シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
「始め!」
コロンの声と同時に、シャンプーの錘が走った。
右から一つ。
遅れて左。
乱馬は最初の一撃を身体を沈めてかわし、そのまま前へ出る。
シャンプーが右肩を落とした。
乱馬の目がそこへ向く。
前なら、その瞬間に身体も動いていた。
今度は動かない。
「今度は動かねえ」
肩の下を見る。
腰、膝、足。
シャンプーの腰はまだ中央に残っている。
右肩だけが先に動いている。
まだ来ない。
乱馬は待った。
次の瞬間、シャンプーの右足が踏み出す。
「そこ!」
今度こそ乱馬が動く。
右から来た錘を外へ流し、その内側へ入った。
拳を出す。
シャンプーは首を傾けてかわし、乱馬の手首へ錘の柄を当てた。
乱馬が腕を引く。
そのまま互いに離れた。
「今度は動かなかったな」
シャンプーが言う。
「同じので二回やられるかよ」
「そうか」
「何だよ」
「確認しただけだ」
乱馬が踏み込んだ。
右拳。
続けて左拳。
さらに蹴り。
シャンプーは二歩下がる。
三発目を錘で受けると、そのまま身体を横へ流した。
肩、腰、踏み出した足。
今度は全部が同じ方向へ動いている。
(今度は本物)
乱馬もすぐに向きを変えた。
読みは合っていた。
シャンプーの身体は、確かにそちらへ流れている。
だが。
「え?」
石床を滑っていたもう一つの錘が、乱馬の左後方から戻ってきた。
「うおっ!」
乱馬は頭を下げる。
縄につながれた錘が、髪のすぐ上を通過した。
その後を追うように張った縄が肩をかすめる。
「っ!」
乱馬は慌てて横へ跳んだ。
「そっちは嘘つかねえと思ったのに!」
「私は嘘をついていない」
「じゃあ今の何だよ!」
「私は右へ動いた」
「動いたな!」
「錘が戻っただけだ」
「余計たち悪い!」
シャンプーが引いた縄を握り直す。
「肩だけでなく身体を見ると言ったのはおまえだ」
「だからって武器だけ別にすんなよ!」
「武器を使ってよい条件だ」
「分かってるよ!」
乱馬は笑った。
文句を言っている。
だが、目はシャンプーから離れていない。
次は身体だけではない。
錘も見る。
錘に繋がっている縄も見る。
床へ置かれた位置も見る。
全部だ。
シャンプーも、それを待っていた。
再び錘が飛ぶ。
何度目かの打ち合いで、乱馬の拳がシャンプーの頬をかすめた。
シャンプーの蹴りも、乱馬の脇腹を浅く捉える。
「っ!」
乱馬が半歩下がる。
そこへ錘が来た。
上。
乱馬はしゃがむ。
下。
跳ぶ。
着地する場所に、もう一つの錘が滑っていた。
「またそれか!」
乱馬は前とは違う場所へ足を出す。
錘を避ける。
だが、そこへシャンプーがいた。
「そこへ戻ると思った」
「前と違うだろ!」
「前と違うからだ」
「何だそれ!」
シャンプーの右拳が飛ぶ。
乱馬は腕で受ける。
そのまま身体を回し、肘を返した。
シャンプーが一歩下がる。
「前と同じ場所には戻らない」
「知っている」
「じゃあ何で!」
「おまえなら、前と違う場所を選ぶ」
「だから?」
「その中で、一番戻りやすい場所を見ただけだ」
「くそ!」
乱馬がさらに一歩入る。
「だったら!」
右へ行くと見せる。
左足を半歩だけ出す。
シャンプーの視線が動く。
乱馬は左へ行かない。
その場で止まり、今度は正面から拳を出した。
シャンプーが錘を上げて受ける。
拳と錘がぶつかり、硬い金属音が響いた。
「おまえも変えたな」
「おまえだけ変えると思うなよ!」
今度は乱馬が笑う。
二人とも、前と同じことをしない。
前に通じたものを、そのまま使わない。
相手が直してくることまで考えて、その先を探す。
乱馬が低く入る。
シャンプーは錘を引き戻し、その勢いで張った縄を乱馬の足元へ横薙ぎに振った。
乱馬は跳ばない。
片足だけを引く。
その瞬間、残った軸足へシャンプーの足払いが入った。
「しまっ――」
軸を崩された。
乱馬の足が横へ滑る。
午前中。
水門板を押さえたとき。
泥の上で足が滑った。
あの感覚が一瞬だけ戻る。
(だったら)
乱馬は戻さない。
滑った方向へ、そのままもう一歩出した。
「!」
シャンプーの目がわずかに開く。
崩れるはずだった乱馬の身体が、その一歩で新しい軸を作った。
乱馬がそこから回る。
蹴り。
シャンプーが錘で受ける。
重い音がした。
互いに離れた。
「午前中に一回滑ったからな!」
乱馬が言った。
シャンプーは乱馬の足を見る。
「仕事を使ったな」
「前におまえがやっただろ!」
「そうだったな」
「だったら文句言うな!」
「言っていない」
「じゃあ何だよ!」
「次は滑った後まで考える」
「もう次の話すんな!」
「おまえが言うな」
「それはそうだけど!」
周囲から笑い声が起こった。
だが、すぐに消える。
乱馬とシャンプーが再び動いたからだ。
勝負は長くなった。
だが、前ほど互いに様子を見る時間はなかった。
乱馬が来る。
シャンプーが返す。
シャンプーが仕掛ける。
乱馬が潰す。
どちらかが一つ直せば、もう一方も次を変える。
乱馬の呼吸が荒くなる。
シャンプーの額にも汗が浮かんでいた。
「はっ!」
シャンプーの錘が横から来る。
乱馬が上体を反らしてかわす。
そのまま片手を石床につき、身体を横へ回して蹴りを返した。
シャンプーが跳ぶ。
着地したところへ乱馬が入る。
乱馬が踏み込みざまに拳を打ち込む。
シャンプーは腕を上げて受けた。
すぐにシャンプーも拳を返す。
乱馬は前腕で受け流した。
互いの腕がぶつかる。
それでも、どちらも間合いを離さない。
「しつけえ!」
「おまえがな!」
シャンプーが腰を落とした。
乱馬の身体が押される。
一歩、二歩。
白い線が近い。
乱馬が横へ逃げようとする。
錘が飛んだ。
逃げ道を塞ぐ。
「また端かよ!」
「嫌なら出ろ」
「場外になるだろ!」
「なら残れ」
「言われなくても!」
乱馬の踵が白い線のぎりぎりまで来る。
シャンプーは急がない。
前にも見た。
乱馬は落ちても戻る。
狭い場所ほど、正確に足を置く。
足場を探す。
だから、戻る場所を先に潰す。
片方の錘を低く走らせる。
もう一方を高く振る。
乱馬が跳んだ。
シャンプーの目が動く。
白線から半歩ほど内側。
場外へ出ずに着地するなら、乱馬が最も足を置きやすい場所だ。
前とは違う。
だが、今の位置から戻るなら、そこが一番自然だった。
シャンプーは先に身体を向ける。
錘も回す。
乱馬がそこへ来れば。
取れる。
だが。
(来ない?)
乱馬の身体が内側へ戻らなかった。
空中で向きが変わる。
シャンプーへ。
「何?」
「戻らねえよ!」
乱馬の手が、錘につながった縄をつかんだ。
着地する場所を探していない。
縄をつかんだまま、シャンプーの方へ身体ごと入ってくる。
シャンプーは即座に、握っていた縄の端を離した。
張っていた縄から手応えが消える。
乱馬の腕がわずかに流れた。
その隙へ、シャンプーが掌底を打ち込む。
「甘い!」
「そっちも!」
乱馬が肘で受けた。
着地。
白線のすぐ内側。
シャンプーも、乱馬の勢いに押されて境界際まで下がる。
近い。
錘を振る距離ではない。
シャンプーは片方の錘を捨てた。
乱馬も拳を構える。
シャンプーが掌底を打ち込む。
乱馬も拳を返す。
肩がぶつかるほどの距離で、シャンプーが肘を返した。
乱馬も身体をひねって打ち返す。
互いの攻撃が、ほとんど同時に入る。
「っ!」
乱馬の肩にシャンプーの肘が当たる。
乱馬の拳も、シャンプーの脇へ浅く入った。
二人とも軸が揺れた。
シャンプーの右足が、白線の外へ出る。
左足は残った。
乱馬の目がそこへ行く。
前と同じだ。
右足は外。
左足だけが中。
あのとき。
乱馬は、その左足を最後まで残された。
「そこだ!」
追い打ちの拳は出さなかった。
シャンプーの上半身へ飛び込むこともしない。
残った左足。
その足だけで支えている腰へ、乱馬が肩を当てる。
同時に、自分の足をシャンプーの左足の横へ滑らせた。
強く蹴らない。
ただ、身体を支える方向だけをずらす。
「!」
シャンプーの重心が外れた。
左足が浮く。
白線を越える。
だが、シャンプーの手も乱馬の襟をつかんだ。
「うわっ!」
乱馬まで引かれる。
二人とも倒れた。
シャンプーの両足が、線の外へ着く。
乱馬は片手を石床へついた。
腰が線の上。
片脚が外へ流れかける。
もう片方。
右足だけは。
白線の内側に残っていた。
見ていた者たちの声が止まった。
乱馬は息を止めたまま、自分の足を見る。
シャンプーも見る。
コロンの杖が石床を叩いた。
「場外」
乱馬が顔を上げる。
コロンは二人の足元をもう一度確認した。
「勝者、乱馬」
一瞬、乱馬は動かなかった。
次の瞬間。
「よっしゃあ!」
片手で石床を叩き、そのまま立ち上がる。
「取り返した!」
シャンプーはまだ地面に座っている。
「一勝だ」
「おまえも前は一勝しただけだろ!」
「そうだ」
「じゃあ俺も喜んでいいだろ!」
「駄目とは言っていない」
「言い方が気に入らねえ!」
乱馬はそれでも笑っている。
子どもたちの声が上がった。
「今度は乱馬!」
「最後、どっちも出そうだった!」
「本当にちょっとだったな」
近くにいた村人も、白線を見る。
「乱馬の右足が残ったか」
「あと少し引かれていたら逆だったね」
「今度は乱馬が残したんだな」
誰も婚姻の話をしなかった。
誰も新しい接吻の話もしなかった。
勝ったのは乱馬。
負けたのはシャンプー。
今日の勝負で決まったのは、それだけだった。
乱馬がシャンプーへ手を出す。
「ほら」
シャンプーは差し出された手を見る。
その手をつかみ、立ち上がった。
「悔しいか?」
乱馬が聞く。
「悔しい」
「だろ?」
「なぜ嬉しそうなのだ」
「俺が勝ったからな」
「次は私が勝つ」
「もう次かよ!」
「おまえも考えるだろう」
乱馬が少し止まった。
「まあな」
「なら同じだ」
「……そうだな」
乱馬はもう一度、白線を見る。
前に負けた場所。
今度は、自分の右足がその内側に残った。
ほんの一足分。
それでも、前とは逆だった。
夕方。
離れの前で、乱馬は一人で立っていた。
右足を前へ出す。
戻す。
今度は左。
身体を横へ流す。
止まる。
「……危なかったな」
昼の白線を思い出す。
勝った。
それは間違いない。
嬉しい。
シャンプーに負けたままではなくなった。
だが、乱馬はもう一度、右肩を回した。
「最初はよかった」
肩だけで動かなかった。
腰と足まで見た。
そこは直せた。
境界際でも、前と同じ場所へ戻らなかった。
最後シャンプーが左足一本を残したことにも気づいた。
「でも」
左から戻ってきた錘。
あれは危なかった。
身体を正しく読んでも、武器が別に動けば意味がない。
水路で見られた足の癖も、すぐ勝負に使われた。
最後だって。
シャンプーに襟をもう少し強く引かれていたら、自分の右足も外だった。
乱馬は白線の代わりに、地面へ足先で一本線を引いた。
境界際へ立つ。
片脚を浮かせる。
「こっから引かれて……」
身体をひねる。
「いや。これだとまた出るな」
足を元の位置へ戻し、もう一度動きをやり直す。
「勝ったけど、完璧じゃねえな」
口に出してから。
乱馬は少し笑った。
「次は、あの錘の戻りどうすっかな」
勝った日の夕方にも。
もう次のことを考えていた。
同じころ。
シャンプーは宗家の一室で、錘の縄を膝へ載せていた。
布で金属部分を拭く。
縄を指でたどる。
途中、少し毛羽立っているところがある。
乱馬が空中でつかんだ場所だった。
そこへ指を置く。
「負けた」
声にする。
悔しい。
乱馬へ初めて勝った。
その次で、取り返された。
悔しくないはずがない。
だが、胸の中にあるのは、それだけだった。
死の接吻ではない。
求婚の接吻でもない。
自分が弱いから価値がないとも思わない。
ただ。
「どこで負けた」
シャンプーは錘を置いた。
目を閉じる。
乱馬が肩だけでは動かなくなることは分かっていた。
だから身体を本当に動かし、錘だけを別に戻した。
そこまでは狙いどおりだった。
乱馬が前と違う着地点を選ぶことも読んでいた。
その先にも手を打った。
水路で見た足の動きも使った。
それも、乱馬の軸を崩すところまでは成功した。
なら。
最後に、何を間違えた。
シャンプーは目を開く。
「戻ると思った」
乱馬が境界際から跳んだとき。
自分は、乱馬が白線の内側へ戻ると思った。
前と同じ場所ではない。
別の着地点。
だが、場外を避けるなら必ずどこかへ足を戻す。
そう考えていた。
乱馬は違った。
足場を探さなかった。
着地先ではなく、シャンプー自身を目指して踏み込んできた。
「私は、乱馬が前の負けで見えた弱点を直してくると思っていた」
実際、その読みは合っていた。
肩だけを見なくなった。
戻る位置を変えた。
残った足も見落とさなかった。
「前と同じ失敗はしなかった」
シャンプーは毛羽立った縄を見る。
「だが、それだけではなかった」
前とは違う答えを選んだだけではない。
その場で、戻らないという答えを作った。
シャンプーは少し考える。
「次は」
そこで一度止まる。
だが、言葉は自然に続いた。
「戻る場所を決めて待たない」
乱馬がどこへ来るか。
先に一つへ決めない。
戻るかもしれない。
前へ来るかもしれない。
錘を取るかもしれない。
別のものを使うかもしれない。
それを見てから動く。
「次は私が勝つ」
シャンプーは縄を巻き直した。
乱馬に負けた。
何が足りなかったか考える。
足りなかったものを直す。
次に勝つために。
それは以前、乱馬から聞いた言葉だった。
今は、もう自分でやっていた。
夜。
乱馬は宗家へ向かっていた。
昼の水路点検で使った短い縄を、離れへ持ち帰ったままだった。
「これ返しとけって言われても、置き場所分かんねえんだよな」
宗家の裏手へ回る。
そこでシャンプーと会った。
シャンプーも錘を片づけたところらしい。
二人とも止まる。
「なあ」
「乱馬」
声が重なった。
「何だよ」
乱馬が言う。
「おまえから言え」
「いや、おまえから言えよ」
「先に言ったのは私だ」
「同時だったろ」
「少し私が早い」
「そんなの分かるか!」
「なら、おまえからでいい」
「最初からそう言えよ」
乱馬は持っていた縄を肩へ掛ける。
「最後のあれさ」
「やはりそれか」
シャンプーが言った。
「何だよ」
「私もその話をしようと思った」
「そっか」
「それで?」
「おまえ、俺が中へ戻ると思ってただろ」
「思っていた」
「やっぱり」
「前と同じ場所ではないと思っていた」
「ああ」
「だが、どこかへ戻ると思った」
「そこだよ」
乱馬が少し笑う。
「だから戻らなかった」
「分かった」
「次は?」
「思わない」
「早えな!」
「負けたところは直すのだろう」
乱馬が止まる。
「……そうだったな」
「今度は、おまえが戻ると決めて待たない」
「じゃあ俺も」
「何だ」
「あの錘」
乱馬は片手で軌道を描く。
「おまえが右行ったのに、左から戻ってきたやつ」
「あれか」
「次は食らわねえ」
「どうする」
「まだ考えてる」
「決めていないのか」
「試合のときまでには決める!」
「いつだ」
「何が」
「次」
乱馬が止まった。
シャンプーも止まる。
二人とも少しだけ黙った。
「……次って」
乱馬が言う。
「おまえが言った」
「おまえも言っただろ」
「言った」
「俺も言ったけど」
「ああ」
「じゃあ」
乱馬は頭をかく。
「まあ、あるんだろうな」
「ある」
「勝手に決めんなよ」
「おまえも、錘の対策を次までに考えると言った」
「……言ったな」
「なら同じだ」
乱馬は少し笑う。
「次も俺が勝つ」
「次は私が勝つ」
「言ったな」
「言った」
「覚えてろよ」
「おまえもな」
二人はそこで別れた。
乱馬は勝った。
シャンプーは負けた。
それでも、勝者が敗者のその後を決めることはなかった。
勝った乱馬は、次に同じ錘を食らわない方法を考えている。
負けたシャンプーは、次に同じ場所で負けない方法を考えている。
勝敗はもう決まった。
だが、二人ともそこで終わるつもりはない。
次に何を直すか。
次にどう戦うか。
それだけは、勝った方にも負けた方にも決められない。
乱馬は乱馬の次を考え、シャンプーはシャンプーの次を考える。
そして二人とも、もう次の勝負を見ていた。