぜ!」
「この前負けたから!」
「それだけか!」
「それ以外何がいるんだよ!」
ムースが何か言い返そうとする。
シャンプーが先に言った。
「今日は邪魔するなよ」
「おらは邪魔などせん!」
「鎖も出すな」
「出さん!」
「水桶にも近づくな」
ムースが止まる。
「……覚えておったのか」
「忘れるか!」
乱馬が怒鳴る。
子どもたちが笑った。
「乱馬とシャンプー、またやるの?」
「ああ」
乱馬が答える。
「今日はどっちが勝つ?」
「俺」
「私だ」
二人の声が重なった。
「どっち?」
「俺!」
「私!」
「始まる前からうるさいねえ」
コロンが杖をついて歩いてきた。
乱馬が振り返る。
「ばあさん」
「今回はわしが必要なのかい」
「判定だけ頼む」
「条件は?」
乱馬とシャンプーが顔を見合わせる。
乱馬が先に言った。
「場外あり」
シャンプーが続ける。
「十を数えて立てなければ負け」
「殺すのなし」
「武器は使う」
「勝っても何も要求しない」
「負けても、前の裁定は変わらない」
「再戦も強制しない」
「前と同じだ」
乱馬が少し止まる。
「……終わり?」
「終わりだ」
シャンプーが答える。
乱馬はコロンを見る。
「前よりずいぶん簡単だな」
「決めてあるからな」
シャンプーが言った。
乱馬がそちらを見る。
「そっか」
「ああ」
「一回決めたら、次も同じでいいんだな」
「変えたいなら、そのとき話せばいい」
「今日は?」
「変えない」
「俺も」
コロンがうなずいた。
「なら、それでいいだろう」
乱馬は白い境界線の内側へ入る。
シャンプーも反対側から入った。
今日は錘を持っている。
前と同じ。
だが。
乱馬は、それだけを見なかった。
肩。
腰。
膝。
足。
立っている位置。
錘を持つ手。
縄のたるみ。
身体全体を見る。
シャンプーが気づく。
「今日は肩だけではないのだな」
「当たり前だ」
乱馬が腰を落とす。
「もう一回、同じ手で負けるかよ」
「なら」
シャンプーも構えた。
「違う手を使う」
乱馬の目が少し細くなる。
「来いよ」
「おまえから申し込んだのだろう」
「だから来いって言ってんだよ」
「偉そうだな」
「勝ったら言え」
「なら、あとで言う」
「言ったな?」
「言った」
コロンが二人の間を見る。
朝は、水路を点検した。
昼には飯を食べた。
午後になったから、約束どおり戦う。
それだけだった。
コロンの杖が上がる。
乱馬が息を整える。
シャンプーの錘が、わずかに揺れる。
杖が下りた。
「始め!」