シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF―   作:エーアイ

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第3話 乱馬は、女傑族の村に客人として監禁される

 シャンプーの後について石畳を歩き、乱馬と玄馬は、彼女が暮らす宗家の屋敷へ入った。

 

 宗家は、一棟だけの大きな建物ではなかった。

 古い石塀に囲まれた敷地の中へ、母屋、竈小屋、倉、薬草庫が、中庭を囲むように並んでいる。

 コロンの血筋に連なる叔母や従姉妹たちが、世代をまたいで暮らすための屋敷だった。

 

 雨上がりの中庭では、女たちが濡れた道具や敷物を片づけていた。

 乱馬と玄馬が通ると、何人かが作業の手を止める。

 

「何見てやがる」

 

 乱馬が居心地悪そうに言った。

 

「男が珍しいわけではない」

 

 シャンプーは歩みを止めずに答えた。

 石塀の向こうの段々道では、薪を担いだ男と、水桶を運ぶ女がすれ違っている。

 村には男も女も暮らしていた。

 

「おまえが珍しいだけだ」

 

「男にも女にもなるからかよ」

 

「それと、私に二度勝ったからだ」

 

「どっちも見世物になる理由じゃねえ」

 

 中庭の南東、宗家の敷地の外縁に、客人用の小さな離れが建っていた。

 かつて村外から来た者を泊めるために使われていた、簡素な石造りの建物である。

 

 離れの窓は、宗家の外側へ向いていた。

 窓の下には、宗家の石塀と隣家の間を通る狭い路地がある。

 その向こうには、斜面に沿って段々に並ぶ石造りの家々の屋根と、村を囲む外壁が見えた。

 さらに遠くを、女傑族の村を抱え込むように岩山が取り巻いている。

 

 雨はすでに上がっていた。

 濡れた石畳と屋根が夕日に照らされ、赤く光っている。

 

 シャンプーが扉を開ける。

 

「ここを使え」

 

 乱馬は中へ入り、部屋を見回した。

 

 寝台が二つ。

 木の机が一つ。

 衣服を入れる棚。

 入口近くには、蓋のついた水差しが置かれている。

 

 水差しの横には、共通語で短く書かれた札があった。

 

 冷水。

 注意。

 

 乱馬が札を見て、わずかに眉を上げる。

 

「狭いな」

 

「野宿よりはましだろう」

 

「勝手に連れてきたくせに、恩着せがましく言うな」

 

「客人として用意した」

 

「監禁されてる客人がいるかよ」

 

 乱馬は棚の扉を開け、机の下を覗き、窓から外を確認した。

 

 すぐ逃げ道を探している。

 シャンプーには、それが分かった。

 

 離れは宗家の敷地の外縁にある。

 窓から低い屋根へ移り、斜面に並ぶ家々を伝えば、村の外壁まではほぼ一直線だった。

 だが、周囲には女傑族の家々が密集し、男も女も暮らしている。

 

 乱馬が屋根を走れば、すぐに誰かが気づくだろう。

 

「逃げても無駄だ」

 

「まだ何も言ってねえだろ」

 

「顔に書いてある」

 

「おまえに俺の顔の何が分かる」

 

 乱馬が睨む。

 シャンプーも睨み返した。

 

 寝台を用意したとき、乱馬が一人であることは理解した。

 女姿と男姿のために、別々の場所を用意する必要はない。

 同じ乱馬が、同じ寝台で眠る。

 

 それでも、こうして目の前に立たれると、三日前の赤い髪と、今日の黒い髪は、まだシャンプーの中で完全には重ならなかった。

 

 記憶も技も、声の調子も同じだ。

 しかし姿が変われば、目の前の存在まで変わったように感じてしまう。

 

 男の乱馬は、女の乱馬より背が高い。

 肩も広く、声も低い。

 こちらを見下ろす目にも、わずかな圧がある。

 

 この男に、自分は負けた。

 求婚の接吻を与えた。

 夫にすると宣言した。

 その事実を意識すると、乱馬の顔を正面から見続けることが難しくなる。

 

 シャンプーは視線を逸らした。

 

「夕食になったら呼ぶ」

 

「ちょっと待て」

 

 乱馬が呼び止める。

 

「何だ」

 

「身体を洗う湯はあるか」

 

「用意させている」

 

 シャンプーは離れの裏を指した。

 

「あちらに古い洗い場がある。大きな桶も運ばせた。湯は夕食後に私が運ぶ」

 

「最初からそう言え」

 

「ただし、洗い場は長く使われていない。先に整える必要がある」

 

「だったら飯の後に俺がやる」

 

「おまえだけに任せない」

 

「見張りか?」

 

「客人に掃除をさせたと、ひいばあちゃんに言われる」

 

 乱馬は入口近くの水差しを見る。

 

「この札、おまえが書いたのか」

 

「読めるように書いた」

 

「冷水くらい見りゃ分かる」

 

「見ただけで温度が分かるのか」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

 乱馬は肩を落とした。

 シャンプーは部屋を出ようとした。

 

「それから」

 

 また呼び止められる。

 

「今度は何だ」

 

「俺たちは、いつまでここにいなきゃならねえ」

 

「長老たちが裁定を出すまでだ」

 

「それがいつか聞いてんだよ」

 

「分からない」

 

 乱馬の眉がつり上がった。

 

「分からないだと?」

 

「前例がない。呪泉郷の記録も調べる必要がある」

 

「一日か」

 

「違う」

 

「三日か」

 

「分からない」

 

「一週間か」

 

「だから分からない」

 

 乱馬は舌打ちした。

 

「そんなものを待ってられるか」

 

「呪いを治したくないのか」

 

 シャンプーが言うと、乱馬は口を閉じた。

 効果のある言葉だと、コロンから教わっていたわけではない。

 しかし乱馬が呪いの話をされたときだけ、怒りを途中で飲み込むことには気づいていた。

 

「ひいばあちゃんは、娘溺泉について知っている」

 

「だったら、さっさと教えろって言ってんだ」

 

「おまえが村から逃げれば教えない」

 

「脅しかよ」

 

「条件だ」

 

「同じだろ」

 

 乱馬は窓の外を見る。

 宗家の石塀の向こうには、斜面に沿って重なる家々の屋根がある。

 その先には村の外壁があり、さらに遠くには呪泉郷のある山々が連なっている。

 日本は、そのさらに遠く。

 いまから歩き出しても、すぐには帰れない。

 旅費も乏しい。

 玄馬は村で食事と寝床を得られると知った瞬間から、帰る気を失っている。

 乱馬だけで出ていくことはできる。

 だが、呪いを治す手掛かりを捨てることになる。

 乱馬はしばらく黙り、やがて乱暴に寝台へ腰を下ろした。

 

「裁定が出るまでだぞ」

 

「私に言うな。長老に言え」

 

「おまえは俺を監視するんだろ」

 

「そう命じられた」

 

「だったら、おまえにも言っとく」

 

 乱馬はシャンプーを見る。

 

「俺はこの村の掟に従う気はねえ」

 

「村にいる間は守ってもらう」

 

「人を殺せとか結婚しろって掟まで守ると思うか?」

 

「それはまだ決まっていない」

 

「決まっても従わねえよ」

 

 乱馬の声は強かった。

 石橋で雨に打たれながら、自分のことは自分で決めると言ったときと同じ目をしている。

 

 シャンプーは、それが気に入らなかった。

 

 村の掟は、ここで暮らす者すべてが守るものだ。

 自分も守ってきた。

 宗家の叔母や従姉妹たちも、村で暮らす男たちも女たちも、その前の世代も。

 乱馬ひとりだけが従わなくてよいはずはない。

 

 それなのに。

 なぜか、乱馬の言っていることを完全には間違いだと言い切れなかった。

 

「夕食の準備が出来たら呼ぶ」

 

 シャンプーはそれだけを告げ、離れを出た。

 背後で、乱馬が大きく息を吐いた。

 その音を聞きながら、シャンプーは自分の胸の内に残った違和感を振り払おうとした。

 


 

「これは何だ」

 

 乱馬は箸で、器の中の黒い塊をつついた。

 

「肉だ」

 

 シャンプーが答える。

 

「何の肉か聞いてんだよ」

 

「山羊よ」

 

 向かい側で料理を取り分けていたリンファが答えた。

 

「こっちは」

 

「猪だ」

 

「それで、この丸いのは」

 

「蛇」

 

 乱馬の手が止まった。

 

「蛇?」

 

「滋養がある」

 

「普通のもんはねえのか」

 

「どれも普通だ」

 

「この村ではな」

 

 夕食は、宗家の母屋にある広間へ用意されていた。

 広間には長い木の卓が二つ並んでいる。

 手前の卓には乱馬、玄馬、シャンプー、コロン、そして今日の炊事当番であるリンファが座った。

 もう一つの卓では、宗家で暮らす叔母や従姉妹たちが、いつもの夕食を取っている。

 

 乱馬たちの卓には、宗家の普段の膳に加え、二人の食欲を見越した大皿がいくつも並べられていた。

 料理をまとめたのはリンファで、ほかの従姉妹たちも、野菜を刻み、饅頭を蒸し、食器を整えるのを手伝ったという。

 

 肉と野菜の煮込み。

 蒸した饅頭。

 香辛料の利いた炒め物。

 骨付き肉。

 山菜の汁物。

 

 乱馬は文句を言いながらも、箸を止めてはいなかった。

 むしろ誰よりも速く食べている。

 玄馬はさらに速い。

 

「うむ。実にうまい」

 

「親父、俺の皿から取るな!」

 

「家族で分け合うのは当然だろう」

 

「自分の分を食ってから言え!」

 

 玄馬の箸が乱馬の骨付き肉を奪う。

 乱馬の箸がそれを途中で挟む。

 二人の間で肉が引っ張り合われる。

 

 次の瞬間、骨だけが真ん中から抜け、肉が天井へ飛んだ。

 シャンプーが片手を上げる。

 落ちてきた肉を箸でつかみ、そのまま自分の皿へ置いた。

 乱馬と玄馬が同時に見る。

 

「食べ物を粗末にするな」

 

 シャンプーは肉を口へ運んだ。

 乱馬が納得のいかない顔をする。

 

「それ、俺のだったんだけどよ」

 

「落とした時点でおまえのものではない」

 

「ここにも妙な掟があんのか」

 

「常識だ」

 

「まだ鍋にあるから、今度は飛ばさないで食べなさい」

 

 リンファは乱馬の空いた皿へ、骨付き肉をもう一つ載せた。

 叱っているのか、慰めているのか分からない穏やかな声だった。

 

 コロンが小さく笑った。

 

「食事には困らなさそうだね、婿殿」

 

「誰が婿だ!」

 

 乱馬は即座に否定した。

 シャンプーの箸が止まる。

 

「その呼び方は、まだ早い」

 

 乱馬がシャンプーを見る。

 

「まだ?」

 

「裁定は出ていない」

 

「出てもならねえ」

 

「私も、おまえを夫にするか決まっていない」

 

 言ってから、シャンプーは自分の言葉に違和感を覚えた。

 掟に従えば、男乱馬は夫にする相手だ。

 選ぶ余地などない。

 それなのに、「私も決めていない」と口にしていた。

 乱馬はむっとした顔になった。

 

「何でおまえが選ぶ側なんだよ」

 

「私が負けたからだ」

 

「負けた方が選ぶのか?」

 

「おまえは私に勝った。強い男を夫に迎えるのは、村の女にとって名誉だ」

 

「俺は名誉のために結婚する道具じゃねえ」

 

「道具とは言っていない」

 

「同じようなもんだろ」

 

 二人の間に、張りつめた沈黙が落ちた。

 玄馬は気にせず食べ続けている。

 コロンは細い目で二人を眺めていた。

 

「乱馬」

 

 コロンが言う。

 

「何だよ」

 

「お前はシャンプーに二度勝った」

 

「それがどうした」

 

「二度とも、相手に必要以上の傷を負わせてはいないね」

 

 乱馬は眉をひそめた。

 

「勝負が決まった後に殴る理由がねえだろ」

 

「それはお前の流派の決まりかい?」

 

「別に決まりじゃねえ」

 

「なら、お前自身がそう決めたのか」

 

 乱馬は答えなかった。

 コロンは今度はシャンプーを見る。

 

「この男が掟を持たぬ者だと思うかい」

 

 シャンプーは乱馬を見た。

 乱馬は骨付き肉へかじりつき、話は終わりだと言わんばかりに顔を背けている。

 

 掟を持たない。

 最初はそう思った。

 村の決まりを知らず、従おうともしない。

 けれど乱馬にも、戦いの中で守るものがある。

 

 勝負が終われば追撃しない。

 倒れた相手に手を出さない。

 相手が武器を使っても、自分は素手で戦う。

 それを誰かに命じられたのか。

 それとも自分で選んでいるのか。

 

「分からない」

 

 シャンプーは答えた。

 今日、二度目の言葉だった。

 長老たちの前でも、同じことを言った。

 

 自分は何を望むのか分からない。

 今度は、乱馬がどのような人間なのか分からない。

 昨日まで、分からないという言葉を口にすることはなかった。

 分からなければ確かめればよい。

 

 戦えば相手の強さは分かる。

 勝者と敗者に分かれれば、立場も決まる。

 だが乱馬は、二度戦っても分からなかった。

 

「見ればいい」

 

 コロンは汁物をすすった。

 

「裁定が出るまでは時間がある」

 

「こいつを見るのか」

 

 乱馬が嫌そうな顔をする。

 

「私も嫌だ」

 

「何だと」

 

「おまえが逃げないか、一日中見張らなければならない」

 

「頼んでねえ」

 

「私も頼んでいない」

 

「だったら、ばあさんに断れ」

 

「ひいばあちゃんの命令だ」

 

「結局、また命令かよ」

 

 乱馬の言葉が刺さった。

 シャンプーは箸を置く。

 

「命令を守ることの何が悪い」

 

「悪いなんて言ってねえ」

 

「言っている」

 

「俺は、おまえが自分で何も決めてねえって言ってんだ」

 

 シャンプーが立ち上がった。

 椅子が後ろへ倒れる。

 リンファは、卓の端にあった汁物の鉢を静かに自分の側へ移した。

 奥の卓では、叔母や従姉妹たちが一斉に会話を止めている。

 

「乱馬」

 

 乱馬も箸を置く。

 シャンプーがいつ攻撃してもよいように、わずかに腰を浮かせている。

 コロンの杖が、二人の間へ伸びた。

 

「食事の席だよ。黙って食べな」

 

 シャンプーは乱馬を睨み続けた。

 乱馬も目を逸らさない。

 やがてシャンプーは椅子を起こし、再び座った。

 乱馬は、玄馬がこの騒ぎの隙に残っていた饅頭をすべて自分の皿へ移しているのに気づいた。

 

「親父!」

 

「早い者勝ちだ」

 

「返せ!」

 

 再び親子の箸がぶつかり合う。

 先ほどまでの重い空気が崩れた。

 奥の卓から、こらえきれなかったような笑い声が漏れる。

 リンファは何も言わず、空になりかけた饅頭の籠を新しいものと取り替えた。

 シャンプーは小さく息を吐いた。

 

 乱馬は腹立たしい。

 無遠慮で、声が大きく、自分たちの掟を認めようとしない。

 正面から言い返してくる。

 自分が長老の命令に従っているからといって、それを笑うわけではない。

 ただ、自分の意思はどこにあるのかと問う。

 

 シャンプーは、その問いが嫌いだった。

 答えられないからだ。

 


 

 夕食後、シャンプーは乱馬を宗家の離れの裏へ連れていった。

 

 低い石壁に囲まれた、古い洗い場がある。

 村外から来た客人のために使われていた場所だが、長い間、誰も使っていない。

 

 母屋から運ばせた大きな桶が、入口近くに置かれていた。

 しかし床には枯れ葉が積もり、排水溝にも土が詰まっている。

 乱馬は中を見回した。

 

「用意できてねえじゃねえか」

 

「桶は用意した。湯も母屋で沸かしてある」

 

「洗う場所がこれじゃ使えねえだろ」

 

「だから整えると言った」

 

 シャンプーは壁に立てかけてあった箒を取る。

 乱馬も、もう一本の箒を手にした。

 

「何してんだ」

 

「俺が使う場所だ。俺もやる」

 

「客人にさせるわけにはいかない」

 

「二人の方が早いんだろ」

 

 シャンプーは言い返そうとして、やめた。

 

「では、そちらから掃け」

 

「命令すんな」

 

「なら勝手にしろ」

 

 二人は、洗い場の両端から箒を動かし始めた。

 やがて、二人の箒が中央でぶつかった。

 

「そっちは俺がやってる」

 

「遅いからだ」

 

「だったら、おまえは壁をやれ」

 

「命令するな」

 

「二人の方が早いんだろ」

 

 シャンプーは口を閉じた。

 乱馬は勝ったような顔をした。

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

 シャンプーは壁際へ移る。

 乱馬は乱暴だが、掃除そのものは手際がよかった。

 

 旅の途中で野営地を整えることに慣れているのだろう。

 枯れ葉を一か所へ集め、壊れた桶を外へ出し、排水溝の詰まりまで直す。

 

「おまえ、こういうこともできるのか」

 

「こういうことって何だよ」

 

「戦う以外のことだ」

 

「旅してりゃ何でもやる」

 

「玄馬はやらないのか」

 

「親父がやると思うか?」

 

 離れを見れば、玄馬は食事を終えてすぐ寝台へ戻っているはずだ。

 シャンプーは少し考え、首を振った。

 

「思わない」

 

「だろ」

 

 乱馬は鼻を鳴らした。

 その反応が、少しだけ誇らしそうに見えた。

 

 シャンプーは気づく。

 乱馬は玄馬に文句を言いながらも、旅の準備や片づけを自分でしてきたのだろう。

 

 食べ物を探し、寝床を整え、湯を沸かす。

 強いだけでは、旅はできない。

 

「何見てんだ」

 

 乱馬が振り返る。

 

「見張っている」

 

「そういう顔じゃなかったぞ」

 

「どんな顔だ」

 

「知らねえ」

 

 乱馬は再び掃除へ戻った。

 シャンプーも箒を動かす。

 自分でも、どんな顔をしていたか分からなかった。

 


 

 洗い場の掃除が終わるころには、空はすっかり暗くなっていた。

 

 母屋では、頼んでおいた湯が用意されている。

 シャンプーはそれを洗い場へ運ぶため、一度家へ戻った。

 

 乱馬には、着替えを取って離れで待つよう告げた。

 命じるという言い方をすれば、また反発するだろう。

 だが、他に言いようがない。

 大きな桶へ湯を入れ、両手で持ち上げる。

 女傑族の女にとって、その程度の重さは問題にならない。

 洗い場へ戻る途中、子どもたちの声が聞こえた。

 

「男の乱馬、本当に女になるの?」

 

「雨をかぶったらなったよ」

 

「見たい」

 

「水をかければいい」

 

 シャンプーは足を止める。

 路地の角に、村の子どもたちが隠れていた。

 十歳にもならない少女が三人。

 手には小さな桶を持っている。

 

「やめろ」

 

 シャンプーが声をかけると、三人が飛び上がった。

 

「シャンプー」

 

「乱馬に水をかけるな」

 

「でも見たい」

 

「本人が嫌がる」

 

 子どもたちは不満そうに頬を膨らませた。

 

「女になるだけでしょ」

 

「同じ人でしょ」

 

 その言葉に、シャンプーは答えられなかった。

 同じ人。

 子どもたちは、何の迷いもなくそう言う。

 男の姿も女の姿も、乱馬だと。

 シャンプーや長老たちは、二つの姿へ別々の掟を当てはめ、答えを出せずにいる。

 

「水をかけるな」

 

 シャンプーはもう一度だけ言った。

 

「乱馬が女になるところを見たければ、本人に聞け」

 

「聞いたら見せてくれる?」

 

「たぶん断る」

 

「じゃあ意味ない」

 

 子どもたちは笑いながら走り去った。

 シャンプーは湯桶を持ったまま、その後ろ姿を見送った。

 同じ人。

 簡単な言葉だった。

 それなのに、なぜ大人たちは難しく考えるのだろう。

 洗い場へ戻ると、乱馬が入口に立っていた。

 

「遅かったな」

 

「子どもがいた」

 

「さっきから、窓の外をうろうろしてた奴らか」

 

 乱馬は気づいていたらしい。

 

「おまえに水をかけようとしていた」

 

「やっぱりか」

 

 乱馬が顔をしかめる。

 

「珍しいから見たいそうだ」

 

「俺は見世物じゃねえ」

 

「そう言って追い払った」

 

 乱馬がシャンプーを見る。

 

「おまえが?」

 

「私が監督している」

 

「それも命令か」

 

 シャンプーは答えようとした。

 だが、少し迷った。

 子どもを止めるよう、コロンから命じられたわけではない。

 村の客人を守ることも監督の仕事だと言えば、命令の内側には含まれるかもしれない。

 しかし、シャンプーは乱馬が嫌がると分かっていたから止めた。

 

「私が決めた」

 

 口から出た言葉に、自分で驚く。

 乱馬も少し驚いた顔をした。

 

「そうかよ」

 

 それだけ言い、湯桶を受け取る。

 シャンプーの手から、重さが消える。

 

「おまえが運ぶ必要はない」

 

「俺が使う湯だ」

 

「客人に運ばせると、ひいばあちゃんに言われる」

 

「俺が勝手に持った。おまえは止めた。それでいいだろ」

 

 乱馬は湯を洗い場へ運び込む。

 シャンプーは入口に残った。

 

「終わるまで外にいる」

 

「いなくていい」

 

「逃げないか見張る」

 

「裸で逃げるわけねえって言っただろ」

 

「服を着てから逃げるかもしれない」

 

「だったら、部屋の前で待ってろ」

 

「ここにいる」

 

 乱馬が深いため息をつく。

 

「おまえ、面倒な奴だな」

 

 乱馬は洗い場の戸を閉めた。

 しばらくすると、中から衣服を脱ぐ音が聞こえた。

 シャンプーは石壁へ背を向けて立つ。

 夜風が濡れた髪を揺らす。

 乱馬の言葉が頭に残っていた。

 

 面倒な奴。

 

 三日前なら、侮辱されたと思っただろう。

 いまは、それほど腹が立たなかった。

 

 洗い場の中から、湯を使う音がする。

 男の乱馬がそこにいる。

 湯が冷めて水になれば、女の乱馬になる。

 

 どちらも同じ人。

 それでもシャンプーの中では、まだ同じ場所に重ならない。

 

 二つの姿。

 二つの敗北。

 二つの接吻。

 ひとりの乱馬。

 

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 

 突然、中から大きな音がした。

 

「うわっ!」

 

 何かが倒れる。

 シャンプーは反射的に戸を開けた。

 

「乱馬!」

 

「入ってくんな!」

 

 乱馬が叫ぶ。

 シャンプーは足を止めた。

 

 乱馬は腰へ布を巻き、片足で立っていた。

 床には壊れた木の台が転がっている。

 古くなっていたため、乗った瞬間に脚が折れたらしい。

 

 乱馬自身に怪我はない。

 

「大丈夫か」

 

「見りゃ分かるだろ! 早く出ろ!」

 

「足を痛めたのか」

 

「何ともねえ!」

 

 乱馬が片足を下ろす。

 確かに普通に立っている。

 

 シャンプーは乱馬の身体を見る。

 

 男の乱馬。

 肩や腕には、旅と修行でついた傷がいくつも残っている。

 胸元にも、古い痣がある。

 

 女の姿とは、身体の形が違う。

 だが、どちらの身体にも同じように傷があるのだろうか。

 

「何じろじろ見てんだ!」

 

 乱馬が顔を赤くする。

 シャンプーは我に返った。

 

「怪我がないか見ただけだ」

 

「ないから出ろ!」

 

「分かった」

 

 シャンプーは戸を閉めた。

 閉めた直後、乱馬の声が聞こえる。

 

「全部閉めろ!」

 

 見ると、戸が少しだけ開いている。

 シャンプーは強く引き、完全に閉めた。

 そのまま戸の前へ背中をつける。

 

 自分の顔が熱い。

 乱馬は男だ。

 男の身体を見た。

 夫になるかもしれない男。

 

 そう考えた瞬間、さらに顔が熱くなる。

 

 違う。

 まだ何も決まっていない。

 乱馬自身も拒んでいる。

 

 シャンプーも、本当に夫にしたいのか分からない。

 ただ掟がそう定めているだけだ。

 

 それなのに、胸が妙に速く動いている。

 

「シャンプー」

 

 戸の向こうから声がした。

 

「何だ」

 

「まだそこにいるのかよ」

 

「いる」

 

「帰れよ!」

 

「見張りだと言った」

 

「のぞくなよ!」

 

「のぞかない!」

 

 シャンプーは思わず大声で返した。

 宗家の母屋の方から、誰かがこらえきれなかったような笑い声が上がった。

 

 聞かれていた。

 シャンプーは石壁へ額をつける。

 

 今日は、朝から何度恥をかけばよいのだろう。

 すべて乱馬のせいだ。

 そう思った。

 けれど、それが本当かどうかも分からなかった。

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